第17話 魚の頭2
ホームズは群衆を駆け抜ける。
走る走る。
彼の手で押し退けて。
彼を突き動かすのはたった一つの思い出だった。
(もう、無力なのはごめんだ!)
「どいてくれ!」
先ほどの悲鳴を聞き、注意が店内へと向いている警官を押し退け無理やり中へと入り込む。
「ちょっ、君!」
警官の声はホームズの耳へ届くことはない。店内には警官たちの姿はなく、上からは足音のような音が聞こえてくる。きっと二階へと上がったのだろう。あの叫びを聞けば駆けつけたくもなる。
一心不乱に店の奥へとそして階段を駆け上がる。
二階へ近づくにつれてじょじょに異様な匂いが漂って来ていた。
まるで蜂蜜のような甘い匂いの中に生ゴミのような臭いが混じっている。
気分が悪くなる。そんな臭いだ。
徐々に重くなっていく足に力を入れて階段を登る。
ホームズにとっては長く思えた階段を越えると大きな部屋が現れる。
扉などはなく。
直接部屋へ繋がっている。
入り口付近には数人の警官が部屋の奥を見るように立っており、奥にある何かに釘付けにされているようだった。
ホームズは彼らを押して中に入り込む。
一目でわかった。
彼らの視線の先は箱だ。
中央に置かれた箱。
それが彼らを釘付けにしていたのだ。
床には汚れた蓋のようなものが落ちており、元は箱に乗っていたことがわかる。
大きな魚の頭だ。
それが視線を集める一番の要因だろう。いや、疑う余地もない。
カエルのように大きな目玉はギョロリをこちらを覗き込むようで、鼻と口が広い。口からは牙が見えており細長く尖っている。
ただの魚にしてはあまりにも不快で、気持ち悪く、思わず目を背けたくなる形をしている。異形の深海魚という方がまだ正しい。
黄色い液体に浸っていない部分からはハエが集まり、ウジが湧き始めている。さらに甘い匂いに隠れた腐敗の臭いによる空気の汚染がただならざる環境を作っていた。
先ほど男から聞いた話で考えていたものよりもずっと気持ち悪く、臭いも酷い。この場所に来たばかりのホームズであってもこの異常な雰囲気に呑まれてしまいそうになる。
「う゛…」
なにかに締め付けられるように苦しい胸と吐きそうになる口を手で抑えて、辺りの状況を観察する。
部屋の中にいる者は皆青ざめており、警官の中にはフラフラしている者、目を背けている物もいる。
きっと声を出した人物は、死体が入った箱の前にいる若い男だろう。腰を抜かして地面にへたり込み、その場で嘔吐している。彼の視線はブレていて焦点が定まっていない。今にも意識を失いそうだ。隣にはもう一人おり、こちらは年を取っている。彼の背中を擦っており、彼の上司のように見える。
彼らはきっと刑事だ。
状況から察するに事件解決のために死体を確認しようとしたが、あまりのおぞましさに新人が倒れた。というところだろう。
人の死体があるというだけでも立って居られないという人もいるのだ。
いくら覚悟をしていても、こんなおぞましいものを見せつけられては悲鳴の一つぐらい上げてもおかしくない。
あの死体を見て湧き上がる感情は得体の知れない恐怖だ。昔の僕であれば彼と同じように声を上げてへたり込んでいただろう。
そこに遅れてナギとドイルがやって来た。先走ったホームズを追いかけて来たのだ。
「ちょっと待ってよホームズ!」
(まずい! これはナギくんのような少女に見せていいものではない! 死体など見たことがない少女に見せれば卒倒してしまう!)
階段からナギがこちらへ顔を見せる。
「ダメだ! 見るな!」
「勝手に行かないで――」
ホームズの言葉は遅かった。ナギの目にはホームズが映っており、その奥にはおぞましい物が見えているはずだ。
(手遅れだ…)
一瞬の間を置いてナギが声をだす。
「うわ、キモ…」
「う゛ぅ…あれが例の死体か…酷いものだな」
ナギの反応は明るい訳でこそないが、とても凄惨な死体を見たような反応ではない。むしろ医者であるドイルのほうが辛そうな反応を示している。
ドイルがそこまで苦しい反応をしていないのはわかる。医者であればここまで凄惨なものでは無くても人の死体は多く見てきているだろうから。
しかし、ナギの反応には不自然さを感じずにはいられない。あまりにも何事もない。死体を見慣れていないだろう少女ができる反応には思えないからだ。何故彼女はこんなに淡白な反応ができるのだろうか。
この惨たらしい死体に、身の毛もよだつ魚の頭。慣れていない人間がこの死体に対して淡白な反応で返すことができないのは、箱の前で錯乱状態に陥っている若い刑事がその身をもって証明している。
どれほどの経験をすればこんな淡白な反応を出すのか、それとも天性のものなのだろうか。
「お前ら何入って来ている!」
ふと我に返った警官の声である。ホームズ自身もその声で自分がここへ来た目的を思い出す。
「僕はシャーロック・ホームズ。叫び声がしたから助けに来たんだ。僕も捜査に協力しよう」
死体があるという現場で、あんな叫び声が聞こえてきたのだ。向かうしかなかった。それに医者であるドイルも付いている。体調が優れない人の治療もできる。そして自分自身も事件解決に協力できる――そう見込んでここへ来ていた。手遅れになってしまう前に、自分にも何かができる筈だと。
「なにをいってる? 我々は警察だ! 君のような子供に守られるほど貧弱じゃない!」
警官は声を荒げて言う。そこで、隣にいる別の警官から補足が入る。
「シャーロック・ホームズ…たしか、本に出てくる探偵だったかと思います」
警官はなるほど、と頷いてナギとドイルの方をギロリと睨む。
「君たちはなんだ? 探偵? ごっこ遊びもいい加減にしてくれ。ここは子供の遊び場じゃない」
「いや、遊びでは――」
ホームズは弁明しようとするが警官はその隙を与えない。
「何をゴチャゴチャ言ってるんだ! 部外者は立ち入り禁止だ! それになんで入り口に見張りがいたのにも関わらず入ってきてるんだ?」
彼は感情をより表にして現場のピリピリとした雰囲気がそれを助長させていた。
ホームズをきつく睨んだ後にナギとドイルにも同じ鋭い視線を送る。
「えっ、あっ、いや、私たちはホームズを…」
強い怒りの感情に当てられたナギはおどおどした反応を示している。死体では動じていなかったはずなのに。
「現場を荒らされちゃ困るんだ! ガキの遊びに付き合ってる暇はない!」
「本当にすみません。うちの若いのが勝手に中へ入ってしまいまして、連れ戻しに来たんです。ほら! 行くぞ!」
ドイルが頭を下げて謝罪をしたあと、ホームズの腕を引く。
全くその通りだ。返す言葉もない。
僕が勝手に中へ入っていなければ二人は外の群衆と同じくここへ来ることは無かっただろう。そして凄惨なこの現場を実際に見ることも無かった。
見る限りでは二人ともトラウマになっていないようだ。これは運が良かった。だが、こんな現場だ。今は平気でも、この恐怖は心のどこかに確実に一つの杭を打ち込む。恐怖というのは蓄積される。これは克服しない限り心を蝕む要因の一つになり得るものだ。
そして、僕は所詮部外者だ。依頼を受けたわけでも、事件が起こったときにその場に居た訳でもない。今回の事件とは何一つ関係ない。
だから、今僕がやっていることは探偵でも何でもなく、ただの迷惑行為だ。
捜査の手間を増やして無駄な時間を増やす。これに少しでもメリットがあるのは僕だけだ。それもただの自己満足だ。これは。
知っていたつもりであった。そして、今回の自分の行動に激しい後悔を感じた。自分のせいで、また人を危険に晒してしまったことに。
(自分ではどうにもできないことなのに、どうして今回も首を突っ込んでしまったのだろうか)
「申し訳…ありません…」
(僕はいつまで、無力なままなのだろう…)
そう謝罪をして部屋を後にする。その姿を老いた刑事や周りの警官に見られながら。
彼らも事件で忙しいようで、入り口でキツく叱られた後、詳しいことは聞かずにすんなりと外へ解放してくれた。その後は真っ直ぐドイルの診療所へと帰った。そしてその帰り道では誰も言葉を発しなかった。
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