彷徨う場所がない亡霊
おかしくないか二十八度って。まだ六月だぞ。日中この温度なのに夜になると毛布がいるし、どうなってんだ寒暖差。お前も風邪引くなよ。若いからって油断してると意外と取り返しのつかないことになるんだから。怪我も病気もできるだけしないにこしたことはないからな、病院代も馬鹿にならないもんだぞ。注射とか痛いだろ。
しかしこの気温だと冷えてないお茶は嫌すぎるな。体のためには適度に温かい方がいいんだろうけど、気分的にはそういうわけにもいかないだろ。べとべと暑い中にばきっと冷えて氷が浮いた麦茶を飲むのが夏の楽しみってところはあるわけだしさ。こう湿気てると人だって滅入る。紙だってあんまり湿気吸うとしおしおになるだろ、何でも度が過ぎるといけないんだよな、やっぱり。何事も適当にやってた方が気楽に生きられると思うぞ。もちろん最低限の成果は出して、きちんと金がある前提で……当たり前だろ、俺は現代人だぞ。お前とお揃い、資本主義と貨幣経済の奴隷ですよ。そんな境遇でも生きちゃってるから、仕方なくやりたくもない労働をせざるを得ないわけでな。なんだその目は、働いてるよ俺だって。ただできるだけやりたくないから、労働時間は最低限に頑張ってるわけだ。ちゃんと自分のやりたいこととできることを折衝して、妥協点を見つけられれば存外なんとかなるもんだぞ。おかげでお前とこうやってだらだら茶飲み話をする余裕さえある。でっかく稼いでちまちま使えば、こんな湿っぽい日でも自宅でのんべんだらりと過ごせるわけだ。クーラーは……まだいいだろ。あれやっぱり電気代食うからな。その辺りは妥協点だ。熱中症にならない程度にな。
せんべいもうちょっと食うか? ピーナツのやつ好きならいいぞ、どんどん食べてくれ。俺は黒いやつが好きなんだけどさ、そうやって食べてると最後の方は好きじゃないやつばっかり残るんだよね。当たり前だけど。胡麻のやつなんかもう困り切って粛々と食べてるから。持って帰ってくれていいぞマジで。小学校の頃から味がしないって苦手だったからな、そういうのって大人になっても変わらないもんだよ。
小学校の思い出? そりゃああるよ。義務教育はちゃんと受けたからな。
つうかお前の先輩だぞ俺は。この辺りの連中は皆同じ学校行くからな、大まかに言えば地元の人間は大体お前の先輩だし後輩になり得るわけだ。後輩あんまりいそうにないけどな……少子化つうか過疎化というか、人間がぼろぼろ減ってるからなあ。先生やってるやつから、ここんところはどんどん人数減ってるって聞いたぞ。もう今三クラスぐらいしかないんだろ? 俺んときは三十五人で一学年六クラスだったからなあ。それはそれで多すぎたのかもしれないけど、うん。どうせ歳食えば大半いなくなるしな。俺はいい思い出も悪い思い出もあんまりないな。
うん。
変な思い出はある。聞く? じゃあ胡麻せんべいも食べなさい。俺これいつも残って困るから。
俺が小学校の頃だから、もう何年前の話だろうな。高学年だったのは確かなんだよ、図書館で三冊借りてた記憶があるから。長期休みの前に貸出冊数増えたりしたろ? あれで夏休みの読書感想文書こうって考えてたんだと思う。宿題とか課題はちゃんとやってたからな俺。怒られるの面倒くせえから。できることは文句を言われない程度に仕上げておくと楽だもんな。
で、何事もなく図書館で本借りたわけ。カウンターで手続して、図書館の先生に声掛けられたから挨拶して外出て。よし帰ろうって、そのまま薄暗い廊下をとろとろ歩いて職員室の前通って、下り階段の前まで来た。
お前も分かるよな? そう別棟への連絡通路の側なんだよ。あの緑色の廊下。あそこ連絡通路は日射しがばんばか入るから明るいのに、下り階段の周りだけいつも暗いよな。そこの階段前のスペースに、ロッカーが二つ並んでる。お前のときも──やっぱりあったか。掃除用具入れなんだよなあれ、片方が階段側一帯用で、もう片方が連絡通路の分。長ほうきと短ほうきとちりとりが入ってて、バケツが二つくらい詰めてある……意外と覚えてるもんだな。ま、掃除用品なんてそうそう代わるもんでもない。あの校舎もリニューアルとか建て替えとかするわけがないんだからそのままだよな。
あーロッカーあるな、戸ぉきちっとしまってるな、ぐらいのことは考えたけども結局置物だからな。そのロッカーを見もしないで、階段を降りようとしたんだよ。
階段を一歩踏もうとした途端、がぁんとデカい音がした。
ぎょっとして立ち止まったよ。咄嗟に周りを見回したけど誰もいない。誰かがふざけて教室の戸にでもぶち当たったのかと思ったけど、そんな気配もない。じゃあ一体──と正体を考えようとしたのが間違いだった。
がんがんがん、と三回続いた。その音は俺の真後ろから聞こえた。そこでようやく思い至った──思い切りロッカーの内側から扉を殴りつけたような音だ。
気づいた瞬間、動けなくなった。周囲は静まり返って、遠くから蝉の声が聞こえる。放課後だったからか、吹奏楽部の楽器の音が聞こえてた。俺は背後にあるはずのロッカーを振り返ることもできず、ただ階段下の明るい廊下を眺めて突っ立ってた。
二回、ゆっくりとノックの音がした。聞いている人間がいることを確かめるように、丁寧にな。
で、これでおしまい──ふざけてないんだよ。しょうがないだろ走って逃げたんだから。あっやべえなって思うだろこんな目にあったら。ランドセル背負って図書袋抱えたまま走って階段降りて、上履きのまま家帰った。すげえ馬鹿にされた。
振り返れなかったけどな、あれはしょうがないと思うんだよ。何かいたら絶対アウトなやつだし、いなかったらもっとどうしようもない。俺が今でもこうしてせんべい齧れてんだから、逃げて正解だったとは思うよ。
小学校いわくつきなんですかって知らないよそんなこと。
いわくね、あるのかもしれないけど……いたところでほら、学校の怪談枠じゃんこんなの。よくあるったらよくあるやつだよ。ベタじゃん。いわくにしたって、あそこの小学校死人とか出てないはずなんだけどね。病死はあるけど、学校の敷地内でどうこうってのは聞いたことない。中学校の方はなんかあったよな、集団で事故ったやつ。山だっけ海だっけ──海か。そうだな山は高校だった。隣の県の連中だっけ? ここだとさ、ほら。全国的に有名な遭難事件があるから。映画にもなってんだよな、俺見てないけど。俺の叔父さんが若い頃に免許合宿で暇と暑さを持て余して観に行ったって言ってたな。見てて涼しかったって、そりゃ当たり前だよな雪の話だもの。
歴史だけはある学校だからな、俺らが知らないだけで、学校外で死んだ生徒はいるかもしれないな。長期休みに川はまって死んだとかさ、爺さんの頃にはあるとおもうんだよな。けどさ、それで死んだとして学校に化けて出たいと思うか? せめて登校中ならまだしもさ、関係ない場所でくたばったらもうそこでいいだろ。仮にお前、小学生時代に死んだとして、死んだ後も小学校行きたいかね。俺は絶対に嫌だよ。煙草も酒も供えてもらえそうにないもんな。
死んでまでいたい場所なんてあるもんかね。いや、よく聞くじゃんこわい話だと。幽霊が出て、わあ怖えって驚いて、後日調べるとその目撃場所がその幽霊の元であろう人間の死亡現場だったり縁の深い場所だったりするだろ? あれ俺ずっと納得いってないんだよな。
市内にさ、銀行あるじゃん。県内最大手のやつ。あれの支店でさ、市役所横に建ってるところあるだろ。あそこも子供が泣いてるって噂がある──迷子っていうかね、俺も婆ちゃんから聞いた話だからウロいんだよ。銀行建つ前に家があって、そこで不幸があって、子供が亡くなったとか言ってた。それで、その死んだ子供が銀行を泣きながらうろついてるって話なんだってさ。
すごい顔するなよ。関係ない話じゃないからさ。ほらお茶注いでやるから機嫌直せ。
これも俺よく分かんねえんだよな。不幸な死を遂げた場所にさ、長居したいと思わなくない? 俺は嫌だと思うのよ。死んでないけど嫌なことあったから、駅前のカラオケボックスとか使わないようにしてるし──いや、そこは個人的なトラウマ。こないだ暇があった昼間にフリータイム使ってヒトカラしてたら、扉のガラスんとこに知らん人がべったり張り付いてたからマイク落としそうになった。目ぇ合った途端にどっか行ったけど、あれ押し入られてたらすげえ怖いなって考えたら二度と行けなくなった。
つまりそういうことだよ。怖い目とか嫌な目に遭ったらさ、そこ避けようとするんじゃないのか? ってのが俺の疑問。死ぬのってさ、多分嫌だと思うんだよ。痛いだろうしさ。そんな痛い目に遭った場所に延々といたいかって俺は思うわけ。
もしさあ、お前がここで俺のこと急に刺したとするじゃん。例えだけどね、刃物とか持ってて。で、俺一人暮らしだしお前がちゃんとキメて逃げれば発見とかめちゃくちゃ遅れるわけでさ。多分そうなったら俺は死ぬんだよね。
殺されたわけだから化けて出るとするだろ──どう考えても俺は嫌なんだよな、殺人現場に出るのって。自分が死んでる場所とかさ、蘇りそうじゃんその瞬間の諸々が。幽霊の分際でも。わざわざ自分の傷口弄くり回すような真似をしたくないだろ。死んだあとこそ好き勝手にやってみたいっていうかさ。とりあえず電線とか乗りたくない……カラスみたいとか言うなよ。納得しちゃうだろ。
そもそも俺化けて出られない気がするんだよな。向き不向きっていうか、性根の問題だと思うけど。あんまり魅力を感じない。
どうしてもったらそうだな……頑張って駅前の飲み屋あたりを狙うかな。うまくやれば酒とか供えてもらえそうだし、人も出入りするから飽きないだろうしな。案外そんな理由で出てるおばけもいるんじゃないかね。恨みとか無念とかなくてもなんとなく幽霊になっちゃったやつもそこそこいそうじゃん。六割くらいはなんとなくで生きてるだろうしさ、人間。
そうだ、お前に憑くのも面白そうだな。少なくとも寂しくないだろうし。どうよ、検討する気とかない? 黒せんべいあげるからさ。どうよ。
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