第二章

導きの獣 一

 簡素な食事を済ませると、雷韋らいは早々に寝入ってしまった。


 太陽が燦々と照っていた昼間と比べて、夜は気温が低くなり肌寒さを覚える。そのせいか、雷韋は外套がいとうを身体に巻き付けて丸くなって眠っていた。


 それを傍らに、陸王りくおう吉宗よしむねの手入れをしている。目釘めくぎを抜くまではしなかったが、刀身を打粉で叩いて磨き上げた。


 まだ夜はそれほど更けてはいない。おそらく街では晩堂課ばんどうか(夜九時の鐘)も鳴っていないだろう時間だ。


 その頃になって、ようやく月が顔を現した。


 満月だった。


 陸王は翳した刀身の向こうに割れた窓から覗いている月に、目をすがめる。

 満たされた月にざわめきを呼び起こされたのだ。身体の奥深く、淵のような場所から。


 青白い月の光に照らされて、吉宗の刃が燐光でも発しているように感じられたが、それを敢えて無視して刀身を鞘の中に収める。


 吉宗を脇に置き、道具を片付け始めた。打粉うちこ懐紙かいし丁子油ちょうじゆなど。


 それらを手際よく荷物袋の中に収めていく。


 辺りには静寂が満ちている。それを壊すものがあるとすれば、焚火たきびの中で爆ぜる木片の音だけだ。


 時折、ぱちっと爆ぜる音を立てる。だが、それ以外は静寂。雷韋の寝息すら聞こえないほどに。


 空に昇ってきた満月が、音を全て吸収してしまったかのような錯覚を覚えた。

 その事が忌まわしく感じられる。

 陸王は上弦の月が嫌いだった。徐々に満ちていく様を見るのが。

 その中でも完全に満ちた満月は特に嫌いだ。


 忌まわしいと思う。

 己の中に流れる血と同じくらい忌々しい。


 この二つは呼応するのだ。

 陸王の血と上弦の月は。


 血を沸き立たせ、感情をも高ぶらせる。

 今も満月を目にしてしまったせいで、感情の高ぶりを感じている。


 否。


 見ずとも己がどうなるかは分かっていた。肌感覚で、月が上弦か下弦かが分かるのだ。昇ったり沈んだりする様も肌で感じられる。それは本能でもある。


 陸王の中に眠っている本能。


 けれど、陸王は敢えてその感覚を無視して目を閉じる。同時に深く息を吸って、鋭く吐き出した。


 身体の奥でうねる本能を抑え込むように。だが、目を閉じた事で自然と感覚が研ぎ澄まされる。


 と、その研ぎ澄まされた感覚に何かが引っ掛かった。ここへ近付いてくる何者かがあるのだ。まだ気配は遠い。けれども、確実に近付いてきている。


 何者かと思う。

 足音はないが、微かに葉擦れの音がした。


 陸王は急いで焚火たきびの火を消し、丸まって眠っている雷韋の肩を揺すった。



「起きろ」



 ごく小さな声で目覚めを促す。が、雷韋の瞼は開かないどころか「う~ん」と唸って寝返りを打ってしまう始末だった。


 その間にも気配はどんどん近付いてくる。



「雷韋、起きろ」



 少し強めの声をかけて肩を更に揺する。それでも尚、雷韋が目覚める気配はない。

 その様子に少しうんざりな感を催して、頭を引っぱたいた。



「いっ!」



 雷韋から声が上がったが、陸王は少年の口をすぐに手で覆った。


 月明かりの薄闇の中で、雷韋の琥珀の瞳がぱちぱちと瞬く。何が起こったのか分からないのだろう。


 陸王はさっと雷韋の顔に顔を近付け、耳元で口早に囁いた。



「何かが来る。静かにしてろ」



 それを聞き、雷韋は数度頷いて返した。 雷韋の頷きを確認して陸王が口から手を退けると、雷韋が音を立てずにゆっくりと起き上がった。そして陸王と同様、外の気配を探る。


 気配は更に近付き、もうそこまで、壁の崩れている辺りまで近付いていた。


 陸王も雷韋も、あまり広くはない堂内の中で闇に潜んで何者かが姿を現すのを待った。陸王は腰に差した刀に手を伸ばし、雷韋も陸王にひっつくようにして身構える。


 しんと静まった中では一秒一秒が酷く長く感じられた。

 その静寂の中で、葉擦れの音だけが響いて、それがいきなり大きくなる。


 同時に青白い顔が堂内を覗き込んだ。


 瞬間、それの目と思われる場所がきらりと光る。


 それを見て、急に大きく息を吐き出したのは雷韋だった。陸王から離れて、月明かりのもとに出ていく。


 それでも堂内を覗き込んでいる顔は姿を隠そうとはしなかった。



「陸王、鹿だよ。白いけどな。白子アルビノかな、珍しいな」

「鹿だと?」



 陸王も雷韋の言葉に肩から力を抜く。


 月明かりだけの暗い中では、陸王にははっきりと鹿の顔には見えないのだ。だから夜目の利く雷韋の言葉を聞いて全身から力が抜けた。


 白い鹿の顔は月光を浴びて、ぼうっと浮かび上がっているように見える。



「ほら、お前、こっち来いよ」



 雷韋が優しく声をかけながら、手を下手に出して少しずつ鹿へと近寄っていく。


 鹿の角は短かった。牝鹿なのだろう。身体もそれほど大きくはない。



「ほらほら、怖くないぞ」



 ゆっくり近付いていく雷韋に鹿は何を思ったのか、瞬間、背後を振り返って逃げるような素振りを見せたが、結局は顔を堂内に戻した。


 そんな鹿の様子に、雷韋は目を笑ませて更に詰め寄っていく。もう手を伸ばせば届く距離まで近付いていた。


 そして、遂に雷韋の手が鹿の顎を撫でた。


 鹿は驚いたように一瞬顎をぴくりとあげたが、雷韋はそのまま撫で続ける。そして様子を見ながら、頭まで撫でてやった。


 頭と顎の両方を同時に撫でられても、鹿は嫌がる素振りは見せない。大人しく撫でられるがままだ。



「ん~、いい子だなぁ。お前、どこから来たんだ?」



 雷韋の声は完全に猫撫で声だった。端から聞いている陸王は呆れた溜息をついている。それに気付かず、雷韋は陸王を呼んだ。



「陸王も来てみろよ。可愛いぜぇ、こいつ」



 だが陸王はそれには従わず、根源魔法マナティアで光の玉を作り出した。

 それは『言霊封ことだまふうじ』だった。


 通常、魔術を発現する時には魔術語の詠唱と印契いんけいを組む必要があるが、何度も繰り返し同じ術を使っていると術そのものが魂に刻み込まれる。すると、詠唱や印契を必要とせずに、魔術を発現することが出来るようになる。それを『言霊封ことだまふうじ』という。だからと言って誰もが言霊封じを使えるわけではない。魔術的センスがある者だけが魔術を昇華して、魂に刻み込むことが出来るのだ。


 雷韋の精霊魔法はほとんどが言霊封じだ。簡単な根源魔法もいくらか。陸王は詠唱もなく光の球を発現したところからしても、魔術的勘があるのは明白だ。


 二人はそれぞれに、魔術の素養があると言うことだ。


 陸王が言霊封じで突然強い明かりをつけたことで驚いたのか、鹿はびくっと身を竦ませ、雷韋の手からも逃げ出してしまった。



「ちょ、陸王! 何すんだよ。逃げちゃったじゃんか」



 雷韋が唇を尖らせて文句を言うも、陸王は髪を掻き上げつつ反論する。



「俺には暗すぎて、まともに見えねぇんだ。だがまぁ、逃げちまったってんならそれはそれでいいだろう。こっちに来い、寝るぞ」



 そう言って陸王はもとの位置に戻った。雷韋はそれでも不服げに唇を尖らせていたが、鹿の姿はもう見えない。雷韋は名残惜しそうに森の中を見ていたが、結局は陸王の元へと戻る。そして、如何にもつまらなげに言った。



「火おこすから、もうその光消せよ」



 雷韋が火の精霊をたきぎに移して再び火が熾ると、陸王は宙でふわふわ浮いていた光の玉を消滅させた。


 光の玉が煌々と照っていた空間を、また暖色の明かりが辺りをふんわりと照らし出す。


 その明かりの中で、雷韋は身体を丸めてこてんと横になった。


 雷韋が目を瞑ってから、陸王は吉宗を肩に抱えるようにしてもたけ、立て膝のまま目を瞑った。

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