第2話「カンペ?」


「──ッ!!」


 テストは始まった。頭の中で飛び交う番号と日本語訳の塊を、牟児津は極めて小さい声で反芻しながら、順番に解答用紙を埋めていく。その目には数字しか映っていない。番号と解答欄の間にある謎のアルファベットの羅列など、牟児津にとっては何の意味も成さない。

 つい数秒前に覚えたものは、次の数秒が経つ頃には忘れ去られていた。牟児津の脳内における英単語の命はカゲロウより儚い。その僅かな間に、牟児津は日本語訳を文字として目の前に残す。


「あっ」


 焦りすぎて、牟児津は消しゴムを落としてしまった。すかさず手を挙げて大眉に拾ってもらうようアピールする。大眉は、緩慢な動きで机の間を縫って牟児津の席の近くまで寄ってくる。なんとなくふらふらしていて、足取りは覚束ない。


「っとっと──あいてっ!」

「うあっ!」


 ただでさえアンバランスな足取りの上、机の間は狭く、引っかけたカバンを避けながら進むのは繊細なバランス感覚が必要だ。そしてこの日の大眉は寝不足だった。大間の丸いカバンに足を引っかけ、大きくバランスを崩した拍子に、牟児津と宝谷の机に体の各所をぶつけて倒れ込んでしまった。


「ちょ、ちょっとつばセン!何してんの!」

「ってえ……す、すまん二人とも大丈夫か?」

「先生こそ大丈夫?」

「あ、ああ……えっと、消しゴムだっけ?」

「もうペンもテスト用紙も全部落ちたよ」


 大眉が派手に転げたせいで、床には文具と解答用紙が散らばっていた。慌ててそれらを拾い、牟児津と宝谷の机に返す。

 覚えた端から忘れていく牟児津にとって、このアクシデントは大きなロスだ。残りの解答を忘れる前に、急いで空欄を埋める。事故に巻き込まれた宝谷も激しくシャーペンを叩いて必死になっている。事故に巻き込まれなかった一つ前の席の大間はまるまると余裕の様子だ。

 そして、再びチャイムが鳴った。


「はいやめ。隣と交換して採点しろ〜。答え配るぞ〜」


 いつもは分からなさ過ぎて長く感じていたテスト時間が、今日はほんの数秒のことに感じられた。大眉が転んでロスになった時間分も延長されたようだが、それでも牟児津はギリギリだった。時園と答案を交換して、回って来た模範解答を基に採点する。時園はやはり高得点だ。ちら、と時園の顔色を窺うと、訝しむように目を見開いていた。


「えっ……?ええっ……?」

「こわいよ!採点しながら変な声出さないでよ!」

「いや、牟児津さんこれ……」

「ひぇ〜〜〜!!」


 牟児津は恐ろしくて耳を塞いでいた。興奮した様子の時園に肩を叩かれ、自分の答案を返される。丸がある。それだけでも牟児津にしてみれば上出来だった。丸はテスト用紙の全面に及び、数えてみれば全部で20個あった。


「満点よ!!」

「……へ」

「すっご!やればできるんじゃないの牟児津さん!」

「はへ……マジでえ!?」


 戻って来た答案を何度も見返す。模範解答と見比べて時園の採点ミスではないことをよく確かめた。正真正銘、牟児津がつかみ取った満点答案である。思わず牟児津は立ち上がって答案を掲げた。時園が付けてくれた花丸が、蛍光灯の光に透けて鮮明に映る。


「やったああああああっ!!満点だああああああっ!!」

「よかったね牟児津さん」

「おー」


 雄叫びをあげる牟児津に、大間は丸い祝福を、室は簡素な拍手を、時園は複雑な笑みを贈った。直前まで1単語も覚えられていなかった牟児津が満点を獲得したのは、誰にとっても意外な出来事だった。そして、その隣に座る宝谷もまた、自分の答案を見て震えていた。


「マッシー!」

「んえ」

「やったよ!緋宙も満点!満点だー!!」

「宝谷さんも?やったー!!」

「やればできるじゃんかお前ら。毎回これくらい取ってくれればなあ……」


 過剰なほどに喜ぶ牟児津と宝谷に、クラス中が祝福ムードになる。たかが単語テストではあるが、それぞれに満点を取らなければいけない理由があった。このテストの点数は、2人の今後の学園生活を大きく左右するものだった。だからこそ、2人とも直前まで必死になっていたのだ。


「まあ座れ座れ。回収するぞ」

「あ〜、よかった。これで一安心だ」

「ね。高得点取ると嬉しいでしょ。次からも頑張れるわね、牟児津さん」

「うん。いい覚え方も教わったし」

「だからそれに頼っちゃダメなんだって」


 案の定、急場しのぎの覚え方に味を占めた牟児津は、次からも同じ方法で乗り切るつもり満々だった。牟児津があまりに必死だったので時園はつい教えてしまったが、この日何度目か分からない後悔の味を改めて噛み締めた。

 答案の回収が終わり、朝の授業が始まる。1日の始まりに満点を取ると、自然と授業にも前向きな気分になる。牟児津は机の中から教科書とノートを出し、シャーペンをノックした。芯が出てこない。


「んっ、使い切ったかな」


 軽く振ってみたが中から何の音もしなかった。芯が入っていないようだ。筆箱から補充用の芯を取り出す。ペンのキャップと消しゴムを外す。


「おっ?」

「ん?」


 外した拍子に、何かが零れ落ちた。それは牟児津の腕をすり抜けて椅子の下に落ち、驚いた牟児津はそれを蹴飛ばしてしまう。後ろの席で見ていた室がそれに気付き、転がったそれを拾い上げる。


「落としたよ。なにこれ」

「ああ、ありがと。なんだろ……」

「……え」


 それは、細長い紙だった。かろうじて文字が書き込めるほど小さく切り取ったものを、さらに丸めてシャープペンシルの中に入れてあった。自然に開いたそれに書かれた文字が、室の目に飛び込んでくる。

 数字とアルファベットの羅列、そして日本語。ほどかれていく紙に記された、走り書きの軌跡。それはついさっきまで目にしていた、テストの解答だった。


「これ……カンペ?」

「はっ!?」


 ポツと漏れた室の言葉が波紋のように教室に広がる。その言葉が、意味が、衝撃が、小さな波紋から波濤へと変わる。


「テストの答え書いてある」


 熱に浮かされた後の教室の空気は、その言葉で一気に氷点下に変わる。状況が理解されていくにつれて、牟児津は体が動かなくなっていった。

 ついにやったか──クラス中の心の声が聞こえてくるようだった。

 責めるわけでもない。なじるわけでもない。ただただ冷たく、憐れむような視線。四方八方から突き刺さる針の中心で、牟児津はただ震えていた。

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