空の穴

鍵崎佐吉

 百年ぶりに雨が降った。それはあくまで主観的な観測に過ぎなかったが、ある意味においては事実であった。百年もの間、雨や雪だけでなく花粉やウイルスすらも遮断してきた硬化セラミックの巨大なドームは、どこからか飛んできた最新式のミサイルによってついに打ち破られた。ずっと我々を守って来たその傘は、大量の瓦礫となって都市の上に降り注ぎ、百年かけて築き上げた理想郷を跡形もなく押しつぶした。もはやドームは全体の二割ほどしか残っておらず、まったくその機能を果たしていない。それでもどうにか私が生き残ることができたのは幸福と言っていいのだろうか。答えは未だに出しかねている。

「……これが雨か」

 私は思わずそうつぶやいた。気象現象としての雨がどんなものかはもちろん知っている。だが頭上に開いた大穴から降り注ぐそれを見たのは初めてだった。雨は瓦礫の隙間を伝い、一ミリの隙も無く舗装された大地を百年ぶりに濡らすだろう。

 私は雨には音があるのだと初めて知った。考えてみると当然のことなのだが、実物を目にするまで気づけなかった。都市の残骸を水滴が打ち、不規則で断続的な音が響いている。音量としてはかなりの大きさのはずだが、不思議とうるさいとは思わなかった。その光景を眺めているうちに、私はあの雨を浴びてみたいという衝動にかられた。そこにわずかな感傷が含まれることは否定しないが、もっと実利的な理由もあった。ドームが破壊されこの都市のインフラが機能しなくなって以来、一度も風呂に入っていない。飲料水と違って空から降るこの雨はタダだ。全身にまとわりついた不快感を少しでも和らげたかった。


 雨は冷たかった。しかし冷水のシャワーを浴びるのとは少し違う。全身を包み込んでゆっくりと水に溶かしていくような感覚だ。私は瓦礫の山を登り、その上でじっと雨を受け止めた。ゆっくりと頭上を見上げると遠くに空が見えた。ドームが破壊されるまでは空を直に見たこともなかった。初めて目にした灰色の曇り空は思ったほど憂鬱なものではなかった。

 私はこのドームから外に出たことは一度もない。この都市の住人のほとんどがそうだったはずだ。第一次産業は極限まで自動化され、人々は清潔で安全なドームの中で一生を終える。それがずっと続いていくはずだった。なぜこの都市が攻撃されたのかは今となってはわからない。何か戦略上の大きな意味があるのかもしれないが、誰もそういったことは知らないし、知ろうともしなかった。ドームの外の世界の話など我々には無縁だと皆が決めつけていた。この都市が完全に機能を失ってしまった今となっても、その気持ちは払拭できたわけではない。私はこの場所しか知らないんだ。他の場所で生きていくなんて、想像もできなかった。

 ふと気が付くと幾人かの人が少し離れた場所で同じように雨を浴びていた。口を開けて喉を潤そうとする者、布を濡らして体を拭く者、中には裸になって体を洗っている者までいた。私はそこに人間という生き物の本性を見た気がした。しかし嫌悪感は覚えなかった。

 我々は過去の栄光の残骸に縋りついてこの場所で生きていくしかないんだ。そしてインフラの崩壊した今となっては水は貴重品だ。とりあえずは何か雨を集められるような器を持ってこないと。私はここに来る途中で半壊した飲食店があったのを思い出し、そこにある調理鍋を拝借するために雨の中を駆けだした。


 目当ての店はすぐに見つかった。外壁は剥がれガラスも割れてしまっているが、内装は特に損傷もなく荒らされた形跡もない。だが私が物色を始めようとした時、店の奥から女の声がした。

「誰?」

 声の主は若い女だった。それほどこちらを警戒しているわけでもなさそうだが、私のことを値踏みするようにじっと見つめている。

「怪しい者じゃない。ちょっと鍋を借りようと思って」

「鍋? なんで?」

「雨を集めるんだ。水の備蓄があれば何かと便利だし」

「そんな水、飲んで大丈夫なの?」

「さあね。でも不安なら煮沸すればいいし、飲み水以外にも使い道はある」

「ふーん、雨ねぇ……」

 女は鍋を借りたいというリクエストには特に反応を示さなかった。無言の肯定とみなして持っていってもいいのだが、なんとなく女の態度が気にかかった。

「君はこの店の人間なのか?」

「まあ、一応そうね。ここでバイトしてたの」

 女は近くにあった椅子に腰かけ、机に頬杖を突いた。

「ここで待ってたら、誰か知り合いが来るかもしれないと思ってたんだけど、今のところ誰も来てない」

「……そうか」

 ドームの崩壊によっていったいどれだけの人間が犠牲になったのか、その正確な数はわからない。だがこの都市の七割近くは瓦礫の下敷きになってしまったようだった。単純に考えれば人口も七割ほど減ってしまったことになる。彼女の知り合いが生きているという保証はどこにもない。

「というかあなた、そんなずぶ濡れで寒くないの?」

「少し寒い気もするが意外と悪くない気分だ。今まで感じたことのない解放感がある」

「ふーん、変なの。私はそんなのごめんだわ」

 言われてみれば女は私と違って服装もちゃんとしているし、体も清潔に保たれているようだった。こんな非常事態でもそういった部分が気になってしまうのが年頃の女性というものなのだろう。ある意味では倒錯的とも言えるだろうが、どんな状況でもあくまで自分を貫こうとする姿勢には好感を覚えた。

「で、鍋借りてもいいかな」

「好きにすれば? 別に私のじゃないし……。あ、ちょっと待って」

「なんだ?」

「鍋はあげるからさ、代わりに傘作ってよ」

「傘? なんでだ?」

「濡れたくないからに決まってるでしょ。これじゃ外に出られないわ」

「あげるって、鍋は君のじゃないんだろう?」

「それはそれ、これはこれよ。まあ盗みたいならそれでもいいけどね。勝手に持っていけば?」

 私はいたって真面目に今日まで生きてきた。盗人呼ばわりされるのは心外だ。そういうわけで私はこの女のために傘を作ってやることにした。


「よし、これでいいだろう」

「ふーん、まあ素人が作ったんだしこんなものか」

 ここには百年雨が降っていないのだから、当然傘なんてものもどこにもない。その用途から形状や構造を想像して作るしかなかった。その結果出来上がったのは、細い鉄の棒にワイヤーを括り付けそこにナイロンやビニールを張り合わせただけの簡素で無骨な構造物だった。それでもとりあえずは傘として雨を防ぐという用途には耐えうるだろう。

「それじゃ行きましょ」

「行くって、まさか君も来るのか」

「もう誰かを待つのには飽きちゃった。邪魔するわけじゃないんだし別にいいでしょ」

 随分とマイペースな人だ。しかしこちらも特に彼女を拒む理由はない。それにこの廃墟の中で孤独を持て余すよりは、誰かと一緒にいた方がいい気がした。私は厨房にあった大鍋を担いで、今度は傘を差したその女と一緒に雨の降りしきる廃墟へと歩き出した。


 雨は鍋に当たるとまた違った音をたてた。少しずつ水かさが増していくにつれて、その音も変化していく。もしかしたら人間が最初に音楽を見出したのも、こういった自然の中の出来事だったのかもしれない。それを確かめる術なんてどこにもないが、そう思うことで自分の置かれたこの状況を少しだけ前向きに捉えることができた。女の方はというと特に何をするわけでもなく、不格好な傘を片手に空を見上げたり足元の瓦礫をつついたりしている。そして時間が経つにつれて、私たちの真似をしたのかどこからか持ってきた容器で雨を集めたり、瓦礫から掘り出した廃材で傘を作る者も現れ始めた。降りしきる雨の下に生き延びた人々が集まり、少しずつだが交流の輪が広がっていく。雨が溜まるのを待つ間は暇なので、私もまた傘を作ることにした。うまくいけば何か別の物と交換してもらえるかもしれない。物作りというのはこだわり始めると中々にきりがないもので、色々と試行錯誤するうちに時は過ぎ、気づけばもう雨は止んでいた。鍋には半分ほど水が溜まっている。

「ねえ、あれ見て」

 鍋を担いで戻ろうとした時、女の声が聞こえた。女の視線は頭上の大穴の先に広がる空に向けられている。雲の隙間から光が差し込み、まるでスポットライトのように地上を照らしている。そしてそこにはあるものがあった。

「……これが、虹か」

 学校の理科で習ったその気象現象は、ただの知識として記憶の片隅に放置されている、ただそれだけの存在だった。だが目の前に広がるその光景は、今まで見たどんな映像よりも美しかった。

 失ったものは大きい。もう我々を守る傘はない。それでも私は生きている。そして生きていたいと、そう思った。

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空の穴 鍵崎佐吉 @gizagiza

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