その7:部室のカギ争奪騒動事件

第1話「アイドルかよ」


 なんでもない穏やかな日だった。午前の授業は退屈だったが、それもいつも通りだ。昼休みにまったりと昼食を摂った後はずっと机に体を預けてのんびりとしていた。午後の授業が始まるまでまだ時間がある。先にトイレを済ませておこうと、牟児津むじつ 真白ましろは席を立った。

 席を外していたのはほんの数分だったが、牟児津がクラスに戻ったとき、空気がまるで変わっていた。砂糖水の雨でも降ったかのような、ほのかに甘い匂いが漂っていて、クラスメイトたちの顔はどことなく蕩けている。


 「どったの?」


 誰に言うともなく、牟児津は問いかけた。返事をしたのは、普段の凛とした顔つきがすっかり崩れて落書きのようになった、時園ときぞの あおいだった。


 「た、田中たなか副会長がいらしたのよ……ステキだったわぁ……」


 顔だけでなく声も蕩けている。うっとりした表情で薄く頬を紅潮させているのは、恋する乙女ようだ。副会長と聞けば、さすがの牟児津も誰のことか分かった。ここで言う副会長は、高等部生徒会の副会長だ。だが牟児津は、その詳しい人となりは知らない。


 「ふーん。副会長ってどんな人だっけ」

 「伊之泉杜学園高等部生徒会本部副会長兼学生生活委員長、田中田中 光希みつき先輩よ!!知らないとは言わせないわよ!!」

 「ひえっ」


 不用意な牟児津の発言は、時園をはじめ多くのクラスメイトの蕩けた顔を敵意に満ちた顔に変えた。時園が捲し立てた副会長の肩書きも、牟児津にはその半分も理解できなかった。掴みかかられるような勢いで詰め寄られた牟児津は、近くにいた葛飾かつしか こまりに目で助けを求める。


 「あの、真白さん。高等部には生徒会本部と十一委員会があることはご存知ですか」

 「そりゃさすがに」


 正直なところ、牟児津は委員会が11もあるのは知らなかったが、小さい見栄を張った。


 「生徒の自主性を重んじることを是とする伊之泉杜学園うちでは、より生徒に近い位置にいるという理由で、学園本体より生徒会の方が実質的に学生生活全体を取り仕切り、管理する立場にあるんです。中でも高等部では生徒が精神的に成熟しているということで、各委員会の長と生徒会長及び副会長から成る生徒会本部は絶大な影響力を持っています」

 「なんだそのマンガみたいな権力構図」

 「実際そうなってるんだから仕方ないじゃない。活動内容がほぼ警察と変わらない風紀委員なんかが良い例よ」

 「で、田中先輩はその生徒会本部の副会長と学生生活委員長を兼務されている方なんです。普通は片方だけでも、相当な激務で学業との両立は難しいと言われているにもかかわらずです」

 「そんなん大人がやればいいと思う」

 「大人の影響を極力少なくして、学生の自主性や自律性を育てるのが伊之泉杜学園の校風なのよ。初等部から通ってるなら分かってるでしょ」

 「んまあ……」


 正直、分かってなかった。


 「学生委(員の略)といえば時園さんも所属してらっしゃいますけど、学生生活全般に関する総合的な管理運営──特に部や同好会の活動を中心に雑務を担当しています。真白さんに分かるように言うなら、なんでもやるってことです」

 「わあ分かりやすい、ってバカにすんな!それくらい分かるわ!」

 「だから副会長がされてるのはただの兼務じゃないのよ!この学園全体を実質的に運営していく生徒会本部の副会長と、学生生活の全てを管轄する学生生活委員の長を同時に務めてらっしゃるの!総理大臣と大統領を同時にやるくらいすごいことなのよ!」

 「それを国でやったら独裁になるんじゃね?」

 「一般生徒や部会の上にある委員会の、さらに上にあるのが生徒会本部ですから、具体的な実務を担当しているという意味では、事実上この学園で最大の影響力を持ってると言っていいですね」

 「あっそう……そんなラスボスみたいな人がなんだってうちのクラスに」


 時園と葛飾の口から田中副会長という人物の傑物ぶりが語られるほど、牟児津の中でそのイメージがどんどん巨大になっていった。ただでさえ激務の役職を二つ兼任しているとか、事実上の学園内最高権力者とか、そんな浮世離れした話は牟児津には関係のない話だ。なるべくそういった人物とは関わらないように生活してきたのだ。

 だから牟児津はすでに嫌な予感がしていた。そんな女傑が何の意味もなくこのクラスを訪ねるはずがない。何か用があって来たに違いないが、その相手が自分ではないかと戦々恐々している。しかし、それは杞憂だった。


 「なんか鯖井さばいさんに御用だったみたいよ。うらやましいわよねぇ……田中副会長と直にお話できて、あまつさえあんな激励のお言葉をいただけるなんて……!私も副会長とお話してみたいわ……」

 「同じ委員会なら話す機会くらいあるんじゃないの」

 「バカ言わないで!ただでさえお忙しいのに、私みたいな末席の者のために副会長の貴重なお時間を頂戴するなんてことできるわけないでしょ!」

 「感情が難しいなあ」


 副会長ともなると、風紀委員長や広報委員長など、あの一癖も二癖もある面々をまとめる立場だ。相当な人徳者なのだろう。時園はじめクラス全体が蕩けてしまうのも、さもありなんというものだ。そんな人物がわざわざ出向く用事とはいったい何なのか、牟児津は少しだけ興味があった。わが身のこととして考えるとこんなに胃の痛むことはないが、他人事だと思うとたちまち面白そうなゴシップに感じられるから不思議だ。いつも引っ付いてくる番記者の野次馬根性を笑えない。


 「そんな貴重な時間を使わせた鯖井さんっていったい……何やらかしたんだろ」

 「嬉しそうですね真白さん」

 「そんなことないよ」

 「いつも自分がやらかしてるから、人の失敗が嬉しくなっちゃったんじゃないの」

 「私は一回もやらかしてない!」


 牟児津が自分の席に戻ると、ちょうど噂の鯖井さばい はるがそこに陣取っていた。どうやら牟児津の真後ろの席に座るむろ 皐月さつきに用があるらしい。室の机を挟んで、二人は何やら話し込んでいた。鯖井に席を譲って貰うついでに、牟児津は二人の会話に交ざってみる。


 「鯖井さん、室さん。何の話してんの?」

 「おっ?牟児津さんもサバゲーに興味ある?」

 「サバゲー?」

 「そう!サバイバルゲーム!面白いよ!こうやって銃を構えてさ、撃ち合うの!」

 「……いやあ、私はあんまり」

 「やってみたら考え変わるって!室さんもさ、土曜日行こうよ!」

 「私、運動苦手だから」


 どうやら鯖井は、室をサバイバルゲームに誘っていたらしい。一緒にゲームをすることより、最終目的は鯖井が会長を務めるサバイバルゲーム同好会に入会させようという魂胆だろう。室は軽音楽部に入部していたはずだが、ほとんど顔を出していない幽霊部員だそうだ。兼部しても問題ないと考えたのだろう。この学園では、常にどこかで弱小部会による勧誘がなされている。どこも生き残るのに必死なのだ。


 「そんなことより、さっきなんか副会長さんが来たらしいじゃん。何の話だったの?」

 「別になんでもいいでしょ。牟児津さんには分からないことだよ」

 「実定に不備あったって。だから戻し」

 「ちょっと!」

 「へぇ〜。わざわざ来るなんて、ちょうど暇だったんかな?」

 「ついでだってよ?」

 「なんで言うかなあもう!恥ずかしい!」

 「どうせクラス中に知られてるのに。でもラッキーだったじゃん。みんなの憧れ副会長さんとお話できて」

 「確かに集会以外で会うの初めてだったけど、別に私はそこまでだし……むしろ会長の方がよくね?なんか、シャッて感じしてるじゃん」

 「それは同意」

 「ふーん」


 牟児津には会長の顔も、シャッて感じも分からなかった。鯖井の言うとおり、全校集会や行事以外で生徒会長や副会長に遭うことはほとんどない。常に何かの仕事を抱えていて、その他大勢の生徒たちとは別の場所にいることが多いからだ。なので牟児津のような、顔もろくに覚えていない生徒も僅かながらいる。また時園に怒られたくないので、牟児津はその部分については口を閉ざしておいた。

 そしてチャイムが鳴る。午後の授業が始まり、また退屈な時間が訪れた。牟児津は満腹感が呼び寄せた睡魔と戦い、抗い、逆らい、そして敗れた。ぐうすか眠っていると、いつの間にか授業は終わっていてHRが始まる時間になっていた。


 「ふがっ?」


 HR開始のチャイムの音が普段よりも大きく、腹の底にまで響いて牟児津は目を覚ました。いつもと違う鐘の音が聞こえるだけで、教室全体に緊張が走る。何か緊急事態でも起きたのか。全員がスピーカーから流れてくる次の言葉を待った。


 「こちらは生徒会です。全校生徒の皆さん。大切なお話がありますので、ただちに大講堂に集合してください。繰り返します。ただちに大講堂に集合してください」

 「副会長だわ」


 隣の席の時園がつぶやいた。スピーカーから聞こえてきた甘ったるい上品な声は、どうやら件の副会長のものらしい。大切な話とは何か。副会長が全校生徒を集めさせるほどの用事とはいったいなんなのか、牟児津には想像もつかない。しかし放送があったからには、生徒たちは動かなければならない。教師には事前に伝えられていたのか、担任の大眉おおまゆ つばさは冷静にクラスを引率した。


 「よーし行くぞ。トイレとかのときはちゃんと言えよ」

 「デリカシーね〜。モテないぞつばセン」

 「やかましい」


 緊張で物々しい空気に覆われた教室棟の中を、牟児津は大眉に軽口を叩きつつ移動した。突然の呼び出しにも関わらず生徒たちの列はほとんど乱れず、さほど時間をかけず大講堂に全校生徒が集まった。

 既に全員分のパイプ椅子が並べられており、正面の講壇へ近い順に1年生から3年生の区分けがされている。2年生の席からは、1年生の席の中で頭一つ飛び出した背の高い生徒の後ろ姿がよく見える。牟児津の10年来の幼馴染みの、瓜生田うりゅうだ 李下りかだ。牟児津はその姿が視界に入っているだけで、なんだか心強い気になっていた。

 生徒らの不安げな話し声が講堂の壁に響き、言語が雑音になって耳に届く。そのざわつきなど聞こえていないかのように、講壇にひとりの生徒があがった。その姿を現した瞬間、講堂を包んでいたざわつきは一瞬のうちに消え去った。

 その生徒は、マイクの前に立った。


 「皆さん。ご機嫌よう」


 教室で聞いた、あの甘ったるい声だ。講壇に登る段階から一言目を発するまで、その動きは洗練され一切の無駄がなかった。輝く桃色の髪には全く乱れがなく、きれいな軌道を描いて後頭部から腰の下まで流れ落ちている。清楚に着こなした制服の上からでも分かる抜群のプロポーションと、上品な所作を指先まで張り巡らせる凛々しいほどの精神力、そして少女漫画から飛び出してきたかのように円らな両眼。

 離れた場所からでも分かる。クラス中が夢中になってしまうのも納得してしまうほど、その姿は魅力的に映った。この人と同じ学園に通っているという事実だけで、胸が激しく高鳴ってしまうほどだった。そうなってしまっている自分に気付いたとき、牟児津は顔が赤くなるのを感じた。


 「生徒会本部副会長の田中です。本日ここには、学生生活委員長として立っております」


 田中たなか 光希みつきが薄く微笑む。講堂中が桃色のため息を吐いたのが分かった。


 「この度は急に御呼立てにもかかわらずお集まり頂き、誠にありがとうございます。どうしても皆様にお伝えしなくてはならないことが起きてしまいました」


 ただ軽く会釈をしただけだった。それなのに、まるで田中が間近にいるかのように、教室に漂っていた残り香と同じ匂いがした気がした。はっとして周りを見ると、クラスメイトのほとんどはうっとりしている。田中の魅力は強烈だった。もはや精神攻撃に匹敵するレベルだ。


 「先日」


 少しだけ、田中の声色が変わった。相変わらず品性を感じさせるものではあったが、とろけるような甘さの代わりに、堅牢な鉄塊のような重さを感じさせた。ふにゃふにゃにふやけた生徒たちの心には、冷たい鉛を押しつけられたように感じた。


 「とある部が部室を引き払い、一件の空き部室ができました。既に引越作業は完了しており、そこは現在完全な空室です」


 講堂が大きくざわついた。部室棟に空室が生まれることなど、めったにないことだ。そこに部室を構える部は、いずれも優秀な部員や実績に富み、少なくとも数年間は部の継続が安泰であるという認識が、学園内にはある。しかし必ずしもそういった部ばかりではないことを、牟児津をはじめ数名の生徒はよくわかっていた。


 「空き部室の受入先は未定となっておりますので、部屋の鍵は学生生活委員室で保管しておりました。で、ですが……」


 田中が、突然口ごもった。講堂中が生唾を呑み、次の言葉を待つ。


 「そ、その鍵を……紛失いたしました。誠に申し訳ございません!」


 再び田中が頭を下げた。先ほどと同じ香りは漂ってこなかった。その代わり、一段と大きなざわめきが講堂を埋め尽くした。部室棟に空き教室が生じ、その鍵を事もあろうに紛失し、生徒会副会長が表に立って謝罪している。いずれも珍事中の珍事、前代未聞の出来事の連続である。


 「本日は活動実績定期報告書の提出〆切だったため、人の出入りが頻繁にありました。常に委員が在室している必要がございましたが……つい、わたくしがお部屋を空けてしまい、部屋に戻ったときには鍵がなくなっておりまして……!皆様がわたくしを信用して鍵の管理をお任せて頂いていたのに、なんとお詫びを申し上げれば良いか……!」

 「委員長は悪くないです!仕方ないですよ!」

 「そうですそうです!」

 「泣かないでー!」

 「アイドルかよ」


 さめざめと涙を流す田中の哀れな姿に耐えかねて、講堂のあちこちから慰めや励ましの声が飛ぶ。こんな全校集会があるか、と牟児津は逆に冷静になってしまったが、どうやら多くの生徒は田中に同情しているらしい。


 「温かいお言葉、感謝に堪えません。ですがこれは学生生活委員会──否、わたくしの失態です。謹んでここにお詫びを申し上げます」


 要するに、委員室で保管していた部室の鍵を失くしたという話だ。鍵の紛失は確かに一大事だが、牟児津にはあまり実感がわかなかった。学内施設の管理は生徒会と教師側で完結する話であり、全校生徒を呼び出すほどの大騒ぎなのだろうか。

 田中が生徒を集めさせた理由は、すぐに分かった。


 「鍵が既に複製されている可能性を考慮し、当該部室の鍵は学生生活委員会の予算で更新を行います。しかしわたくしは……お尋ね申したいのです」

 「な〜に〜?」

 「アイドルじゃん」


 もはや講堂は田中の涙によって完全に緊張の糸が切られ、その発言のひとつひとつにリアクションを返す場となっていた。恐ろしく支配的な田中の魅力と、あっさりそれに流されている周囲に、牟児津は半ば呆れていた。


 「いま鍵をお持ちの方、どなたかは存じませんが、どうかその鍵をわたくしにお返し願います!そのまま鍵をお持ちになることはあなたの為になりません!今でしたらまだ間に合います!何卒、ご自分でお申し出ください!」


 悲痛な叫び、そして完全な静寂が訪れる。瞳を潤ませ、声を震わせ、懸命に放った田中の叫びは、講堂の壁を虚しく叩くだけに終わった。数秒の間をおき、田中は残念そうに俯き、そして再び口を開いた。


 「……残念です。一時の気の迷いはどなた様もあるもの。清らかな心でありたいのなら、その迷いを濯ぐのは今でしたのに」


 その声色は、聞く者の心を痛くなるほどに締め付けた。まるでそれが自分に向けられたものであるかのように、田中の言葉はいちいち人の心を揺さぶる。だからこそ、次の発言で、弛緩しきった講堂の空気が再び引き締められた。


 「それでは、学生生活委員長として強硬手段を執らせて頂きます」


 雲行きが変わってきた、と牟児津は肝が冷える気がした。ついさっき涙ながらに叫んでいた田中の表情は、今や力強い決意と若干の興奮に満ちている。初めに見せた淑やかで愛くるしい表情といい、いくつの顔を持っているのか分からなくなってくる。


 「本日16時半ちょうど、わたくしは学生生活委員室にてお待ちしております。そこに、件の部室の鍵をお持ちください。お持ちいただいた暁には、学生生活委員長権限で、現在空室となっている部室、その新しい鍵と交換いたします」


 再び、水を打ったような静寂。続けて押し寄せてくるどよめき。田中が何を言っているのか、誰もが理解しかねた。鍵を持って来た人物に空き部室を譲り渡すという宣言。それは、鍵を盗んだ者にとって得しかないのでは。しかし徐々に、講堂は田中の意図を理解し始めた。


 「いま鍵をお持ちになっている方でなくてもも結構です。指定の時刻に鍵をお持ちになった方ならどなたでも、わたくしは交換に応じます。皆様、部室をお求めでしょう?」

 「ほ、欲しいですー!」

 「部室!夢にまで見た部室のチャンスだ!」

 「鍵を持ってるのはどいつだ!見つけてふん縛れ!」


 興奮と熱狂。津波のように押し寄せたその感情の変化に、牟児津はついていけずただ飲まれて耳を塞いだ。見れば多くの生徒は席を立ち、拳を振り上げている。


 「皆様、お気持ちはお察ししますが、どうか伊之泉杜学園に通う淑女としての自覚を忘れずに。危険行為や校則違反はなさらないよう、くれぐれもお願いいたしますね」

 「うおおおおおっ!!」

 「これのどこが淑女だよ」

 「わたくしからは以上です。では皆様、ご機嫌よう」


 激しく高揚する講堂を残して、田中はそそくさと講壇から降りて姿を消した。後に残ったのは、部室を獲得する千載一遇のチャンスに興奮した部室を持たない部会に所属する生徒たちと、その熱に当てられて同様に興奮している生徒たちだった。それについていけない牟児津は、終わったなら早く教室に戻りたい一心で、耳を塞いで座っていた。



 〜〜〜〜〜〜



 「副会長さんってすごいな……。あんなライブみたいな全校集会なんてあるんだね」

 「今日の副会長は特別すごかったわね。いっぱいファンサしてくれてたわ」

 「なんだ副会長のファンサって」


 全校集会から戻った教室は、大盛り上がりのライブ後のような熱気に包まれていた。壇上で涙を流すだけでここまで人々の心を動かす田中のカリスマ性に、牟児津は若干引いていた。強烈な魅力も、ここまで来ると一周回って気持ちが悪い。

 改めてHRが始まり、田中が話した部室の鍵の件についての詳細がプリントで配られた。鍵は、円盤の持ち手に学園のシンボルが彫られた真鍮製のものだそうだ。隣の教室からも色めき立った生徒たちの雄たけびが聞こえてくるが、牟児津にとってはどうでもいいことだ。プリントを雑にカバンに押し込むと、ぐしゃりと潰れる感触がした。

 そして放課後が訪れる。牟児津はいつものように1年生の教室へ向かい、同じくHRを終えて出てきた幼馴染みの瓜生田と合流する。瓜生田の後から、部室の鍵を狙って目の色を変えた生徒たちが濁流のように教室から飛び出した。


 「お待たせ、ムジツさん」

 「おおう……すごい迫力。これみんな鍵探してんの?」

 「というより、鍵を盗んだ犯人かなあ。いちおう聞くけど、ムジツさんじゃないよね?」

 「んなわけないでしょ」

 「そっかあ。あはは、そんなわけないか」

 「冗談キツイようりゅ!ったくもう!はっはっは!」

 「そっかあ。ははははは……いちおう荷物チェックする?」

 「……する」


 何も言わずとも、二人は互いの考えていることが分かった。牟児津にそんな大それたことができるわけがない。そんなことをしても牟児津には何のメリットもない。そういうときに限って牟児津はあらぬ疑いをかけられるのだ。そんなことを何度も経験していると、絶対に大丈夫だと分かっていることでも改めて確認せずにはいられなくなる。牟児津は瓜生田のクラスに入り、その辺の椅子を借りて瓜生田の机に荷物を置いた。中にあるものを手探りで取り出し、ひとつずつ並べていく。


 「筆箱、お弁当箱、水筒、おやつでしょ。あと財布、ケータイ、おやつ、家の鍵、学生カード、バッテリー、おやつ……この辺は貴重品。あとはおやつと教科書とプリントとおやつくらいだよ」

 「また底の方にぐしゃぐしゃに詰め込んで。ちゃんと見せないとおばさん困るでしょ。ほら、のばしてあげるから出して」

 「もう……はい、教科書とプリント。あとおやつ」

 「おやつはもういいよ」


 牟児津のカバンから出てくるものは、ごく普通の女子高生のカバンには当然入っているであろうものばかりだった。怪しいものや疑われるようなもの、ましてや真鍮製の鍵など入っているはずが──。


 「え、なにこれ」


 安心しかけた牟児津の神経に、瓜生田が言葉を突き刺した。ぐしゃぐしゃに潰したプリントを広げた中に、きらりと光る金属がある。その色はどう見ても黄色っぽく、まるで真鍮のような輝きをした、ちょうど鍵ぐらいの大きさの物だった。


 「は?は?は?いやまさか……ちょっと、え?なに?」


 摘み上げてみると、それはまさに真鍮製の鍵だった。持ち手が円盤で、そこに学園のシンボルが彫られている。シンプルな造りで、持ち手の穴に空き部室の教室番号が書かれたタグが針金で括り付けられている。ちょうど、瓜生田が広げたプリントに載っている件の鍵の写真と全く同じだった。


 「お゛お゛ッ!!」


 それらが同一だと理解するや否や、牟児津は出したことのない声とともに鍵をポケットにしまった。自分のものにしたいわけではない。これを持っていることが瓜生田以外にバレたら何が起きるかを想像し、身を守るために隠したのだ。案の定、牟児津の叫びに反応して数名が二人を見るが、瓜生田がなんとか取り繕った。牟児津は全身から噴き出した嫌な汗が制服に染み込んでいくのを感じていた。


 「な、な、な、な、なんであんのなんであんの!?う、う、う、うそでしょ!?」

 「落ち着いてムジツさん。こんなことだろうと思って荷物チェックしたんじゃない」

 「こんなことだろうとは思ってないよ!?なんで学生委員室からなくなった鍵がこんなところにあんの!?」

 「私に聞かれても……ムジツさんこそ、心当たりはないの?」

 「こ、こ、こいつが心当たりのある人間の汗かい」

 「う〜ん、これはウソを吐いてるわけじゃなさそうだね」

 「どーーーしよ!?どーーーしよ!?」

 「パッキャラマドらないでよ。普通に返せばいいんじゃない?」

 「いやでも返すったってうりゅあんた、副会長さんは16時半に持って来いって」

 「それは部室が欲しい人の話でしょ。ムジツさんは部室なんていらないんだから、返した上で辞退しちゃえば解決じゃない。少なくとも学生委には鍵を受け取らない理由はないんだし」

 「あ……そ、そっか……うりゅ頭良い」

 「どういたしまして」


 周囲に怪しまれないようなるべく声を潜めて牟児津は慌て、瓜生田がそれを冷静に宥める。牟児津が鍵を持っている理由は謎だが、返してしまえば争奪戦に巻き込まれることはなくなる。盗んだ疑いをかけられるかも知れないが、それはまた別の話だ。少なくとも今日一日、朝も昼休みも牟児津にはアリバイがあった。瓜生田とクラスメイトたちがその証人だ。

 教室に入る前とは打って変わって、牟児津はドアを開けるのにも慎重になってしまい、却って挙動不審になっていた。鍵は誰にも見られず失くさないよう、ブレザーの内ポケットにしまっておいた。荒ぶる心臓の鼓動で鍵が跳ねるようだった。

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