バンダルの森の老人

ちびけも

創世六五五年

 大陸中央にセルキ国という国がある。

その国の西側にはアルドネラ山脈があり

そこから流れる川の一つはバンダルの森を通り森の中に小さな滝がある。

バンダルの滝と呼ばれているがそこは水の精霊が

人を川に引きずり込むという噂があるので

森を訪れる者は滅多にいない。

その滝の傍らにタネルという名の老人が一人住んでいた。

 ある嵐の日に南のトゥゴマ公国へと向かっていた若者が

バンダルの森に迷い込み老人の家へとたどり着いた。

老人は嵐が収まるまで若者に雨宿りをすすめ、

若者は温かいスープにありつけた。

老人は久しぶりの客の到来を喜び会話は弾んでいった。

しばらくすると会話の内容は老人の若い頃の話題へと移っていった。

 私が若かった頃は妻とともにこの家に住んでおり

近隣にも数件の家があったんだ。

あの日も今日のような嵐が吹き荒れていた。

大水が起こり家の中でも膝まで水に浸かってしまうほどだった。

そして奴らが襲ってきた。水だ、水が襲ってきたんだ。

水が人の背丈よりも高く盛り上がったかと思ったら

妻をまるごと包み込んでしまった。

そのまま壊れた扉から妻を連れ去っていってしまったんだ。

嵐が過ぎ去ってから被害の全容がわかった。

近隣の女性全てが同じように水に連れ去られて行ってしまっていた。

せめて遺体だけでもと思い皆で探したのだが手がかりすら全く得られなかった。

水の精霊の仕業だろうという話になり皆恐怖と悲しみに襲われたんだが

本当の恐怖は次の満月の夜に起こった。

 満月の夜、小さく玄関の戸を叩く音が聞こえた。

まさか妻が戻ってきたのかと思い私は急いで戸をあけたんだ。

そこに立っていたのは正しく妻だったが、

玄関の前に立っていたのは記憶とは程遠い透明な妻の姿だった。

透明というのはちょっと違うな、彼女は水でできていたんだ。

妻の透き通る肌には小さな波紋が揺らいでおり、表情も揺らぎで歪に見えた。

私はあまりの出来事に頭が真っ白になってしまい

しばしの間、水でできた妻を見つめていた。

そしたら妻が言ったんだ「ただいま」と。

私の頭の中に思考が蘇り、妻に何が起きたんだ?と問いただした。

そうすると水でできた妻が答えた

「私は…あなたの妻だけれどあなたの妻ではないの……

 私はバンダルの滝壺に住む水だったの、物を考える知能もない只の水だった

 本能に従って人間の女を食べたの、その女があなたの妻エランダだったわ」

そこまで聞いた時に私はあまりの怒りに身が震えたのだが

何を成すにしても全て話しを聞いてやってからにしようと自分を抑えた。

妻は続けて話した。

「エランダを食べたら、エランダの記憶と考え方が身についたの

 だから私はエランダが生まれたときから、

 水に飲み込まれた瞬間までの全ての記憶を持っているわ

 でも頭の中にはバンダルの滝壺に住んでいた水の精霊という認識もあるの

 …再びあなたに会えた喜びの気持ちと

 あなたの妻を食べてしまった罪悪の気持ちが入り混じって…

 今の複雑な感情を表す言葉が思いつかないわ

 タネル…教えて、私はいったい何者なの?」

そう言って水でできた妻は私にすがりついてきた。

妻の体が恐怖で小刻みに震えるのを感じ、

ああ、これは妻のエランダなんだと実感した。

得体のしれないモノに体を触れられた不気味さは一切感じなかった。

こいつは妻を殺した犯人なのだが、心は妻そのものだと思ったんだ。

許せない怒りとともにどうしようもない愛しさもあり

どうしたらいいものかわからず途方に暮れてしまった。

感触は薄皮の水筒に触れている感じだったな。

 そうこうしているうちに夜が明けた。

朝になって気づいたんだが近隣の家々でも同じようなことが起こっていてな

水の女に殴りかかる者、一目散に森から逃げてしまった者、

私と同じように対話するものなど様々だったが、

結果的には数日後に森に残っていたのは私だけだったという事だ。

他の水の女達は家族に見捨てられた悲しみでバンダルの滝に篭ってしまった。

私はと言えば妻と森へ残る決心をしたんだ。

そして、私と水でできた妻の奇妙な生活が始まった。

 妻はものを食べるということはしなかった。

その代わりに定期的に川へ行って軽く水を飲んでいた。

水だったら何でも良いわけではなく

バンダルを流れる川の水だけを受け付けるようだった。

それとどうやら妻は川から遠くへは移動できないらしい。

 妻に精霊について聞いたことがある。

考える力は無いものの激しい本能がありそれに従うように生きるそうだ。

そしてその本能が人間を食べること。

人間なら誰でも良いわけではなく必ず女ではなくてはいけないそうだ。

だから私はいまだに食われてないんだろうな、

お前さんも男で良かったなでなきゃ今頃食われていたろうと言って老人は笑った。

自我を持つ精霊は一様にしてどこかの女を食べたんだろう。

物語にでてくる精霊が必ず女性なこととも辻褄が合った。

精霊自体はどうやって生まれてくるのかはわからないが、

自然の営みがあれば常に営みの中から精霊は生まれてくるということだそうだ。


 ひと月と経つ頃には妻の体が水な事に何の不自然も感じなくなっていた。

妻は体が水なこと以外は何も変わることのない優しい人だった。

ただ、エランダがよく見せた心の底からの笑いだけは見せなくなっていたな。

妻は決して口には出さなかったのだが、

元の妻を食べてしまった懺悔の念に常にさいなまれているのが

そばにいると痛烈に感じることができた。

私は「気にすることはない」と一言言えたら良かったのだが、

とても言えるものではなかった。

エランダを殺した事を許したわけではなかったのだから。

もちろん私も「許さぬ」などとは口が裂けても言うつもりはなかった。

その一言を言ってしまったらすべてが終わってしまう。

その一言を言ってしまったら妻の性格から言って

自殺でもしてしまうとわかっていたからな。

精霊がはたして自殺などできるのかは知らんが、

私に拒絶させられた上で死ねないとなると妻は気が狂ってしまうかもしれん。

 妻との生活で一番思い起こすことは、とある晩の音楽会だな。

家の片付けをしていたら荷物から古いリュートが出てきたんだ。

エランダの嫁入り道具の一つだったそれを妻は手に取ると、

家の外に出て切り株に座って弾き始めた。

エランダは以前よくリュートを弾き語ってくれたもので、

妻の弾くリュートはまさに同じだった。

やはりこれはエランダなんだと思ったもんだよ。

だがエランダが聞かせてくれていた時よりも少し上達していたな。

なんというかな、哀愁のただよい方がただならぬものになっていた。

それとも妻の姿に私がそう感じただけなのかもしれん。

妻は幻想的だった。

月の光が透明な体を複雑に反射して妻自体が光っているように見えた。

私はその美しい姿をやはり音楽で奏でたくなり、

家からフルートを持ち出すと妻とともに演奏をした。

ああ、あの時の気持ちが蘇るなあ、

自分も幻想の世界の住人になったと感じたあの気持ちが。

世界が一つになったと感じられた瞬間だった。

世界は常に何も変わることはなく、

時間という単位をもってその超然とした姿を見せてくれていたのだ。

何十曲と続けて演奏したがそれはあっという間の瞬間だった。

あの風景にもう一度出会いたいとひしひしと感じるよ。

それ程忘れがたい思い出だったんだ。

いっぺんに喋って口の中が乾いてしまったのであろう。

老人は一息ついて水で喉をうるおした。

 よく働く妻だったんだ。

料理は相変わらず良い出来だった。

妻の料理を食べたいがために必死に猟をしたよ、と笑う。

裏庭の畑仕事も毎日欠かさず丁寧にこなしていた。

ただ、土が水を吸ってしまうらしくて体が消耗してしまうそうだ。

そこで私は妻専用に鹿革の長靴をつくってやった。

力も体力も人間のそれとまったく変わりはなく、

働けばやはり普通に疲れるようだった。

あと暑い日差しにも弱かったなぁ、と老人は遠くを見ながら言った。

そこで老人は少し黙り込んでしまった。


 そして2分ほど経ってからまた昔語りを始めた。

3年も経った頃だろうか、近隣に住んでいたハミルが森にやってきたんだ。

どうしても家から持ち出さないといけない仕事道具があったそうだ。

ハミルは妻を見て少し驚いたようだが動揺はそれほど大きくなかった風に見えた。

ハミルもまた満月の晩に対話を試みた1人だったからだ。

私達3人は何時間か話をした。

ハミルは森を出てから父のあとを継ぎ商人になったと言っていた。

毎日が目の回るほどの忙しさで、あの日の事も思い出すことが無くなっていたと。

私らも私らの生活の話をしたんだ。

妻の事の話や、畑仕事の長靴の事など。

そう、話してしまったんだ、妻の弱点を。

私らは普通に挨拶をして別れて、また以前の生活が続くものだと思っていた。

次の日私らが畑仕事をしている時に、

ハミルは領主達を引き連れて戻ってきたんだ。

領主は周りの人間に指示を出した。

指示を出された人間たちは大量の砂を持って私らを取り囲んだ。

「恋人フロラの敵を討ち果たす!」とハミルが叫ぶと

皆が一斉に砂をぶちまけ始めたんだ。

妻は大声で「助けて!」と叫んだ。

妻にふれた砂は水を吸い込み地面に落ちていく。

みるみる妻の姿が縮んでいき、私は絶望に囚われた。

その時、バンダルの滝の水が突如こちらに向かって流れ込んできた。

滝壺にいた他の精霊達が妻の叫びを聞き助けに来たのだ。

畑は瞬く間に清流に飲まれ、そう濁流ではなく清流だったのだ、

その清流は生き物のように流れを変え人を次々と飲んでいった。

恐るべき勢いの激流だと思ったんだが、

私は不思議な力で水の流れを感じることはまったくなかったが、

ほとんどの者達はあっという間に流されていっちまった。

そして皆を飲み込むと滝は本来の流れに戻り、

生き残ったやつは逃げ出し妻と私だけが残った。

滝の水で妻の姿は元に戻っていたのだが妻は既に致命傷だった。

妻はか細い声で言った。

「記憶がどんどん薄れていくの、私はもうだめです」と

そして妻の体はいびつに歪み始めた。

私は何かできることはないかと妻に聞いた。

「私の記憶はすべて消えてしまいましょうが

 バンダルの滝に浸かれば生き残ることはできるはずです

 そうなったらそれはもう私ではありませんね

 あなたの妻を食べたただの精霊です

 そんな命でも助かって欲しいと少しでも思ってくれたら

 私をバンダルの滝に投げ入れてください」

私は躊躇せずに妻をバンダルの滝壺にほおりこんだ。

滝壺の中で妻は最後にこう言った。

「私が私でなくなってしまってもあなたへの思いは変わりません

 この滝の中で一生あなたのことを見守り続けましょう

 あなたの幸せを祈り続けます…さようなら……」

そして妻は滝壺へと消えていった。

だからな、私にとってあの滝は妻そのものなのさ。

 その日の生存者がバンダルの滝には精霊がいて人間を飲み込むと噂を流し、

以来バンダルの森に入ってくる人間はいなくなった。

お前さんがここへやってくるまで何十年も一人きり、いや妻と二人だな。

まぁ、私が滝に向かってつぶやくだけなんだがな。

そんなわけで久々の客に出会って嬉しかったのさ。

つい話が弾んじまったな。

お、いつの間にやら雨風がやんでいるぞ。

外は既に晴れ間が見え始めていた。

トゥゴマ公国はあっち、ここから南東だよと老人は指差した。

若者は家の隣にある滝を一瞥すると、

老人に礼を言い旅立っていったのだった。

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バンダルの森の老人 ちびけも @chibikemo

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