恋心を殺す

ぬかてぃ、

だから僕は心を殺した

「私ね、あの人の事が好きなの」


 シェイクに刺さったストローを上下しながら僕はその言葉を聞いた。

 やたらうるさいと思っていた幼児の甲高い泣き声が一瞬にして消える。

 嘘だろ、と聞き直したい気持ちが私を引っ張ってくる。ただその一方でもう一度その言葉を聞きたくないもう一人の私が止めてくるのだ。やめておけ。傷つくのはお前だけだろうと。

 僕は彼女の方を向いた。それと同時にまた耳に泣き声に混じった店内BGMが入ってくる。


「そうなんだ」

「おかしいよね。女の子同士なのに」


 一瞬僕は頷きかけた。

 そりゃそうだ。女の子同士の恋愛だなんて。そんなマイノリティは漫画かなんかの話だろうと。誰だって一度はそう思うだろう。

 だが、そのどこかおぼつかない彼女の目を見たらそれが嘘偽りではないことくらい分かってしまうのだ。どうして、どうしてよりによってあの子と。


「いや、いいんじゃないかな」

「そうかな」

「そうだよ」


 僕はそう答えるのが精いっぱいだった。あくまで誠実に。

 かっこがつくように。

 それが虚勢である事など自分自身理解している。それでも僕は彼女に虚勢を張りたかったのだ。それは僕が彼女を好きというのをばらしたくなかったからだ。それがばれてしまう事はそのまま僕らの関係を破壊する事に相当する。だからそっと。テーブルクロスの載せられたテーブルの上に銀の皿を乗せるような気持ちで対応するしかないのだ。

 それが僕の本心であるかは別としても。


 胸中は全くと言っていいほど穏やかではなかった。

 まず焦燥感が襲う。いずれにしても僕にその悩みを打ち明かした時点で何かしらの行動を起こしてくることは想像できた。これほどのカミングアウトを耳から耳へ流せるほど僕は鈍感な生き物ではない。つまりこのカミングアウトはホップ・ステップ・ジャンプでいうホップの段階なのだ。遠くない未来、彼女はあの子に告白をするのだろう。


 ではなぜこれがステップじゃないのか。それは僕に協力を求めてくるから以外に他ならない。なんだかんだ彼女と僕は小学生以来の長い付き合いだ。高校三年の今日まで黙ってきて、そして僕に話すという事はこの話が彼女にとって相当の重荷であるし、ともすれば家族にすら喋る事が出来ないものだからだ。どれだけ体裁を整えたところで女性同士が付き合うなんて確実に偏見が付きまとうし、それが高校生の僕たちみたいな年齢だと尚更だろう。思春期特有の性倒錯だのと言われるだけだ。

 だから理解者を増やす事で大一番のジャンプに行こうとしているのだ。いわば彼女にとっては僕に理解を示してもらう事でホップ。協力を依頼する事でステップ。そしてあの子に告白する事でジャンプ、といった三段論法を構成しようとしている。


 段々と冬服も暑くなってきて、受験勉強も天王山に差し掛かろうかとしている今だからこそ、今だと踏み切ったのだろう。こんな田舎の高校では受験勉強以降はどこに飛び散っているか皆目見当もつかない。二人で会える確証はなくなる。

 全てにおいて今なのだ。今だからこそ、告白の計画に至るのだ。


「だからさ。その。協力してもらいたいんだ」

「でも」

「今までずっと協力しあって来たじゃない」


 考えていたことはそのままその通りであった。

 元々彼女は思慮深い。何かを行動する前に一々色々考えてくる。いわば外堀を埋めてくるタイプの子だった。

 昔から。昔からそうだったのだ。


 そんな思慮深さが僕は好きだったのだ。僕は性格的にどうしても気の早い奴だったから、彼女が止めてくれるからこそ自分を存分に振る舞えた。だから僕と彼女はずっと一緒だったのだ。

 だが、どこか僕はそれに甘えていたのかもしれない。僕の勝手な思い込みだけが一人で走っていたのかもしれないと今になって思う。

 嗚呼、今になって帰ってみればあまりにも間抜けだった。どこか僕は彼女と永遠に結ばれると思い込んでいたのだ。その思い込みはあまりにも甘美だった。だからこそ目が覚めた時その甘さが夢であった事を理解してしまうのだ。嫌というほどに。


「お願い。ねえ」


彼女は懇願してくる。その言葉の裏に若干のニュアンスが含まれている事を僕が気付かないわけがなかった。

 彼女にとってこのカミングアウトは決して軽いものではない。ともすれば僕と彼女の関係がこのタイミングにして変わってしまう。だからこれは彼女にとって賭けでもあった。


 しかしそれを言い換えれば彼女は必ず見返りが得られる存在だからこそ僕に打ち明けたのだ。僕が理解を示してくれれば必ず彼女に協力をしてくれる。それは彼女の戦略なのだ。

 だから僕は打ち明けられ、否定をしなかった時点で断る事が出来ない立場にある。勿論行動そのものは出来たとしても。

 ただ、僕はそれを気持ちよく受け止める事は出来なかった。


「もし、もしだよ」

「なによ」

「僕が断ったら、どうする」


 意地悪な質問である事は重々承知だった。

 だが、僕はここを認めてしまうと彼女を自分の手から永遠に放してしまう事になる。もしこれが破局しても僕の手のもとに戻って来やしない。よしんば戻ってきたとしてもあの子の代わりになるだけだ。いや、あの子の代わりになれるだけましかもしれない。


 もしかしたらもうすべてを吐いてしまった手前、新たに恋心を抱いた相手に対して更なる協力を求められる可能性だって十分にあるのだ。

一度までは我慢できてもそれは我慢できない。この一度でさえ僕は我慢が出来ずにいるのに。


「断ったら……」

「そう。断ったら。これが勝算のある賭けなら僕だって協力するよ。でもあまりにも分が悪い賭けだとも思うんだ。だって考えてみてよ。漫画やドラマの世界なら『百合』なんて言葉で濁してくれるとは思う。でも実際はどうかな。世間、いやあの子ですら彼女は君の事をレズビアンとして扱う可能性だって十分あるんだよ。そう考えると気持ちよく僕は協力するなんて言えないね。レズビアンの協力者って僕はレッテルを貼られるわけだろう。どうしてそんなことをしなきゃいけないんだ」

「それ、もそうね」


 あまりにも汚い真似だ。

 僕が好きって言えない事をいいことに適当に言葉を練って混乱させようとしている。こうやってなんとなくその気にさせて、今回は、と見送らせたいのだ。時間があれば心持ちも変わってくるだろう。

 それが賢しい駆け引きである事も理解していた。

でも、心の中では彼女の選択に背中を押してやれない。


「でも」


 彼女は返してきた。


「恋って、そういうものでしょう」

「えっ」

「だって恋って、そんな駆け引きとかそういうものじゃないじゃない。好きだから好き。嫌いだから嫌い。好きって程じゃないにしても恋まで発展しない。そんなものじゃない。それをぶつけずに終わってしまう方がよっぽど臆病だわ。例えそれが私にとって不利な選択だとしても」


 その言葉は強すぎた。

 彼女の中であの子が好き、という感覚は僕の小汚い牽制をもろともしなかったのだ。僕のやり方はあくまで世間とか、誰かがとか、客観的に見る事で彼女の中に燃え上がる炎に冷水をかけるものだった。

 だが彼女の炎は僕の冷水など意にも介さなかった。すべてをうしなってもいい、というような満ち満ちた気概にあふれていたのだ。


「第一アナタだって恋の一つや二つはしたことあるでしょう」

「……うん」

「だったらそれがわかるんじゃないかな。アナタだって、好きな人を手放したくないならどんな手を使ってでも、その後何もかもを失ってでも手に入れたいと思うんじゃないの」


 言い返せなかった。

 それは僕の駆け引きが失敗したことを証明した。彼女は僕を選ばず、あの子を選んだのだ。そして彼女はよしんばあの子との関係を失敗しても、その余白に僕が入る事はおおよそない事の証明でもあった。

 僕の、ある時から気付いた恋心はここで砕けたのだ。


「そんな無理も承知でお願いしているの。ね。だから、ね。お願い」

「分かったよ。分かった」

「やったあ」


 僕の生返事に彼女の顔が明るくなった。

 嗚呼、なんて綺麗なんだろうか。眉目秀麗という言葉があるけれど彼女の事を指すんだろうな、とか余計なことばかり考えている。

 この笑顔が見られるのなら協力も悪くない、と自分をなだめていた。どう頑張ってこの笑顔は僕に向けられるものじゃないから。


 僕たちは別れた後、一人寂しく家に帰った。

 ずっと心の中に暗雲が立ち込めている。なんで僕を選んでくれなかったのか、とか、僕の本音はばれずに済んだのか、とか。浮かんでは消えていく。

 それが重くなればなるほど、もうどうでもいいや、という気持ちが首をもたげてくるのだ。手に取れなかったブドウはすっぱかったからよかったんだ、と自分を慰めながら。どうせ叶わぬ恋なのだから、とか。世間的にはレズビアンなんだから玉砕するだろう、ざまあみろ、だとか。

 彼女の不幸ばかり呪っている自分がいる。それが僕の心をさらにささくれ立たせるのだ。


「おかえり。お風呂沸いてるからさっさと入ってきなさい」


 家に帰ると居間にいる母がのんきな声で言ってくる。

 僕の心なんか知らないくせに、と思うとその声が妙に苛立つ。アンタはそうやって何も考えないまま家族分の料理でも作って置けばいいんだろう。家族を得た安全地帯にいるアンタからしたら。

 居間に入るとソファーに鞄を投げ捨て、その横に座った。


「あら、どうしたのよ。機嫌悪いわね。もしかして振られちゃったのかしら」


 冗談めかして言ってくる。

 そのおどけた声が突き刺さってくるのだ。これが普通だったら笑い返せたのかもしれない。でも今はそれどころじゃないのだ。


「知らないよ! 僕の事なんてほっといてよ!」

「あら」


 僕が怒鳴りつけると母は苦笑いをしながら返してきた。夕食を配膳している事からその発言がどれだけ軽いものか理解できる。僕にとってはこれほど重い事なのに。アンタにとっては人生の一部、なんて軽く流すんだ。

 僕は立ち上がってこれ見よがしにドアを閉じた。ばんっ、という音がテレビの音を切り裂く。

 二階に上がる途中、僕は悔しくて泣いていた。

 このことを相談したって誰にも解決は出来ないし、共感もしてくれないだろう。

 これは僕が、死ぬまでずっと抱えていないといけない気持ちなんだ。この恋心は僕自身で殺さなければならないものなのだから。


 部屋に入った僕はベッドに飛び込んで顔を埋めながら泣いた。この声だけは悟られないように。この声が悟られる事は僕の恋心を誰かにばらしてしまうのも同然だから。この恋はうめき声のような断末魔を上げなければならない。

 だから、ばれてはならないのだ。

 本当は。

 本当はこんなに好きなのに。

 ずっと、ずっと泣いていた。


「あんたー、落ち着いたらでいいからお風呂入りなさい」


 少しした後母は下の階からずけずけと指示を出してくる。

 それどころじゃないのに。言い返したいのに。

 でも言い返したら僕の恋心はばれてしまうからわめくこともできない。この恋心は僕の中で滅却しなければならないから。だからぐっとこらえるしかない。ぐっと。

 僕は母の間抜けな声を聞きながら、またベッドに顔を埋めたのだった。


「それとー、女の子なんだからそろそろ僕っていうのやめなさーい」

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恋心を殺す ぬかてぃ、 @nukaty

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