第3話「私たちに任せて」


 牟児津が追手から逃げて校内を走り回っている頃、そして瓜生田がもじゃもじゃを持って牟児津の元へ向かっている頃、益子はのんびりとお茶を飲んでいた。ただ休憩しているのではない。今回の騒動の遠因であり、部室の代わりに適当な教室に集まってオカルト談議をしている元オカルト研究部の3人を尋ねたのだった。


 「今日は一段と校内が賑やかだね。牟児津君にしてみればたまったものじゃないが」

 「これほどの騒動になってしまうと、逆に新聞部では何を報じればいいのか分からなくなってしまうんですよ。中心にはムジツ先輩がいますけど、田中先輩の大号令や学園各所での騒動も美味しいネタなので。どうにかひとつにまとまってくれないものでしょうか」

 「そんなみゃーちゃんにばっかり都合の良いことなんてあるわけないでしょ。で、私たちに何の用?」

 「その田中先輩についてお伺いしたくて。冨良場ふらば先輩は何か御存知なんじゃないですか?」

 「ふふ……さて、どうかな」

 「そうですよ。冨良場部長は1,2年生と田中先輩と同じクラスだったんでしょう?」

 「ははは、れいほと違ってずいぶん直接的だね、君は」


 オカルト研究同好会会長の冨良場ふらば つきはふにゃふにゃと笑う。なぜ益子に過去のクラスまで調べられているのか、阿丹部あにべ 沙兎さと辺杁べいり 有朱ありすは、他人事ながら不気味に感じた。

 生徒会副会長にして学生生活委員長、今回の騒動に至っては被害者であり火付け役という、なにがなんだか分からない立場にいる田中は、多くの生徒にとっては雲の上の存在だ。3年の同級生であっても、会話したことすらない生徒も多い。その中で、2年間同じクラスだった冨良場は貴重な情報源なのだ。


 「田中君は、そうだな……1年生のときから生徒会を目指して活動していたね。熱心な委員長タイプの子だと思ったものだよ。学生委員として、見事な働きぶりだった」

 「そんなのは分かってますよ。私が知りたいのは、もっと裏の部分です」

 「裏、というと?」

 「阿丹部先輩もベーりんも、裏サイトをよく使ってるなら知ってますよね?田中先輩の噂」

 「ああ、あれ?デマでしょ」

 「私もデマだと思う。あんなの伊之泉杜学園うちでできるわけないでしょ。校是に真っ向から背くじゃない」


 田中の噂、というだけで、その場にいる全員に何の話をしているのかすぐに伝わった。学生として、人間として完成している田中だが、それ故に裏サイトのような場所では勝手な妄想や噂話が垂れ流しになっている。その中で最も有名なものだ。


 「みゃーちゃんらしくもない。裏サイトのデマなんて信じる子じゃないでしょ」

 「ええそうです。でも田中先輩の動きを見ていれば、案外その噂もバカにできないんですよ。今回の件だってそうです。だから冨良場先輩に、過去の田中先輩のことを伺いたいんです」

 「んん……そうだねえ。私は彼女と親しい間柄ではなかったから、そこまでのことは分からないかなあ……。うん、でも彼女のあの目は……よおく覚えているよ」


 冨良場は遠くを眺める様な目をして、過去を振り返った。どうやら益子がまだ知らないことを冨良場は話してくれそうだ。もう少し情報を引き出すのを試みてみようという気になってくる。そのあたりの駆け引きは、益子より上手いのだろう。


 「ちょっと冨良場先輩。駆け引きなんかしてる場合じゃないんですって。やめてくださいよ」

 「ふふ、ごめんごめん。牟児津君には大きな恩があるからね。知ってることは話すよ」

 「でも、そもそもそんなこと知ってどうするつもり?それが牟児津さんの助けになるの?」

 「ふっふっふ……もちろんです。だってこの事件──」


 益子は不敵に笑う。


 「ムジツ先輩は最後に、田中先輩と対決することにさせ──もとい、なりますから」

 「うわあ……牟児津さん可哀想……」



 〜〜〜〜〜〜



 校内を走る牟児津の足は限界を迎えつつあった。追手は劇的に少なくなったものの、立ち止まればすぐに捕まってしまうくらいにはまだ数がいる。交代で追いかけてくる向こうに対し、牟児津の体は一つだ。いい加減に休まないとどこかで倒れてしまう。牟児津は近くに隠れられる場所を探した。


 「あっ……」


 視界の中に、ひとつだけ希望が見えた。この学園でいま、牟児津が自分のクラス以外に唯一身を寄せられそうな場所。そこに飛び込んで助かるかどうかは賭けだ。だが少なくとも、追手を撒くことはできるはずだ。もはやリスクなど考えている場合ではない。牟児津は意を決してそこに飛び込んだ。

 すぐさま追手はその後を追う。牟児津が飛び込んだ教室のドアは固く閉ざされていた。入り口を取り囲み逃げ道を失くす。


 「おーい!出てこーい!」


 追手のひとりが声をあげる。ドアは閉まったままだ。


 「出てこなきゃこっちから行くぞ!よーしみんなとっ──ホォ!?」


 そう言い切るより先にドアが開いた。そして、追手たちは絶句した。現れたのは赤い髪の小さい牟児津ではなく、美しい金髪で射殺すような目の川路だった。追手たち全員の背筋がキンキンに凍る。


 「なんだ。自主でもしに来たか?」

 「ひ、ひえええっ!!撤収!!撤収ゥーーーッ!!」


 川路がひと睨みしただけで、猫の子一匹逃がさない勢いの包囲網は粉々になって追手たちは消え去った。生徒指導室の前から人がいなくなり、川路はふんと鼻を鳴らしてドアを閉めた。


 「この私を人払いに使うとはいい度胸だな、牟児津」

 「さっせんしたあああっ!!」


 入口から室内を振り返った川路の目に、きれいにまとまった土下座をする牟児津が飛び込んできた。突然絶叫しながら生徒指導室に飛び込んできたかと思えば、追われているから助けてくれと懇願してくる。必死に助けを求める生徒をないがしろにするわけにもいかず、渋々川路が出て追い払ったのだ。

 牟児津は牟児津で、下手をすれば自分が追い出されかねない状況だったが、一度風紀委員には助けられているので、もしかしたらと一縷の望みに賭けて駆け込んだ。牟児津は賭けに勝ったのだ。


 「びっくりしましたよ。いきなり真白さんが飛びこんできて」

 「逮捕者の調書を作っていたのにとんだ邪魔が入った」

 「お仕事の邪魔してすいません!でも、今日は風紀委員がなんか助けてくれたっぽいから、頼っていいのかなって!」

 「頼るのは当然だ。我々は学園の風紀を維持するためにある。たとえ貴様があらゆる事件で容疑者になっていようが、善良な一般学生なら保護する。そういう仕事だ」

 「あ……あ、ありがとうございます……。でも、あの……私、例のあの鍵、ホントに持ってたんですけど……?」

 「田中のところから盗んだのか?」

 「いやいやいやいや!滅相もない!!」

 「……今は鍵を盗んだ事件の捜査に割ける人手がない。まずは学園の各地で暴れているバカ共を抑え込むのが優先だ。貴様が真犯人でないなら、今はそれ以上のことは聞かん」


 牟児津は、初めて川路とまともに会話したような気がした。普段の川路はいつも牟児津が事件の犯人だと疑うばかりで牟児津は萎縮して何も話せないし、瓜生田が口八丁手八丁でなんとか疑いをかわしている。それが、今は牟児津を保護対象とさえ言っている。何か心境の変化があったのか、あるいはこの騒動がそうさせているのか。

 ともかく、風紀委員が牟児津を守っていることは確実らしい。一旦は生徒指導室に匿ってもらい、休みながら牟児津は葛飾に教室での出来事を話した。クラスメイトの協力を得ることはできたが、もはや教室すら安全な場所ではなくなっていた。


 「そ、そんな……」

 「なぜ牟児津がクラスにいることがバレた?大声でも出したか」

 「え……い、いやあそんなことは……なんでですかね……?」

 「教室に入るところを見られてたのならもっと早く突入されている。それに貴様が教室に向かったのは、風紀委員が追手を一斉逮捕した直後だ。牟児津が教室にいるという情報が広まってからすぐに教室を埋め尽くすほどの人間が集まるとは思えん」

 「ど、どういうことっすか……?」

 「そのクラスに裏切り者がいるな」

 「はああっ!?う、裏切り者ォ!?」


 牟児津の話を聞いた葛飾ではなく、横で聞いていた川路が独自の推理を話す。推理というより、当たり前のことを話しているような、自信たっぷりな態度だ。風紀委員長として学園の秩序を守る立場にあるためか、牟児津の話の不審な点にいち早く気付き、結論を出した。


 「そ、そんなことあるわけないです!臆測でそんなこと言わないでください委員長!」

 「私は臆測など話さない。牟児津が教室に入ってから突入までの時間、その半端さに不釣り合いなほどの大人数、牟児津が教室にいることを知っている人間……どう考えても手引きした奴がいなければおかしい」

 「で、でも川路さんって、いつも私が犯人だって……あっ、すんませんすんませんなんでもないです」

 「……まあ、想定外が起きるのが現場だからな」

 「……」


 つまらないことを言った牟児津を睨みつけ、川路は言い訳めいたことをつぶやく。気まずい沈黙を掻き消すように、川路が再び口を開いた。


 「牟児津、お前はどう思う?おかしいとは思わないか?」

 「はい?ど、どういうことっすか……?」

 「田中の行動について、不可解なことばかりだと思うだろう」

 「ふ、不可解ってぇと?何のことですか……?」

 「部室の鍵をこそ泥に盗まれるような場所に放置、委員室を無人にする凡ミス、生徒を煽るような鍵争奪戦の宣言、しかもそれらを全てひとりで決めている。どう考えてもおかしい。奴のやることにしては荒すぎる」

 「ほぁ」


 川路が顎を撫でながら、田中の疑わしい点を挙げていく。川路にしてみれば同級生であり、同僚であり、上司のような存在でもある。あろうことか川路は、その田中の行動に不信感を抱いている。生徒会本部のメンバー同士がどんな関係か、牟児津には知る由もないことだ。ただ言葉にならない間抜けな返事を返すことしかできない。


 「この騒動、そして鍵が盗まれたという話……何か裏があるはずだ」

 「裏というと……?田中副会長が何かを企んでいるということですか?」

 「奴は無能じゃない。自分の行動がどういう影響をもたらすか分からないはずがない。であれば、この無秩序な騒ぎを引き起こしたのにも、必ず奴なりの理由がある。それを……貴様が探るんだ、牟児津」

 「ほげえっ!?な、なんで私!?」

 「風紀委員は騒動の鎮圧で手一杯だ。たとえ騒動がなかったとしても、明確な根拠もなしに田中を捜査できん。だが、いち生徒である貴様が勝手に動く分には何も制限されることはない」

 「い、いやそりゃ風紀委員の都合で私に何のメリットも……」


 予惣だにしない角度から川路に命令された牟児津は、心臓が飛び出るほど驚いた。川路とまともに会話しているこの状況ですら、緊張で脳の変な部分が凝りそうだというのに。風紀委員には助けられているが、生徒会副会長の思惑を探るなどという特命ミッションを請けるほどの度胸はない。

 だが、横で聞いていた葛飾はよく分かっていた。川路の命令は絶対だ。そして風紀委員の力を悪用すれば、生徒ひとりを強請ることなど簡単なことだ。


 「そう言えば、貴様は委員室から盗まれたという件の鍵を持っていたんだったな」

 「んぇ?」

 「今すぐ捜査する余裕はないが、重要参考人として身柄を拘束することくらいはできるんだぞ。私に協力して自ら犯人でないことを証明するなら、今は見逃してやろう」

 「きょ、脅迫だ!風紀委員がそんなことしていいのか!」

 「司法取引は立派な制度だ」

 「私は無実だ!」

 「証明されない無実に意味などない」

 「くおおっ……!こ、これが権力の横暴か……!」

 「少なくとも私は今日二度も貴様を助けた。一度くらい協力してもバチは当たらんだろう」


 冤罪は何度となく吹っ掛けられたが、と言いかけて牟児津はやめた。また睨まれるし、それを差し引いても今のこの状況で風紀委員を敵に回すようなことは避けなければならない。そして言葉を飲み込んだことで、牟児津の敗北も決定した。これ以上押し問答を続けたところで事態は変わらない。どちらにせよ、鍵を盗んだ犯人だという疑いは晴らさなくてはならないのだ。なぜこんなにも自分は弱い立場に追い込まれるのか、牟児津はつくづく自分の不幸な運命を呪った。


 「で、でも期待しないでくださいよっ!思ってたのと違うから逮捕とか、ナシですからね!」

 「……まあいいだろう」


 下手を打てば逮捕どころでは済まないかも知れないが、と言いかけて、川路も言葉を飲んだ。それを伝えてしまったら、牟児津はまた尻込みして面倒くさくなる。それにいざとなればこの約束を破ってでも牟児津を逮捕して、田中の追及をかわさせてやればいい。無茶を強いた責任くらいは取るつもりでいた。そのためには、ここは守る気のない約束をしておくのも方便というものだ。

 こうして牟児津と川路は、この騒動に関して田中の思惑を探る協定を秘密裏に結んだ。ちょうどそのタイミングを見計らったかのように、牟児津のスマートフォンが音を立てた。着信は益子からだ。


 「電話か」

 「は、はい。そうですけど」

 「スピーカーにしろ。ただし、私がいることは言うな」

 「な、なんでぇ……?」

 「協力関係にあるのだから、透明性の確保は重要だ。早く出ないと切れるぞ」


 牟児津には川路の考えていることが分からなかった。単にまだ牟児津が鍵を盗んだ犯人である可能性を考えて、通信内容を把握しておきたいだけではないのか。しかし色々考えている余裕はない。牟児津は電話に応答し、言われたとおりスピーカー通話に切り替えた。


 「も、もしもし?」

 「もしもーし。ムジツ先輩おつかれさまですー」


 益子のカンカン声が進路指導室に響く。川路と葛飾が少しだけ眉をひそめた。


 「ま、益子ちゃん?どうしたの?」

 「ムジツ先輩こそスピーカーでお話してどうしたんですか。周りに音聞こえて大丈夫です?」


 面倒なときに限って面倒な部分に気付く。つくづく益子は厄介だ。


 「い、いいから早く話してよ!」

 「はあ、まあいっか。いま私オカ研と一緒にいるんで、合流しませんか?瓜生田さんも教室に先輩がいなかったから、一旦こっち来るそうですよ」

 「な、なんでオカ研?うりゅが行くなら行くけど」

 「ふふふ……喜んで聞いてください」


 益子の不敵な笑いで、嫌な予感が牟児津の全身を駆け巡った。そして、得てしてその予感は当たるものだ。


 「ムジツ先輩、私と一緒に田中先輩の裏の顔を暴きましょう!」



 〜〜〜〜〜〜



 渡りに船とはこのことか、あるいは泣きっ面に蜂か。益子からの電話は牟児津にとって最悪のタイミングで最悪の内容だった。すぐ傍で聞いていた川路にしてみればこんなに都合の良いことはない。そしてどちらの立場も分かる葛飾は、ただただ牟児津に同情するばかりだった。

 その後、牟児津はとにかく瓜生田と合流するために、益子とオカルト研究同好会が待つ特別教室棟の空き教室に向かった。既に各所で風紀委員が暴徒化した生徒の鎮圧にあたっていたため、そこまでの道のりは案外楽なものだった。

 空き教室はカーテンで窓を覆い、電気を消してスマートフォンのライトを天井に当てて代えの灯りとしていた。オカルト研究同好会の雰囲気作りのためだったが、牟児津にとっては身を隠すのに打ってつけで、そこだけは助かった。そして牟児津は、数時間ぶりに瓜生田、益子との再会を果たした。


 「うりゅ〜〜〜!!怖かったよ〜〜〜!!」

 「ひとりで頑張ったねムジツさん。よしよし」

 「まさかあの川路先輩がムジツ先輩を助けるとは。なかなかアツいじゃないですか」

 「逆に面倒事が一個増えたよ……っていうかどっちもあんたのせいだからな!何してくれてんだ!」

 「そんなあ。鍵持ってたのは先輩ですし、さっきの電話の前に川路先輩から同じこと指示されてたんでしょ?私のせいじゃないですよ!」

 「どっちもあんたが輪をかけて面倒なことにしてんだよ!」

 「まあまあ。落ち着いてムジツさん。いつものことじゃない」

 「瓜生田さんナイスフォロー!」

 「フォローだったかなあ?」


 ようやく瓜生田とともに一息つくことができ、牟児津はいくらか疲れが吹き飛んだ。そして、牟児津が置かれている状況と、今後すべきことについて整理することにした。色々なことが同時に起きていて、牟児津の思考回路はショート寸前だ。


 「まず、今のムジツさんがどういう立場なのか」


 音頭をとったのは瓜生田だ。疲弊しきった牟児津は瓜生田の膝の上で横になり、だらしなく肢体を投げだした姿をさらしていた。


 「学生委員室から無くなったっていう空き部室の鍵が、今日の放課後の時点でムジツさんのカバンに入ってた。それをムジツさんと益子さんが大声で話したせいで、学園中からムジツさんは追いかけられてる」

 「賞金首みたいでカッコいいですね!二つ名は『濡れ衣のムジツ』!なんてどうでしょう!」

 「しばくぞ!」

 「その上、その鍵を謎のもじゃもじゃに奪われて、ムジツさんは持ってもない鍵を巡って追われることになった。う〜ん、他人事みたいな言い方だけど、さすがに可哀想だね」

 「もじゃもじゃ……イエティかなんかですかね?」

 「いや、いまはオカルトの時間じゃないわよアリスちゃん」

 「もじゃもじゃの正体は後に話すとして、もう一つ。ムジツさんは風紀委員の川路先輩から、田中先輩が今回の騒動を起こした真意について調べるように依頼されてる」

 「依頼なんて生易しいもんじゃなかったよ!脅迫だったよ!」

 「川路君らしいねえ」


 簡単にまとめると、牟児津が置かれた状況の悲惨さがよく分かった。3つの事件でそれぞれ、容疑者になり、被害者になり、捜査員もさせられている。まるで牟児津自身が事件を吸い寄せているようだ。さすがの益子もこれには同情を禁じ得ず、牟児津に優しい言葉をかける。


 「安心してくださいムジツ先輩。私たちが全力で支えますから」

 「ま、益子ちゃん……」

 「全部終わったら、特集号も組みますね」

 「んなこったろうと思ったよ。もう勝手にすればいいさ」


 これほどの大騒動になって、もはや新聞沙汰にするなという方が無理だ。牟児津はすでにそこはあきらめていた。山積みになった問題を前にして、冨良場が口を開く。


 「さてと、整理できたところで、ひとつひとつ処理していこうじゃあないか」

 「部長、解決できるんですか?」

 「解決するのは私じゃなくて牟児津君さ。私たちは手掛かりを提供するだけだ」

 「そうでした。もじゃもじゃの正体を持ってきたんです」

 「おうっ」


 膝に乗っていた牟児津を横に転がして瓜生田が立ち上がった。空き教室の机の下から、背の高い瓜生田の体すら覆ってしまうほど大きな緑の塊が現れた。それはいくつもの植物が絡み合って人のような形をしていた。まるで植物でできた毛皮だ。葉の隙間から見える迷彩模様に、人の顔に当たる部分は口を開いたように黒い空間があった。巨大な葉と蔦の化け物が突然現れて、牟児津と辺杁は小さく悲鳴をあげた。


 「な、なんですかそれぇ!?こわっ!」

 「生物部部室の近くに落ちてたんだ。ムジツさんが見たもじゃもじゃってこれ?」

 「そ、それだそれ!間違いないよ!」

 「そっかあ。じゃあ犯人も分かるかもね」


 草木に囲まれた場所と違って、室内だとその異形さが際立ってかなり印象が違って見える。だが間近で見たときの驚きでその姿は強く瞼に焼き付いている。夢に出てきそうなほどだ。だから牟児津には、それが記憶の中のもじゃもじゃと同一のものだという確信があった。


 「それなんなの?」

 「これは、いわゆるギリースーツですね。ムジツさんが見たときみたいに、植物に紛れて身を隠すために着る服です」

 「な、なんでそんなもんが学園に落ちてんの……?」

 「ギリースーツを使うのは森や自然に溶け込む必要がある職業の人ですから、たとえばハンターとかスナイパーとかですね。あとはサバイバルゲームなんかでも使われたりします」

 「サ、サバイバルゲーム?」


 あまり耳馴染みのない言葉だが、牟児津は最近それを聞いた気がする。どこで聞いたのか思い出そうと必死で過去の記憶を探る。


 「……サバイバルゲーム、サバゲー?鍵を奪ったってことは……部室が欲しい人、つまり……部か同好会に入ってる人で……。なんでギリースーツなんて……身を隠すだけじじゃないのか……?」

 「悩んでますね。いつもならそろそろ犯人に行きつくのに」

 「さすがに疲れてるからね」

 「ふひぃ」


 瓜生田の見つけてきた手掛かりは大きかった。しかし、ひたすら走り回ったことによる疲れとそれによって混乱した記憶で、牟児津は普段より思考力が落ちていた。


 「他に手掛かりはあるのかい?」

 「私が見つけられたのはこれだけです。暴徒化した生徒を鎮めるために風紀委員があちこちにいて、なかなか自由に動けなくて」

 「私も検問に引っかかって大変でした。瓜生田さんは委員会だからいいですけど、部活生への当たりは強かったですよ」

 「風紀委員……」


 学園中を巻き込んだ騒動になれば、風紀委員が出動するのは当然だろう。それだけ大きな事件があったから、川路は牟児津が鍵を持っていたことへの疑いを一旦は見逃してくれた。そういえば、川路が何か言っていた。川路は──。


 「あっ」


 ごちゃごちゃに混乱した脳の中で、断片的に浮遊していた記憶のピースがかっちりと嵌まる。一度つながった記憶は関連する記憶を取り込んで雪だるま式に大きくなっていき、ひとつのシナリオを作り上げていく。少なくとも牟児津がこれまで見聞きしたことなら、このシナリオはあり得ると言える。確証と言えるものはない。だが、確証を作ることなら──その方法はある。


 「おっ!?ムジツ先輩!鍵を奪った犯人分かりました!?」

 「うん。たぶん。でもまあ、それが分かったところで別に……その人を詰めてもそんなに意味ないっていうか」

 「そうだねえ。鍵は取り返せるかも知れないけれど、最初に戻るだけだ」

 「奪った人が鍵を持ってるって噂を流すのは?そしたら私は狙われなくなるんじゃない?」

 「ただでさえ誰それが持ってるって噂が混在している状況だから期待はできないかなあ。それより、田中先輩が今回の騒動を起こした意図を考えるのはどう?」

 「え、なんで?」

 「そもそもムジツさんが追いかけられてるのは、田中先輩が鍵の争奪戦なんか仕掛けたからでしょ。その意図が分かれば、もしかしたらこの騒動ごと終わらせられるかもよ?」

 「そ、そんなことできるかなあ……?」

 「できるかできないかじゃない!やることに意味があるんですよ先輩!」

 「あんたはそう仕向けたいだけだろ!」

 「でも、川路くんにどやされたくはないだろう?」

 「はむ」


 冨良場の一言で牟児津は選択肢を失った。自分から厄介事に突っ込んでいくようで気乗りしないが、放っておけば川路が何を言うか分からない。やるしかないのだ。とはいえ、田中の情報など牟児津は知らない。今日の全校集会で改めて顔と名前を認識したくらいだ。それだけでも冗談かと思うくらい魅力的な人物だということは分かったが、川路や益子はとにかくその裏の顔を仄めかす。そして今回の騒動は、田中が生徒たちの心を煽ったことで起きた。ただの噂話に過ぎないと一蹴するには、少し思い当たる節が多い気がした。


 「でも私、田中さんのことなんも知らんよ」

 「そのあたりは大丈夫です!ムジツ先輩と瓜生田さんが到着するまでに、私とオカ研で田中先輩に関する噂話を整理しておきましたので!」

 「準備がいいなあ」


 益子は机を集めて作った台の上に模造紙を広げた。夏休みの自由研究のように、そこには田中の基本情報や経歴、噂話や考察などが書き込まれていた。二人が合流するまでの短い時間でよくここまでまとめたものだ。


 「では発表します」

 「よく出来てるのが憎たらしいな〜」

 「まず、田中先輩の基本情報から。フルネームは田中光希、高等部3年生で学生生活委員長兼生徒会副会長です。1年生の頃から学生委として精力的に活動していて、昨年は2年生にして副会長を務めていました。成績は常に学年首位、運動も努力を欠かさず優秀で、おまけに眉目秀麗、品行方正で生徒会の激務をこなしつつそれらを一切鼻にかけない、まさに完璧超人!学園生全員の憧れの的です!」

 「まあ、なんとなくそれは分かったよ。全校集会でも存在感すごかったし」

 「すごい人だよね。みんなが好きになっちゃうのも分かるよ」

 「はい!私もそう思います!でもこういう人にこそ、えげつない顔の一つや二つあって然るべきだとは思いませんか?その方が面白いですし!」

 「ゲスいなあ」

 「いやいや。下衆の勘繰りと一笑に付すには、少々気になることがあってね」


 冨良場がいつの間にか持っていた指示棒で噂話についてまとめた部分を指した。


 「まず、これは3年生の間では有名な話だが……田中君は大の部会嫌いなんだ」

 「部会嫌い、というと?」

 「この学園に多く存在する部や同好会、その数は延べ一千に達するとも言われていた。全国クラスの実力を持つ生徒がいる部や、研究活動だったり地域活動だったりで学園運営に貢献している同好会も多くある。一方で、活動実態がなく名前だけの部、生徒の個人的な趣味活動の範疇に収まっている同好会、その他生まれては消える小さな部会を、彼女はひどく嫌っているんだよ」

 「なんでまた」

 「さあね。学生委員長である今なら、そんな有象無象の部会は業務を煩雑にするだけという理由で説明できる。だが……田中君の部会嫌いは入学当時からだった」


 昔のことを思い出すように、冨良場は視線を上に投げた。その目には、2年前、冨良場たちが高等部に入学した生徒たちに向けたガイダンスの光景が映っていた。シラバスや校内施設の紹介が終わり、会の最後には部会紹介の時間が設けられていた。様々な部会の代表者たちが壇上に上がり、代わる代わる自分たちの活動を紹介し、勧誘の呼びかけをしていた。


 「わたしはたまたま彼女の近くにいたんだが……いやあ、あの目は怖かったねえ」

 「というと?」

 「そうだねえ。まるで何年もかけて探し続けた親の仇を見つけたときのような……ひどく冷たくて、憎しみの込もった目だった。今でも信じがたいよ。彼女があんな目をするなんて」

 「そ、それはでも、部長の印象ですよね……?」

 「もちろんさ。だけどその顔を見たのはわたしだけじゃない。数人とはいえ、みんな同じような印象を持っていたんだ」

 「そうだとしても、印象だけで部会嫌いと言ってしまうのは乱暴な気がします」


 この中に3年生は冨良場しかいない。当時の田中の目を見た人物となると、学園でも数人だ。そんなごく一部に限った話では、たとえ異口同音にその印象を訴えたところで、信ぴょう性は薄い。阿丹部や瓜生田の指摘は尤もだ。

 しかしその場には、そんな僅かな印象さえも武器にして、望む結論に誘導する印象操作人プロフェッショナルもいる。益子がふふんと鼻を鳴らした。


 「ですが、そうした事実があったという前提に立って、今度は田中先輩の経歴を振り返ってみましょう!」

 「もう事実になってるし……」

 「まず1年生のころ!学生生活委員に就任します!それではここでクエスチョン!なぜ田中先輩は数ある委員会の中で、学生委を選んだと思いますか?瓜生田さん!」

 「え、私?えっと……さっきの話を前提とするなら、部会に対して監督権を持つのが学生委だったから、かな?」

 「正解です!」

 「勝手に判定までしてる!なんの証拠もないんでしょ!?」

 「ふっふっふ。ベーりん、ジャーナリストの世界にはこんな言葉があるんだよ──証拠はして見つければいい!」

 「ダブルミーニングだね」

 「かたっぽ犯罪じゃねーか」

 「田中先輩は1年生のころから、模範的な生徒として委員会活動に勤しんできました。そしてその活動が認められ、翌年は2年生にして同委員会副委員長に就任するという異例の人事を達成!さあ続いて冨良場先輩にクエスチョン!副委員長に就任した田中先輩が行った、最も大きな仕事とは!」

 「わあ、わたしに来るとは思わなかった。う〜んそうだなあ。全ての部会に対して、活動実績定期報告書の提出を義務付けたことだ」

 「はい正解!」


 興奮してきた益子が、田中のこれまでの実績に関する記述を叩いた。かつて辺杁が牟児津と図書委員を巻き込んだ事件を引き起こした際に原因のひとつとなった、部会の活動実績を記載して報告するための書類だ。


 「通称“実定”の導入により、名簿上のみ存在している部会や個人の趣味活動しかしていなかった部会は悉く駆逐されていきました!それだけでなく、その様式や内容は厳しく審査され、期限までに完全なものを提出できなかった部会にはペナルティが与えられるように!弱小部会は実定作りに時間を取られて本来の活動が疎かになり、義務感による活動は部会からの人離れを招きました!そして活動も人手もなくなればますます実定に書くことがなくなるという悪循環!結果、半年足らずで学園内の部会の4割以上が消滅していました!」

 「いや、なんか悪しざまに言ってるけど、要は前のオカ研みたいに活動実態がなかったり、部として成立してなかったりした部が減らされてったってことでしょ?そりゃあ……可哀想だとは思うけど、学園からしたら当然のことなんじゃないの?」

 「意外と辛辣ね牟児津さん……って、私が言えた立場でもないか」

 「もちろん、こうした部会の大淘汰によって、学園の部会関係の支出は1〜2割ほど削減されたようです。田中先輩の活動には一定の成果があったと言えます。ですが無駄な部会を淘汰するのが目的だったなら、なぜ今回の騒動を引き起こしたのでしょうか!」

 「な、なになに?どういうこと?」


 益子の指は田中の活動実績からスライドし、今回の騒動とその考察に関する部分に移っていた。ここまでは、噂なり印象なり確実性に疑いが残るものの、一定の説得力を持っていた。しかしここから先は、もはや完全に益子の考察、それも田中の裏の顔をすっぱ抜ければスクープになって面白いというバイアスのかかった考察だ。かなり恣意的な解釈がされていると思って聞くべきだ。


 「今回、田中先輩は鍵を持ってきた生徒に部室を与えると明言しています。部会嫌いの田中先輩が、実績も何も関係なく部室を与えるなんてあり得ないことです!?なぜそんなことをするのか……こんなの裏に意図がないとあり得ないじゃないですか!」

 「部会嫌いって前提を疑いはしないんだ?」

 「ううん……でも、確かに川路さんもそんなこと言ってた。こんな大混乱が起きるのなんてちょっと考えれば分かるのに、あまりにも考えなし過ぎる。何か理由があるはずだって」

 「私が思うに、はじめから田中先輩に部室を渡すつもりなんてないんじゃないですかね。そうやって鍵を持ってきた適当な部会に、鍵を盗んだ犯人の濡れ衣を着せて潰そうとしてるとか」

 「なんでそんな回りくどいことを」

 「最終的に鍵を持ってくるのは、人手が潤沢で統率が取れて結束が固い、しかし優秀な成績を修めている部会には及ばない部会である可能性が高いです。なぜなら優秀な部会はすでに部室を持っていますからね、今回の騒動に加わる意味がありません。すなわち、田中先輩にとって邪魔であり、かつ力のある部会を犯人だとできるわけですよ」

 「な、なるほど。理に適ってる……気がする」

 「……うん」


 益子の推理は、全て益子の勝手な推測に過ぎないという点を除けば、それなりに納得できるもののように聞こえた。だが全て詭弁だ。益子が推理した田中の意図は、田中が部会嫌いで何かにつけて部会を潰したがっているという前提に基づくものだ。それは、2年前に冨良場が感じた印象を根拠としている。それを補強するような田中の実績の話も、部会嫌いの根拠と実定を導入した理由が循環していて、確固たるものはない。


 「つまり田中先輩は、鍵が盗まれた事件を利用して、自分にとって厄介な部会を一つ潰そうとこの騒動を起こしたのですよ!それがこの騒動の真意!そして田中先輩の裏の顔です!」

 「……うぅん、いや、あ〜……だよな?そこ、が……ほったらかしだよ」

 「どうですかムジツ先輩!私の推理!」

 「おっ……おおっ……!?いや、まさか……でも、可能性は……」

 「ムジツ先輩!?聞いてますか!?もしもーし!」

 「益子さん、いまこれ推理モード」

 「えっ、いま私が推理したのに……」


 自分の推理を完全にスルーされたと思い、益子はしょんとした。しかし牟児津が推理モードになったのは、益子の推理を聞いたからである。詭弁で、根拠薄弱で、穴だらけの推理だったが、だからこそその穴を塞ぐ真実が、牟児津には見えた気がした。一度そのひらめきを得てしまえば、後は益子の推理をベースに次々と論理を組み立てていくだけだ。

 今回は考えることが多い。体も疲れている。脳内を情報が駆け巡るほどに茹だるような熱が生じる。指一本動かしていないのに息が切れる。仮定に仮定を重ね、詭弁を屁理屈に昇華し、がらんどうの推理を仕立て上げる。最も肝心な証拠を欠いた、綱渡りの論理だ。それでも牟児津は、この推理をててしまってはいけない気がした。これは、牟児津にしかできない推理だ。


 「ぶへぇっ」

 「わっ!ム、ムジツさん!?大丈夫!?」


 全ての推理が組みあがったとき、牟児津は破裂したように息を吐いて倒れた。もともとしゃがんでいたので転がった程度のものだが、それでも瓜生田は心配して傍に寄る。呼吸が乱れてはいるものの、意識ははっきりしている。そしてその目は真っ直ぐだ。


 「……うりゅ。行こう」

 「行こうって、どこに?」

 「まず、うちの教室。私から鍵を奪った人を捕まえる」

 「え?でもそれじゃあ根本的な解決にならないよ?」

 「うん。だけど必要なんだ」


 牟児津はのそのそと起き上がり、台の上に広がった模造紙を見た。写真の田中と目が合う。


 「その人がいないと、田中さんを追い詰められない」



 〜〜〜〜〜〜



 時刻は16時を回り、外は薄暗くなりつつあった。ほとんどの生徒が田中の宣言した時間を意識し始め、徐々に鍵を諦める生徒たちも出始めた。しかしなおも校内では生徒同士の衝突が起きているため、2年Dクラスの生徒たちは教室で牟児津の帰還を待っていた。カバンが教室に残されていたので、最後に必ず戻ってくるはずだ。そのときに無事に下校させるために待っていたのだ。

 そして、教室の扉が開く。そこには牟児津が立っていた。再びクラスメイトが、牟児津の周りにわっと駆け寄る。


 「牟児津さん!だ、大丈夫だった!?葛飾さんから聞いたけど、あの後も大変だったんでしょ!?」

 「う、うん……でも、大丈夫だよ。時園さんも足立さんも室さんも、みんなありがとう。助かったよ」

 「ううん。私は、少しでも牟児津さんの力になれたなら……よかった」

 「牟児津さん!もう今日は帰っちゃいなよ!今なら人も少なくてチャンスだからさ!」

 「……いや、そういうわけにはいかないよ」


 その一言で、クラスメイトたちは静まり返った。その言葉が、語勢が、声色が、普段の牟児津からは想像できないほど力強かった。葛飾と足立だけは知っていた。今の牟児津は、何かを確信している。隠された真実に至ったときに見せる顔をしていた。


 「少なくとも私は、学生委員室から鍵を盗んだ犯人だって疑いを晴らさなくちゃいけない。今日中に終わらせないとそれを証明するチャンスがなくなるんだ」

 「そ、そっか……でも、どうやって証明するの?もうこんな時間だし、目途があるの?」

 「あるよ。それには、ある人の協力が必要だ」

 「……ど、どなたですか?」


 牟児津を中心に、クラスメイトたちは互いを見やる。牟児津の言い方からは、その協力者が単に牟児津を助けてくれる人という意味ではないように感じた。


 「それは、この子が知ってるよ」

 「この子?」

 「こんばんわあ。お邪魔しまあす」

 「あれ、瓜生田さん……と?」


 牟児津の後から教室に入って来たのは、緊張した雰囲気に似つかわしくない間の抜けた挨拶をする瓜生田だった。さらに加えて、その足元には黒っぽい毛むくじゃらがいた。ピンと立った耳に、人懐っこく笑う口元、つぶらな瞳と突き出た鼻。雑種犬だった。


 「犬?」

 「この子は生物部で飼ってる……ええと、なんて言ったっけ」

 「チップだよ」

 「そう。チップくん」


 愛嬌のある顔をしているチップは、こんな状況でなければクラス中から可愛がられていただろう。しかし今は、なぜ牟児津がチップを連れて来たのか分からず、クラスメイトたちは次の言葉を緊張した面持ちで待った。


 「チップくん、よろしく」


 瓜生田がチップの首輪を外し、牟児津が軽く背中を叩く。するとチップは、ひくひくと鼻を動かして歩き出した。せわしなく首を動かしながら、クラスメイトたちの足の間をするすると抜けて匂いをたどっていく。全員が固唾を呑んで見守るなか、チップは不意に立ち止まった。


 「えっ?ちょっ……きゃあっ!」


 まるで飼い主に甘えるように、チップは立ち上がってその生徒に寄り掛かった。突然のことで受け止め切れなかったその生徒は、よろめいて人だかりの中から漏れ出る。こんな状況では否が応でも視線を集めてしまう。牟児津はその生徒を指さした。



 「やっぱりあなたなんだね。鯖井さん」



 鯖井は青い顔で牟児津を見た。


 「あなたが、私から鍵を奪ったもじゃもじゃの正体。そしてこのクラスに私が隠れてることをバラした。そうだよね」

 「ッ!!」

 「えええっ!?か、鍵を奪ったって……ええっ!?」


 クラス中がざわめいた。牟児津の言うことの意味を理解しかねる者も、鯖井と牟児津を交互に見る者も、何が起きているか分からない。突然矢面に立たされた鯖井は言葉に詰まり、牟児津の追及を許してしまう。


 「私が鍵を持って逃げて草むらに隠れてたときに、鯖井さんはもじゃもじゃの服で近付いて鍵を奪い取った。その後、そのもじゃもじゃの服を脱いで草むらに隠して、何も知らないふりして教室に戻って来たんだ。クラスのみんなに交じって私を助けるふりして、時間になるまで教室で待つために」

 「な、なんでそれが鯖井さんって言えるの?」

 「私に近づくときに着てたもじゃもじゃの服──あれ、ギリースーツって言って、ハンターの人とか軍人とか……あとはサバイバルゲームで使ったりするものだ。サバイバルゲーム同好会の鯖井さんなら、持っててもおかしくないよね?」

 「……ッ!」

 「服は後から回収するつもりだったんだろうけど、先にチップが見つけて、生物部に回収された。それをうりゅがここに持ってくるっていう話を知った鯖井さんは焦っただろうね。ギリースーツが届いたら、一発で自分が犯人だってバレる。それを有耶無耶にして避けるために、外から人を呼んだんだ。私が教室にいるって密告でもしたんじゃない?」

 「うっ……!くっ……!」

 「ギリースーツの持ち主が本当に鯖井さんかどうか、私には分からない。だけど、チップなら同じ臭いの持ち主を見つけてくれる。今みたいにね。だからあのもじゃもじゃの正体は、鯖井さんでしかないんだよ!」


 既に、クラス中の視線が鯖井に突き刺さっていた。牟児津に対して、クラスに対して裏切りを働いた鯖井を見る目は厳しい。いくら言い訳を並べ立てたところで、チップの反応だけはどうしても誤魔化せない。もはや完全な手詰まりか、と言えば、そうではない。


 「くそっ!」

 「あっ!逃げた!」


 鯖井にはまだ逃げるという道がある。鍵はまだ自分が持っているのだ。このまま時間まで逃げ切り、学生生活委員室へ鍵を持って行けば、念願の部室を手に入れることができる。目的は達成できるのだ。鯖井はわき目も降らず教室を飛び出し、廊下を走りだした。


 「ちょっ……!待ちなさい!」

 「ま、真白さん!早く追いかけないと!」

 「大丈夫だよ」


 飛び出した鯖井の後を追って、時園と葛飾が教室の外に顔を出す。しかし鯖井が逃げた奥の廊下には、なぜかうずくまっている葡萄色の髪の生徒がいた。その隣には、益子が満面の笑みで手を挙げている。


 「出た!お願いします木鶴きぬえ先輩!」

 「うん、いつでもいいよ」

 「ッ!」


 鯖井は、直感的にその場で切り返した。このまま逃げても捕まる。そう感じて、反対方向に再び全速力で駆け出す。二人の距離はおよそ100mばかり。陸上部エースの木鵺きぬえ 仁美ひとみにしてみれば、無いも同然だ。


 「よーい!どん!」


 益子の声が届くが早いか。はたまた益子が手を振り切るのが早いか。合図と同時に木鶴は発射かけだした。ミサイルのような速さで一直線に鯖井を追い、葛飾が驚いて瞬きした後には、すでに鯖井の肩に手を触れていた。


 「おあああああっ!!?べべべべっべっ!!?」

 「うそおっ!?」


 文字通り瞬く間に木鵺に捕まった鯖井は、かつての牟児津のように顔で廊下を拭いた。それを確認すると、益子が廊下の反対側から駆け寄ってきて、牟児津たちは教室から廊下に出た。


 「ひぇ〜!さすが、学園最速の名は伊達じゃないですね!おっそろし〜!」

 「別に大したことじゃないけど。こんなんでいいの?」

 「そりゃあもう大助かりですよ!ね、ムジツ先輩!」

 「うん。ありがとう木鵺さん」

 「……まあ、牟児津さんにはお世話になったし。ていうか、また巻き込まれてるんだね」


 一瞬のこととはいえ廊下を端から端まで走ったのに、木鵺は息一つ乱さない。それどころか、牟児津の境遇に同情を示す余裕まである。その間に葛飾が、木鵺から鯖井を預かって拘束した。最後に残された悪あがきも空しく、鯖井はたちまちお縄となった。


 「ぐふぅ」

 「鯖井さん……クラスメイトにこんなことさせないでくださいよ!なんで裏切ったりしたんですか!」

 「くうっ……!あ、あんたたちには分かんないよ!の気持ちなんて!」

 「な、なんですって!」

 「委員会には立派な委員会室があるじゃん!陸上部だって美術部だって生物部だって……みんな部室を持って好きに活動できてるじゃん!そんな人たちに私たちの気持ちが分かってたまるか!拠り所のない私たちの気持ちが!」


 葛飾に拘束されたまま鯖井は叫んだ。力強く向けられたのは敵意、そして羨望だった。ここにいる者のほとんどは、部会や委員会の活動をする場所に困っていない。委員会にも、人数の多い大型の部活にも、どちらにも所属していない牟児津にも、鯖井の気持ちを真に理解することはできないという。


 「伊之泉杜学園うちは部会活動が盛んで、だから自分の好きな部会を自由に設立できた!なのに実際は、実定を出さないとすぐに部会登録は取り消されるし、同好会のままじゃろくに予算が下りなくてまともに活動できないし、部員が少ないといつまでも部に上がれないし……こんなの自由じゃないよ!」

 「それは……でもしょうがないじゃないですか!そういう決まりなんです!やりたいことを好きにするには、やりたくないこともやらなくちゃいけないんです!自由と無秩序は違うんです!」

 「……ううっ。わ、私……怖くなっちゃったんだよ……!2年生になったとき……1年間、私は何をしてたんだって……。実定の提出に追われて、大好きなサバゲーもろくにできなくて、勉強もテストもあるし、それで気が付いたら……1年経ってた……。せっかく同好会も作ったのに……このままじゃ私、高等部でなにもできないって……なんの思い出もないまま卒業しちゃうって……」

 「……」


 いつの間にか鯖井の声は熱く湿っていた。葛飾に押さえつけられながら、崩れていく表情を見せないよう顔を伏せる。胸の内に抑え込んでいた不安を口にして、ますますそれが大きくなってしまったようだ。クラスメイトの中にも、鯖井の言葉に共感して瞳を潤ませている者がいる。

 きっと、今日牟児津を追いかけてきた群衆もみんな、同じような気持ちだったのだろう。部室を持たない弱小部会にとって、この争奪戦は単なるイベントではない。自分たちが学園で活動したという証──居場所を手に入れるための、生存闘争なのだ。躍起にもなるし、裏切りをも辞さずとも仕方ない。


 「部室さえ……部室さえ手に入れれば、私たちは安心できる……。ひとりで使うつもりなんてないよ……!同じように部室に困ってる人たちを集めて、仮の部を作るんだ……!みんなが自由に活動して、自由に部室を使えるような、そんな部を作るんだ……!鍵は渡さない!あの部屋は、の部室にするんだ!!」

 「そ、そんなの……学生生活委員が認めるわけないでしょ!部会名と活動実態の乖離は厳重指導対象よ!」

 「そうでもしないと!!こうしてる今も、この学園で誰かが部会の継続を諦めてる!!その人たちを救えない!!」


 日が暮れる学園からは人影が少なくなっていた。あれだけ大挙して押し寄せてきていた鍵を狙う群衆は、もうすっかり勢いを失っている。今日、部室を手に入れるチャンスを諦めて下校した生徒はどれくらいいただろうか。明日以降、その生徒たちは今日までと同じように息苦しい部会で活動できるだろうか。降って湧いた希望が手をすり抜けて消えていった。そんな失意の中、また同じ希望を信じていられるだろうか。

 今日の騒動で、いったい何人の生徒が心を揺さぶられただろう。何人の生徒が心を痛め、何人の生徒が心を折られただろう。涙を流す鯖井の傍に、牟児津はそっとしゃがんだ。無言で葛飾に手をほどかせ、鯖井を解放した。


 「……?」

 「鯖井さん。鍵は返さなくていいよ。元から私は部室が欲しいわけじゃないんだ」

 「えっ……で、でも……私、牟児津さんのこと、裏切って……!」

 「いいよ。っていうか別に、裏切りなんて思ってないよ。鯖井さんがなんでそこまでして鍵が欲しかったのかも分かったし、理由があるんなら怒らないよ」

 「な、なんで……そんな……!そんなの……お、怒ってくれた方がマシだよ……!そんなこと言われたら……私……!」

 「えっ、ええ……?お、怒った方がいいのこれ?」

 「無理して怒ることないと思うよ。でもまあ、鯖井先輩の気持ちも分かりますよね」

 「分かります、すごく」

 「めっちゃ分かる」

 「なんで!?」


 足立も木鵺も、瓜生田の言葉に同意を示す。牟児津は、自分の平和な学園生活の脅威にならないと判断した相手はとことん許してしまう。それは大らかであるとも言え、他人に興味がないとも言える。

 その場で許してしまうと、相手が自分のしたことを反省し、罪を償って自分自身を許せるようになる時間を奪うことになってしまう。そうしてきたからこそ今日、足立と木鵺は自分の部活動をも差し置いて牟児津を助けているのだ。かつてその機会すら与えられなかった償いを、少しでもするために。


 「そういうわけですから、ムジツ先輩はもっとずけずけ言っていいんです!むしろずけずけ言うべきなんです!それが鯖井先輩のためにもなるんですから!」

 「うぅん……じゃ、じゃあ、元々頼むつもりだったんだけどさ。鯖井さんにちょっとやってほしいことがあるんだよね」

 「ぐすっ……な、なに?」


 そして牟児津は、鯖井に耳打ちする。今日はまだ終わらない。まだ、牟児津が学生委員室から鍵を盗んだ容疑は晴らされていない。その疑いを晴らすためには、鯖井の協力が不可欠だったのだ。他の誰でもない、鯖井にしかできないことだ。


 「その鍵を、学生委員室の田中さんのところに持って行ってほしい。そしたら後は、私たちに任せて」

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