第2話「君たち二人だけではない」


 学生生活委員室前の廊下は、大勢の生徒でごった返していた。田中により部室争奪戦が宣言された影響か、ほとんどは部室の獲得を狙う部や同好会の生徒らしく、どことなく殺気立っているような気がする。風紀委員の腕章をつけた生徒が廊下の両側に並び、暴徒化しないようになんとか押さえつけている状態だ。


 「えらいことになってる」

 「みんな部室が欲しいんだねえ。よくオカ研は手放したよ」

 「ああ、あの部屋か」


 瓜生田の言葉で、牟児津はようやく渦中の部室が誰のものだったのかを理解した。先日、オカルト研究部は同好会に看板を変えると同時に、必要なくなった部室を引き払ったのだった。部室棟の隅にある日の当たらない部屋だ。あんなところでも、多くの生徒にとっては欲しても得難い部室なのだ。


 「やっぱあの部長さんなに考えてっか分かんないや。こうなることまで考えてなかったのか?」

 「まあ、オカ研には関係ない話だからね」


 群衆の最後部で話し込む二人は、しかしどのように委員室に入って鍵を返したものか考えていた。まず委員室にたどり着くまでが大変だ。もしいま鍵を持っていることがバレたら……、という考えを牟児津は振り払った。考えただけで現実になりそうな気がする。

 そんな二人の後ろから、突然やかましい声が飛んできた。金属同士をぶつけるようなカンカン声だ。


 「あれ?どうしましたかお二人さん!こんなところで奇遇ですね!」

 「げっ」


 声の主は、チョコレート色の頭にハンチング帽を乗せ、プレザーの袖を胸の前で結び肩にかけ、ぼろぼろの手帳と回し慣れたペンをそれぞれ手に持った、益子ますこ 実耶みやだった。新聞部に所属する1年生で、牟児津の番記者として事件があればいつでも付きまとってくる。


 「益子さん。どうしたのこんなところで」

 「お忘れですか?私は新聞部ですよ!ムジツ先輩の番記者としての仕事もありますが、普通の記者活動もするのです!いやあ、先ほどの田中先輩は素晴らしい扇動アジテーションっぷりでしたね!あっという間に学園中が熱狂の渦に飲み込まれてしまいました!しかし妙ですね。この手の催しなら学園祭実行委員が黙ってないはずです。それに田中先輩は部会活動には厳しい方針を持っているはずですが……空室を抱えるよりはマシということでしょうかね。まあその辺もろもろも込みで、学生委を取材しに来たわけですよ!だけど来てみてあらびっくり!あそこに見える赤い髪と背高のっぽは、我が学園が誇る名探偵コンビのムジツ先輩と瓜生田さんじゃありませんか!お二人とも部室になど興味なさそうなのにおられるということは、何やら大変な事件面白いネタの予感がするぞ!と実耶ちゃんアンテナにビビッと来たわけです!はい!」

 「なっがいこと喋る」

 「じゃあ益子さんも学生委に用なんだ。でもこの人混みだから、どうやって委員室に入ろうか困ってたところなんだ」

 「ちなみにどういった御用で?」

 「……どうしよっか、ムジツさん」

 「教えたら絶対面倒なことになるでしょ……」

 「ちなみに報道の自由を振りかざしてゴネれば、強引に委員室に入ることができますよ。それができるのは崇高な報道者精神ジャーナリズムを持った生徒に限られますが。私とか!」

 「あんたが持ってんのは野次馬根性ジャーナリズムだろ」

 「でもこの人混みを突破することはできるってよ」

 「ううん……」


 悩ましいところである。益子に事情を話せばそれは必ず学園新聞の記事にされる。目立つことを嫌う牟児津にとって、できることならそれは避けたい。しかし益子の力を借りれば事態はすぐに解決するだろう。


 「益子ちゃんさ」

 「はい!」

 「ぜっっっっったいに人に言わないでよ?」

 「もちろんです!絶対に言いません!」

 「……不安だけどもうしょうがない。あのね、実はさっき副会長さんが言ってた部室のことなんだけど」

 「例のオカ研の部室ですよね。いや〜、あのときのムジツ先輩の推理は鮮やかでした!」

 「そんなんどうでもいいんだよ。部室の鍵が問題で……あの、あるんだよね、ここに」

 「ムジツ先輩の心の中にですか?」

 「違う!胸ポケット!」

 「……えええっ!?なぜ!?」


 益子は目が飛び出るほど驚いた。いまや学園中がそれを巡って混乱に陥っている、この騒動の原因となる鍵を、まさか部室に何の興味も持たない牟児津が持っているとは思わなかった。


 「ム、ム、ムジツ先輩の胸ポケットに、田中先輩がおっしゃってたあの部室の鍵があるっていうことですか!?新しい部室の鍵と交換できる、学園中の生徒が喉から手が出るほど欲しがってる例の鍵がですかぁ!?」

 「うるさい!!なんでそんな説明口調なんだよ!!」

 「あっ……ちゃあ」


 声を潜めて話していたのに、いつの間にか牟児津も益子も大声になっていた。その会話は廊下の壁に天井に床に響き、委員室に詰めかける大勢の生徒の耳に、その雑踏をすり抜けて届いた。ヒートアップした二人を止めるタイミングを掴めなかった瓜生田は、小さく声を漏らして額を打った。


 「ふ、二人とも……そんな大声で話したら……」

 「あ」

 「うん?ムジツ先輩、また何かやっちゃいました?」

 「あんたのせいだぞこの疫病神!!」

 「うわーんひどい!」


 牟児津は背後から猛烈な殺気を感じた。額を打った瓜生田の後ろ、学生生活委員室に押しかけていた生徒たちの目が牟児津へ一斉に注がれる。らんらんと光るその目はさながら猛獣で、さしずめ牟児津は野に放たれたか弱いウリ坊である。


 「ひっ!」

 「あいつが鍵を持ってるのか!」

 「捕まえろ!ひっ捕らえて鍵を出させるんだ!」

 「身包み剥いだれ!!」

 「ぎゃああああああああああああッ!!!たすけてえええええええええッ!!!」

 「あっ、ムジツさうわわわわっ!ああ〜〜〜!!」

 「う、瓜生田さんが群衆に轢かれた……」


 身の危険を感じた牟児津が走り出す。それとほぼ同時に、猛獣の群れもその後を追って走り出した。牟児津を追おうとして逃げ遅れた瓜生田が、後ろからきた群衆にもみくちゃにされてその波に消えた。一足先に回避していた益子は、床を揺らしながら移動していく生徒たちの群れをやり過ごし、過ぎ去った後にはその後ろ姿を眺めていた。


 「うっ……なんで私がこんな目に……」

 「珍しいですね。瓜生田さんがそんな感じになるなんて」

 「そ、そんなことよりムジツさんがまたとんでもないことになっちゃったよ……えっと、ちょっと何がどうなってるのか……」

 「一旦、うちの部室来ます?すでに部室を持ってるところは今回の騒動には基本無関係ですから、部室棟は比較的落ち着いてますよ」

 「う、うん……そうする……」


 倒され、踏まれ、ぼろぼろにされてしまった瓜生田は、普段の冷静に状況を俯瞰した思考ができなくなっていた。益子に引き起こされ、体についた埃を払いながら、一休みするため新聞部の部室に向かった。逃げて行った牟児津を追いかけることなど早々に諦め、なんとか牟児津を助ける方法を考えることにした。



 〜〜〜〜〜〜



 「んああああああああああああッ!!!」


 牟児津は校内を走り回っていた。教室棟を走れば教室から飛び出してくる追手に行く手を阻まれて特別教室棟に逃げ込み、特別教室棟を走れば四方八方から襲ってくる追手をかわして教室棟に逃げ込み、ただひたすら全速力で走りまくった。とっさに階段裏の物置に隠れると、追手が階段を上っていく音が聞こえた。どうやら上手く撒いたようだ。


 「ぜぇ……ぜぇ……!もうやだ……!なんでこんな……ひぃ……ひぃ……!」


 はじめは十数人だった追手が、気付けば数十人になっていた。この部室の鍵を狙っているのは、学園中にある部室を持たない部や同好会に所属している生徒たちだ。具体的な数は分からないが、それはこの学園のほとんどを占めるだろう。つまり牟児津はいま、学園のほぼ全てを敵に回している状態なのだ。ひとりでその事実を噛み締めると、いっそう心細くなる。


 「益子あの野郎……絶対許さん……!というかこれ、マジでどうしたら……?」


 暗くて狭くて寒い場所にじっとしていると、全力疾走で熱を帯びた体が徐々に冷めてきて、頭は正常な思考を取り戻してくる。追手が狙っているのは牟児津自身ではなく、胸ポケットにある鍵だ。これさえ自分から引き離してしまえば追われる理由はなくなる。ただその辺に捨てるだけではダメだ。自分の手を離れたことをはっきりと示さなければならない。

 いっそ誰かに渡してしまおうか。それはダメだ。渡した相手は鍵を持っていることを隠して、牟児津を囮に使うに違いない。さっきの猛追を見て、表立って鍵を手に入れたと言える人はいないだろう。

 当初の予定通り、学生生活委員室に届ければいいのではないか。さっきは人混みで入れなかったが、今なら逆に空いているかも知れない。逃げる過程でずいぶん遠くまで来てしまったが、逆に来た道をたどれば敵の目を掻い潜って進めるかも知れない。牟児津は胸ポケットから鍵を取り出し、もしものときはすぐ投げ捨てられるよう手に握った。金属の固い感触が憎たらしい。


 「よしっ」


 覚悟を決めて階段裏から飛び出す。学生生活委員室に向けて一歩踏み出し──。


 「いたぞ!!捕まえろォ!!」

 「あこれ無理だッ!!!なああああああああああッ!!!」

 「逃げたぞ追ええええッ!!!」


 踏み出した足を反動にして、牟児津は学生生活委員室とは反対方向に走りだした。



 〜〜〜〜〜〜



 「よく来たね。まあ、ゆっくり休んでいくといいよ」


 新聞部部長の寺屋成じやなる 令穂れいほは、瓜生田に席を勧めた。カビとホコリでむせ返るような新聞部の部室内では、ゆっくりしていればいるほど喉にダメージが蓄積されていくような気がした。瓜生田は上着を脱いで、ついた土やホコリを払った。部室は、今更その程度で床が汚れたなどと言える状態ではない。


 「ゆっくりしてる場合じゃないんです。ムジツさんはまた大変な目に遭ってるんですよ」

 「聞いているさ。まさか牟児津くんが鍵を持っているとはね。どうやって手に入れたんだろう?」

 「いつの間にかカバンに入ってたんです。危うく気付かないで帰るところでした」

 「ふむ。今回もただ事ではなさそうですね。この前は仲間外れにされましたから、今回は徹底的にいかせてもらいますよ!」

 「頼もしいね。しかし敵は全校生徒だ。君たち二人でどう太刀打ちするつもりなのかな?」

 「全校生徒じゃありません。既に部室を持っていたり部室を必要としていない部の生徒や、部に所属してない生徒は今回の騒動には関係ありません。だいたい……8〜9割くらいです」

 「十分多いさ。牟児津くんがひとりで逃げ切るのが絶望的と言える程度にはね」


 今こうしている間にも、牟児津はおそらく校内を駆けずり回っているだろう。どうにかして助けなくては。しかし瓜生田は牟児津に追いつくことはおろか、一緒に逃げることさえできないくらいには体力がない。

 部室獲得のまたとないチャンスに沸き立つ学園生、しかも田中によって焚きつけられた群衆を説得するのは簡単なことではない。すでに極度の興奮状態になって暴徒化した生徒もいる。


 「……君らしくもないな、瓜生田くん」

 「え?」


 思いがけず名前を呼ばれた瓜生田が寺屋成を見る。肘を机について身を乗り出したその表情は、絵に描いたようなしたり顔だった。


 「この程度の詭弁を見破れないと張り合いがないじゃないか。正しくない前提に基づくから正しくない状況に見えるんだ」

 「正しくない前提……?」

 「ああそうだ」


 詭弁家は、いつもより少しだけ機嫌よく言った。


 「敵は全校生徒ではない。そして、牟児津くんの味方もまた、君たち二人だけではない」



 〜〜〜〜〜〜



 「ぜぇ……ぜぇ……」


 牟児津は、草むらの陰に隠れていた。校舎内はどこにいても人の目があるため、すぐに見つかってしまう。校庭のような見晴らしの良いところにいては格好の的だ。こうして身をひそめるしかない。ときどき自分を捜しまわっている生徒が目の前を通り過ぎていき、そのたびに牟児津は心細い気持ちになっていく。まるで世界中が敵になったような心細さだ。


 「泣きそう……」


 そうこぼしても心細さは埋まらず、むしろ言葉にして自覚することでいっそう辛くなり、本当に涙がちょちょ切れてくる。噂が広まったのか、最初より駆け回っている人数が多くなり、すでに暴れすぎたため風紀委員に連行された生徒も出始めているらしい。生徒たちによる自主的な検問も行われ、まさに牟児津は逃亡犯さながらであった。


 「私は何もやってねえっつうの。全部こいつのせいだ……!この辺に捨てていけばなんとかなるんじゃないか……いっそわざと風紀委員にでも捕まってみるか?窃盗容疑で指導室送りになったら、そこまでは追ってこられないだろ」


 隣にストッパーとなる瓜生田がいないと、冷静でない牟児津の思考はどんどん暴走していく。ポケットにしまっていた鍵を取出し、恨めしそうに睨む。しかしそれだけでは何も変わらず、雑草と土の匂いにまみれて閉門の時間を待ち、わざと警備員に発見されて脱出するしか方法が残されていない。


 「くそ〜!益子ちゃんが余計なこと言わなきゃ今頃こんなことには……!恨むぞ……!」


 憎々し気に牟児津がつぶやく。また誰かの気配が近付いてきた。身をかがめ、周囲を見渡し警戒する。目立つ赤い髪も、深い緑の中に入ってしまえば見つからなくなる。気配はどんどん近付いてくる。見つかっていないはずなのに、まるで誰かの息遣いが聞こえてくるようだった。いや、実際に聞こえている。


 「えっ!?」

 「ッ!!」


 牟児津は反射的に飛び退いた。いつの間にか隣にいた。それは人のような大きさだったが、手も腕も顔も体も、頭の先から足の端まで、一切がもじゃもじゃの緑に覆われていた。緑の怪物である。もじゃもじゃは牟児津に手を伸ばすと、持っていた鍵を覆いつくして奪い取った。


 「あっ!」


 飛び退いた拍子にバランスを崩した牟児津はしりもちをつく。もじゃもじゃの怪物はそんな牟児津にはお構いなしに、もじゃもじゃの体のまま草むらから飛び出した。植物に擬態していたその恰好は、日のあたるコンクリート上を走っていると滑稽なほど目立つ。どたどたと走り去っていくそれを追いかけることもできず、牟児津は一瞬にして鍵を失い背中に泥をつけた。


 「はっ!?な、なに今の……!?バケモン!?もじゃもじゃのバケモン!?ってか鍵!なんだあいつ!」


 追いかけようと牟児津は草むらから飛び出す。しかしもじゃもじゃの化け物はどこかへ去ってしまい、ただ自分の身をさらすだけだった。たちまち校舎の窓から牟児津を目撃した生徒たちが、校舎の外まで追いかけてき始めた。


 「げえーーーっ!?」

 「いたぞ!!捕まえろ!!」

 「ち、違う違う!持ってない!もじゃもじゃに奪われた!あっちあっち!」

 「囲め囲め!」

 「うおおおっ!!」


 草むらから飛び出した牟児津はたちまちの内に取り囲まれた。もはや牟児津が鍵を持っているかなど考えていない。まず牟児津を捕まえてから鍵を探すつもりだ。このままではただ捕まって袋叩きにされるだけでは済まない。身包みを剥がされてしまう勢いだ。窮地に陥った牟児津に、群衆から甲高い声が飛び出す。


 「かかれエエエッ!!」

 「ヒャッハー!部室はうちのもんだー!」

 「た、助けてェ〜〜〜!!」


 飛び出した生徒の手が牟児津に伸びる。逃げ道はない。なす術もない。もはやこれまでか。牟児津は覚悟して目を閉じた。



 「うげぇっ!?な、なんだぁ!?」



 体に何も触れない。聞こえるのは飛び出した生徒の苦しそうな声。それに続く困惑の叫び。群衆がどよめいている。状況が分からない。牟児津はゆっくり瞼を開き、目の前で何が起きているかを確かめた。


 「おひっ!?」


 その光景に、牟児津はその場の誰よりもうろたえた。牟児津に掴みかかろうとした生徒は視界の端に転がっている。目の前にあるのは大きな背中だ。牟児津に向けられていた視線をかっさらうような、美しい金髪にすらりと伸びた足のシルエット。顔を見ずとも、牟児津にはそれが誰か分かる。この学園で牟児津が誰よりも恐れている、天敵の姿だ。


 「ふ、風紀委員長だあああっ!?」

 「やばいっ!み、みんな逃げろ!包囲される!」

 「もう遅い」


 ざわつく群衆に、川路かわじ 利佳としよが冷たく言い放つ。牟児津を取り囲んでいた群衆は既に、さらに外側から風紀委員たちに取り囲まれていた。


 「貴様ら全員、騒乱罪で逮捕だ!!風紀委員!!一人も逃がすなァ!!」

 「ぎゃあああっ!!」


 牟児津を追い詰めていた群衆は、一転して風紀委員に追い詰められる立場になってしまった。その中心にいる牟児津は、至近距離で川路の咆哮を聞き反射的に耳を塞いでしまった。川路は牟児津の方を向かず、ただ確保されていく群衆を見つめていた。そんな中、牟児津のもとに葛飾がやってきた。


 「真白さん!今のうちに逃げてください!」

 「こ、こまりちゃん……!?あの、こりゃ一体……?」

 「詳しいお話は後です!とにかく今は、教室に向かってください!時園さんたちにご協力をお願いしておきましたので!」


 なにがなんだか分からないが、とにかく牟児津は風紀委員の乱入によって助けられたようだ。ちらと川路の顔を見るが、変わらず一点を見つめ続けている。まるで牟児津を見ないようにしているようだ。いちおう、牟児津は立ち去り際に一言かけておいた。


 「あ、あの……ありがとうございました。助けてもらって?」


 その言葉にも、川路は何の反応も示さなかった。もたもたしてまた怒られてもかなわないので、牟児津はそのまま自分の教室に向けて駆け出した。その後ろを追いかけてくる者は誰もいない。少しだけ落ち着くことができた。

 落ち着くと、ポケットの中でスマートフォンが震えていることに気付く余裕も生まれた。着信名は瓜生田だ。すぐさま牟児津は応答する。


 「もしもしうりゅ!?」

 「あっ、出た!ムジツさん大丈夫?いまどこにいるの?」

 「全然大丈夫じゃないよ〜!今こまりちゃんに助けてもらって教室向かってるとこ!ってか聞いて!鍵盗られた!」

 「鍵を盗られたって、だれに?」

 「なんか草むらに隠れてたらいつの間にか隣にもじゃもじゃのバケモンがいて、鍵盗って逃げてった……」

 「夢の話?」

 「現実だよ!」


 瓜生田に現状を話した後、反対に牟児津は瓜生田と益子の動きを聞かされた。いま二人は新聞部の部室にいて、これから牟児津を助けるために行動を開始するところだった。瓜生田は牟児津と合流を、益子は鍵を盗んだ真犯人についての情報収集をするつもりだった。真犯人の方はともかく、たとえ運動面で期待できることがなくても、瓜生田が傍にいるだけで牟児津は安心する。

 そして牟児津の話を聞いた瓜生田は、牟児津と合流する前にもじゃもじゃの正体について手掛かりを集めてから向かうと言う。どうやら瓜生田にはそのあてがあるようだ。


 「それじゃ、もじゃもじゃの人はこっちでなんとかするから、とにかくムジツさんは教室で大人しく隠れてて」

 「うりゅありがと〜!助けて〜〜〜!」



 〜〜〜〜〜〜



 葛飾に言われたとおり、牟児津は自分の教室にやって来た。その間も何人かの追手に追い回されたものの、それほど時間はかからなかった。教室に飛び込んでドアを閉めると、牟児津の姿を目にしたクラスメイトたちが、わっと駆け寄ってきた。


 「む、牟児津さん!大丈夫!?あなたいま学園中の噂になってるわよ!?」

 「うぅん……だろうね……」

 「よくあの数の人たちから逃げてこられましたね。すごい」

 「やっぱ牟児津さん足腰鍛えられてるからサバゲー向いてるんじゃない?」

 「勘弁してよ……」


 ひとまず自分の席に座り、牟児津は一息ついた。ここまでほぼ走りっぱなしで、ろくに休憩のタイミングもなかった。水筒から流れ込んでくる冷たい飲み物が、のどを通って腹に落ちるのを感じた。腰を下ろすとどっと疲れが襲ってきた。牟児津は、呆れた顔の時園と、心配そうな顔をした足立あだち 亜紀あきに尋ねる。


 「ちなみに、噂って?」

 「学生委員室から鍵を盗んだ犯人は牟児津さんで、牟児津さんを捕まえて副会長に引き渡せば部室がもらえるんじゃないかって。鍵のあるなしはもう関係ないわね。鍵も牟児津さんが持ってるとか他の人が持ってるとか、噂が入り混じってるわ」

 「私が鍵を持ってたのだけは本当だよ。もう誰かに盗られちゃったけど」

 「本当に持ってたんですか……?なんで?」

 「いつの間にかカバンに入ってたんだよ。本当だよ?」

 「そんなことあるわけない……と言いたいけれど、牟児津さんだったらなくなさそうなのよね。今はもう持ってないのね?」

 「なんか、もじゃもじゃの人に盗られた」

 「も、もじゃもじゃ?」

 「枝とか葉っぱでできた、なんか、もじゃもじゃの人」

 「夢の話?」

 「現実だってのに!」


 牟児津の伝え方が悪いのか、どうにも現実のこととして受け取ってもらえない。あんなに体中に植物がまとわりついた人間など見たことがないので、それも仕方ないのかも知れない。ともかく牟児津は、鍵がいつの間にかカバンに入っていたこと、学園中を逃げ回って風紀委員に助けられ、瓜生田と連絡を取りつつようやく教室まで逃げてきたことを伝えた。教室中が、牟児津に対する同情の念でいっぱいになる。


 「なんで風紀委員が牟児津さんを助けるんだろう?葛飾さんがお願いしたのかな?」

 「川路先輩がそれくらいで動くとは思えないけど……むしろ学園中で部室が欲しい部会の生徒が大暴れしてるから、取り締まりの一環なんじゃない?」

 「私を追っかけてる人だけじゃないんだ」

 「まだ牟児津さんが持ってるとか、他の部会が持ってるとか、どこそこに落ちてるのを見たとか、もう何が本当で何が嘘かって感じよね。だから牟児津さんとは関係ないところでも衝突が起きてるわよ。そういうのも風紀委員は取り締まらなくちゃいけないから大変よね」


 時園の話が本当なら、風紀委員が牟児津を助けたのは偶然だったのだろうか。だが学園の各所で騒ぎが起きているなら、あれだけの人数を一か所に集めるのは得策ではないはずだ。牟児津には川路の真意が分からない。結局、助けられたのは事実なので知らなくてもいいのだが。


 「牟児津さん、スマホ鳴ってますよ」

 「んっ、うりゅだ!」


 足立に指摘されて、牟児津はすぐに応答した。


 「もしもしムジツさん?教室着いた?」

 「うん。取りあえずね……うりゅは?今どこ?」

 「生物部の部室。ムジツさんの言ってたもじゃもじゃが何なのか分かったよ」

 「マジで!?はやっ!すごっ!」

 「どうしたの?」

 「か、鍵を盗ったもじゃもじゃが分かったって!」

 「もう!?本当に!?早すぎねえ!?」

 「もしもしうりゅ?それ本当に私が見たもじゃもじゃかな?」

 「うん、間違いないよ。ムジツさんが鍵を盗られた辺りを大村おおむらさんが掃除してたら、学園には生えてない植物の葉っぱがあったのを見つけてくれたんだ。それから、生物部で飼育してるわんちゃんが草むらに変なもじゃもじゃが捨てられてるのを見つけたって白浜しらはまさんから連絡があって、葉っぱを照合したら一致したんだ」

 「すげー!うりゅすげー!」

 「私じゃないよ。大村さんも白浜さんも、ムジツさんが大変なことになってるって言ったら協力してくれたんだ。これはムジツさんの力だよ」

 「ほへ……」


 自分はただ追い回されて逃げていただけなのだが、瓜生田にそんなことを言われて牟児津は虚を突かれたような気分になった。きっとその二人は、先に瓜生田や益子が連絡してくれていたから、不審なことをすぐに報告してくれたんだろう。自分は何もしていないのに自分の手柄のように言われて、牟児津は一瞬脳が混乱した。それを察したのか、瓜生田がくすくす笑って続ける。


 「とにかく、私はこれからもじゃもじゃを持ってそっちに行くよ。ちょっと時間はかかるかも知れないけど、待っててね」

 「う、うん!待ってる!」


 電話を切った牟児津は、これから瓜生田が来るという安心感から力が抜け、椅子にもたれ崩れた。どうやら一安心らしいということが周りにも伝わり、少しだけ教室の空気が弛緩した。


 「ど、どういう状況なの?」

 「うりゅがもじゃもじゃを持ってこっちに来てくれるって。取りあえず私は、明日の夕方までなるべく教室にいてやり過ごすことにするよ」

 「いや、たぶんだけど、瓜生田さん?がこっちに来るのって、牟児津さんから鍵を盗った犯人を見つけてもらうためなんじゃ……?」

 「そんなことしたって私に得がないじゃん。鍵取り返したらまた追いかけられるし」

 「それはそうだけど」


 鍵を盗んだ犯人だという疑いはいずれ晴らさなければならないかも知れないが、鍵の争奪戦に関しては既に他の誰かが鍵を持っているなら、今日の16時半になれば全て終わる。今はひとまずそれまで逃げ切ることが大事で、自分から鍵を奪った人物がどこの誰であろうと関係ないのだ。


 「あーくそ、なんでまた私はこんなことに巻き込まれてんだ」


 ため息とともにぼやきを口にし、牟児津は自分のカバンを見た。机の横に吊るしてあるカバンは、だらしなく口を開いて垂れ下がっている。なぜこんなところに鍵があったのかがさっぱり分からない。学生生活委員室から鍵を盗んだのはこのクラスの人間なのだろうか?だとしても、なぜ牟児津にその罪を着せる必要があったのか。鍵を持っていなければ意味がないのに。


 「結局考えてる」


 後ろの席に座ったむろが、考え込む牟児津の顔を覗き込んでつぶやいた。指摘された牟児津は、大きく頭を振って思考を中断した。どうやら最近は色々な事件に巻き込まれて、ついあれこれ考えてしまう癖が付いたらしい。


 「そろそろ葛飾さん戻ってくるくらいかな?ちょっと見て来ようか」

 「気を付けてね鯖井さん。牟児津さんを匿ってることがバレたら、ここもおしまいよ」

 「はいはーい」


 鯖井が、外の様子を窺いに教室の外に出た。風紀委員による規制はまだ続いているが、葛飾は一旦教室に戻ってくると言っていた。大捕り物も終わっているだろうし、戻ってきてもおかしくない頃合いだが、まだやって来ない。戻ってきたら、なぜ風紀委員が牟児津を庇ったのか聞こうと思っていたのに。

 そのとき、ドアが勢いよく開いた。


 「ヤバい!!牟児津さん逃げて!!」

 「えっ!?」

 「教室にいるのバレた!!」

 「なにやってんだあんたあ!!」

 「いたぞ捕まえろっ!!風紀委員が来る前にカタ付けろおおおっ!!」

 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」


 ものの数秒で鯖井は血相を変えて戻って来た。教室内に叫んだ鯖井の後ろから、牟児津を捕まえんとする群衆が教室になだれ込んできた。たちまちクラスを埋め尽くし、しかし牟児津は小さい体を活かして机の下に潜り込んでかわす。同じようにとっさに机の下に隠れた室と目が合った。


 「うおっ!?な、なにしてんの室さん……!?」

 「こっち。逃がしたげる」

 「お、おお……ありがとう……」

 「どこ行った!!探せ探せ!!」

 「ちょっと!人の教室で好き勝手しないでよ!出て行きなさい!」

 「砂野さん!箱根さん!牟児津さんを守るよ!」

 「おーっ!」

 「牟児津さーんどこー!?」

 「ちょっと鯖井さん!足踏んでるから!」

 「なんだこれ戦争か?」

 「みんな分かってる。牟児津さんはこういうのに巻き込まれる人なんだって。だから、助けてあげるって決めたの。黒板アートのとき、みんなひどいことしたから」

 「そんな前のこと……もう気にしなくていいのに」


 頭の上から聞こえてくる雑踏と、それに対する時園や足立の勇ましい声。雄叫びも悲鳴もどきも、足を踏み鳴らしながら人と人がぶつかり合う音とともに机の下まで響いてくる。室に案内されて、牟児津は教室後ろのドアからこっそりクラスの外に出た。


 「私はここまで。牟児津さん。逃げ切ってね」

 「なんかますます事が大きくなってる気がする……室さんはどうするの?」

 「私も、足止めくらいできる」

 「だから戦争かって!そこまですることないから!」

 「行って!早く!」

 「あーもう行かなきゃ空気読めないやつだと思われる!みんなシチュエーションに酔い過ぎだろ!」

 「逃げたぞ追えー!」


 クラスメイトの手引きで、牟児津はなんとか教室を脱出した。教室ははちきれんばかりに人がもみくちゃになり、たった今助けてくれた室の姿は人波に消えていた。風紀委員といいクラスメイトといい、牟児津はただ逃げているだけなのに周りの人がどんどん巻き込まれて、ますます捕まるわけにはいかなくなっていく。もはや目立つ目立たないどころの騒ぎではなくなってきているが、それでも追手は来るので逃げなければならない。牟児津は再び絶叫しながら校内を駆け巡る。

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