フロイラインシンドローム

周辺を見渡すと言っても、周囲は暗闇に侵蝕された遠近感も何も無い空間だ。

ただ歩くだけでも、自分の足元の地形がどの様になっているのかすらも分からないから、踏み外せば転びやすくなっている。

現に、トグサは歩き進めて三回を地面を踏み外して転びそうになっていた。

様々な異世界で活動を続けるトグサでさえ感覚が掴めないのだ、ルイーズ=カンデラならば転んでしまっても可笑しくはないだろう。

心配する様に、トグサは後ろを振り向いて、ルイーズ=カンデラの方に視線を向けた。


「この辺りは嶮しい道のりだな…暗闇で分からないから、足に引っ掛かりやすい、気を付けろ?」


注意をしながらトグサは太腿を大きく上げて地面を踏み締める。

歩き方としては、雪原で足を掬われない様に足を上げて雪の上を踏み付ける様な感覚だ。

ルイーズ=カンデラは細々と歩きながら地面に視線を向けて避けながら歩いている。


「そうですわね。あ、そこにはお気を付け下さいまし、地面から石が突き出ていましてよ?」


ルイーズ=カンデラの注意に、トグサは自らの足元に視線を向ける。

当然ながら暗闇で見える事は無く、己が履く靴しか視界に映らない。

すり足で移動すると、確かにルイーズ=カンデラの注意喚起通り、地面に石が生えていた。


「ん?あぁ、本当だ、石が生えてる…」


偶には役に立つ事を言うものだ、とトグサは思っていたが、其処で不信感が溢れる。

後ろを振り向いて、ルイーズ=カンデラを見た。彼女は顔を横に向けていて、呑気に遠くを眺めている。

紅葉狩りをする主婦の様に能天気なものだった。


「…お前、なんでそんな事が分かるんだ?」


トグサは、ルイーズ=カンデラが、トグサの歩く軌道に石があるのか、その説明を求めると、ルイーズ=カンデラは胸元に指を突っ込んだ。


「貰いましたわ」


「貰ったって、何を?」


胸元が開いているドレスには、ルイーズ=カンデラの胸元が強調されていて谷間が出来ていた。


「子供達からですわ」


「誰にもらったかは聞いていない、何を貰ったかそう聞いているんだ」


指先が谷間を弄ると、黒曜石の容器を、彼女は取り出す。

その容器は、小さな花瓶に似ており、首は細く、胴体は太い。

液体でも入れているのか、先端が尖っている容器の蓋が口元を塞いでいる。


「目薬ですわ」


簡単に彼女は、その物体がなんであるかを説明する。


「こちらの目薬をさせば暗闇の中でも物体の輪郭をとらえる事が出来ましてよ」


さも知った様な口ぶりだ。

子供たちからもらった、と言う話を聞くに、彼女があの洞窟でうろついていた時に、闇の一族の子供たちから貰ったのだろうか。

それにしても、可笑しいと、トグサは思った。

翻訳機能を持つのは、管理者と契約して異世界の苦難を救うと言う使命を持つ帰還者のみだ。

ルイーズ=カンデラは翻訳機能などなく、彼女の世界と、この暗黒の世界の言語形態は違う筈だ。


「お前、この世界の言葉が分かるのか?」


トグサは、彼女がこの世界の言語が理解出来るのか伺う。

彼女は含み笑みを浮かべて、さも裏がありそうな表情をした上で。


「そんなの、全ッ然、分かりませんわ!」


溜めて、期待を持たせた上で裏切る。

いや、ある種、期待は裏切って無いのかも知れない。

ならばどうやって、ルイーズ=カンデラはこの道具の効果を理解出来たのだろうか。

「ただ子供達はジェスチャーをしていたので、試しに使ってみたら物が見えるようになりましたわ、なので、正解だと思いますわ」


ドレスに内包された胸を張って、ルイーズ=カンデラはトグサから褒めの言葉を貰えるかと思った。


「ちょッ、お前ッ!!」


だが反応は違った。

トグサは暗闇である事を忘れて、ルイーズ=カンデラの元へと近づくと共に、彼女の二の腕を掴んで顔を近づける。


「あわっ、なんですの?心配しなくてもトグサの分もありまして…」


顔を近づけられて顔を赤らめるルイーズ=カンデラ。

彼に捕まれた衝撃で、思わず目薬を落としそうになるが、指の力を込めて離さない様にする。


「お前、ワケの分からないモノを勝手に使うなッ!危ないだろ!!」


トグサは、ルイーズ=カンデラが勝手に目薬を使った事に対して怒っていた。


「えぇ?大丈夫ですわっ、こう見えて私の体、頑丈です事よ?」


「お前の体が頑丈かどうかなんて問題じゃないんだよ!!」


今回ばかりは、ルイーズ=カンデラの惚けは通じない。

本気でトグサは心配していたから、その真剣さに、ルイーズ=カンデラも口を紡ぐ。


「っ…」


トグサは人差し指と親指でルイーズ=カンデラの瞼を開いて目を見詰める。

充血や、瞳孔が開いていない事を確認して、一先ずは安全だとトグサは思うと、安堵の息を漏らした。


「いいか…基本的に契約による召喚をした場合、肉体は異世界の環境に適応する様になっている」


現界とは違い、異世界は極度に高低温度が激しく、病原菌が流行ったりしている場合がある。

そうなると、異世界で仕事を達成する前に、環境によって任務の達成が困難になる事例も多い。

その為に、管理者は環境問題を解消する為に、異世界への召喚される間の時間に、肉体に異世界の環境を適応させる術式を構築させたのだ。

これにより、環境問題は解決している。


「お前も俺も同じように召喚されたが、それでも外部から毒物を摂取した場合は例外だ…最悪、それが原因で死ぬ事だってありえる」


だが問題なのは、環境外での毒素を取り込む事。

毒や肉体に害を与える物質に対して、この環境適応能力の術式は通用しない。

それは分類が違う為だ。環境から発生する害ならば無力化は可能だが、それ以外からの物質からの害は無力化する事は出来ない様になっている。

だから、もしも毒を盛られたら、それを解消する術はない。

帰還者であれば、肉体が死滅しても、魂の状態で元の世界に戻る事が出来るが、ルイーズ=カンデラが死亡した場合は、そのまま魂は転生する事になっている。

ルイーズ=カンデラは、トグサの真剣な眼差しに、彼が何故怒っているのか考える。

そして、どう考えても、トグサが怒る理由は一つしかなかった。


「…あなたが、そんなに、怒っているのは」


しかし、その考えが外れる可能性もあった。

彼女の思考はあくまでも彼女が思い描く事だ。

多少の間違いもあるだろうし、彼女の頭の中では、考えた結果の答えがそれで精一杯、と言う事もある。


「私が、心配だからですの?トグサ」


心の内に秘める事は無く、ルイーズ=カンデラは真正面から向き合い、トグサに答えを伺う。

トグサは、正々堂々とした彼女の言葉に、どう言い返そうか迷ったが、その迷いは不必要な事だと思った。

ただ、彼女の正道に、トグサも正道で返せば良いだけの話だからだ。


「…あぁ、そうだよ。お前が心配だ。だから怒ってる」


彼女は大事な存在だ。

今後のトグサの人生に置いて必要となってくる人材だ。

それが自らの不注意で死亡させてしまうなんて事は、絶対にあってはならない。

彼の真剣な言葉に、ルイーズ=カンデラは目を下に向ける。


「そうですの…でしたら…迂闊に触れたら、駄目ですわね」


反省してその様に告げる。

ゆっくりと顔を上げて、ルイーズ=カンデラは、頬を歪ませて、悲しそうな目線に、嬉しそうな口を浮かばせる。


「トグサ…不思議ですわ、私、心配されているのに、それで怒られていると言うのに、まるで、寵愛を受けたかの様な気分ですわ…此処まで私を大事にして下さるのなら、大事にされなければなりませんね」


まるで夢を見ているかの様な儚げな表情。

それでも、段々と、何時ものルイーズ=カンデラが戻って来ていると思い、トグサも何時もの調子で返す。


「…あのな、言ってる意味が分からない」


「まあ、それって、『意味が分からなくとも心で理解出来る』と解釈してもよろしくて?」


完全に、何時もの調子に戻りつつあるルイーズ=カンデラ。

トグサは、彼女の言葉に首を左右に振って否定する。


「宜しいワケ無いだろ…っ」


言葉が詰まる。

異様な気配を感じたトグサは、視線を真正面へと向ける。

暗闇で満たされた空間でも、第六感である気配を感じ取る機能が、敏感に発達していた。


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