その6:“蒼海ノア”降板事件

第1話「じゃあ真白さんですね」

 

 「あれ、真白さん。残ってお勉強ですか」


 ある放課後、葛飾かつしか こまりは、珍しく居残り勉強をしている牟児津むじつ 真白ましろを見つけた。牟児津は眉をこれでもかというくらいにひそめて、赤いシートを被せた単語帳を睨みつけていた。二つに結んだざくろ色の髪をガシガシかいて、うんざりしながら答える。


 「うりゅが委員会だから、終わるまで英単語の勉強しててだって。そろそろ単語テストに合格しないと、お母さんに言いつけるって」

 「ははあ、それで。瓜生田さんはしっかりしてますね」

 「いやひどくない?お母さんにチクられたらマジでヤバいよ。塩瀬庵の新作お菓子もあるってのに!」


 牟児津はカバンからチラシを取り出して、葛飾の鼻先に突きつけた。一面にでかでかと掲載されているのは、食欲をそそる黄金色に輝く饅頭だ。くどいほどの広告装飾と宣伝文句が散りばめられて、商品を押し出そうという商魂を強く感じる。


 「わっ、金ぴか」

 「期間限定・数量限定の黄金饅頭!去年はお小遣いなくて買えなかったんだよね。一年待ったんだから!こんなん食べなきゃウソでしょ!」

 「美味しそうですねぇ。でも、もう発売されてますよ。間に合うんですか?」

 「次のお小遣い日ならギリ。開店ダッシュすればいける、はず!」

 「そのためには単語テストで合格点を取らないといけないと」

 「マジでさぁ……本当に、今のままじゃ小遣いカットじゃ済まないかも。返上まである勢いだよ」

 「自分でそう思うってことはよっぽどですね。ちなみに先週の単語テストは20点中何点だったんですか」


 牟児津は人さし指を一本立てた。


 「さすがに0点じゃなかったんですね」


 まあ範囲も20単語でしたけど、と言いそうになったのを、葛飾はすんでのところで堪えた。


 「全部同じの書いたら1個当たった」

 「実質0点じゃないですか。むしろよく丸もらえましたね」


 いくらなんでもひどすぎる。が、それも仕方ないと言えば仕方ないのかも知れない。牟児津は、この学園で起きる色々な事件に、なぜかやたらと巻き込まれる。葛飾が知っているだけでも3つの事件で容疑者になり、その全てを解決して自らの疑いを晴らしてきた。いずれもその日のうちに解決したものの、近頃は休みの日まで事件解決のために奔走しているらしいから、単語テストの勉強どころではないのだろう。

 それでも、牟児津と一緒に事件に巻き込まれている1年生の瓜生田うりゅうだ 李下りかは、聞いた話では学年トップクラスの成績を維持しているらしい。それを考えると、単純に牟児津が勉強を怠けているだけなのかもしれない。


 「瓜生田さんの委員会が終わるまで勉強してれば、少なくとも実力で1点は取れるようになりますよ」

 「こまりちゃん。さすがに志が低過ぎる」


 本当は1点も取れる気がしていないのを、せめて希望が持てるように盛ったつもりだった。志が低いとは言うが、単語の勉強をしながら菓子を食べている姿からは、いまいち本気さが伝わらない。

 牟児津の今日のおやつは、チラシに乗っていた黄金色の饅頭とは似ても似つかない、焼き印の入った一口サイズの団子だ。それを、1ページめくるごとに食べている。見開き1ページの単語を覚えるのにどれだけ糖分を必要としているのか。


 「なに食べてるんですか?」

 「これはやっすい黒糖団子。30個入り200円(税別)」

 「ひとつ頂いても良いですか?」

 「いいよ」

 「ありがとうございます。はもぅ……あ、おいしい」


 口に放り込むと、ほんのり黒糖のまろやかな甘みを感じた。値段の割に美味しい。確かに、食べれば勉強を頑張れろうと思えるくらい、優しい甘さに溢れていた。しかし牟児津の進捗は芳しくないようだ。そんな絶望的な状況を打ち砕くように、牟児津のスマートフォンが震えて音を立てた。瓜生田からの連絡だった。まだ終わるには早いが、暇なので図書室で一緒に勉強しようという誘いだった。


 「ゆるいですねえ、図書委員。いいなあ」

 「風紀委員はこういうのとは真逆っだよね」

 「本当ですよ。今の委員長は特に厳しいですから、命令には絶対服従です。逆らえません」

 「同情するよ。じゃ、私は図書室行くわ」


 牟児津は荷物を持って教室を出た。まだ部活が始まったばかりで、グラウンドからは活気のある声が聞こえてくる。空き教室では、部室を持たない部や同好会が自由に活動していて、廊下を歩いているだけで文化祭のような賑やかさだ。

 教室棟から渡り廊下を通って、特別教室棟に移る。瓜生田が待つ図書室や職員室など、教室以外の学園生活に必要な部屋が集まった建物だ。牟児津がいる階には、生徒会室や各委員会の執務室などがある。


 「イットサウンズほにゃらら……ほにゃららに聞こえる。イットルックスほにゃらら……ほにゃららに見える」


 牟児津は図書室までの時間も無駄にすまいと、単語帳を見ながら歩いていた。さながら二宮金次郎である。のろのろ歩いていた牟児津の前方で、扉の開く音がした。生徒会室しかないこの場所で扉が開くのが珍しく、牟児津はつい前方を見て、思わず足を止めた。

 生徒会室から現れたのは、美しい金髪を首の後ろで結んでまとめ、細い足がスカートの下から床まですらりと伸びるスタイルの良い生徒だった。ナイフで切ったような鋭い目と全身にまとうオーラが、全方位に威圧感を放っている。伊之泉杜学園風紀委員長にして牟児津の天敵、川路かわじ 利佳としよその人であった。


 「あヒ……」

 「んっ?」


 川路が牟児津に流し目をくれる。全身の血流が止まったような気がした。学園生の中にはこれで興奮する人もいるらしい。奇特な趣味を持つ人がいるものだ。牟児津には心臓が破裂するようにも、硬直して停止するようにも、いずれにせよ体に悪い影響しか感じない。その眼に捉えられた牟児津は、しかしいくらか落ち着いていた。今日はまだ何もしていない。何もしなければ川路が追いかけてくることはない。刺激せず落ち着いて対処すれば危険はないはずだ。


 「あっ……す……」


 そうして牟児津は、野猿と同じ対処法で川路をやり過ごそうとした。通り過ぎざまに軽く会釈をして、そそくさとその場を立ち去ろうとする。が、


 「おい待て」


 呼吸を止めて一秒。川路は真剣な眼をした。そこから何も言えなくなった牟児津。次の瞬間──。


 「待て牟児津!!待てえええっ!!!」

 「ぎゃああああああっ!!!なんで!!?なんで追っかけてくるのォオオオオオオッ!!?」


 牟児津と川路は同じ方向に全力で駆け出していた。


 「逃げるな!!話を聞けっ!!聞かんかあああっ!!!」

 「ど゛う゛し゛て゛な゛ん゛だ゛よ゛お゛お゛お゛!゛!゛!゛」


 絶叫しながら牟児津は逃げた。すさまじい足音を轟かせ、二人は廊下の奥へと消えていってしまった。


 「あら……利佳さんがお叫びになっていらっしゃいますわ。どうなさったのでしょう?」

 「ムジツって聞こえたぞ。さっき言ってたムジツじゃねえか?」

 「ふうん……あはっ!She looks interesting(おもしろそうね)!」


 生徒会室の奥から、生徒会本部員の面々がその様子を眺めていた。



〜〜〜〜〜〜



 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」


 川路から逃げ回って、牟児津は図書室からどんどん遠ざかっていく。気が付けば学園中をぐるりと回って、自分の教室の近くまで戻って来ていた。教室の前に差し掛かると、牟児津は葛飾と再会した。


 「きゃあっ!?ど、どうしたんですか真白さん?そんなオモチャみたいな声出して」

 「助けてこまりちゃん!鬼が……鬼が来る!」

 「鬼っ!?」

 「葛飾あああっ!!」

 「あっ!おに──じゃなくて川路委員長!」

 「そいつを捕まえろぉ!!」


 葛飾は瞬時に状況を把握した。また牟児津が何かをやらかして、あるいは何かの犯人だと疑われて川路に追いかけられる羽目になったのだろう。自分はそこに鉢合わせてしまったわけだ。そうなれば、やることは一つである。すぐさま葛飾は持っていた荷物を廊下の隅に投げ、牟児津を後ろから羽交い締めにした。


 「おぎゃあっ!!?な、な、なにしてんのこまりちゃん!!?」

 「すみません真白さん。私たち風紀委員は……委員長の命令には絶対服従。逆らえないんです」

 「裏切り者ォ!!」

 「同情します」

 「同情するなら腕ほどけぇ!!」


 葛飾を振りほどこうと牟児津は暴れる。だが、少なからず人を取り押さえる心得のある葛飾相手には、悲しいほどに無意味な抵抗だった。川路がようやく追いついてきた頃には、牟児津は疲れ切ってぐったりとしていた。葛飾は、今度は何があったのか、何か風紀委員としてすべきことがあるかを、その場で川路に尋ねる。しかし川路は、


 「風紀委員としてすることはない。ご苦労だった」


 とだけ言って、そのまま牟児津を連れて特別教室棟の方へ行ってしまった。


 「?」


 風紀委員としてすることがないなら、クラスメイトを裏切ってまで命令に従った意味はあったのだろうか。自分は今、本当に牟児津を捕まえるべきだったのだろうか。廊下の隅にうっちゃられた荷物を拾い上げ、葛飾はもやもやした気持ちを抱えたまま玄関へ向かおうとして──踏み出したその足を戻した。そして、特別教室棟に足を向けた。



 〜〜〜〜〜



 牟児津が連れてこられたのは、生徒指導室でもなければ風紀委員室でもなかった。風紀委員室と同じ階の廊下を、さらに少し奥まで進んだところにある、妙な扉の前だ。

 スモークのかかった分厚いガラスの奥は黒く、ドアの縁が鏡のように景色を反射してきらびやかに見える。ドアノブは黒い革でぐるぐる巻きに保護され、触るのもためらわれる雰囲気だ。風紀委員室が重役室のような威圧感を放っているのに対し、ここは高校生が入ってはいけない店のようないかがわしさを醸し出している。こんなものが学園内にあっていいのか。つくづく牟児津は、この学園の特殊さに呆れてため息が漏れた。


 「旗日はたび!連れて来たぞ!」

 「Welcome(ようこそ)!トシヨ〜〜〜!!」

 「もがっ!?」


 川路がドアを開けるや否や、黒いカーテンの向こうから勢いよく人が飛び出してきた。牟児津はそれに驚く暇さえ与えられず、両手を広げたその人物の胸の中に埋もれていた。何がなんだか分からない。


 「あら……どうしたの。お礼にハグしてあげようと思ったのに」

 「いらん。とっととこいつを受け取れ」

 「シャイなんだからもう!あ、この子がムジツさんね」

 「はぶはぶはぶ」


 どうやら牟児津は、飛び出してきた人物と距離を取るため川路の身代わりに押し付けられたようだ。会話を聞いている限り、どうやら川路とは親しい仲のようだが、ハグとはまた恐れ入った。牟児津には、川路が誰かと抱き合っているところなど全く想像がつかない。首根っこを掴んでいた川路の手が離され、牟児津は両脇を支えられてようやくその人物と相対した。


 「ハァイ、はじめまして。広報委員長の旗日はたび よるよ。Nice to meet you(よろしくね)」

 「えっ、あっ……?あの、む、牟児津真白です……ミートゥー?」

 「あはっ!あなたカワイイわね!」

 「へっ?はうぎゃっ!?」


 星を閉じ込めたようにキラキラ輝く瞳、銀河を被っているような色合いのウェーブヘア、陽気に跳びはねるような声と、季節感のない半袖のシャツに紺色のネクタイを締め、下はミニスカートだ。一目見て牟児津は、それが自分の理解できる範疇を外れた人間なのだと直感した。おまけに中身が絞り出されそうなほどハグが熱く力強い。牟児津の体がおかしな方向に曲がる。川路は、


 「ハグ魔め」


 と吐き捨て、その場を立ち去った。牟児津は苦しみに呻き声をあげながら、黒いドアの奥へ連れ去られていった。



 〜〜〜〜〜〜



 旗日に抱えられたまま黒いカーテンをくぐった先は、およそ高校の中とは思えない部屋だった。


 「さあムジツちゃん!紹介するわ!ここが学園の顔!伊之泉杜学園高等部広報委員会よ!」


 部屋の中央にはいくつもの事務机が並んでいた。大型モニターや大量の本、ファイル、片付けられていないゴミ類が机の上を埋め尽くしている。壁沿いには事務戸棚が並び、他にはインテリアとして大きなのっぽの古時計と、同じくのっぽの観葉植物が置かれている。空気清浄機が大きな音を立てて稼働しているにもかかわらず、部屋の中に滞留して淀んだ人熱ひといきれとパソコンの放射熱によって温められた嫌な臭いが消しきれていない。

 しかしこの部屋で最も目を引くのは、部屋の奥にあるひときわ上等な事務机と革張りの椅子──おそらく委員長席だろう──、その横に立つスタンドパネルだ。全体的に青っぽい色調にまとめられたCGキャラクターが描かれており、全身を大きく使った独特のポーズをしていた。明らかにこの空間から浮いていて、その異質さが薄気味悪い。

 居並ぶ面々は誰も彼もパソコンの画面を食い入るように見つめ、青白い肌をしていたり目元に大きなくまを作ったりしていて、いかにも不健康そうだった。ここでは、極端に陽気な旗日の方が異分子だった。


 「ハァイEveryone(みんな)!ムジツちゃんが来てくれたわ!これでもう大丈夫よ!」


 びっくりするほど無反応だった。場違いに明るい旗日の声が、誰にも届かずむなしく響いた。それでも旗日は満足げだ。


 「あはっ!みんな歓迎してくれてるわ!」

 「なにがどう見えてんだあんたは!恥かかすなよ!」

 「Don't be shy!恥ずかしがることなんてないわ。きっとこれから楽しいことがたくさん待ってるんだから!ムジツちゃんにはワクワクする気持ちだけあればいいの!」

 「はあ……?」

 「ほら、そこのあなたも隠れてないで出てきなさい!Come out(出てらっしゃい)!」

 「へっ?ひゃあああっ!?」

 「えっ!?こまりちゃん!?」


 旗日は牟児津を抱えたまま、脚で黒カーテンをまくり上げた。きれいな上段蹴りの軌道の下で、突然のことに瞬きすらできなかった葛飾が悲鳴を上げる。その姿に最も驚いたのは牟児津だった。


 「な、な、なんで……!?わ、わかっ……!」

 「あら、トシヨのところの子ね!ふむふむ……あはっ!あなたもちょっとカワイイわね!」

 「なんでこまりちゃんがいんの?」

 「ま、真白さんが連れてかれた理由を確かめなくちゃと思って、こっそり潜り込んだんです……。あの、今どういう状況ですか?」

 「いや私も分かんないんだよ……何にも説明されてないし」

 「これから説明するわ!ちょうどいいからあなた──コマリちゃんね?コマリちゃんもこっちに来なさい!ユーリ!おもてなしして!」

 「はあ……はいはい」


 ハッスルしている旗日とは対照的に、牟児津も葛飾も状況が呑み込めず困惑している。そして広報委員は全員がゾンビのような顔色だ。不気味なほどの温度差である。唯一名前を呼ばれた生徒だけは、若干の疲れを見せつつも席を立ってキビキビと動き始めた。



 〜〜〜〜〜〜



 牟児津と葛飾は、旗日に連れられて部屋の隅にある会議用のスペースに移動した。旗日は二人を席に座らせると、わざわざ委員長席の隣にあったスタンドパネルを会議スペースに持ち込もうとし始め、引っかかった髪の部分を通そうと四苦八苦していた。その間に、先ほど旗日に名前を呼ばれた生徒が牟児津と葛飾にそれぞれお茶を出した。短い髪と整った顔立ちが目を引き、濃いアイシャドーと真っ赤な口紅を塗った気の強そうな生徒だった。


 「悪いな。アレはああいう子だから、もうちょっと付き合ってほしい」

 「はあ……あの、あれはいったい……?」

 「んん……取りあえず、話を聞いてやってくれ。その後でちゃんと説明する」


 そう言って、短髪の生徒は会議スペースの隅に立ち、旗日の準備が整うのを待った。何も聞けない雰囲気の中、牟児津と葛飾は旗日の動きをじっと見ていた。ようやくパネルを運び終わると、旗日はさっきのテンションを維持したまま声を張り上げる。


 「ムジツちゃん!あなたみたいなカワイイ子が彼女だったらいいのにね!」

 「はあ?」

 「ワタシはいつだってあなたを待ってるのよ!不満があるなら遠慮なく言ってちょうだい!改善するわ!少なくともあなたがワタシから逃げなくちゃいけない理由なんてひとつもないのよ!」

 「マジでなに言ってんだあ?」

 「あの……旗日先輩。先輩と真白さんは、いったいどういう関係なんですか?」

 「だから本当のことを話してちょうだい。あなたは彼女なの?それとも彼女じゃないの?」

 「なるほどな〜、人の話聞かないタイプか」


 牟児津は早々に旗日との意思疎通をあきらめた。自分の話が終わるまで一切の横槍を受け付けない鋼の意思を感じ、隅に立っている短髪の生徒に目で助けを求めた。それを察知してか、あるいはもっと前からこの展開を予想していたのか、短髪の生徒は旗日の横に並んで話し始めた。


 「いきなりでびっくりしているだろう。今からちゃんと説明するから、安心してほしい」

 「はあ……お願いします」


 その生徒は淡々と言って、横にあったキャスター付きのホワイトボードを正面まで転がした。マーカーを使って図解しつつ、今の状況と牟児津が連れて来られた理由を説明し始めた。


 「まず、この人は広報委員長の旗日夜。テンションが高いのと何言ってるか分からないのは、今すぐにはどうしようもない。こういう生き物だと思ってあきらめてほしい」

 「初っ端からあきらめろなんて説明があるか」

 「魚を陸に揚げても歩けないのと同じだ。黙れと言っても黙れないし、話を聞けと言っても聞けないんだ」

 「ノンノン。トビハゼという魚は干潟を跳ね歩くのよ。鰓呼吸と肺呼吸を両方可能にすることで陸上での活動能力を得たハイギョという魚もいるわ。生き物の多様性は無限の可能性を秘めているってことね」

 「すいません、あきらめます」


 牟児津はすぐに前言撤回した。


 「私は副委員長の黄泉よみ 裕里ゆうりだ。基本的に委員会の実務は私がまとめている」

 「はあ、さぞかし大変でしょうね」

 「牟児津さん。いきなり川路に追いかけられてびっくりしただろう。怖い思いをさせたのは申し訳ない」

 「いやホント怖かったですけど……なんで広報委員が謝るんですか?」

 「実は、川路に牟児津さんを探すよう依頼したのは広報委員うちなんだ」

 「川路委員長にですか?風紀委員にではなくて?」

 「機密性の高い内容でな。今日の生徒会本部会議で、夜から川路に伝えてもらったんだ。まさかこんなに早く連れて来られるとは思っていなかった」

 「奇跡的な間の悪さだったわけですね」


 それで突然追いかけられたのか、と牟児津は納得した。さすがに理由もなしに追いかけ回される筋合いはない。だとしてもあんな形相で追いかけることないのに、と心の中でぼやいた。


 「ですが、なぜ広報委員会が真白さんを探してたんですか?」

 「うん。それが……」

 「あなたに“蒼海そうみ ノア”になってほしいからよ!ムジツちゃん!」

 「……あぁん?」


 牟児津の口から、思わず柄の悪い声が出た。せっかく黄泉が順を追って説明してくれているのに、旗日の説明になってない説明のせいでまたこんがらがる。だが、旗日は気にせず続ける。


 「いま一番フレッシュで勢いのあるVirtual streamer(ヴァーチャルストリーマー)!そして伊之泉杜学園の広告塔!清楚可憐な小動物系大和撫子!配信すればオヒネリハリケーンを巻き起こす!そんなハイパーカワイイ“蒼海ノア”ちゃんになってほしいのよ!」

 「……では説明する」

 「お願いします」


 旗日の説明ではやっぱりさっぱり分からないので、改めて黄泉が説明する。牟児津たちも初めから旗日の話は聞き流していた。


 「うちの委員会では、伊之泉杜学園全体の広報を担当してる。特に夜は学園外への広報に力を入れてて、その一環でVストリーマーを製作した。それがこの“蒼海ノア”だ」

 「製作したあ?」


 旗日が持ち込んだパネルを指さして、黄泉が言った。Vストリーマーとは、インターネット上に動画を投稿し広告収入を得ているストリーマーと呼ばれる人々の中でも、3Dアバターを使い匿名で活動している人々だ。この頃はテレビや街中でもよく目にするようになってきたので、さすがの牟児津でも知っている。


 「工学総合研究部に3Dアバターと動画素材の製作を依頼した。動画編集は広報委員で行っている。特別予算を組んだ一大プロジェクトだ」

 「全然知らなかった……」

 「蒼海ノアは既に学園の広報動画に出演し、SNS上でも評価を得て学園内外にファンを作っている」

 「ワタシがデザインしたのよ!すごいでしょ!カワイイでしょ!」

 「文字通り自画自賛だな」

 「幸い、委員の中に動画編集の心得がある者がいたから動画は作成できているが……夜の発案する企画量と内容に人員が追い付いていないのが現状だ」

 「ははあ、それであのゾンビ軍団の出来上がりってわけですね」

 「夜に無理してついて行こうとするからああなるんだ。後で休ませないと……」

 「黄泉先輩が一番疲れてらっしゃるんじゃないですか?」

 「私はもう慣れた」


 聞けば聞くほど旗日の無茶苦茶っぷり明らかになる。無限の体力と尽きないテンションを持ち、しかもそれに対する自覚がない。おまけに行動の全てに悪意がないから余計に始末に負えない。黄泉が副委員長としてなんとか手綱を握り、委員たちのケアをしているから成り立っているのだという。


 「で、そんなブラック委員会が私に何の用ですか?」

 「実は、蒼海ノアで今後も色々な企画を立ち上げているんだが……先日、急に降板を宣言されてしまった」

 「えっ?」

 「多くのVストリーマーと同様、蒼海ノアも名前や顔を明かしていない。私たちにもな。連絡は全てメールで行っていたんだが、唐突に蒼海ノアを辞めると連絡があったんだ。いきなりのことで原因も何も分からないが、どうにも向こうの意思は固そうでな」

 「あの、ひとついいですか?」


 黄泉の話の途中だったが、葛飾が遠慮がちに手を挙げた。


 「なんだ?」

 「動画素材は工総研が製作してるんですよね?そのメールでやり取りしてる人というのはいったい……?」

 「ああ。声優担当だ」

 「声優?」

 「工総研で用意できるのはパソコン上で完結するものだけらしい。だから動画上の蒼海ノアにあてる声は、うちで用意しなければならない……というより、夜の趣味で用意することになった。そして校内で声優を募集して、オーディションを行った結果、現在の担当に決まった。我々もその正体は知らないが、いつも音声データを送ってもらっている」

 「ええ……なんじゃそりゃ……」


 よくそんな正体不明の人物の音声を学園の広報に使うな、と牟児津も葛飾も呆れた。一大プロジェクトという割にところどころ杜撰なのは、おそらく旗日の猛烈なプッシュによって杜撰なまま進めざるを得なかったのだろう。


 「なんとか説得は続けているが難航している。そこで、万が一に供えて代役を任せられる人を探していて──」

 「You are singled out(あなたに白羽の矢が立ったってワケよ)!ムジツちゃん!」


 旗日がなんと言ったのか、牟児津には聞き取れなかった。しかしニュアンスで分かる。つまり、牟児津に学園の広告塔をやれと言っているわけだ。それもインターネット上となれば、その対象はおよそ全世界に及ぶだろう活動をさせようとしているのだ。


 「───ぃ」


 あまりに大きすぎる話で言葉が出なかった。そんなもの、目立つとか目立たないとかの話ではない。想像することもできないほど騒々しい世界に上空から突き落とされたような気分だ。


 「イヤイヤイヤ!!意味分かんなすぎるって!!はあ!?あんたら頭おかしいんか!?なんだVストリーマーとか!そんなことするわけないだろ!!」

 「思っていた以上に拒絶するんだな」

 「真白さんは目立つことが嫌いなんです。Vストリーマーなんて逆立ちしても無理ですよ」

 「そうなのか?学園一の名探偵と学園新聞に書いてあったから、満更でもないと思っていたんだが」

 「そうよ!レイホのとこの新聞には載ってあげてたじゃない!」

 「それは益子バッキャロウが勝手に載せてんだッ!!」

 「照れちゃってもう!この前の『図書館蔵書持ち去り事件』はシビれたわよ!大学部にまで乗り込んだんだから知名度はばっちり!Vストリーマーデビューまでしたらこの勢いでテッペン取れるわ!」

 「なんのテッペンだ!絶対ヤだ!そもそも私が代役やったってすぐバレるだろ!」

 「いや。むしろ私たちは、蒼海ノアの正体が牟児津さんである可能性すら考えていた」

 「はァーーーッン!?」


 全力で拒絶する牟児津に、あくまで黄泉は冷静に返し、手元の書類に目を落とす。どうやら蒼海ノアに関する資料らしい。


 「まず、蒼海ノアは学園内部の者であることは確定している。応募は校内でしかしていないからな」

 「ということは、学園生の誰かっていうことですか」

 「生徒とは限らないが、少なくともその可能性が最も高いと考えている」

 「いや私じゃないって!そんなの他にやってそうな人なんて山ほどいるでしょ!」

 「ただな、夜が言うには、蒼海ノアは甘いお菓子に目がないらしい」

 「じゃあ真白さんですね」

 「おいっ!」

 「だって真白さん、登校してきてまずお菓子。お昼ご飯の後にもお菓子。放課後も自分へのご褒美とか言ってまたお菓子食べてるじゃないですか。家に帰ってからも食べてるんでしょう?好き過ぎですし食べ過ぎなんですよ」

 「いやフツーだって!他の人もそれくらい食べてるって!」

 「他に手掛かりはあるんですか?」

 「他か。自分の体にコンプレックスがあるという情報もあるな」

 「じゃあ真白さんじゃないですか」

 「なんでだよ!コンプレックスなんかねえわ!」

 「え?なんでないんですか?」

 「どういう意味だ!」

 「あとは自称だが、周りを巻き込むほどの不幸体質らしい」

 「じゃあ真白さんですって」

 「おいおいおいおい!!」

 「今まさに発揮されてますよ、不幸体質。今までだってそうじゃないですか」

 「これは不幸とは違うだろ!違う、よね?違うんじゃないかと思う!」

 「あはっ!あなたたちおもしろーい!」


 牟児津は一つも納得できないが、葛飾が聞いても蒼海ノアの特徴は牟児津にも当てはまっているように思えた。目立つことを何よりも嫌うという、決定的な性格の齟齬さえ知らなければ、牟児津が蒼海ノアの正体だと考えるのも無理からぬように思う。


 「とはいうものの、実際に牟児津さんが蒼海ノアかどうかは問題ではない。要は二代目蒼海ノアの声優をしてほしいということなんだ」

 「いや無茶ですって!」

 「大丈夫よ!あなた、蒼海ノアと声がよく似てるわ!ミヤコに頼めば、蒼海ノアそっくりに編集できる!なによりカワイイもの!もしムジツちゃんが望むなら顔出しデビューだってできるわよきっと!」

 「したかねえっつってんだ話聞け!」


 どうにも旗日と牟児津の間には壊滅的な価値観の違いがあるようだ。それをさて置いても、広報委員の強引なやり方には葛飾も眉をひそめる。それほど追い詰められているということでもあるだろうが、あまりに自分都合が過ぎる。特に旗日が問題だ。委員長の権力を笠に着てやりたい放題である。


 「普通に考えて、代役探すより元々やってた人を捜し出して直接説得する方がいいでしょうが!」

 「それは我々も考えたが、蒼海ノアのイメージが悪くなるから、あまり外部に漏らしたくない話でもあって……知っているのは広報委員と生徒会本部員くらいか」

 「もし本物がやっぱりやると言ってきたらどうするんですか?」

 「もちろん受け入れる。それにストックや時間稼ぎの案があるから、すぐに決めてもらう必要はない。遅くとも再来週までに本物の蒼海ノアが戻らなければ、本当に牟児津さんに代役をお願いすることになる」

 「勘弁してくれってマジで。いきなりVストリーマーやれなんて言われても……」

 「いえ真白さん。まだ希望は残ってます」

 「へぇん?」


 大騒ぎする牟児津とは対照的に、葛飾は落ち着いていた。そして、ここから牟児津が助かる可能性をひとつ提示する。


 「再来週までに、本物の蒼海ノアを見つけるんです。少なくとも正体が分かれば、どうして辞めるなんて言い出したのかも分かりますし、もしかしたら考え直させられるかも知れません」

 「そ、そうか……!それなら……え、それ私がやんの?」

 「他に誰がやるっていうんですか。広報委員はあの有様ですし、生徒会本部になんて頼めませんよ」

 「っっっだそりゃ!!!」

 「あはっ!Good idea(妙案)ね!ムジツちゃんの華麗な推理も見られるし、広報委員としては最終的に蒼海ノアの中の人も確保できる、サイッコーよ!」

 「サイッテーだ!なんで私がそんなことしなきゃならないんだ!」

 「たぶんこの状況なら瓜生田さんもそう言うと思いますよ。巻き込まれちゃったものはしょうがないです」

 「ぐっ……!本当に言いそうなんだよなあ……!」


 牟児津と10年来の幼馴染みである瓜生田は、牟児津が様々な事件に巻き込まれては苦節の末に解決するのを見て楽しんでいる節がある。今ここにいたらおそらく、葛飾と同じ提案をしただろう。違うのは、言葉だけで牟児津を納得させることができるかどうかだ。葛飾にはできない。


 「仕方ない。想定した状況とは少し違うが、最終手段だ」

 「え」


 苦渋の決断とばかりの表情で、黄泉が会議テーブルの下を手で探る。何か大層なものでも取り出すのかと思い、牟児津と葛飾は身構えた。


 「牟児津さん。甘いもの好きのあなたなら分かるだろう」


 テーブルの上に箱が置かれる。混じりけのない上品な薄紫色の紙でできた、いかにも高級そうな菓子箱だ。結ばれた縮緬のリボンをほどき、そっと蓋を開く。蛍光灯の光を反射して輝く、金色の包み紙が整列していた。それが何か、葛飾にも分かった。


 「それは……!お、黄金饅頭……!なんでそれを……!?」

 「ふふふ……期間限定・数量限定の高級和菓子、あなたの行きつけである塩瀬庵の名物だ。どうだ?少しは私たちの話を聞く気になったんじゃないか?」

 「ぐうっ……!」

 「この饅頭の賞味期限が切れる今週末まで、蒼海ノア捜索に協力する。もし見つからなければ牟児津さんが二代目蒼海ノアになる。それを約束してくれたらこれを譲ろう。さあどうする!牟児津さん!」

 「うううっ……!ひ、卑怯な手を……!」

 「でも真白さん、今度自分でそれを買う予定なんですよ。単語テストの勉強を頑張って合格すれば自分の力で買えるんですから、それじゃ交渉になら──」

 「乗った!!」

 「乗るんですかっ!?」


 ギラギラした饅頭の光に文字通り目が眩み、牟児津は黄泉と固い握手を交わした。わずかな可能性に賭けて単語テストの勉強を頑張るよりも、目の前の甘美な誘惑に飛びつくのが牟児津という人間である。牟児津の中では単語テストの勉強をするより、蒼海ノアになる可能性を背負う方がマシということだ。葛飾は牟児津の勉強嫌いっぷりに心底呆れた。


 「蒼海ノアの声優担当を連れてくる、あるいは牟児津さんが二代目蒼海ノアをやると決める。どちらかを満たせば黄金饅頭を譲る。期限は今週末だ。それ以上は黄金饅頭が待てない。広報委員が持つ情報は可能な限り提供するから、必要な情報はなんでも言ってくれ。交渉成立ということでいいな?」

 「くっそ……!」


 悔し気につぶやく牟児津だが、目は常に金色の影を映している。隣に座っていた葛飾は白い目でその横顔を見つめ、牟児津に同情していた気持ちをすっかり捨ててしまった。牟児津は不幸体質というよりも、後先考えずに生きているだけだった。そういう意味でも、やはり蒼海ノアではないのは明らかだ。


 「ねえ、こまりちゃん」

 「はい?」

 「こまりちゃんは、なんで風紀委員になったんだっけ」

 「えっ……わ、私みたいなのでも、困ってる誰かを、助けられたら……って思った……ので……」

 「私、困ってんだけど」

 「……いやあ、それはちょっと」

 「おらぁ!!逃がさねえぞ!!こうなりゃ地獄まで道連れだ!!」

 「きゃあああっ!?こ、こまります〜〜〜!!」


 逃げようとした葛飾を、牟児津は教室前での意趣返しとばかりに押さえつけて確保した。葛飾には、黄泉の買収に応じた時点で牟児津に対する同情の念は消えてしまっていた。だが牟児津は、ひとりでこの難局に立ち向かう気などさらさらなかった。なんなら買収に応じることを決めた瞬間から、葛飾を道連れにしてやろうとさえ考えていた。


 「仲良いわねあなたたち。コマリちゃんも一緒にデビューする?」

 「その大物プロデューサーみたいなノリなんなんだ」

 「実際、夜の企画は受けが良いんだ。能力のある厄介者ほど手に負えないものはない」

 「もうユーリったら!褒めても顔から火しか出ないわよ!」

 「うざ」

 「わ、私は風紀委員の仕事があるので……すみません」

 「あはっ、そうね。トシヨのとこの子にちょっかいかけたら怒られちゃうわね」

 「怒られればいいのに」


 なぜ旗日のような人間が委員長になれているのか、その理由はひとえに広報委員としての有能さ故らしい。黄泉もうんざりした様子ではいるものの、なんだかんだで旗日のために委員会をまとめているので、そういうことなのだろう。

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