第4話「忘れてないでしょう?」


 加賀美の告白の後、全員分の荷物を調べたが鍵は見つからなかった。加賀美のあまりの変貌ぶりで忘れていたが、部屋中を探しても、ボディチェックをしても、荷物検査をしても鍵が見つからないという状況に気付いたとき、牟児津はさすがにぞっとした。


 「ほ、ほんとうに……どこにも見つからないわね」

 「ど、どういうことなんでしょう?鍵をかけた方は……いったい、どういうつもりで……?」

 「ムジツ先輩。そろそろ何か分かりませんか?いい加減部屋の中だけじゃ動きがなくて、記事にもしづらいですよ。変な暴露ばっかりされるし」

 「私はあんたの三文記事のために事件解決してるんじゃないんだよ!」

 「まあまあ。でも、本格的に考えないとまずいんじゃないかな」

 「とは言ってもねえ……う〜ん……」


 こういうとき、牟児津は振り返る。これまでの事件の経緯。発生から、現在までの流れ。全員の発言。見たもの。聞いたもの。全てを。どこに解決へのヒントが隠れているか分からない。


 「……ん」

 「ムジツさん?」

 

  その中で少しだけ気になっていたことがあった。違和感と呼ぶにも足らない、些細な引っかかり。わざわざそれに突っ込むのは性格が悪いかも知れない。粗を探して、重箱の隅を突いて、揚げ足を取るようなことかも知れない。その程度のものだった。だが、何もないよりマシだ。


 「ちょ、ちょっと。ムジツ先輩?どうしたんですか?」

 「あの……」


 だから、牟児津は確かめた。それが本当にただの些事なのか。それとも、犯人がうっかり溢してしまった言葉なのか。


 「どうして“閉じこもってる”って言ったんですか?」

 「……え?」


 そう問いかける牟児津の目は据わっていた。急に近付いてきた牟児津に意味不明な質問をされて、あるいはその質問の意味を理解していたせいだろうか。

 出町浮杏は、言葉に詰まった。

 


〜〜〜〜〜〜




 「ど、どうしたの牟児津さん……?なんて?」

 「すみません。大したことじゃないんですけど、なんか気になって。なんで出町さんは、この楽屋から出られないことを“閉じこもってる”って言ったのかなって」

 「そんなこと、言ったかな?」

 「はい。言ってました。私たちの中に盗撮犯はいないって結論になったとき、盗撮犯まで一緒に閉じこもってたら、って」


 それを聞いていた周囲の全員が呆気にとられた。出町が本当にそんなことを言ったのかなど、誰も覚えていなかった。しかし牟児津の言葉には、なぜだか強い説得力があった。牟児津がそう言うのなら、おそらくそうなのだろう。そう感じさせる力強さがあった。確信めいていると言ってもいい。


 「あ〜、言葉の綾というか、言い間違いかな?閉じ込められてるって言いたかったんだよ、きっと」

 「そうですか……。じゃあ、“入口”は?」

 「は?」

 「他のみんなは、あの扉のことを“出口”と言ってました。でも出町さんだけは“入口”って言ってましたよ。今の私たちにとって、あの扉は出て行くための扉のはずです。なんで出町さんは、入るための扉だと思ったんですか?」

 「い、いやいや……それこそ言葉の綾でしょ!扉はあそこにしかないんだから、出口でも入口でもあるってことでしょ!」

 「同じものではありますけど……なんかこう、捉え方の違いというか、感覚の違いみたいなものを感じるんですよね」

 「はあ?」


 出町はたまらず、目で周りに助けを求める。牟児津の意味不明な質問攻めを不気味に感じていた。しかし瓜生田と益子は止めに入らない。牟児津が少しずつ推理モードになっていると気付いているからだ。手掛かりが少ない中で、ようやく牟児津がこの状態になったのだ。ここで止めてしまうわけにはいかない。


 「“閉じ込められてる”人と、“閉じこもってる”人。“出口を塞がれてる”人と、“入口を塞いでいる”人。なんかこれ、“勝手に鍵をかけられてる”人と、“自分で鍵をかけてる”人の違いじゃないですか?」

 「な、何を言ってるのあなたさっきから……!?意味が分かんないって……!」

 「部屋をみんなで捜索したときもずっと扉の近くにいたみたいですし、私が鍵に触ろうとしたら止めてましたよね。最初に鍵を見つけたときにも、一番に鍵を調べてました。誰よりも錠前に触ってるんです、出町さんは」

 「そっ……そんなのたまたまでしょ!」

 「それなら、そこをどいてくれませんか?」

 「……!」


 簡単なことだ。そこから一歩横に移動すればいい。そして、牟児津に好きなだけ触らせてやればいい。背後に隠した錠前を。そうすれば出町への疑いは晴れる。やたらと錠前に触っていたことは、ただの偶然、牟児津の気のせいだと切って捨てることができる。

 しかし、出町はそうしなかった。そこに根が生えたように、一歩たりとも動かない。


 「ファン先輩……?どう、されたのですか……?」

 「どうして錠前に触りたいの?」

 「え」

 「確かに、私はみんなより錠前を気にしていたかも知れないわね。偶然とはいえ、不自然に見えたかも知れないわ。だけど、だからと言っていま牟児津さんが錠前を触る理由はなに?あなたが鍵をかけた犯人で、また何か細工をしないとも限らないでしょ?」

 「私が鍵をかけた犯人じゃないことは、最初に説明しましたよ。もう一度言いましょうか?」

 「……っ!」

 「出町さん、私が代わりに言いましょうか?そこをどかない──いや、他人に錠前を触らせたくない理由」

 「な、な、なに、を……!」


 冷静な牟児津の言葉が、今の出町には恐ろしく感じられた。得体の知れないものを相手にしているような、心の内の全てを見透かされているような居心地の悪さ。牟児津の口が次にどんな言葉を発するか。それが分かるからこそ、出町は体が震えた。



 「そこに鍵があるんでしょう。この部屋から出るための」



 「はっ!?」

 「え!?か、鍵が……!?」


 牟児津の言葉を聞き、全員が立ち上がる。もはや手掛かりさえ失い、半ば絶望していたところに降ってきた牟児津の言葉。根拠も信憑性も抜きに、誰もがそれに縋り付きたくなってしまう。


 「ずっと考えてたんです。11人の人が詰め込まれるには少し狭いこの楽屋の、どこに鍵を隠せばバレないか。自分で持ってたって荷物や部屋の中に隠したって、これだけの人数がいたらいつかはバレます。それで思い付いたんです。誰も探さない場所に隠せばいいんだって」

 「だ、誰も探さない場所……?」

 「錠前です。私たちをこの部屋に閉じ込めてる錠前に、まさか鍵がセットでぶら下げてあるなんて、そんなこと普通考えないじゃないですか」

 「い、いやしかし……どこからどう見てもその錠前に鍵はささっていないようだけど……?」

 「表じゃなくて、裏側ですよ。この錠前、装飾が少ないから裏面が真っ平らでしょ。しかも演劇部のイメージカラーで塗り潰されてる。物販で売ってる同じ色のマステで上から貼り付ければ、見た目ではまず気付きません。でもそれだと、裏面を触られたらすぐにバレる。だからその錠前を誰にも触らせたくなかったんです」

 「……!」


 まるで、実際にその細工をしているところを目の当たりにしたかのような、自信たっぷりな説明だった。それらは全て、この部屋の中で、全員が目にし、聞いたものだけで説明されていた。

 錠前の色。出町の荷物にあったスミレ色のマスキングテープ。些細な言葉の違い。鍵に触れた頻度。それらひとつひとつに大した意味はない。ほんの些細な違和感を出発点とする、牟児津の必死の仮説と瞬間的な推理力によって、初めて隠された意味を発揮する。

 畳みかけるような牟児津の追及を前に、出町は反論さえできなかった。牟児津の推理は、ただの言いがかり程度の違和感から一つの論理へと進化していく。一方で出町が反論するために持っている言葉は、それこそ説得力にかけるものばかりだった。


 「そ、そんなの……全部牟児津さんの妄想じゃない!根拠がない!私が鍵をかけたっていう根拠が!」

 「ファン先輩?ウ、ウソですよね……?だって、こんなこと……!」

 「私が扉に鍵をかけたところを見たの!?私がテープで鍵を隠したところを見たの!?この鍵が私のだって、どうしてあなたに言い切れるのよ!そんな証拠がどこにあるっていうのよ!」


 出町は激昂する。それが、濡れ衣を着せられた者の必死の言葉なのか、あるいは真実を見抜かれた犯人の悪足掻きなのか、周りで見ている瓜生田たちにはまだ判断が付かない。牟児津でさえ、確信は得ているものの、確証はまだない。しかしそれがどこにあるのかは知っていた。


 「証拠は……私は持っていません」

 「っ!?ム、ムジツさん!それではただの──!」

 「そ、そうよ!証拠がないんじゃ全部ただの言いがかりじゃない……!」

 「証拠を持ってるのはあなた自身です。出町さん」

 「…………へえ?」


 牟児津が、真っ直ぐ指をさす。


 「今日、劇場の売店でもらったレシートを見せてください。そこに書いてあるんじゃないですか?鍵と錠前のセット、2つ分って」


 出町は完全に硬直した。まるで魔法にかけられたようだった。反論も、弁解も、言い逃れもできない。ただ、不意打ちのような形で全てを暴かれたことに、愕然としていた。何がきっかけなのか、何を間違えたのか、何がいけなかったのか。一切分からないまま、自分の全てを見透かされたような感覚。

 数分にも感じたほんの数秒の後、出町はそこに崩れ落ちた。これを見るのは、今日三度目だ。



〜〜〜〜〜〜




 「あった!」


 錠前の裏から、錠前と同じ色のテープで覆い隠された鍵が見つかった。それを挿し込んで回すと、錠前は呆気ないほど簡単に開いた。鍵がかかっていることに気付いてから数時間、普段の公演ならとっくに撤収している時間だ。中にいた牟児津たちには、それよりも遥かに長い時間に思えた。

 いつでも外に出られる。その事実だけで、牟児津たちはとてつもない自由を感じた。そして、扉を開けようと牟児津が手を伸ばす。

 

 「ちょ、ちょっと待って!!」


 全員の前に出町が立ち塞がった。全てを明らかにされて放心していたが、鍵の開く音で我に返ったようだ。一度完全に打ちのめされたことで開き直ったのか、その目は力強く光っていた。


 「な、なんですか!もうあなたは犯人だとバレたんですよ!これ以上、何があるというんですか!」

 「お願い……!まだ、出ないで……!こんなんじゃ、全然足りない……!は……これくらいじゃ諦めない……!」

 「あいつ?」

 「お願いよ鳳さん……!忘れてないでしょう?」


 出町の目はまだ死んでいない。その目は、演劇部の3年生たちを見ていた。その視線だけで、3人は理解した。出町がなぜ、こんなことをしたのか。


 「ま、まさか……いるのか!?この劇場に……が!」

 「……はい。私は、この目で見ました」

 「うそ……!?そ、そんなわけないわ!だって……!あの子は劇場に入れないはずよ!」

 「え?みどり?」

 「みどりというのはもしかして……野須のす みどりですか?」

 「!」


 益子の口から飛び出した名前を聞いて、鳳たちは驚いた。牟児津たち2年生以下にとっては何のことか分からない。だが話の流れから察するに、それが2年前の事件に関わっていることは明らかだった。


 「野須さんは……2年前、蕃花の盗撮写真を校内で売買していた人よ」

 「えっ!?じゃ、じゃあ、盗撮犯……!?」

 「その件で学園から重い処分が下されて、後に自主退学したと聞いているわ。今どこで何をしてるか分からないけれど……この劇場に来てるなんて……!」

 「し、しかし……その、彼女はチケットを買えないはずだろう?それに、もし何らかの方法で手に入れても、彼女は……出入禁止になっているんだろう?」

 「観客としてじゃありません……!あいつ、運送業者の格好をしてました。この劇場に大道具やお花を運んでる業者の中に、あいつがいるんです!」

 「う、運送業者……そんなところから……!」

 「……んん?」


 3年生たちは一様に青い顔をしていた。牟児津たちに当時のことは分からないが、加賀美が持っていた盗撮写真や隠しカメラの存在に気付いたときの反応を見れば、野須という人間が、鳳にどれほどの恐怖を与えたかは窺い知れた。既に学園を去っている人間が、2年もの時を経て、また盗撮をしに来ている。鳳たちにしてみれば恐怖以外の何物でもない。


 「たぶん、会長の花にカメラを仕掛けたのもあいつ……!もしかしたら他の花にも仕掛けてあるかも知れない!あいつが運送業者に紛れて荷物を運び出すまで、間違っても鳳さんたちに会わせたくないんです!今度は隠しカメラじゃ済まないかも知れない!すれ違い様にポケットに何か入れられるかも知れない!あの子、私や演劇部のこと逆恨みしてたから……もっと危険なことだってするかも知れない!私は……!そ、それが……怖くて……!もしも、万が一のことが、あったら……!」


 扉の前で、出町は必死に叫ぶ。まだ今は出るべきではない。野須が運送業者に紛れているなら、運搬スケジュールに従ってしか行動できない。時間になれば野須は劇場を去り、少なくとも直接鳳たちと会う危険はなくなる。出町はそのために、鳳たちを野須から守るために、扉に鍵をかけたのだという。

 乱暴なやり方だが、それが一番確実だった。ただ説得して部屋の中にいるだけでは、野須はあらゆる手段を使って入り込んで来る。扉に付属している鍵くらい開けてくるのだ。だから、出町は自分が新しく鍵をかけるしかなかった。

 そうして楽屋の中は、また膠着状態に陥りかけた。物質的な鍵は一切取り外されたが、今は野須への恐怖という精神的な鍵が、固く扉を閉ざしていた。


 「……ア、アタシ、様子を見てきます!」

 「えっ……?」


 名乗りを上げたのは加賀美だった。


 「その野須って人の狙いは、鳳部長なんでしょ。そいつはアタシの顔なんて知らないだろうし……何より、この写真、突き返してやらないと」

 「な、何言ってんの!危ないわよ!」

 「かがみんが行くなら緋宙も行くよ!ひとりで行かせらんないもん!」

 「あ、あなたたち……!」

 「あのぅ」


 今にも部屋を飛び出さん勢いの加賀美と宝谷に、牟児津が声をかけた。極めて遠慮がちかつ、申し訳なさそうに。気が逸っている二人は無言で振り向き、次の言葉を待った。そして、牟児津は目線を逸らして告げる。


 「たぶんその人、今日はもういないですよ」

 「………………んぇ?」



 〜〜〜〜〜〜



 牟児津たちは、劇場の前にいた運送業者について話した。そこで見かけた、特徴的な声と髪型をした、年の近い女性の運び手について。牟児津がその詳細を語るにつれ、出町はどんどん目を丸くしていき、最後には顔を真っ赤にして、へなへなとその場で尻餅をついた。


 「だ、大丈夫ですか……?」

 「……ま、間違い、ない……!それ、野須だ……!」

 「ああ、やっぱり」

 「話だけで分かるんですか?」

 「分かるわ。出町さんと野須さんは、もともとファンクラブの同期だもの」

 「顔見知りだったの!?」

 「じゃあ……私の、心配は……?この、鍵……私の、取り越し苦労だった……ってこと?」

 「そう、なりますね」


 花束の中から現れたカメラは、持ち主が離れすぎてどこにも接続されていない、ただの置物と化していた。出町が鳳たちを守るため扉にかけた錠前は、既に失せている危険に怯えた出町の独り相撲だった。そしてその事実を知っていた牟児津たちは、最後の最後まで、その事実に気付くことができなかった。

 なんとも間抜けな結末だった。この数時間、楽屋の中で繰り広げられた疑心暗鬼と推理劇は、全て空回りに終わった。それは、相手を想う少女の気持ちが暴走して見せた虚ろな夢のような、そんな終幕オチだった。


 「……益子ちゃん。これ、記事になる?」

 「う〜〜〜ん……どうでしょう。さすがにここで諸悪の根源たる野須さんがどっか行っちゃったっていうのは……でもそれがないと意味分からないですし……捏造つくっちゃおっかな」

 「やめといた方がいいよ。今の3年生が知ってるってことは、田中先輩や藤井先輩も知ってるんだから。学園新聞が廃刊になっちゃうよ」

 「ですよねえ……」


 さすがの益子も、こんな竜頭蛇尾な話は記事にすることはできないと判断し、そっとメモ帳を閉じた。箝口令が敷かれるほどのセンシティブな事件で、捏造やいい加減なゴシップ記事を書くようなリスクを冒して、得られるものは少ない。何より部長の寺屋成が許さないだろう。

 うなだれる出町に、誰もなんと声をかけたものか困り果てていた。慰めたい気持ちもなくはないが、出町は長時間に亘る軟禁事件の犯人でもある。被害者が犯人を慰めるというのも妙な話だ。

 が、そんな細かい理屈など蹴っ飛ばして、目の前にうなだれる少女あれば行って慰めてやる、を地で行く王子様が、ここにはいた。


 「何を悲しむことがあるんだい!出町クン!」

 「へっ……?」


 まるで踊るように、楽しげな音楽に乗せてステップを踏むように、軽やかな旋律に合わせて舞うように、鳳は出町の前に飛び出して、跪いた。


 「驚いたよ。まさか君が、こんなにも僕のことを考えていてくれただなんて」

 「あ、あの……鳳さん……!私、とんでもないこと……!」

 「ああ、とんでもない。とんでもないね。君の心、僕の魅力に惑うその心は、とんでもなく美しい!」

 「あ?」


 言っていることの意味が分からなさすぎて、関係ない牟児津の口から声が漏れた。


 「君は僕たちを閉じ込めたんじゃない。外にいるみどりクンの脅威から僕たちを守ってくれていたんだ。たとえ事実として、みどりクンの姿がそこになかったとしても、悪意から誰かを守ろうという心……それはつまり愛!その美しさにはひとすくいの濁りもない!そうだろう?」

 「ひゃっ……はひっ……!?」

 「君の大いなる愛の前では、みどりクンがここにいたかどうかなんてちっぽけな問題だ。それに、君は最後の最後まで、みどりクンがいることを自分からは打ち明けなかった。それは、あの事件を思い出して、僕が恐怖におののくことがないようにするためだろう。それもまた、僕への愛!君の気持ち、しかと受け止めたよ」

 「お、鳳さん……!」


 四つん這いになって地に伏せる出町。その正面で片膝を突き、キザな言葉を振りまきながらその顎を持ち上げる鳳。至近距離で、真正面から鳳に直視された出町は、それまでの複雑な感情などすっ飛んだかのように、桃色のオーラを放つほどメロメロになっていた。


 「なにを見せられてんだ私たちは」

 「帰る?」

 「帰りましょうか……」


 ファンクラブは出町を魅了する鳳の姿に夢中になっていた。鳳以外の演劇部員たちは、数時間遅れでようやく舞台の片付けや部員とのミーティングを開始し、慌ただしく動き始めていた。牟児津たちはすっかり放ったらかしになり、事件が円満に解決したという達成感も微妙にないまま、劇場を後にした。



 〜〜〜〜〜〜



 「なんか、こう……貴重な経験になったね」

 「貴重というか……なんか、うん。貴重、だね」

 「たまには芸術鑑賞というのも悪くないんじゃないですか?ムジツ先輩!」

 「この経験を芸術鑑賞と言うのは無理だろ!っていうか来なきゃ良かったわ!全然話聞かされてないし!会長さんに文句言ってやる!」

 「本人がいないところだと口が大きくなるんだから、ムジツさんは」

 「お〜〜〜い!マッシー!」

 「ん」


 駅に向かって歩く三人の後ろから、宝谷が追いかけてきた。何事かと思えば、手には何かの紙切れを持っている。


 「いつの間にか帰っちゃったから焦ったよ。ってか、なんかごめんね、今日。変なことに巻き込んじゃって」

 「宝谷さんは悪くないよ。で、どうしたの?」

 「うん。今日は色々助けてもらっちゃったからって、鳳センパイからこれ預かってきた。是非もらってくれだって」

 「こ、これは……」

 「次回の公演の招待チケット!関係者席で楽屋挨拶特典と劇場の喫茶店でコーヒーか紅茶いっぱい無料クーポン付き!めっちゃレアなんだからありがた〜くもらってよね!」


 宝谷は満面の笑みだ。これが鳳ファンクラブのメンバーだったり、学園の大多数の生徒だったのなら、跳び上がって喜ぶようなものなのだろう。だが、今の牟児津にとっては、これはもはやチケットの形をした疫病神にしか見えなかった。たまらず牟児津は逃げ出した。


 「も、もう舞台鑑賞なんてこりごりだァ〜〜〜!!」

 「あっ!マ、マッシー!?なんで逃げんの!」

 「すみません宝谷先輩。ムジツさんもう怖がっちゃってるみたいなので、そちらは丁重にお断りします。それでは」

 「あ、せっかくだから私は──」

 「ほら益子さんも。行こう」

 「ああああああっ!!お宝チケットオオオッ!!」


 ちょっとした巡り合わせの末に訪れた舞台鑑賞でさえ、牟児津は事件に巻き込まれてしまった。もはや自分はこういう運命なのか。そんなことはない、と信じたい。今日のことは忘れてしまおう。それこそ、覚めてしまえば全てなかったことになる、悪い夢のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る