第19話 白瀧9

「まさか深夜に所長の呼び出しをくらうとはなぁ。でもお前ら運が良かったな。俺が熟睡していたらあの兄ちゃんは死んでいたかもしれないぜ。そうなったらあんたは殺人犯だな」

 

 部屋に戻ってきた佐久間さんが軽口を叩いたが、辰巳さんは俯くだけだ。その顔に生気は感じられない。佐久間さんは困ったように頭を掻いた。


 桜沢さんからの連絡が入ると、彼はすぐに駆けつけてくれた。自分の力の無さをもどかしく思う。見送られてからこんなにも早く彼女達に助けを求めることになるなんて。


 辰巳さんを止めた後、僕達は佐久間さんの車に乗り込み、彼らの知り合いの家へと向かった。


 そこでは老人が出迎えてくれ、先輩を別の部屋へと連れて行った。桜沢さん達は老人のことを〝先生〟と呼んでいたが、詳しいことは教えてくれなかった。


 辰巳さんと僕だけが待合室のような場所に通され、声をかけるまで待つよう伝えられる。その部屋は民家というには随分無機質だ。簡素な椅子が数脚置かれているだけで他には何もない。ここにいるだけでまるで自分達だけが世界から切り離されたような感覚がした。


「私、白瀧に謝らないといけない」


 車に乗ってからずっと無言だった辰巳さんが口を開く。その声はすっかり弱り切っていた。


「君と一緒に水族館に行ったのは、全部この日の為だったの。内島アキラは必ず白瀧に連絡を取る。そう思ったから……」


 彼女を責める気にはなれなかった。


 桜沢さんの言葉が脳裏によぎる。「僕達は立場が違い過ぎる。相手を理解したと思っても、それは勘違いだ」という言葉が。まさにその通りだったわけだ。


 今回の件は完全に僕の責任だ。あの日、辰巳さんと少しだけ分かり合えたと思った。だけど、それは彼女の苦しみを理解していなかった僕の……独りよがりな思い込みだった。


 僕が迂闊な行動をとっていなければ、先輩は傷付くことは無かったし、辰巳さんもこんなことをしてしまうことは無かった。


「君を尾行もしたし、ほとんどストーカーみたいなことをしてた。今日会った時、君の様子をみて確信したんだ。アイツが現れるのは今日だって」


 彼女の告白は僕の甘さを責めているように感じた。もちろん僕の妄想だ。彼女はそんなことは思ってもいないだろう。でも、もしこのまま先輩が死んでしまうようなことがあれば、僕は……僕は冷静でいられるだろうか? 


「本当は、あそこまでやるつもりはなかった……あいつが反撃できないようになったら真実を聞きだすつもりだった。でも、あの時の私は完全にどうかしてた」


 辰巳さんが自分の手を見つめる。その右手は血がこびり付いており、赤黒くなっていた。手の甲は皮が捲れ、所々赤く腫れ上がっていて痛々しい。


「私のこと恨んでる……よね」


 彼女は叱られた後の子供のように、上目遣いで僕を見つめた。今、彼女を一番責め立てているのは彼女自身だ。自分がやってしまったことへの後悔が彼女を押しつぶそうとしている。憔悴した彼女を見ているとそう思う。


「許せない気持ちはあるよ。でも、分かるんだ。僕のこの気持ちが、そのまま辰巳さんが犯人へ抱いていた感情だってことが。だから、僕は許せないけど、辰巳さんのことを恨んだりしないよ」


 彼女が悪い訳じゃない。今なら分かる。僕だって逆の立場なら同じことをしたと思う。


 後悔の念が頭の中をぐるぐると周った。


 あの時辰巳さん達に合わなければ……。


 もっと早く事件に気付いていれば……。


 先輩が中退した時にもっと踏み込んでいれば……。


 色々なもしもの可能性が浮かび、現実と妄想が入り混じった妙な感覚に襲われる。






 そこから長い沈黙が続き、時間の感覚も無くなった頃、ようやく扉が開き、桜沢さんが顔を覗かせた。


「二人ともお待たせしました。アキラさんの容態も安定しましたし、話をしても良いですよ」


 安堵の息が漏れる。最悪の事態は避けられたようだ。


 辰巳さんは目を閉じて右手を庇うようにしていた。先程彼女は先輩を殺すつもりはなかったと言っていた。だとすれば、彼女は今何を思っているのだろう。


 もう一度辰巳さんに向き合う。いつまでもここで思いに耽っていてはいけない。僕にはまだやらなければならないことがある。


「辰巳さんは勘違いしたままだ。僕が証明するよ。本当のことを」

「本当のこと?」

「辰巳さんが現れる前、僕の推理を先輩に話した。その時の反応から考えていることがあるんだ」


 僕の答えが辰巳さんをさらに傷付けるかもしれない。でも、きっと彼女に一番必要なものは真実だと思う。



 その為に、先輩と話さなければいけない。






 僕達は桜沢さんについて行き、奥の部屋へと向かう。部屋の中にはリクライニング機能がついたベッドが置かれ、アキラ先輩がベッドに座っていた。元気そうな彼の姿を見て、目頭が熱くなる。


 辰巳さんの様子を窺うと、その顔は複雑な心境を表していた。


「いやぁ桜沢花がいなかったら多分死んでたわ。俺」

 先輩がバツが悪そうに頭を掻く。


「ケガの具合はどうですか?」


 平然を装っているが、相当な痛みだったはずだ。先輩は幾分かやつれたように見えた。


「問題無い。二人とも、俺の事が心配なだけで来たわけじゃないだろ? 白瀧、俺が刺される直前まで自分の推理を話していたよな。あれの続きを教えてくれ」


 先輩からその話を切り出すとは思わなかった。その真剣な眼差しを受けて、自分の中で、緊張感が高まっていくのを感じる。


「わかりました。辰巳さんも、落ち着いて聞いて欲しい」



 自分の心をもう一度奮い立たせる。深呼吸して微かに震える手を握り締めた。



「今回の件で辰巳さんもおかしいと思いませんでしたか? 先輩は明らかに自分が犯人だと印象付けるよう行動してきました。僕を誘導して、遺体の正体を突き止めさせたのもそうです」

「あれは、コイツの自己顕示欲でやったことでしょ?」


「違います。これらの行動は全て、〝新川悠〟を容疑者にしない為の行動です」


「悠くんを容疑者にしない為?」

 辰巳さんは混乱しているようだ。死んでいるはずの悠さんが容疑者だなんておかしな話だろう。しかし、そうなり得るケースを僕らは知っている。


「直樹さんが殺された直後の状況を考えてみて下さい。辰巳さんに通報させずに事件が発覚した場合、事件はどう捉えられていましたか?」


「息子である新川悠が実の父親を殺害した」


 壁にもたれかかっていた桜沢さんが呟く。


「そうです。まず間違いなく、新川悠容疑者として報道される。そして、アキラ先輩が自ら正体を明かそうにも、逮捕されてからの話となってしまう。その場合、事実が流れるまでの間、世間は悠さんを犯人と捉えるでしょう。だから、事前に自分の正体を明かす為には誰かに突き止めてもらう必要があった。それに選ばれたのが僕と辰巳さんです。直樹さんが死に、容疑者であるのはその息子。そうなれば残された真由美さんに対する世間の目はどうなりますか?」


「身内が犯罪者となった後、残された家族がどんな目に合うかはアキラさんは十分理解していたはず」

 桜沢さんが補足してくれる。先輩は実の父親が逮捕された影響で引越しすることになった。当時、どれほど酷い状況だったか想像もつかないが、今回の根幹に関わっている出来事だ。


「意味が分からない。白瀧が言っていることが正しいのだとしたら、悠くんのこともおじさんのことも矛盾してる。二人が死んだことは事実なのに」


「アキラ先輩が誰も殺していないとしたら?」


「……どういうこと?」


 辰巳さんが怒りを抑えるように声を震わせた。しかし、まだ話を聞く意志を示しているということは彼女が迷いを持っているからだ。


 彼女が先輩を襲った時、彼は全くの無抵抗だった。自分が今まさに命を奪われようとしていたというのに。その行動が彼女の中に揺らぎを生んだのだと思う。内島アキラが犯人だという確信に対して。


「先輩の目的は新川悠を容疑者にしないこと。これは残された新川家の家族を守る為です。そして、その家族は一人しかいません。真由美さんです。それともう一つ……。先輩の行動には〝新川真由美さんの犯行を隠蔽する〟という意味も含まれていました」



「おばさんの犯行!? あの人がそんなことをするわけ無いじゃない!」


 辰巳さんの中で抑えられていた怒りが溢れ出す。当然だろう。僕が先輩を信じているように、彼女の思考の中心には新川家の人々が純粋な被害者だという意識があるからだ。


 先輩へと視線を向ける。彼は肯定も否定もせず、ただ次の言葉を待っていた。


「辰巳さん。あなたは真由美さんから犯行当日の話を聞いていますよね? 先輩が〝殺したのは俺だ、何も言うな〟と言っていたと。これは何か変じゃないですか? アキラ先輩が自己顕示欲の為に犯行後の行動を取ったのだとしたら、真由美さんに〝何も言うな〟なんて言葉をかける必要が無い。それにあなたは真由美さんがどういう状態だったのかを目撃しているはずだ」


「おばさんは内島アキラに関する記憶を……」

 辰巳さんは言い辛そうに呟いた。


「そうです。その上で考えれば〝殺したのは俺だ〟の意味が分かります。これは真由美さんに言い聞かせていたんじゃないですか? 先輩が駆けつけた時、既に直樹さんは亡くなっていた。そして犯行を行ったと考えられる真由美さんは、先輩のことを、一切覚えていなかった。親子として一緒に暮らしていたにも関わらず……です。これを見た先輩はその状況を利用し、自分が犯人だと言う構図を作った。しかし、このままでは自分が入れ替わっている新川悠が犯人ということになってしまう。それでは意味が無い。先輩は、僕と辰巳さんを利用することで今回の芝居を立てたんです。異常殺人者、内島アキラというシナリオを」


 辰巳さんは何も答えない。


 自分でも突拍子の無いことを言っているのは分かっている。しかし、この考えに乗れば、先輩の不可解な行動の全てに説明が着く。


「あなたの考えは分かりました。ただ、まだ疑問は残っていますよね? なぜ直樹さんが殺されなければならなかったのか」


 桜沢さんの鋭い視線が刺さる。この瞳の前では少しの綻びも許されない気がした。


「桜沢さんは前に言っていましたよね? 男性の遺体を山中に埋めるのはかなりの重労働だって。一人ではとても無理だ。……直樹さんは先輩の共犯者だったのだと考えられます」


「おじさんが悠くん殺しの共犯者?」

 辰巳さんが目を見開く。


「少し違います。〝死体遺棄と、新川悠への入れ替わり〟の共犯者です」


「仮にそうだったとして、おじさんが内島アキラに協力したのはなぜ?」


「……すみません。ここからは辰巳さんにとってさらに辛い話をしてしまいます」


 辰巳さんは静かに僕を見つめていた。これを伝えれば彼女を傷つけてしまう。今までの僕は、相手を傷つけると分かった上で行動することは無かった。


 相手を傷つけることもそれによって自分が傷つくことも怖かったからだ。でも、言わなければならない。これを伝えなければ僕たちは誰も前には進めない。



「悠さんの死は……自殺だったんです」



 全員が沈黙する。


 静かな空間に〝自殺〟という言葉だけが響いた。辰巳さんは言葉を受け止められていない様子で茫然としていた。


 彼女が我に返り、反論しようとしたがそれを手で静止する。


「最初から順を追って話します。まず、新川悠さんが自殺してしまった。真由美さんは相当なショックを受け、精神を病んでしまう。その時に悠さんに関する記憶の一部が欠落したのでしょう。先輩と直樹さんは協力して死体を遺棄し、先輩が悠さんへと入れ替わった。そして、真由美さんに新川悠は生きていると信じ込ませることで精神を落ち着かせた。しかし、事件が起きた日、真由美さんは何らかの原因で今の新川悠が本人ではない、本当の息子ではないことに気付いてしまった」


 ここで一度呼吸を挟む。静寂で耳が痛い。落ち着けと言い聞かせながら先を続けた。


「そして、直樹さんに真実を詰め寄るうちに殺害してしまう。この時、彼女は相当錯乱していたのだと思います。そこに駆けつけた先輩は、彼女の記憶が混乱しているのを受けて真由美さんを拘束し、直樹さんの遺体を滅多刺しにしてみせた。そうして真由美さんの記憶を上書きしたんです。その後、先輩は過去に遺棄した遺体の元へ車で移動し、内島アキラの遺体と工作していたものを新川悠の遺体へと回帰させた。そして僕と辰巳さんを誘導することで遺体の素性を証明させ、自分を犯人だと演出した」



「そ、そんな妄想信じない。アンタが先輩を庇いたいばかりに言ってるだけの、そんな」

 辰巳さんは明らかに動揺している。そんな彼女に追い打ちをかけなければならないことが辛い。


「辰巳さん……あなたの信じる話も現実離れしているんですよ。内島アキラが犯人だとすれば、自ら作り上げた理想の環境を、自分の手で壊し、僕達を弄び、これから一生隠れて生きなければならない。そんな破滅願望を持った狂人でなければいけない。それを証明できますか? 少なくとも僕は、過去の内島アキラを知っています。アキラ先輩は……決してそんな現実離れした人間じゃなかった。それは今も同じはずです」


「そんなの、アンタが……」


「辰巳さん。あなたは事件が起こる以前から悠さんが生きていると信じていた。それはなぜですか?」

「それは内島アキラが悠くんを語って私とやり取りしていたから……」


 辰巳さんの声が徐々に自信を失っていく。


 彼女としても一番触れられたくない話のはずだ。


 大切な人が入れ替わっていたことに気付けなかったのだから。


「なぜ、先輩はそんなことをしたと思いますか? 新川悠として生きていた先輩にはあなたと連絡を取る必要なんて無かった。むしろ、悠さんの入れ替わりを受け入れた新川家にとって危険な行いだ。理由を付けてあなたとの繋がりを絶つことだってできたはずなのに」


「それは……」


 辰巳さんが黙り込む。


「僕の考えが正しければ、内島アキラのシナリオの最後は警察に出頭することです。悠さんの入れ替わりと直樹さん殺害の容疑を一身に背負って。そうすれば真由美さんは被害者のままだ」



「……お前の話に証拠はあるのか?」


 今まで黙っていた先輩が口を開く。


「一つだけ。悠さんの死に関してだけあります。先輩、悠さんの携帯を出して貰えますか?」


 携帯という言葉に反応して先輩がズボンのポケットへ手をやった。無意識に庇うような仕草。


 僕の考えは確信に変わる。


「初めから疑問を持つべきだったんです。なぜ、先輩が悠さんの携帯を持ち続けていたのか。辰巳さんへの通報指示さえ完了すれば後は不要な物のはず。自分の居場所が判明する可能性を孕んだ危険な物を」


 先輩はゆっくりと携帯を取り出す。


 赤いラインの入った、古い折りたたみ携帯だった。


「その中には悠さんの死に関する記録が残っているんじゃないですか? 例えば日記のような……こう考えるのにはもう一つ理由があります。先輩は長い間、辰巳さんを欺いてきた。あなたが演じた悠さんと彼女の間に記憶の齟齬があれば、辰巳さんが不審に思うはずです。でも、そんな事態は起きなかった。これは悠さんの過去が何処かに記されていないと成立しない」


「……仮にお前の言う日記なんてものがこの携帯に残っていたとして、既に俺が消去しているかもしれないぜ」


 先輩が笑う。屋上で見せた顔だった。


 でも、今なら見える。


 いやらしい笑みの中に、"疲れ果てた内島アキラ"の姿が混ざっているのが。


「あなたにはそんなことできない」


 先輩の目を見つめる。証拠という面では僕は悠さんの携帯にすがるしか無い。だけど、先輩は屋上で確かに「悠を殺した」と言った。


 それが嘘だと証明できれば、矛盾が生まれる。内島アキラ犯人説を否定できる。


 部屋は静まり返っていた。


 全身がヒリヒリと痛む。それでも先輩の瞳から一切目を逸らさない。


 自分は絶対にあきらめないという意思を示す。


 彼からどんな言葉が出ようともそこに矛盾があれば追及するだけだ。


「消えたいと思ったことはあるか?」


 その言葉を聞いた途端、先輩の顔が歪む。


「先輩の言葉です。あなたが消えたとしても、僕は忘れません」




 先輩がゆっくりと天井を仰ぐ。



 張り詰めた空気が急速に緩んでいく。




 その表情はどこか憑き物が落ちたような、そんな顔だった。


「これからどうしていいかも分からなかった時、あの家族のことを思い出した。優しかった、俺が好きだった家族。でも、再会した時、様子が違ったんだ……悠達の為に、何かできないかと思った」


 先輩は遠くを見つめながら語り始めた。


「悠は、あいつなりに必死にもがいていた。俺は少しでもあいつの人生を助けてやりたかった。だけどダメだった。挙句俺は悠を追い詰めてしまったんだ」


 悠さん。先輩は彼を助けたかった。でもそれは叶わなかった。


「悠が死んで、かあさ……真由美さんもおかしくなってしまった」


 真由美さんと言い直した口調は寂しげだ。


「それで、悠さんに成り代わろうとしたんですか?」


「直樹さんを説得して二人で悠の遺体を埋めて、それからは悠として生きることを決めた。あの時はそうするしか無かった。それぐらい当時の真由美さんは危ない状況だと思った。俺が悠として過ごすうちにあの人は少しずつ良くなっていったんだ……。直樹さんも本当の父親のように接してくれた。俺が二人を助けようとしたはずなのに結局救われていたのは俺の方だと思う」


「しかし、そんな生活は長くは続かなかった」


 僕の言葉に先輩は頷いた。真由美さんが介抱に向かっていたとしてもそれは本来あるべき姿ではない。必ずどこかで綻びが生まれてしまうだろう。


「あの日は……真由美さんの誕生日だった。俺はどうしてもバイトのシフトが外せなくて帰りが遅くなったんだ。ドアを開けると、血塗れの父さんと、包丁を握り締めたまま固まっている母さんが居た」


 先輩は事件当時の情景を思い出して感情が昂ったのか、呼吸が荒くなっていく。


「母さんは、俺のことを、完全に忘れてた。新川悠としての俺も、内島アキラとしての俺もだ。それで、俺は思った。このままだとこの人まで……」



 そこまで言って口をつぐむ。やがて嗚咽も混ざり始め、そのくしゃくしゃになった顔を手で何度も拭った。


「父さんを刺した。何度も何度も。元の刺し傷が分からないように。母さんがやったという証拠を消して母さんを縛った……。俺は、俺は、結局、何もできなかった。友達も、家族も、誰も、誰も救うことができなかった。どうして? いつも俺は……」


 どれほどの苦しみだったのだろうか?


 どれほどの覚悟だったのだろうか?


 後悔に後悔を重ねて、それでも誰かを助けたかった。たとえ、家族と慕った人の亡骸を傷つけてでも。


 その想いは僕には想像も付かない。


「俺にとっての家族はあの人達だけだ。俺にこんなことを言える義理がないのはわかってる。だけど俺はこのまま捕まらなければいけない。あれは絶対に事故だ! 母さんは、何より家族を愛してた。殺人なんてできるはずがない。それに、母さんは……きっとこの事実を受け入れられない。せめて、せめて母さんだけでも救いたい」



先輩が頭を下げる。



「だからお願いだ。見逃して欲しい」



 その姿を見た辰巳さんは、青白い顔をしていた。


「わ、私……」


 彼女が酷く動揺した様子で僕達を見る。


 彼女がドアへと後ずさりしていく。まるで追い詰められているように。



 彼女を止めようと手を伸ばす。しかし、その手は彼女に届くことなく空を切った。

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