その10:英単語テストカンニング事件

第1話「ついにやったか」


 ついにやったか──クラス中の心の声が聞こえてくるようだった。

 責めるわけでもない。なじるわけでもない。ただただ冷たく、憐れむような視線。四方八方から突き刺さる針の中心で、牟児津むじつはただ震えていた。



 〜〜〜〜〜〜



 空調に整えられた快適な空気が室内に満ちる。心地よい疲労感が体中に染み渡る。勢いよくファンを回すノートパソコンが熱を帯びる。職員室を構成するあらゆる要素が、大眉おおまゆ つばさを気絶のような睡眠へと誘っていた。


「──ぐがっ……んっ、おおっ、寝てた……」


 眠りが浅いうちは、自分のいびきで意識が表層へ呼び戻される。大眉はマグカップに残ったブラックコーヒーをあおり、眠気に強く抵抗した。


「げほっ!えっほ!」


 寝惚けながら流し込んだコーヒーが少し気道に入った。抑えきれない生体反応が、図らずも大眉に眠気を忘れさせる。

 窓の外に目を向ける。もう明るい。この日、大眉は積もりに積もった仕事を片付けるため、夜通しパソコンを睨んでいた。特別難しい仕事でもなければ数が多いわけでもないのだが、大眉は要領が悪かった。デスクの上に大量のファイルや文書が重なって、今にも崩れそうだ。


「……あ。今日のテスト印刷しねえと」


 今日は、大眉が担任を務めるクラスで簡易な英単語テストが実施される日だった。専用のソフトを使えば、20問程度の単語テストは簡単に作成可能だ。手慣れた操作で、大眉はクラスの人数分の答案用紙と模範解答を印刷する。

 大眉は席を立った。


「っとと……」


 立ち上がると目の前がぶわっと暗くなる。頭を振ると脳が揺さぶられて鈍痛が起きる。ふらふらと覚束ない足取りでデスクの隙間を抜け、プリンターが吐き出した紙束を手に取った。


「あ」


 空けておくべき解答欄に答えが印刷されていた。模範解答を2回印刷してしまったようだ。慣れていると思って油断していたせいで確認を怠った。


「はぁ──あいてっ!あっ!」


 席に戻る途中、足をデスクの角にぶつけてしまった。骨まで響く激痛。手に持っていた物を思わず投げだした。数十枚の紙が床に広がる。


「くっ……うっ……!」


 模範解答を2回印刷した失敗よりも、誰もいない職員室で残業に勤しむ孤独よりも、実際に足に走る痛みが大眉にとっては辛かった。もうじき教職員の始業時刻である。少しでも体を休めようと、大眉は印刷し直したテスト用紙を茶封筒に入れ、それを枕にデスクで眠った。



 〜〜〜〜〜〜



 時園ときぞの あおいはうんざりしていた。ため息で単語帳のページがめくれそうになるのを、牟児津むじつ 真白ましろの手が押さえた。なぜ牟児津の物覚えがこんなにも悪いのか、普段の活躍を思うと不思議で仕方なかった。

 今日、牟児津のクラスでは朝のHRで英単語テストが行われる。20個の英単語を和訳する簡単なものだ。牟児津はこのテストの成績が非常に悪かった。コツコツ勉強するということをしないため、いつも直前に詰め込もうとして間に合わず、ハチャメチャな答案を作って0点を食らうということを繰り返している。

 そんな牟児津が、今日に限っては必死の形相で、教えてほしいと時園に泣きついてきた。訳を聞くと、今日のテストで満点を取らないと小遣いをカットされてしまうのだとか。0点回避でなく満点を条件としているところから、牟児津の両親の怒りが伝わってくる。それでも全く懲りず直前まで勉強しない上、当日の朝までテスト範囲を勘違いしていたという信じられない牟児津の為体ていたらくに、時園は心の底から呆れ果てた。


「覚えたわね?じゃあこれは?」

「……分かりません」

「じゃあ、1個前のこれはどう?」

「うっ……分かりません」

「……これは?」

「……わ、分かりません」

「視力検査じゃないんだから、分かりませんじゃなくて何か答えなさいよ」

「覚えたのをどれか言えば当たるかも知れないですから、何か答えた方がいいですよ!」


 クエスチョンマークがエノキのように牟児津の頭に生える。横で一緒に勉強していた葛飾かつしか こまりが懸命に応援するも、牟児津は糸が切れた人形のように机に突っ伏してしまった。


「無理だよ〜!20個もいっぺんに単語覚えるなんてできるかフツー!?」

「毎日ちょっとずつ覚えていけばいっぺんに覚えなくていいのよ。ていうか、この単語分からなくて教科書の英文読めるの?」

「買ってすぐうりゅに日本語訳書き込んでもらったから、そっち読んでる」

「わざわざ教科書の意味失くすことを瓜生田うりゅうだちゃんにさせないの!……あの子、2年生の教科書読めたの?入学してすぐの頃に?」

瓜生田うりゅうださんなら読めるでしょうね〜」

「そりゃ読めるよ!うりゅだもん!」


 葛飾は苦笑いし、牟児津はなぜか胸を張る。胸を張るべきは、高校の授業が始まるより前に2年生の教科書を問題なく読めた瓜生田うりゅうだ 李下りかの方だろう。

 瓜生田は、牟児津の幼馴染みである優秀な1年生だ。おおよそこのクラスの全員がそう認識している。以前から牟児津は瓜生田のことをよく話していたし、何人かは直接言葉も交わしていた。礼儀正しく、物腰柔らかで、子供っぽい牟児津を支えている頼れる後輩だ。

 しかしそんな優秀な後輩も、単語テストは助けてくれない。その時間、瓜生田は自分のクラスにいなければならないのだ。


「情けないこと言ってないで、せめて1点でも取れるようになりなさい」

「1点じゃ意味ないんだって!満点だよ満点!時園さぁん、こまりちゃぁん……なんか裏技とかないのぉ〜?」

「ゲームじゃないんですから」

「裏技なんかあるわけないでしょ。こういうのは毎日コツコツ努力して積み重ねるのが大事なのよ」

「毎日コツコツ努力しないでも積み重ねられる方法を教えてよ〜」

「ダメな小学生みたいなこと言いますね」

「もう……仕方ないわね。急場しのぎは好きじゃないんだけど、奥の手を教えてあげるわ」

「おおっ!いいじゃんいいじゃんあるんじゃん!」


 牟児津があまりにも必死で、あまりにも物覚えが悪いので、時園は非常に不本意ながらも、最終手段に打って出た。

 牟児津らが使っている単語帳は、掲載されている英単語に通し番号が振ってあり、テスト範囲はこの番号で指示される。時園が提案したのは、番号の小さい順に日本語訳だけを覚える方法だ。つまり、英単語は一切覚えなくてもいい。


「単語の通し番号は問題に載ってるから、覚えた順番通り埋めて行けば満点取れるわ。日本語だけだったら20個くらいなんとか覚えられるでしょ」

「なーるほど!あったまいー!」

「……確かに覚えやすいですけど、これ何の意味もないんじゃないですか?」

「ないわよ。テストの意味がなくなるし何一つ学びにならないからこの方法イヤなんだけど……牟児津さんだしね」

「なにそれ、どういうこと?」

「いいのよ気にしないで。覚えた?じゃあチェックするから単語帳閉じて」


 ほんの1分ほど覚える時間をとって、時園は先ほどと同じ指差し確認でチェックを始めた。さっきは1つも答えられなかった牟児津だったが、今度はおおよそ半分に答えることができた。


「すげー!一気に10個覚えられた!あと半分よゆーだわ!」

「これはひどい」

「でしょ?」


 興奮する牟児津に対して、時園と葛飾は白い目を向けた。

 思わず時園の口からため息が漏れる。こういう浅はかな手段を使い続けた結果、時園は2年生のクラス替えテストで散々な点数をとり、結果として学年成績最下位のDクラスに押し込められてしまったのだ。付け焼き刃をしても鈍刀は鈍刀に過ぎないことを、時園は身をもって知っていた。


「葛飾さんは?もう大丈夫なの?」

「はい、ばっちりです。私も時園さんと同じコツコツタイプですから。英和も和英もどんとこいです」

「でもこまりちゃん、あんまり定期テストとか成績良いイメージないよ。なんで?」

「いやあ、あの、ケアレスミスが多くて。えへへ。漢字を書き間違えてたり、解答用紙を表裏間違えてたり、名前を書き忘れたり……」

「見直ししないの?」

「見直ししてミスが見つかると焦っちゃって、それが次のミスを引き起こして、それがまた別のミスにつながって……という感じです」

「不器用ねえ」


 葛飾は照れ臭そうに笑った。生来の真面目な性格のおかげで、葛飾はコツコツ努力することをさして苦に感じない。毎日、できることや分かることが少しずつ増えていくのは喜びであるし、それ自体が次へのモチベーションになる。

 しかし葛飾は器用さと冷静さに欠けていた。英単語の意味の理解は完璧なのに、答案という形に落とし込もうとするとなぜか必ずミスをする。本質的には習得できているのに、それを形式的に示すことが苦手だった。おかげで葛飾は本来の実力を発揮できないまま、Dクラスに甘んじている。

 そんなわけで、時園と葛飾は純粋な学力なら上位のクラスにも食い込める、潜在的優等生であった。その2人に指南された牟児津は、すっかり余裕綽々の態度で自席に戻った。


「あ、そうだ。時園さんシャーペン貸して」

「なんでよ。自分のがあるでしょ」

「ぶっ壊れちゃって5回ノックしても1回しか芯が出ないんだよ〜!ほら!」


 牟児津は時園の目の前で、ペンを連続でノックする。1、2、3、4、5……芯が繰り出されたのはそのうちの1回だけだ。ハズレの4回はどれも、足を踏み外したような間抜けな音がした。


「そんなの使ってないで買い直しなさいな。購買に新しいのが売ってるじゃない」

「だって小遣いカットされちゃったし……おやつ買ったら全然残んないし……」

「糖分に脳みそ支配されてるんじゃないのあなた。悪いけど、人に貸せるシャーペンは持ってないわよ」

「くそ〜!じゃあごめんだけどめちゃくちゃノックするからうるさがらないでよね!むろさんも!宝谷ほうたにさんも!大間おおまさんも!ごめんね!」


 牟児津は、前後左右の全員に実演しながら一声ずつかけた。後ろの席のむろ 皐月さつきは無言のサムズアップで応え、正面の大間おおま 眞流々まるるは振り返って丸く微笑み、右隣の宝谷ほうたに 緋宙ひそらは俯いたまま「ほぅ」と小さくつぶやいた。


「え?どったの宝谷さん?全然元気ないじゃん」

「うぅ……マッシ〜……!緋宙ね……演劇部やめちゃうかも……!」

「はっ!?な、なんで!?」


 思いがけない発言に、牟児津だけでなくその奥にいた時園も、大間も室も驚愕の表情を浮かべた。

 演劇部といえば、多種多様な部が林立するこの学園でも有数の大型部活で、宝谷はその中の幹部生、すなわち次期部長候補にも等しいエリートだった。それでなくても、いつも前向きで楽観的な宝谷がそんなネガティブな発言をするというだけで、大事件を予感させる。


「パパがね……今日の単語テストで満点取らないと、いい加減塾に入れるって言うの……。緋宙があんまりにも家で勉強しないから。でもそんなことしたら演劇部行ける時間なくなっちゃうよ〜!」

「な、なんだってー!?大変じゃん!」

「勉強すればいいと思う」

「だって部活で疲れてるのに家でまで勉強なんてやりたくないじゃん!ね!マッシー!」

「そうだそうだ!」

「牟児津さん、帰宅部でしょ?」

「同じ演劇部でも加賀美かがみさんはしっかり勉強してるんでしょ。宝谷さんの自業自得じゃない」

「ぶへぇ〜〜〜ん!」


 時園の冷たい言葉に、宝谷はたまらず不細工な泣き声をあげた。牟児津は宝谷の舞台を見たことがあるが、そのときの宝谷は心の底から楽しそうに踊り、歌い、演技をしていた。それが奪われかねないとあれば、深刻にならざるを得ないというものだ。誰に問題があるかなどという面倒なことは問題ではない。


「自業自得なんて残酷なこと言わないでよ!宝谷さんだって頑張ってるんだよ!ほら、宝谷さんの単語帳見てよ。こんなにキレイ!」

「使ってないからキレイなんでしょ」

「物持ちがいいだけだもん!中等部で買ったシャーペンだってまだ使ってるし!マッシーとおそろ〜!」

「おそろ〜!」

「なんなんのよ」


 現実逃避なのか、短い時間に詰め込み過ぎてハイになっているのか、牟児津と宝谷は時園にウザ絡みをする。そんなことをしていても時間の無駄にしかならない。まるでさっきまでの自分を見ているような気分になった牟児津は、宝谷に救いの手を差し伸べることにした。


「よっしゃ、そんな可哀想な宝谷さんに、私が秘伝の裏技を教えてあげよう」

「えっ!?マジで!?やったー!マッシー超優しい!神じゃん!」

「それさっき私が教えたやつでしょ!それに頼っちゃダメよ!戻れなくなるわ!」

「1回だけ!1回だけだから!」

「そうやってみんな悪循環に飲み込まれていくのよ!」

「単語テストの話ですよね?」


 加熱していく会話が危険な領域に踏み込み始めたところで、教室の扉が開いた。大量のプリントや教本が詰まったカバンを肩に提げ、眠たそうに目をこすりながら、担任の大眉が入って来た。


「ほ〜い、HR始めるぞ〜席着け〜」

「げっ!もう来た!つばセンゆっくりでいいよ!」

「俺がゆっくりしても時間はゆっくりにならねえだろ。いいから出欠取るぞ。席着け」


 重たそうなカバンを教卓に置き、大眉は点呼を始めた。牟児津は後半まで呼ばれないので、それまで単語帳を穴が開くほど見つめる。ひとつでも多くの日本語訳を覚えようと、テスト用紙が配られるギリギリまでそうしていた。


「牟児津さん、どうぞ」

「ひぇ〜〜〜!も、もうちょっとだけ待って大間さん!お願いだから!」

「カンニングになっちゃう前にしまいなさいね。はいどうぞ」

「おぎゃ〜〜〜っ!」


 追い詰められた牟児津が悲鳴をあげる。大間から丸く回って来たテスト用紙が視界に映る前に、単語帳を閉じて机の横に提げたカバンに叩き込んだ。ギリギリ、カンニングにはなっていない。必死な牟児津の様子を見て、大間は丸く笑う。


「大丈夫よ。なんとかなるわ」

「や、やるしかないか……」

「早くテストよこせ」

「ああ、ごめんなさい」


 室に背中をつつかれ、牟児津はテスト用紙を回した。頭の中では、叩き込んでまだ整理がついていない日本語訳が渦巻いている。全員にテスト用紙が行き渡り、少し間を置いてチャイムが鳴った。それを合図に、牟児津はテスト用紙をひっくり返した。

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