第8話

櫻井 琴音


 ニ〇〇三年六月



「っていう感じ……かな? 掻い摘んでって言っときながら、また偉く長い時間話し込んじゃってごめんね」

 喫茶店についてから、かれこれ三時間が経過していた。すべての話を聞き終えた琴音は酷い疲労感を感じていた。しかし、それは身体への疲労ではなく、心への疲労だった。

 高校時代は涼太も友也もきっと楽しい生活を送れていただろう、なんてとんでもない思い違いをしていたのだろうと自分を恥じた。友也にとっては愛する妹の死、涼太にとっては愛する彼女の死、二人は最愛の人の死を懸命に噛み締め今を生きているのだ。自分の人生がひどくペラペラなように思えてしまう。

 一連の話を聞いて、奈央をもってしても涼太とは付き合うことが出来ないのではないかと琴音は思った。愛する者の死からまだ二年しか経っていない、それは本当の意味で立ち直るのは余りにも短いように思った。

 一方で、だからこそ涼太には余計なお世話だけど、新たな恋をしてほしいと思う気持ちもあった。そうでなければ涼太はずっと新たな人生の一歩を進めないのではないかと思ってしまう。

 一瞬自分がその一端を担いたいという気持ちが脳裏を過ったが、すぐに頭を振り、思いを一蹴した。奈央の恋を応援するんだとこの前誓ったばかりだろと自分自身を叱責し、勝手に湧き上がってくる涼太に対する想いを必死に奥に押し込もうとした。

 そして以前先輩マネージャーの亜由美が言っていた涼太が高校時代にサッカー界から一年半もの間姿を消していた理由についても友也の話でわかった。まさかその時はこんなにも辛く深い事情があるだなんて思いもしなかった。

「大丈夫、琴ちゃん? ごめんね。こんな重たい話背負わせちゃうつもりはなかったんだけど……。自分のことを琴ちゃんにはどうしても知ってほしいって思って……エゴだったかな?」

「そんなことないよ。むしろこんな大切な話を私なんかに話してくれてありがとう。友也君もとっても辛かったよね。辛いことがあったらまた私に教えて。人は弱いからこそ支え合う。その通りだと思う。友也君が辛い時は私も支えるから」

「琴ちゃん……ありがとう」

 端から見るとひどく思わせぶりな態度かもしれない。だが、今琴音が言った事は彼女にとって本心だった。友也の力になりたいと本気でそう思った。

 帰りの時、空は曇り空も相まって真っ暗な闇があたりを包み込み、等間隔に点在する街頭の光だけが地面を照らしていた。友也は琴音を駅まで送ってくれて、そこで解散となった。

 話の密度が濃すぎて簡単に咀嚼しきれる内容ではなかったが、どんな苦境でも懸命に前を向く友也と涼太の姿に琴音はこれまで以上に尊敬と情愛の念を抱いた。二人にはたとえ自分が関われなくとも幸せになってほしいとそう心から願った。


 翌日、学校の講義が終わり、奈央と一緒に部活に顔を出すと涼太、友也、雄星、貴弘の四人が練習前の雑談を繰り広げていた。

 雄星と貴弘を見て、琴音は昨日の友也の話を反芻した。友也の話を聞くまで、彼の話に登場する雄星と琴音が知っていたサッカー部キャプテンの雄星が一致しなかったことが不思議だった。おそらく今の雄星は昔ヤンキーの総長だった面影をあまり感じないほど邪気がないからだろうと思った。強面な顔は健在だが……。

 三年生にしてキャプテンと副キャプテンを務める永森さんと野中さん、昨日まではただそれくらいの印象だったが、今は違う。この四人が揃う事の意味、決して当たり前ではないこの奇跡を前に琴音の目はなぜか潤んでしまった。

「あ、琴ちゃん、奈央ちゃんおつかれ!」

 友也が琴音に気付きを振る。友也は琴音もそれに呼応した。涼太もこちらを向いて微笑んでくれている。

「琴音、何か顔赤くない?」

 奈央が顔を覗き込んで訊いてきた。

「な、何でもないよ!」

 琴音は慌てて顔を左手で覆う。

「あ、雄星さん、琴ちゃんに雄星さんが昔ヤンキーだったこと話しちゃいました。その強面で彼女たちを怖がらせないでくださいよ」

「なにぃ⁉︎ 勝手に話すなよ友也!」

 雄星は口を一文字にした。

「別に良いじゃないですか、事実なんだし」

「えぇ雄星さんってそうなんですか⁉︎」

 奈央が口に手を当てて驚くしぐさをする。

「奈央ちゃんに聞かれたら一瞬で広まりそうだなぁ。せっかく隠してたのになぁ」

 貴弘がケラケラと笑いながら雄星に聞く。

「え? 隠してたんですか? 昔元ヤン教師としての拍が付くからってノリノリで話してくれたのに」涼太が言う。

「うるせぇな! もうそれは良いんだよ! お願いだから広めないでくれぇ」

 琴音もきょとんとする。昨日友也から聞いていた話とは違うなと思った。

「なんでも最近知り合った女の子に昔ヤンキーだったことがばれて嫌われちまったんだと」

 貴弘は笑いを押さえられないようで腹を両手で押さえながら教えてくれた。

「おぉい! 貴弘、それ言うなよ!」

 一同は笑顔に包まれる。優しく照らす日差しが周囲を彩っていた。

 この人たちならきっと夢を叶えられる。

 琴音は何も根拠はないが自信をもってそう思えた。そしてその瞬間を自分もチームの一員として分かち合いたいとそう強く思った。





 折原 翔


 二〇二三年十月



 翔が琴音から涼太との馴れ初めを聞き始めてから半月ほどが経過していた。

 翔は『時を越えるノート』を眺めた後、椅子の背もたれに体を預け、グッと四肢を伸ばす仕草をした。そして改めてノートに目を移す。

 ノートの文面に刻まれる想像もしていなかった一つ一つの事実に翔は驚嘆するしかなかった。

 しかし、この話はまだ途中だとも思った。

 涼太と琴音は大学のサッカー部で出会った、それからどのように付き合うことに至ったのかはまだ想像がつかない。今のままでは父の友人である友也が一歩リードしている気がする。このあと父は母とどのようにして交際を始めるのか、下世話かもしれないが興味があって、話の続きが気になった。

 翔にとって友也は赤の他人であり、琴音からこの話を聞くまで全く知らない人だった。でも、父の大切な友人で小学生の翔でさえ息を呑むような人生を送っていたこと、彼の妹で涼太の恋人でもあった夏菜子の死は翔の心をひどく痛めた。

 彼女の死は涼太と友也に想像を絶する苦しみを与えたことだろう。まして涼太は夏菜子と琴音という最愛の女性二人を病気で亡くしているのだ。これ以上の辛く苦しい悲しみが他にあるのだろうか。

 友也のことも、今どこで生きているのかもわからないが、せめて幸せな人生を送っていてほしいと翔は切に願った。

 一連の馴れ初め話を琴音から聞いたら、涼太から友也のことについて聞きたとも思ったが、すぐに思い直した。なぜ自分が友也のことを知っているのか説明出来ないと思ったからだ。

 琴音の親友である奈央の話も翔にとってはとても新鮮だった。友也同様、翔が初めて聞いた名前の人であったが、なんとなく会ったことがあるような気がしていた。

 確か数年前に琴音の墓参りに行った時、涼太と同じ年くらいの女性が先客として琴音にお参りをしていた。

 その時、涼太は「久しぶり」とその女性と談笑をしていた記憶が翔にはあった。その女性は美しく整った顔立ちをしていたため、きっとその人が奈央だろうと翔は根拠はない確信を抱いた。

 琴音の話では当時奈央は涼太に恋心を抱いていた。琴音は馴れ初め話をしてくれる直前に昼ドラみたいなドロドロした展開はないと言っていたが、ここまでの話を聞いていると『本当に?』と母の言葉を若干訝しむ気持ちがあった。

 そしてこの友人間の恋のもつれも涼太が自分に過去の話をしなかった理由の一つなのでは、とも思った。なんにしてもそれらの思慮は一旦心の隅に置いておくことにした。それは話を全て聞けばわかることだ。

 色々と考えを巡らせた後、翔はぷッと笑い、自嘲した。普通の小学生ならこんな両親の恋バナなんて聞きたくないんだろうなと急に自分を客観視した。

 だが、翔は一般的なそう言う思いはなかった。母のこと、父のことをもっと知りたい、その思いはこの琴音との交換ノートを始めてから日の日に強くなっていることを翔は自覚していた。

 翔はあと一つ、琴音の話で気になるところがあった。それは涼太はいつプロサッカー選手の夢を諦めたのか、だ。

 涼太は友也の妹で恋人だった夏菜子を亡くし、その悲しみからなんとか抜け出した後、少なくとも大学一年生の時までプロを目指していたはずだ。一体いつどう言う理由でその夢を絶ったのか、それがどうしても気になった。

 翔は徐に机に置いてあるペンを手に取り、ノートに琴音へのメッセージを刻んだ。

『お父さんと友也さんは、とても苦しい時期を乗り越えてまた一緒にプロを目指す道を選んだんだね。その後はお母さんはどうこの二人と関わっていくことになっていくの?』

 翔が質問を書き終えた三十分後、ノートはまた淡い光を帯びた。翔は新たに浮かび上がる文字をゆっくり、目で追っていった。





 櫻井 琴音


 ニ〇〇三年八月



 大学サッカーにおいて最も主要な大会は全日本大学サッカー選手権大会、いわゆるインカレである。全国各地区のリーグ戦を勝ち抜いた学校が冬の決勝トーナメントに進出することができる。我らが筑波大学が戦う地区は強豪校が肩を並べる関東地区。大学数も多いことからリーグ戦を勝ち上がった七つの大学が全国大会に進む。筑波大学は十年連続で全国大会に出場しているが、ここ数十年で全国制覇を成し遂げていなかった。

 その理由はある大学の存在が起因していた。その大学は五年連続全国制覇を成し遂げている関西学院大学である。関東地区が最強だった時代は過去の話で、今やこの関西学院を倒すことが全国の大学の宿願だった。当然それは筑波大学も同じだった。

 目標である全国制覇を果たすため、関西学院を倒すため、キャプテンの雄星を中心に部員たちは日々練習に明け暮れていた。琴音は先輩マネージャーである唯から現在の大学サッカーの縮図を聞き、些細なことしか出来ないという自覚はあれど、少しでもみんなの力になりたいとマネージャー業務に奔走した。

 関東地区のリーグ戦は順調に勝ち星を増やし、筑波大学は早々に全国大会出場を決めた。だが、目標はあくまで全国制覇だ。それは部員全員がわかっていて浮き足立って浮かれる人はチームに誰もいなかった。


 ある日の練習終わり、琴音、奈央、涼太、友也の四人は居酒屋に行くことになった。この四人での飲み会は定期的に開催しており、琴音にとって、とても楽しみな行事の一つになっている。

 しかし、一方で心の中のもう一人の自分が引き攣った笑みを浮かべていることも自覚していた。それはもちろん涼太と奈央のことだ。

 涼太と奈央が酒を酌み交わしながら楽しそうに談笑しているのを見ると胸が潰れそうな思いになる。そしてその都度、自己嫌悪に陥る。どうして親友の恋を心から応援出来ないんだと自分自身を叱責するが、本能が邪魔をする。二人の楽しそうな姿を見たくないと理性を超えて体の内側から本能が叫んでくる。

 四人でいると自然と涼太と奈央、友也と琴音という二対ニの構図が出来てしまう。当然、友也を嫌いなわけがないし、どちらかというと好きだ。尊敬もしてる。でも、それが恋愛感情としての好きだという自信はなかった。

 自然と涼太を目で追ってしまう自分を奈央に気づかれないように制御する。そんな時にたまに涼太と目が合うことがある。そうなるとなぜかお互いすぐ視線を逸らし俯きがちになってしまう。そのため涼太とは知り合ってからまだしっかりと膝を突き合わせて喋ったことがなかった。

「ほんと、涼太って良い奴なんだよ」

 ビールジョッキを片手に友也は陽気に言った。友也はかなり酔っ払っている様子だった。全国大会出場を決めた祝勝会も兼ねた飲み会だったせいか、普段よりお酒を飲んでしまったのかもしれない。それにしてもベロベロになってまで涼太を褒めちぎるなんて、本当に涼太のことが親友として大好きなんだなと琴音はしみじみ思った。

「わかったから。ありがとよ。てかお前飲み過ぎだぞ、明日もバイトなんだろ? ほどほどにしとけよ。水持ってくるか?」

「平気だって。ほんとお前はいい奴だなぁ」

「ちょっと、それを言うなら琴音だって最高に良い子なんだよ」

 なぜか負けじと奈央も友達自慢に応戦してくる。奈央も中々酔っ払っているようだった。

「確かに琴ちゃんもめちゃめちゃいい子だね。でも涼太だって負けないぞ」

「涼太君も最高だろうけど、琴音も超最高に良い子なんだから」

 一体何を見せられているのだろうと琴音は思った。側から見たら口論のように見えるが、中身はそれぞれの友人の褒め合い合戦だ。しかも本人たちがいる前で。ただ酔っ払っているせいか良い人由来のエピソードは全然出てこない。気づくと周りのお客さん達がこちらを見て笑っている。琴音はたちまち恥ずかしくなり顔から火が出そうだった。

「ちょっと奈央、何言ってるの。みんな見てるよ。呂律回ってないし。飲み過ぎだよ」

「大丈夫! 私明日バイトオフだから」

「そう言う問題じゃないでしょ」

 涼太と一緒に二人を落ち着かせると、どちらも座敷で寝息を立て始めた。本当に世話の焼ける親友だと琴音は思う。でも無邪気に笑う奈央の顔と見惚れるほどの美しい寝顔を見てると自然と笑みが溢れた。

「ほんとお騒がせな親友達だね」

「ほんとだね」

 琴音は頬を緩ませて返答した直後、ドキッとして、涼太を一瞥した。この空間には自分と涼太しかいない。そう認識した途端、緊張が体から溢れ出した。心臓の鼓動が涼太に聞こえてしまうんじゃないかと思ってしまうくらい、胸は早鍾を打っていた。

「なんか、琴音ちゃんとこうやって二人で話すの久々というか初めてに近いかもね」

「そ、そうだね」

「なんか照れるね」

「うん」

 まるで中学生の初恋を連想させるようにぎこちない会話だった。もし涼太と二人で話せる機会があればこういうことを聞いてみようとか色々とシュミュレーションはしていたのだが、いざその場面が訪れると頭が真っ白になってしまった。

「……あのさ、涼太君? 奈央のことって、どう思ってる?」

 琴音は自分自身が発した言葉に当惑した。一番知りたくない答えのはずなのに、自分の意思を無視して口から言葉が抜けていく。

「どう……って言うと?」

「いや、なんか二人すごい仲良さそうだから、ちょっと気になっちゃって……」

「仲が良い女友達とは思ってるよ。でも奈央ちゃんや琴音ちゃんみたいな美人さんと一緒にいると周りの男性達の視線をすごい感じる。羨ましがられてるんだと思う」

「そんな私なんて……」

「琴音ちゃんだってすごい美人だよ。友也が好きになるのも無理はないというか」

「え?」

「あ、ごめん。その……琴音ちゃんは友也のことどう思っている?」

「どうって……良い人だと思うよ。一緒にいて元気になるし。楽しいし」

「そ、そうなんだよ。友也って周りを明るくしてくれる不思議な力があるんだ。だから友也はすごい良いと思う……うん」

「それは言うなら、奈央ほど性格も良くて女優さんみたいな見た目の女の子も早々いないと思うよ。奈央と付き合える人は同性の私ですら羨ましいもん」

 奇しくも先ほどの奈央と友也同様の友人褒め合い合戦になってしまった。琴音はつくづく自分が嫌になった。奈央の恋を応援したいという自分とそれを嫌だと思う自分がせめぎ合い、結局言葉では奈央を応援する言葉が出てくる。涼太もまるで友也と自分がお似合いだと言う言い草だ。嫌ではないが嬉しくもない。どんどん自分と涼太の心の距離を引き離されてしまうような、そんな感覚に陥る。そんな中、涼太が口を開いた。

「ほんと言うとさ、恋愛することが怖かったりもする。失うことで辛い思いをするくらいならいっそ人を好きになること自体、気後するんだ」

 琴音は胸が詰まる思いで返答に窮した。友也との話を反芻する。涼太の経験した心の傷は過去のものではなく今もまだ生き続けていることを痛感した。

「涼太君ならきっと、その怖い気持ちを塗りつぶしてくれるほど本気で好きになれる人に出会えるはずだよ」

 それが自分であって欲しいという想いは胸の奥底にスッと沈めた。

「ありがとう。琴音ちゃん」涼太は目を細めて頷いた。

「あ、そういえば」琴音は思い出したように言った。

「奈央が今度四人でディズニーランドにでも行こうって言ってたんだけど、どうかな?」 

 先週の講義中に奈央が琴音に提案していたことだった。家族旅行でしか行ったことがなかったため友達だけで行くのが新鮮で、琴音も奈央の提案に賛同していた。

「い、良いね。友也が目を覚ましたら言っておくよ。上手いことお互いのバイトの日程合わせよっか」

「うん、そうだね」

「それとさ……」涼太は少し深呼吸をして聞いた。

「琴ちゃんって小さい頃ディズニーランドに行ってことある?」

「え? うん。家族で何度かね。涼太君も?」

「うん、俺は一回だけね。でさ……」

 涼太が何か聞いて来ようとした、その時。

「うぅ気持ち悪い……」

「友也⁉︎ 大丈夫か?」

「と、トイレ……」

「ったく…立てるか? ほら行くぞ」

 涼太は友也を肩で支え、居酒屋のトイレに連れて行った。

 琴音は涼太が自分に何か聞こうとしていたことが少し気になったが、その後すぐ奈央も目を覚ましたため、涼太は友也を、琴音は奈央と共にタクシーに乗り込み、その日は解散となった。

 あまり込み入った話は涼太と出来なかったが、初めてちゃんと二人きりで話せたことで、琴音は、今までよりかはほんの少しだけ、涼太に近づけたかもしれないと思い、思わず車内で笑みが溶けた。


 数日後、奈央は琴音の家に遊びに来た。部活でも顔を合わせる二人ではあるが、こうして互いの家に遊びに来るのは高校時代から習慣になっている。他愛もない話だけでも奈央と話せばあっという間に日が暮れる。それだけ奈央とは波長が合う。今日も特に目的があるわけではないが、互いにメールをし合って、どちらも予定がないことがわかるとこうして家だったり近所の喫茶店で会う。それが生活の一部のように当たり前になっていた。

「あら、奈央ちゃんいらっしゃい。今日も相変わらずべっぴんさんね」

「ありがとうございます。琴音ママも変わらずお綺麗ですッ」

「まぁ嬉しいわ。ゆっくりしてってね」母の優子が上機嫌に言った。

 する優子は奈央の顔をさらにじっと見て、「奈央ちゃん、もしかして恋してる?」と訊いてきた。

「え、わかります?」

 奈央は両手を頬に当て、目を細めるとぱっと表情を明るくした。

「ちょっとお母さん、やめてよそういうこと言うの」

「だっていつにも増して魅力が増してるって思っちゃって。図星だった?」

「はい。恋する乙女です」

「奈央ちゃんに好かれる男の子は本当に幸せ者ね。琴音も恋くらいしなさいよぉ」

「うるさいぁ、あっち行っててよ」

「はいはい、じゃあごゆっくりね」

 優子は手を振ってキッチンの方に消えていった。

「ほんとごめんね、奈央。私のお母さんほんと余計なことばっかり言うんだから」

 琴音は自分の部屋で奈央とくつろぎながらため息混じりに言った。

「全然だよ。琴音ママってほんとキュートだと思う。私もあんな女性になりたい。それに恋しているは事実だしね」

「そ、そうだよね」

 微かな胸の痛み。この痛みはいつまで経っても慣れやしない。

「それにしても、遅いなぁ。私の見立てではもっと早いと思ってたんだけどね」

 奈央は腕を組んで考え込む仕草をした。

「なんの話?」琴音は首を傾げた。

「友也君のこと。もうとっくに琴音に告白しているもんだと思ってたのになって」

 琴音は急に恥ずかしくなり、顔が赤らむ。

「な、奈央の勘違いだったんじゃない? 友也君、実は他に好きな人がいるのかも」

「いや、それはないよ」

「どうして?」

「女の勘ってやつ」

「何それ〜」

「まぁ友也君も恋愛経験は乏しいみたいだし、本気だからこそ慎重になっているのかもね。でも、もし告白されたら琴音はどうするの? 付き合うの?」

「……わかんない」

「一度付き合ってみるのもアリかもよ? 何事も人生経験というか。少なくとも友也君は見た目は良いし優しいし面白いし、大学内でも結構ファンがいるって聞くよ?」

「そうなの?」

「うん、大学の私の友達にも友也君紹介してって言われたことあるし」

「そうなんだ……」

 よくよく考えれば友也は客観的に見て、女性にモテる要素に溢れているように思えた。モデルのような高身長にヤンチャ感漂うイケメン。それでいて少しおっちょこちょいでユーモアにも溢れてる。でも、だからといって友也と付き合いたいという気持ちにはならなかった。どうしても涼太の顔がちらついて離れない。

「そ、そういう奈央はどうなの? 涼太君と良い感じなの?」

「うーん、正直なんとも言えないなぁ。ちょっと掴みどころがない人でもあるからさ。でも諦めないよ。そこが魅力だったりするしね。今度一緒に映画観に行く約束取り付けたかから頑張ってみるよ」

「そうなんだ。奈央なら大丈夫だよ。頑張って」

「うん、ありがとね」

 琴音は涼太の気持ちがまだ奈央に行っているわけではないということがわかって少しホッとする。そしてまたそんな自分に落ち込んだ。ゆらゆらと揺れる気持ちの波に自分が弄ばれているような気がしてならなかった。

 

 冬になり、ついにインカレの決勝トーナメントが始まった。初戦、二回戦と筑波大学は涼太と友也の目を引くほどの活躍により、難なく勝利を挙げたが、次の準々決勝の相手は宿敵関西学院大学となった。

「やっぱりそうなったか」チームミーティングで貴弘が口にした。

「わかっていたことだったんですか?」奈央は隣に立つ亜由美に訊いていた。

 亜由美の言葉に、そばにいた琴音も耳を傾ける。

「うん。今回筑波大学は関東地区で三位の成績だったでしょ? 関西学院大学は関西で一位通過。どちらも勝ちを重ねれば準決勝で当たる組み合わせだったの。関東地区で一位通過だったら関西学院と当たるのは決勝だったんだけどね」

「なるほど。でも、どの道勝たないといけない相手なんですよね? だったら早く当たるか遅く当たるかの違いですよ」

「その通りだ」奈央の言葉を聞いていた雄星が言葉を被せた。

「奈央の言うとおり、決勝だろが準々決勝だろうが、俺たちの目的は変わらない。全国制覇だ。ですよね、先輩?」

「もちろん。雄星の言う通りだ」

 四年生の鶴田が言った。

「俺たち筑波大学の悲願である全国制覇は関西学院を倒してなんぼだ。あいつらに勝たないとどの道全国制覇は出来ない。腹をくくろうぜみんな」

 鶴田の言葉に部員達が沸きたった。雄星がいなかったらきっとこの人がチームキャプテンだったんだろうなと琴音は思った。

 今更ながら、雄星がまだ三年生であることに琴音は驚きを覚えた。貫禄だけで言えば監督でもおかしくない。この強豪校で四年生の先輩達を差し置いてキャプテンに就任するなんて普通に考えればありえないことだが、この雄星の圧倒的なキャプテンシーがそれを可能にしているし、だからこそ先輩方も誰一人として文句を言わないのだろうと思った。

 試合当日は、あいにくの雨模様だった。

 会場である横浜市の保土ヶ谷公園サッカー場の芝のグラウンドは雨に濡れ、走るたびに水飛沫を上げた。試合環境は良くはないが、それは相手も同じ。琴音はベンチで雨に濡れる選手達の背中を眺めて、チームの勝利を祈った。

 試合が開始された。雨で所々ぬかるんだ芝のグラウンドでは、細かいパスでボール支配率を高める戦略を得意とする筑波大学には不利に働いた。

 関西学院はゴール前にロングボールを放り込むパワープレーで筑波大学を終始圧倒。雨の戦いを熟知している巧みな試合運びに、筑波大学の選手達は疲弊感を顔に滲ませていた。しかし、雄星と貴弘が懸命に守備陣を統率し、なんとか無失点を続けていたが、後半三十分に相手の三年生エース都鳥がロングボールを頭で叩き込み、失点してしまう。

 落胆する選手たちを鶴田と雄星が必死に鼓舞する。

 最後のチャンスは後半のアディショナルタイムに訪れた。筑波大学がコーナーキックのチャンスを得たのだ。キッカーは涼太。時間的に最後のプレーだったため、ゴールキーパーの貴弘も上がってきた。琴音も奈央もベンチの選手達も立ち上がり、固唾を飲んで見守った。

 涼太が蹴ったボールをニアサイドにを走る貴弘が頭で合わせた。しかし、そのボールは相手ゴールキーパーが懸命にセーブする。そのこぼれ球はファーサイドを走る友也の前方に転がってきた。友也は全力でボールに向かって走り、懸命に足を伸ばした。

 しかし、ボールは雨の影響で芝の上でスリップし、無常にもボールはゴールラインを割ってしまう。そしてそれと同時に試合終了のホイッスルが鳴り響いた。

 筑波大学の準々決勝敗退が決定した瞬間だった。


 ベンチは沈黙に包まれていた。

 降り続く雨が戦いに負けた筑波大学の選出たちの心をより陰鬱な気持ちにさせる。雨は選手たちの座るベンチを囲っている白いテントを強く叩き、沈黙の中、その音だけが響き渡っていた。

「先輩方、すいませんでした……」雄星が肩を落として言う。

「なんでお前が謝るんだ? お前はよくやったよ。あいつらの猛攻をたった一点に抑えたんだ。十分頑張ったさ」

 鶴田は雄星の肩をポンと叩いた。

「でも……勝ちたかったです」

 雄星は顔に苦渋を滲ませ、目は赤く充血していた。

「それは俺たちも同じだよッ」

「鶴田さん……」

「俺たち四年はずっと打倒関西学院を掲げて頑張ってきた。でも結局一度たりとも勝てなかった。死ぬほど悔しい。その思いは今だって変わらねぇ」

 鶴田は雄星の肩を力強く掴んだ。

「なぁ雄星、情けない先輩で申し訳ないけど、お願いだ。来年俺達の仇を取ってくれ。筑波が全国を制覇する景色を俺たちに見せてくれ。頼む……」

 無念に頭を下げる鶴田を雄星は抱きとめた。

「必ず勝って見せます、鶴田さん。三年間、本当にお世話になりました」

 雄星は奥歯を噛み締めて涙を流していた。

 琴音はサッカーに魂を注ぐ男達の物語を目の当たりにし、目頭を熱くした。先輩達の思いを次の世代に繋げていく、その瞬間に立ち会えたことが光栄に思えた。

 土浦市に向かう帰りの電車で、琴音は奈央と涼太と友也の四人で帰宅の途に着いた。涼太と友也は深く項垂れ、言葉を発せずにいた。

「け、結果は残念だったけどさ、涼太君と友也君にはまだ三年間あるんだから、ここで終わりじゃないし、また頑張ろうよ、ね?」

 奈央がなんとか二人を慰めようとしていた。

「三年じゃないよ」涼太が言う。

「え?」

「三年じゃない。俺たちが筑波大学に来たのは、プロになるため、そして雄星君と貴弘君と一緒に全国制覇の夢を叶えるため。雄星君達はあと一年。俺は必ず来年、関西学院を倒して優勝する」

「『俺は』じゃなくて『俺たちは』だろ?」友也が言う。

「そうだな、悪い」涼太は少し微笑を浮かべた。

「俺が点決めて、絶対に優勝してやる」

「お前も『俺が』になってんぞ」

「え、嘘。ごめん、まじ無意識」

 二人は顔を見合わせて笑顔を見せた。

「よかった」琴音はつい言葉をこぼした。

「琴ちゃん?」友也がこっちを向いて首を傾げていた。

「あ、いや。なんか二人の笑顔が見れてよかったなぁって思って」

 琴音は咄嗟に言葉を紡いだ。

「心配かけてごめん。どうしても負けた時はどんよりしちゃうんだよね」

 涼太が申し訳なさそうに言う。

「え、いやいや、全然謝ってもらうことじゃないよ。むしろ無神経だったよね。ごめん」

「いや、琴ちゃんの言う通りだ。いつまでもメソメソしてられねぇ。目標は変わらないんだ。来年同じ轍を踏まないためにも、もっともっと上手くなってやる」

 友也の目は決意の色に変わっていた。そしてそれは涼太も同じだった。


 琴音達は大学二年生に進級した。

 そして進級早々にビッグニュースが琴音の耳に飛び込んできた。それは涼太と友也が二十一歳以下のサッカー日本代表に選出されたことだった。昨年のインカレでの活躍が評価されたということらしい。

 涼太に至っては、さらにJリーグの三クラブからスカウトの打診を受けた。涼太と友也の夢であるプロサッカー選手がもはや夢ではなく、完全に射程圏内であることに琴音の胸ははしゃいだ。自分事のように嬉しかった。

 日本代表での国際試合でサムライブルーのユニファームを身に纏って、世界の猛者たちと戦う二人を眺めて、誇らしい気持ちになったと同時になんとなく、二人が遠い存在になってしまったかのようで、ちょっとだけ寂しかったりもした。

 涼太と友也はテレビでも次世代の有力選手と特集されることもあった。冷静にインタビューに答える涼太と噛み噛みでしどろもどろな友也との対比が面白かった。

 涼太と友也の活躍、そして雄星と貴弘の統率力で筑波大学は昨年度よりも確実に強いチームに成長していた。インカレの関東地区予選では、昨年は三位だったが、今年は難なく一通過を決めた。その頃、関西地区では関西学院も一位通過を決めていた。これで筑波大学が関西学院大学と戦うのは全国大会の決勝に決まった。

 決勝トーナメントでも筑波大学、関西学院大学はどちらも順調に勝ち続けていき、涼太と友也の活躍は、より日本のサッカー界隈を色めき立てた。そしてついに筑波大学は決勝戦に進出した。相手はもちろん関西学院だった。相手エースの都鳥はすでにJリーグチームのガンバ大阪への内定が決まっていた。


 試合を一週間後に控えた休日、最大の決戦前に四人はディズニーランドに行き、一時の休息を取ることにした。

 昨年、行こう行こうと約束していたことだったが、四人それぞれの予定が合わず、一年越しの実現となった。当初は決勝戦後に祝勝会も兼ねて行く予定だったが、友也が「試合前に行きたいな。息抜きにもなりそうだし、楽しいことして魂の充電した方が良いプレー出来そうじゃない?」といういかにも友也らしい言い分により、この時期となった。 

 琴音としても張り詰めすぎた雰囲気の中で試合をするよりも多少の心のゆとりがあった方がきっと良い結果につながる気がしたので、この案には賛成だった。

 友也は初めてのディズニーランドだったためか、園内に入ると純真無垢な少年のように目をキラキラと輝かせてはしゃいでいた。それにつられるように琴音、奈央、涼太も一緒になって嬉々として園内を駆け回り、色んなアトラクションに乗った。

 琴音はディズニーキャラクターの帽子を被って笑顔を見せる涼太と友也を見て、少し不思議な気分になった。

 今やこの二人は今後の日本サッカー界を背負って立つ男達なのだ。そんな人たちに一方では好かれ、もう一方では好いて。世間から見たらきっとなんて贅沢極まりない女なんだと叩かれるんだろうなと思った。そしてこの四人で集まることもきっといつまでも続くことじゃないんだろうなと漠然とした想いに駆られた。

 この四人のどの組み合わせかで恋人同士になったりすれば、必然的にみんなで集まる頻度も減るだろうし、涼太と友也もプロになって有名になれば有名女性芸能人なんかと付き合ったりして自分たちのことも忘れちゃうんじゃないかと少し切ない気持ちにもなった。だが、すぐにそんな自分の考えを一蹴した。

 たとえ将来自分たちの身にどんなことが起きようと何が待ち受けていようと、この最高の仲間たちと過ごせるひと時を、今この四人が一緒にいられる幸せをしっかり噛み締めて大切にして、今を精一杯楽しもうと琴音は思った。

「ん? どうした琴ちゃん? 俺の顔になんかついてる?」

 友也が不意に訊いて来た。無意識のうちにみんなの顔をまじまじと見てしまっていたようだ。 

「え、ごめん。いやなんか……楽しいなぁと思って」

「もう、琴音、何しみじみ言ってるさ。でも気持ちわかるけどね。ほんと最高に楽しいよね」

「試合前に来て正解だったね。なんかずっと打倒関西学院って感じで心が張り詰めてたけど、やっぱ心の休息も大切だわ」

 涼太が頬を緩ませて言う。

「もう俺いつ死んでも後悔ないわ〜、楽しすぎるもん〜」

 友也は泣き真似をして言った。

「バカ、縁起でもないこと言うなよ」涼太が友也の頭をこづいた。

「冗談だよ。まだまだやりたいことたくさんあるのにこんなとこで死ねるか」

 友也君ならきっと、そのやりたいことたくさん叶えられるよ──。

 琴音は心の中でそう呟いた。

「友也君のその胸のペンダントなに? なんか格好いいね」

 奈央が友也の胸で輝く十字架のペンダントを指さして言った。琴音も確かに友也がこんなペンダントをつけているところを初めて見たと思った。

「あぁこれ? これねぇ。俺的にはあんまり気に入ってないんだけど、母ちゃんがくれたんだ」

「友也君のお母さんが?」琴音が訊いた。

「うん。うちの母ちゃんクリスチャンでさ、全国制覇出来るようにってお守り代わりにこの十字架のペンダントをくれたんだ」

「友也君もクリスチャンなの?」奈央が訊く。

「まさか。俺はそういう神頼み的なことはしないし、神様なんて信じてないよ。でも母ちゃんの気持ちは嬉しかったからこうして持ち歩いているんだ」

「素敵なお母さんだね」琴音は率直にそう思った。

「あぁ自慢の母ちゃんだ」友也はにっこり笑った。

 一度トイレ休憩をはさみ、琴音がみんなの元に戻ろうとした時、偶然涼太と友也の立ち話の声が聞こえてきた。「おまたせ」と声をかけようとした時、二人の会話が琴音の耳に飛び込んできた。

「ほんとに良いんだな?」

 友也の声だった。琴音は木の後ろに隠れて聞き耳を立てた。まるで泥棒だと思ったが、なんとなく声をかけにくい雰囲気が二人にはあった。

「何今更言ってんだよ。良いに決まってるだろ?」

「俺は来週の試合に勝ったら本当に琴ちゃんに告白するぞ。それで良いんだな?」

 琴音は虚を突かれたように目を見開き、固まってしまった。まさか自分のことを話しているなんて思っていなかった。しかも告白? 途端に鼓動が早くなる。二人にこの心臓の音が聞こえていないか心配になった。

「くどいな友也。なんでいちいち俺に了解を取ろうとするんだ」

「涼太、俺たち親友だし、相棒だよな?」

「何を今さら。当たり前だろ?」

「だったら俺に嘘はつかないでくれ」

「嘘ってなんだよ。俺はなんにも──」

「お前さ、前に教えてくれたよな。昔一目惚れして好きになった子がいたって。その子って、琴ちゃんのことなんだろ?」

 琴音は驚きのあまり声が出そうになったが、必死に口を手でふさぎ、なんとか抑えた。

 友也から喫茶店で話を聞いた時に涼太には小さい頃にディズニーランドで一目ぼれした女の子がいるという話を聞いたことは覚えているが、それが自分? まさかと琴音は思った。確かに小さい頃、家族で何度かディズニーランドには来ているけど、自分が小さい頃ここで涼太と出会っているなんて俄には信じられなかった。

 すぐに涼太は否定すると思ったが、琴音の想像に反して、涼太は身体を一瞬硬直させると、すぐにたじろぎ始めた。

「な、なんでそう思うんだよ」涼太は明らかに動揺していた。

「勘だよ。別に明確な根拠があるわけじゃない。でもそれが違うとしてもこれだけは間違いないと思ってる。涼太も琴ちゃんが好きなんだろ?」

 涼太君が私を──⁉︎ 

 喜びと驚きと戸惑いが同時に琴音を襲う。涼太は俯きがちになり、言葉を発せずに立ち尽くしていた。

「お前を見てたらわかるよ。普段女性と話す時の涼太は落ち着き払っているのに、なぜか琴ちゃんと話す時だけ緊張してるもんな」

 涼太は未だに下を向いたままだった。

「お前は昔から優しい奴だ。俺はお前と昔からの仲だからお前の考えていることはなんとなくわかるよ。涼太、お前俺が琴ちゃんを好きなことがわかって、自分は身を引こうとか思ったんだろ? そしてもう一つ。お前まだ夏菜子への罪悪感から次の恋に進むことをためらっている……違う?」

 涼太は声を発せずにいた。それは友也の言葉が図星であることを示していた。

「涼太、俺はお前とはいつでも真正面から向き合いたいと思っている。サッカーでも恋愛でも。もちろん俺の勘違いってことなら今言った事は全部忘れてくれ。でももし本当なら、俺と夏菜子に遠慮することだけはやめてくれ。夏菜子はそんなこと望んでいない。って偉そうなこと言っといて、俺が琴ちゃんに振られたら大いに笑ってくれよ。他の男に琴ちゃんが取られるなんて考えただけで嫌でたまらないけど、涼太になら負けてもいいって……思ってるから」

「何してるの、琴音?」

「え、奈央⁉︎」

 奈央が戻って来て、琴音に後ろから声をかけた。琴音は友也たちの会話に耳を澄ませていたため、近づいてくる奈央に全く気付かなかった。

「な、なんでもないよ。ちょっと立ち眩みして座り込んでただけ」

「え? 大丈夫?」

「あれ、奈央ちゃん、琴ちゃんどうした?」友也が心配そうに駆け寄って訊いてきた。

「琴音が少し具合悪いみたいで、今日はもう遅いし、名残惜しいけど帰りますか。次は優勝決めて祝勝会かねてまた来よう!」

 奈央の明るい声で周囲の少しどんよりとした空気が華やいだような気がした。それでも涼太の表情をどこかぎこちない笑顔に見えた。

 涼太と友也の二人とは土浦駅で別れ、琴音は奈央と一緒に自宅へ向かった。あの後二人はどんな会話を続けたのか、琴音は気が気じゃなかった。

 来週、友也から告白を受ける。そして涼太は自分のことを好きなのかもしれない。今日得た情報は琴音にとって整理しきれないほどインパクトの強いものだった。そのせいで眩暈を覚えて、立ちくらんでしまったことは嘘ではなかった。

「琴音、今日すごく楽しかったね」

「うん、絶対また来ようね」

 そう言って琴音は奈央を一瞥すると、どこか寂しげな表情を浮かべていた。

「私ね、今日確信したことがあるの」

「確信? どうしたの?」

「涼太君の目に私は映っていない。涼太君は琴音が好きだよ」

「……え? そんなわけないよ。ど、どうしてそう思うの?」

 琴音は平静を装おうとしたが、声が上ずってしまった。まさか奈央からもこのような話をされるなんて思ってもみなかった。

「女の勘ってやつ? でもこれは正直自信がある。間違っていないと思う。琴音はどうするの? 友也君と涼太君二人が告白してきたら」

「私は……」琴音は正直迷っていた。好意があるのは涼太だ。でも友也はいつも真っすぐで自分を好きで居続けてくれた。琴音はそれがすごく嬉しかった。

「琴音、これだけは約束して。私に遠慮して自分の本心に嘘をつくことだけはやめて」奈央の目は真剣そのものだった。

「琴音は優しすぎるんだよ。もっとわがままに生きて良いんだよ。琴音が涼太君を好きだとしてそれで友達を辞めちゃうような人に私見える? 私たちの友情はそんなちんけなものじょないでしょ? 琴音は自分の気持ちに正直に生きて」

 奈央の言葉がじんわりと琴音の胸に染み込んでいく。

「ありがとう、奈央」

 泣きたい気持ちなのは奈央のはずなのに、いつも奈央は優しく自分をあるべき場所へ導いてくれる。奈央の前では絶対に正直に生きようと胸に誓った。

「私、涼太君が好き」

 琴音の言葉が夜空に溶けていった。奈央は慈愛に満ちた目をしていた。たとえどんな未来を迎えようとも奈央にはずっと隣にいてほしいと思った。


 ついに決勝の日を迎えた。

 空は雲一つない快晴で冬にもかかわらず、心地よい気温でサッカーをするには絶好の日和だった。舞台である、さいたま市のNACK5スタジアムに筑波大学の選手たち、関西学院大学の選手たちが集った。

 自分が試合に出るわけではないのに、琴音の心臓は早鐘を打っていた。プロでも使用する立派な会場に観客たちも多くつめ掛けている。琴音は大きく息を呑んだ。いよいよだと思った。

 ウォーミングアップ終了後、選手達は雄星を中心に細かい戦術面、ポジショニング面等の最終確認を行い、グラウンドへ向かった。あえて円陣を組まなかったのは既にチームメイト全員の認識が同じ方向を向いていることがわかっているからだろう。

「涼太、良いパス頼むな」

「あぁ、友也が試合決めて来いよ。一緒にヒーローになろうや」

 二人の会話を聞いて琴音はほっと肩を撫でおろした。以前のディズニーランドでの会話から気まずい雰囲気になっていないか心配だったのだが、取り越し苦労だったのかもしれない。

 隣では先輩マネージャーの亜由美と唯、そして奈央が選手たちの様子を、固唾を飲んで見守っていた。四年生の亜由美はこの試合で引退する。お世話になった先輩との最後が近づいていることに琴音は少し切なさを覚えた。最後は試合に勝って笑顔で送り出したいと思った。

 そして試合開始のホイッスルがグラウンドに鳴り響いた。

 序盤は拮抗した試合展開となった。相手のエース都鳥の強烈なシュートが何本か筑波大学側のゴールマウスを脅かすも貴弘のファインセーブによってしのぎ切る。

 涼太と友也は相手チームからもかなり警戒されていることもあり、常に二人の相手選手密着しており自由にプレーが出来なかった。

 だが、涼太はそのマークを巧みなフェイントで振り切ると、左のサイドライン付近に流れていた友也の足元にパスをした。友也は瞬間的にトップスピードのドリブルを繰り出し、ペナルティエリアの少し外付近で相手ゴールの右上隅を狙ってシュートした。相手ゴールキーパーはなんとかそのシュートを手に当ててセーブする。しかし、そのボールのこぼれ球を友也ともう一人のフォワードである四年生の紙谷が押し込み、筑波大学が先制。そのまま前半を終了した。

 後半も前半の勢いのまま筑波大学ペースで試合が進むかと思ったが、関西学院大学も負けじと盛り返してくる。都鳥を中心とした関西学院の猛攻が始まり、なんとか雄星を中心に巧みなディフェンスワークで堅牢な守備を見せるも、後半二十五分に都鳥の豪快なシュートがゴールポストに直撃し、そのままゴールに吸い込まれてしまった。これで一対一、試合は振り出しに戻ってしまう。

 さらに後半終了間際ぎりぎりで関西学院が絶好の位置でフリーキックのチャンスを得る。筑波大学の選手たちはみんな自陣に戻り、絶対に守り切るという強い意志を前面に出していた。

 キッカーはエースの都鳥。放たれたシュートは弧を描き、ゴールマウスの隅を狙われるも貴弘のセービングでピンチを脱する。だが、そのこぼれ球を相手選手がさらに押し込んでくる。しかし、それも雄星が懸命に足を伸ばし、またもゴールを阻む。それでも相手の波状攻撃はまだ終わらない。そのこぼれ球をさらに都鳥に拾われてしまう。万事休すかと思われたが、自陣に戻っていた友也が都鳥のシュートをかろうじて頭に当てて、ボールはゴールラインを割った。そしてその瞬間試合終了のホイッスルが吹かれた。九十分では決着がつかず、勝負は延長戦に突入することとなった。

「ゴールデンゴール方式?」奈央が唯に尋ねた。

「うん、延長戦のルールのこと。ゴールデンゴール方式とシルバーゴール方式の二つがあるの。ゴールデンゴール方式は延長戦前後半三十分の間に先に一点取った方の勝利。点が入った時点で終了。一方でシルバーゴール方式は前後半三十分の間に多く点を取った方が勝利。こっちは必ず三十分丸々戦うことになるの。どちらも点が入らない、もしくは延長終了時点で同点の場合、PK戦になる。今回の試合ではゴールデンゴール方式が採用されているから、次に点を決めた方が全国制覇だよ」

 琴音は息を呑んだ。いよいよ勝負は終局に向かっているんだと胸の鼓動は高まった。

筑波大学の選手たちはみんなで円陣を組んだ。雄星が声をかける。

「みんなもう体はボロボロだと思う。でもあと少しで俺たちの夢に手が届く。もう少しだけみんなの力を貸してくれ。チームみんなの力で絶対に点取るぞ‼︎」

「おう‼︎」

 選手達全員の掛け声と共に選手達は戦地であるグラウンドへ向かった。

「友也」ベンチ付近で涼太が友也に声をかけていた。

「涼太?」

「おまえにしか取れないパスを出す。だから感じ取ってくれ」

「あぁいつものやつな。任しとけ」

 感じ取れ? いつものやつ? 

 二人の会話に琴音は首を傾げる。一体これから何が起きるのだろう。

 けれども、この二人なら何かとんでもないことを起こしてくれるような、そんな予感がした。

 延長前半開始のホイッスルが鳴った。

 選手達の疲労はピークに達しているはずだったが、誰も足を止めようとはしない。みんなわかっているんだ、この一戦のために今まで努力を重ねてきたこと、そして今一瞬でも気を抜いてしまえば、刹那にやられてしまい、これからの人生、一生この瞬間を後悔してしまうこと。選手達の異様な気迫はベンチにいる琴音達にも伝わってきた。前半延長は両者互に譲らず、後半戦を迎えた。

 最初にチャンスを掴んだのは、筑波大学だった。後半七分にコーナキックのチャンスを得た。キッカーは涼太だ。身長が高い雄星も前線に上がってきていた。涼太が放ったキックでボールは美しく弧を描き、ある選手に導かれるように向かっていく。友也だった。友也はボールを頭に合わせ、ヘディングシュートをゴール左上角に狙った。その瞬間誰もがこれで試合が決まったと思った。

 しかし、相手ゴールキーパーの伸ばした手の指先が微かにボールが触れ、軌道が変わり、友也のシュートはゴールポストに直撃する。無常にもそのこぼれ球は都鳥の足元に収まった。

「戻れ‼︎‼︎」

 雄星の声がグラウンドにこだました。関西学院のカウンター攻撃が始まった。前のめりになっていた筑波大学の選手達は一斉に自陣に戻るが、相手のカウンターは異様に速い。都鳥はスピードに乗ったドリブルでぐんぐんゴールに迫ってくる。相手チームの素早いパス回しに翻弄され、ついにシュートを放てる距離にまで近づいた。

 だが、ゴールキーパーの貴弘が前に出て都鳥の行手を阻んだ。それでも都鳥は冷静に味方選手にパスを出して走り出すと、さらにもう一度パスを受ける。貴弘が前に出てきたことでゴールマウスはガラ空きだった。都鳥のシュートはガラ空きのゴールに吸い込まれていく。

 その時だった。筑波大学の選手がそのシュートを間一髪阻んだ。雄星だった。ギリギリ雄星が戻ってきていた。

 今度は逆に関西学院の選手達が前のめりの状態になっていた。肩で息をする雄星は最後の力を振り絞り中盤でパスを要求する涼太に正確なロングパスを繰り出した。そのボールは涼太の足元にピタッと収まった。

 琴音は時計をチェックした、後半残り二分。これが最後の攻撃になりそうだった。筑波大学のカウンターが始まった。涼太が素早くボールを相手陣内にドリブルで持ち込む。友也は二人のディフェンダーに囲まれながらも涼太を動きを注視していた。

 すると待ち構えていたが如く、涼太の前に三人の相手選手が立ち塞がってきた。たちまち涼太のドリブルが失速する。手練れ三人に囲まれたのであれば、いくら涼太でもすぐにボールを奪われてしまうだろう、と誰しもが思った。

 その時、琴音の視界はボールから遠ざかる動きを見せる友也の姿を捉えた。友也をマークしていたディフェンダーはその友也の動きを目で追えないでいた。

「お前ならそっからでもパスを出せるだろ‼︎」

 ベンチに座る琴音の耳にもその声は届いた。友也の声だった。

 次の瞬間、涼太を囲んでいた相手選手の股の間からシュート性のボールが出てきて、相手陣内に蹴り込まれた。関西学院の選手達は一様に当惑の表情を浮かべる。そのボールはただ当てずっぽうで苦し紛れに蹴り込まれたとしか思えないものだった。球足の速いそのボールは一気に相手のゴールキーパーまでたどり着きそうだった。こんなボールに誰も反応できる訳がないと琴音が思った、が次の瞬間、一人の男がそのボールに向かって全速力で追いつこうとしていた。

 友也だった。

 友也の爆発的な加速力で絶対に常人では追いつけないであろうその豪速パスにぐんぐんと距離をつめて行き、ついには追いついてみせた。そしてそこはすでにペナルティエリアのライン付近。友也とゴールキーパーの一体一だ。

 しかし、相手ゴールキーパーの飛び出しも抜群で友也のシュートコースを完全に塞いでいた。と思われた次の瞬間、友也は渾身の力でシュートを放った。

 だが、案の定ゴールキーパーは手を伸ばすとそのシュートに触れることが出来た、が。

 友也から放たれたシュートは勢いが一切落ちることなく相手キーパーの手を弾き飛ばし、ボールは勢いを保ったまま、ゴールに吸い込まれて、ゴールネットを豪快に揺らした。

 琴音は一瞬何が起きたのか分からなかった。あまりの展開に頭が追いついていなかった。しかし、ボールは相手ゴールの中にある。観客は大声で歓声を上げている。そしてようやく理解が追いついてきた。

 勝ったんだ! 筑波大学が日本一になったんだ!

「琴音‼︎ 勝ったよ‼︎」

 その声の主は奈央だった。

 その隣では亜由美と唯が目に涙を浮かべている。マネージャー同士で抱き合いながら喜びを分かち合う。グラウンドの中では喜びを爆発させる筑波大学の選手達、そして項垂れる関西学院の選手達がいた。

 けれども、感情を爆発させた後はお互い選手同士で健闘を称え合い、握手し合う光景を目の当たりにした。その男達の紳士的な姿に琴音はまた泣きそうになった。

 涼太と友也が雄星に肩を貸してベンチに戻ってきた。雄星は足を引きずっていた。

「だ、大丈夫ですか⁉︎」琴音は雄星達に駆け寄り声をかけた。

「あぁ、肉離れ起こしちまったみたいだ。でも次の試合なんてないんだ。心配いらないよ」雄星は指で頭を掻きながら答えた。

「お前は大事な試合でいつも大怪我するよな」貴弘が悪戯に笑う。

「二人とも案外冷静ですね。もっと大喜びするのかと思ってたのに」涼太が言う。

「確かにどうしたんすか、二人ともこんな時に大人な振る舞いしなくていいんすよ」

 友也も続いた。

「いや、まぁ確かにそうなんだけど、なんかまだ実感が湧かなくて……」

 雄星が眉尻を下げて言う。

「うん。雄星の言ってることわかる。なんか現実味がないよな。日本一になったっていう」貴弘も同調した。

「なんていうか、それだけじゃなんだ。試合中さ最初は気合で魂がたぎっている感じだったんだけど、途中からすごいサッカーが楽しいな、もっとずっとサッカーしていたいなって思って、いざ試合に勝って終わったら、達成感というより空虚感というか、もうこの大好きなメンバーでサッカー出来ないんだって、もうこれで終わりなんだって思ったら悲しくなってきて……」

 雄星は肩を窄めて涙を堪えているように見えた。

「アホか!」貴弘が雄星を小突いた。

「でかい図体のくせにそんなセンチメンタルなこと言うなよ」

「すまん……」

「気持ちはわかるけどな。俺も試合中なんかふわふわしてよ。こんなにサッカーが楽しいって思えたのは初めてだったかもしれん。でもせっかく長年の夢が叶ったんだ。今はこの仲間達と俺たちの偉業を喜び会おうや。それに俺たち筑波サッカー部員の絆はこれで終わりじゃない。一生もんだ。もう二度と会えなくなるわけじゃないんだから」

「あぁそうだな」

 雄星は深呼吸した。そして続ける。

「みんな、湿っぽくして悪かった。確かに貴弘の言う通り。俺たちの絆はこれで終わりじゃない。一生の宝だ。あ、なんかそう言っている間に実感が湧いてきたぞ。勝った? 優勝? 全国制覇? みんな──。俺たちが日本一だ‼︎」

 雄星の言葉に呼応するように部員全員が一気に喜びを爆発させた。

 湧き上がる筑波大学ベンチ。この光景を見て、このチームのマネージャーをやってよかったと琴音は心から思った。

「みんなさんちょっと良いですか‼︎」友也が突然大声で叫んだ。

「どうしたんだよ友也?」貴弘が口を少し尖らせて訊いてきた。

「自分事なんですけどもある人に言いたいことがあります……琴ちゃん‼︎」

 琴音は胸を射抜かれたように心臓が跳ねた。「は、はい!」と咄嗟に応答したが声が上擦ってしまった。瞬間、一週間前の友也と涼太の会話が脳裏をよぎる。

 ──え、今なの⁉︎ と琴音は心で叫び、身構えた。

「琴ちゃん、こんなみんなが見ている前で恥ずかしいかもしれないけど、お願い、言わせて。俺は櫻井琴音さんが好きです。俺と付き合ってください!」

 友也の一言に筑波大学の選手たちが色めき出す。その声は関西学院のベンチや近くの客席にまで響き、会場全体でざわめきが起こっていた。

 琴音は唖然と口を半開きにした状態で固まってしまった。告白される心の準備はしていたが、まさかこんな群衆の前で告白されるという展開になるんて予想だにしていなかった。

「ちょっと待った!」

 するとそこにもう一つの声が木霊した。声の主は涼太だった。わけのわからない展開に琴音はさらに当惑する。

「俺も友也に負けないくらい琴音ちゃんが好き。だから……俺と付き合ってください!」

 涼太は頭を垂れて右手を差し出してきた。それを見た友也もつられるように同じポーズをする。この状況に会場は俄然色めき立ち、観客達はお祭り騒ぎの状態となった。

 会場から「いいぞ〜!」、「格好良い!」等といった声が飛び交ってくる。

 琴音は実際にこんなテレビの企画のような、ベタな恋愛漫画のような展開が起こるなんて夢にも思わなかった。それもまさか自分に降りかかってくるなんて。今の琴音は嬉しさより完全に恥ずかしさが勝り、穴があったら入りたい心境だった。観客は明らかに琴音の回答を待っている。それがさらにプレッシャーとなり、琴音の顔は紅潮していき、頭は真っ白になった。

「ちょっとそこの二人‼︎」

 周りは一斉に声の主を探すように振り返る。声を出したのは亜由美だった。

「自分たちの世界に酔いしれるのは勝手だけど、今の状況で琴音に答えを出させるのが酷だと思わないの⁉︎ こんな大観衆の前でさらし者にされて平気な子じゃないのわかっているでしょ?」亜由美は琴音の方に振り向いた。

「琴音、今すぐここで答える必要なんてないよ。ちゃんと考えてみんなが見ていないところで答えてあげな。その方が良いでしょ?」

「は、はい。ありがとうございます」琴音は呆気に取られていた。

「おおい! 余計なことするなよ! せっかく良い物みられると思ったのに!」

 会場からブーイングが聞こえてくる。

「うるさいな、部外者たち! 見世物じゃないっつうの! 用が済んだならさっさと帰りなさいよ!」

 亜由美が野次馬達に声をあげてくれた。亜由美の迫力に気圧された観衆たちはおずおずと会場を後にしていく。琴音は亜由美のあまりにもかっこよすぎる背中につい見惚れてしまっていた。

 実際助かったと思った。このままだと恥ずかしさのあまり気を失っちゃうんじゃないかとすら思っていた。亜由美と唯に注意される涼太と友也を見てようやく心が落ち着いてきた。恥ずかしかったけど二人が自分のことを本気で好いてくれていることは十分伝わったので、少しずつ嬉しさが心に染み込んできた。琴音は二人の元に向かった。

「告白してくれてありがとう。恥ずかしかったけど、嬉しかった。回答は明日に必ずするからそれで良い?」

「も、もちろんだよ、琴ちゃん! ごめんな!」友也が手を合わせて深々と詫びた。

「琴音ちゃん、困らせてごめん。どんな返事でも受け入れるから待ってる」

 涼太も真剣な目で琴音を見つめている。

「あと、どんな結果でも俺たちの友情は変わんないから、そこは気にしないでくれよな!」友也が涼太の肩を組み笑顔で言った。

「うん、わかってる」

 琴音は答えを心に決めていた。

 涼太の告白を受け入れる。

 かつての自分であれば二人の仲を気にしてどちらの告白も断っていたかもしれない。けれども、自分の気持ちに正直に生きると奈央と自分自身に誓ったのだ。自分勝手で都合の良い考えなのかもしれないけど、友也とはこれからもずっと友達でいたい、友也とならそんな関係にもきっとなれると思った。友也とは恋人という間柄にはなれないけれど、人として友人として尊敬できるし、とても大切な存在であることに嘘偽りはないのだから。

「琴音」

 奈央が声をかけてくれた。

「このモテモテっこめ」と奈央は琴音のおでこを軽く小突いて、可愛らしい笑顔を見せた。

「さ、一緒に帰ろうっか」

 奈央の言葉に琴音は唇の端を上げて、こくんと頷いた。

 土浦市までの帰りのJRでは琴音と奈央は亜由美や唯と涙ながらに小一時間、いろんな話をした。このマネージャー業を楽しく続けられてきたのは間違いなく、亜由美と唯のおかげだ。亜由美はもうこれで引退。悲しくないといえば嘘になる。琴音は感謝の気持ちでいっぱいだった。卒業後も絶対に会いたいと、本心でそう思える大好きな先輩と巡り会えたのは本当に幸運だったと琴音はつくづく思った。

 涼太と友也は雄星や貴弘たちと色々話たいことがあるからと、その四人とは別行動を取った。きっとたくさんの積もる話があるのだろう。

 冬の夜空は日が傾くのが早く、自宅に戻った十六時頃にはすでに道の街灯が点くほど薄暗かった。

 自宅に戻って一息ついたあたりで、携帯電話が鳴り響いた。宛先を見ると先ほど別れたばかりの奈央だった。不思議に思いながら電話に出ると、その声は涙ながらに切迫してる様子だった。

「奈央、どうしたの? 落ち着いて」

「琴音! テ、テレビ、テレビを付けて!」

「テレビ?」

 奈央の尋常じゃない様子に嫌な胸騒ぎを覚えた琴音は、急いで二階の部屋からリビングに駆け下り、リモコンを手に取った。

 優子の「どうしたの?」という言葉を無視して、リモコンを無造作に扱い、何チャンネルか切り替えた後、その映像が映し出された。


『繰り返します。本日十五時頃、さいたま市大宮区大門二丁目の交差点について、黒の乗用車が突然信号待ちをする二人の学生に突っ込み、一名は死亡、もう一名が重傷を負ったとのことです。カメラは今事故現場を映し出しておりますが、非常に凄惨な現場となっております。先ほど判明した情報によりますと、死亡した学生の名前は南野友也さんであることがわかりました。重症を負った学生の名前は折原涼太さんとのことです。なお、事故を起こした運転手は既に死亡しており、只今身元の特定を急いでおります。繰り返します──』


 途中テレビから流れてくるアナウンスが雑音のように変わっていった。映し出す映像はまるで遠い世界で起きた事件であって、自分たちには全く関係ない第三者としてこの映像を眺めているようなそんな感覚。テレビから情報が流れてくる度、頭が次々にそれらを拒絶する。

 あり得ない。嘘に決まってる。

 だってついさっきまであんなにみんな笑顔で勝利を日本一を分かち合っていたじゃない、私に好きって告白してくれたじゃない。

 なのに……なんで、なんで──。

 頭が真っ白になると同時に見てる景色も端から白く浸食してくる。意識が徐々に遠のいていく。テレビから聞こえる雑音も、電話口で響く奈央の泣き声も、少しずつ小さくなっていく。そしてそれらは突如プツンと途切れ、闇に溶けた。


「……ね、とね」

 誰かの声が聞こえる。心配そうに震え、でも温かみがある声が……。

 誰だろう……。

「琴音!」

「な……お?」

「大丈夫⁉︎ 琴音? もう心配かけないでよ! あなたまで何かあったら私どうしたら良いか──」

「ここ……は?」

「ここは琴音の家のリビングよ。琴音のママに呼ばれて飛んできたんだから。琴音が倒れたって言うから……」

 奈央は両手で顔を覆いながら言った。小刻みに肩は震えていた。隣では優子が心配そうに見つめていた。

 なんだか記憶が曖昧だ、なにかとんでもない夢を見ていたような──。

「ねぇ、奈央。私すごい嫌な夢を見ちゃったみたい。夢でね、涼太君と友也君が事故に遭うの。ほんとなんでこんな夢見るのか──」

「夢なんかじゃない‼︎」

「え?」

 声を張り上げた奈央は琴音の腕をがっと掴む。その目は赤く充血し、潤んでいた。

「夢なんかじゃないんだよ! 友也君死んじゃったんだよ! 涼太君だって、重症だって……」

「奈央……。うそ、だよね?」

「嘘だったらどれだけ良いことか……」

 琴音は言葉が出てこなかった。

 わかっている。さっき見たテレビの映像だって覚えている。

 でも認めたくない。

 認めたらもう二度と友也には会えないことを理解してしまうから。

「琴音、準備できたら行くよ。琴音ママが車を出してくれるから」

「行くって……どこに?」

「決まっているでしょ! 友也君と涼太君がいる埼玉の病院だよ」


 車で二時間ほどの道のりを経て、琴音たちは大宮中央総合病院に辿り着いた。道中の車内では誰一人声を発する人はおらず全く会話は生まれなかった。

 重い足取りで病院に辿り着くと、ロビーには貴弘が待っていた。ひどくやつれているように見える。先ほどまで一緒にいた時と顔つきが全くもって違っていた。

「来てくれてありがとう。二人のところへ案内するよ」

 琴音たちは貴弘の後をついていった。辿り着いたのは院内地下の霊安室だった。琴音はこれまでの人生で一度も行ったことがない場所だった。急に足取りが重くなる。まるで足に鉛がくっついている如く、足が前に進まない。

 やっとの思いでたどり着いた場所は薄暗い部屋だった。部屋の前のベンチにはニ人の人影があった。近づくとそこには項垂れる雄星と松葉杖を傍らに置き、足や腕、頭も包帯でぐるぐる巻きになっていて痛々しい姿の涼太がいた。

「りょう……」と奈央が声をかけ駆けつけようとしたが、貴弘に腕で制された。かぶりを振って「今はそっとしておいてやれ」と貴弘は呟いた。

 貴弘が霊安室のドアを開けた。琴音たちも後に続く。部屋は窓がなく電灯の光のみでかなり無機質だ。部屋の奥には簡易な祭壇が置かれており、その手前には小さなベッドのようなものが鎮座し、その上で誰かが横たわっていた。

 室内には涙を枯らしながら嗚咽する女性とその場に立ち尽くす学生服の男の子がいた。男の子は淡白な表情に見えたが微かに肩が震えているのがわかった。琴音は以前、友也から聞いた昔の話を反芻して、この人たちはきっと友也の母と弟だろうと思った。

 琴音はかける言葉が全く浮かばなかった。軽くお辞儀をしてなんとか前に進む。そして息を呑んだ。

 眼前には青ざめた顔で氷のように動かない友也が横たわっていた。身体は布団が掛かっており見れない。琴音はそっと友也の頬に手を当てる。ひんやりとしたその感触は血の流れを感じさせないものだった。現実という名の悪魔が琴音に襲いかかる。その時琴音は初めて理解した。自分を好きで居てくれた大切な友を失ったことに。

 石のように動かない涼太をその場に残して、琴音、奈央、雄星、貴弘の四人は病院の屋上庭園のベンチに腰を下ろした。数秒の沈黙の後、貴弘は両手で顔を覆いながら、口を開いた。

「俺たちのせいだ」

「え?」奈央が咄嗟に反応する。

「どういう……ことですか?」奈央は目を細め訝しんだ。

 貴弘は事故が起きる直前の出来事について話してくれた。

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