第5話「自分が良いと思ったことをしな」


 「『運命辞典』が盗まれましたッ!!」


 益子の声が図書準備室に響き渡った。その後、このままでは話にならないと判断した瓜生田によって電話が切られた。牟児津と瓜生田が図書室に来るらしいので、静けさを取り戻した図書準備室で、益子は待った。


 「ど、どういうことだ……?そんな、バカな……!」

 「べーりん!どうなってるの!『運命辞典』はここにあるんじゃなかったの!?」

 「……」

 「辺杁君?どうした?」


 図書準備室には、益子と辺杁、冨良場の三人がいた。“ササカ”に教えられたとおり、学園史に書かれた図書準備室の指定の棚の指定の場所の前に、三人はいる。普段この部屋に入る図書委員でも滅多に手を触れない棚の最奥部。そこに『運命辞典』はあるはずだった。しかし、ちょうどそこだけ、本が抜き取られていた。何もない空っぽの空間を前にして、益子は慌て、冨良場は狼狽え、辺杁はスマートフォンを見つめていた。


 「べーりん?その……えっと、い、いまからムジツ先輩たちが来るから、そしたらひとまず部室に戻って……!」

 「……冨良場部長」


 背を向けたまま、不気味なほど落ち着いた声で辺杁は言った。名前を呼ばれた冨良場は、ただならぬ辺杁の様子に背筋が伸びる。


 「な、なんだい……?」

 「……“ササカ”って、御存知ですか?」

 「サ、“ササカ”……!?」

 「べ、べーりん?いきなりどうしたの?それは……」

 「私……すごい体験しちゃったかもしれません!」

 「はい?」


 てっきり落ち込んでいるのかと思われていた辺杁は、二人の予想と裏腹に目を輝かせて振り返った。予想外の態度を前にして、二人の頭の上でクエスチョンマークが輪になって踊る。辺杁は冨良場に自分のスマートフォンの画面を見せつける。それは、辺杁が“ササカ”から『運命辞典』の話を聞いたスレッドだ。


 「これ見てください!私、“ササカ”と話してるんです!部長には言ってなかったんですけど、『運命辞典』の話はこの人から教えてもらいました!」

 「あ、ああ、そうだったのか……じゃあこの“ササカ”っていう人は……」

 「はい!です!」

 「ん?」

 「ど、どゆことべーりん?」

 「これ見てください!」


 非常に興奮しているが、辺杁の言葉は要領を得ない。たまらず益子が尋ねると、辺杁は別のスレッドに画面を切り替えて見せてきた。益子がタイトルを読み上げる。


 「【交信した人限定】“ササカ”について話し合いましょう〜part4〜……えーっと、なにこれ?」

 「私いままで、この“ササカ”から教えてもらった通りに『運命辞典』を捜して来たんです。でも見つからなかった……そんなもの、存在してなかったんです。初めは混乱しましたけど、もう一回“ササカ”の言ってることを確認しようと思って裏サイトにアクセスしたら、ここに招待されてたんです!」

 「うんうん。それで?」

 「実は“ササカ”は、学園の裏サイトにだけ現れる存在しない生徒だったんです!裏サイトでオカルトや恐怖体験にまつわる話をするスレッドに現れて、架空の七不思議を教えてくるんです!それで、そこから生まれた七不思議をみんなが信じると、本当にその怪異が起きるっていう!でも、“ササカ”の話を信じた誰かがその真偽を確かめると、ウソだと分かってその七不思議も消えちゃうそうで……!だから私、知らない間に“ササカ”が作った『運命辞典』の話を解消してたんです!」

 「情報量多っ。現実と虚構とオカルトのレイヤーを行ったり来たりし過ぎていまいち意味が……」

 「つまり、架空の怪異を産み出す怪異に接触して、偶然それに対処してしまったということかな?」

 「そうです!」

 「おおう、冨良場先輩の理解力すご……ってええ!?“ササカ”は怪異!?いや、“ササカ”はだって……!」

 「この掲示板にはそういう人が集まって、“ササカ”の語った怪異や対処法などについて語り合ってるんです!私、本物の怪異に触れるの初めてです!」


 益子は、何がなんだか分からなかった。“ササカ”の正体は阿丹部のはずである。昨日の晩、牟児津がそう推理したのだ。仮に阿丹部でなかったとしても、少なくとも怪異であるはずがない。その証拠に、この学園で最もその手の話に詳しいであろう冨良場も、辺杁の話に怪訝な顔をしている。

 しかし辺杁は『運命辞典』が見つからなかったことで、その怪しげな話をすっかり信じ込んでしまっていた。


 「なるほど……ううむ。とにかく辺杁君。君の目的は何かな?」

 「へ。えっと……『運命辞典』を見つける……のは実定のためか。実定を提出することです」

 「そうだね。“ササカ”の話は気になるけれど、それを実定に書くには情報も準備も足りない。取りあえず、次に提出する実定は『運命辞典』について書いておくのがいいんじゃないかな?」

 「そ、そうですね!すみません、私ちょっと、興奮してて……!」

 「まあ仕方ない。はい、部室の鍵を預けるから、一度戻って冷静になってきなさい。ついでに実定の原稿も作っておいてくれたまえ」

 「は、はい!分かりました!」


 辺杁に考えさせる隙を与えず質問と指示を出し、冨良場はあっという間に辺杁を落ち着かせて図書準備室から出て行かせた。益子はそれをぽかんと口を開けて見ているだけだった。冨良場は辺杁を見送った後に、ふうとため息を吐いて益子に向き直った。


 「見ての通りだ。辺杁君は情熱が人一倍あるのはいいことなんだが……ものを疑うということが苦手な子だ」

 「電子掲示板を使う上で致命的なリテラシーの無さですねぇ……」

 「益子君、きみはこれについてどう思う?」

 「ううん……まず前提なんですが、『運命辞典』は本当にあるんですよね?」

 「ある。確かにここにあったはずだ」


 冨良場は断言した。辺杁がいない今、ウソで取り繕う意味はない。つまり『運命辞典』は本当に存在するのだ。


 「それがないのは……盗まれたっていうことですよね?」

 「ああ。『運命辞典』と知ってか知らずか、誰かが持ち去ってしまったようだ。そして、狙い澄ましたかのようなタイミングで“ササカ”が七不思議だというスレッド……」

 「そんな七不思議あるんですか?」

 「私は聞いたことがない。仮に本当にそんな七不思議が存在したとしても……その“ササカ”が『運命辞典』の話をすることはないはずだ。なぜなら『運命辞典』は──いや、これは牟児津君たちが到着してから話すとしよう」


 意味深な間をおいて、冨良場はそれ以上話すことを止めた。重要そうな情報を前にお預けを食らい、益子は腹が鳴った気がした。冨良場はそのまま、牟児津たちが図書室に駆けつけるまでじっと考え込んでいた。



 〜〜〜〜〜〜



 図書室に来た牟児津と瓜生田は、広いテーブルを確保していた益子と冨良場に合流した。先に図書室に向かったはずの阿丹部は来ていない。おそらく途中で、部室に走って行く辺杁を見つけ、その後を追ったのだろうと考えた。行方の分からない阿丹部より、今は急展開への対処だ。


 「“ササカ”が怪異?何言ってんのアンタ」

 「私だってそう思ってるわけじゃないですよ!べーりんがそう言ってたんです!」

 「でも“ササカ”は阿丹部先輩でしょ?本人だってそう言ってたよ」

 「やはりそうだったか……」

 「あっ、部長さん、実はですね。えっと……“ササカ”の正体は元オカ研の阿丹部さんで、『運命辞典』の話も阿丹部さんが……」

 「分かってるよ。阿丹部君が、辺杁君を助けてくれていたんだろう?」

 「え……知ってたんですか?」

 「“ササカ”というのは、昔から阿丹部君が使っていたハンドルネームだ。それに『運命辞典』の話を知っているのは、今の学園内だとほぼオカ研部員しかいない。私が教えてないのに辺杁君が知っていたのなら、阿丹部君以外に教えられる人はいない」

 「じゃ、じゃあ最初に部室にお邪魔したときにはもう?」

 「だいたいのことは分かっていたさ」

 「言ってくださいよ!」

 「言うこともできたが……それは阿丹部君に申し訳なくてね」


 冨良場は手刀で小さく詫びた。だが結果的にはそれでよかったのかも知れない。あの場で“ササカ”の正体が阿丹部だとバラしていたら、辺杁はここまで『運命辞典』に深く関わってはいなかったし、阿丹部が一歩踏み出すこともなかっただろう。


 「冨良場先輩。結局、『運命辞典』ってなんなんですか?七不思議なのに実在するって……何か曰く付きの本だったりとかするんですか?」

 「……もう、言ってしまってもいいか。いや、言うべきだな」


 瓜生田の質問に、冨良場は少しだけ笑った。どこか寂しげで、どこか嬉しげで、その表情の真意は分からない。


 「『運命辞典』というのはね……かつてオカルト研究部が創作した噂話なんだ」

 「ええっ!?な、なんですとぉ!?」

 「そもそも高等部に七不思議なんてものはない。大桜や丑三つ鏡などに関する怪談はそれぞれ存在するが、体系的にまとめられたものもないし、七つも存在しない」

 「今なんか別に知らなくてもいい情報が交じってたような」

 「『運命辞典』はね、いわば実験だよ。学校の怪談は、全国どこの学校にも存在する定番の噂だ。その噂がどういった広がり方をするか、時間経過でどれほど広がっていくかを検証するために、数年前のオカルト研究部が創作して広めた怪談だ」

 「社会実験ってわけですね。興味深いです」

 「噂を聞いて、実際に見つける方法を試した人は、本当に『運命辞典』を見つけられるようにした。学園史の本に栞紐を挟んで細工したり、それらしい詩を作ったり、特定の場所に本を仕込んだりして。もちろん、その詳細は代々オカルト研究部員には受け継がれていた。毎年、噂の広がり具合を記録して部の活動とするために。辺杁君にはこれから教えようと思っていたところだったんだけど──まさか阿丹部君に先を越されてしまうとはね」

 「じゃあ、『運命辞典』そのものもオカ研が用意してたんですか?」

 「ああそうさ。と言っても、単に真相と実験の目的、それからその後の協力依頼を書いた小さな冊子だけどね。たどり着いた人が日付と名前を書けるようになっている。そうすれば、どれくらいの人がたどり着いたのか一目瞭然だしね」

 「はえ〜、観光地の駅みたい」


 冨良場の語る『運命辞典』の真相に、牟児津は肩透かしを食らった気分だった。自分の運命が分かるとかいうのは、全て怪談や噂としての演出だったのだ。結局は、それを探し、見つけることにこそ意味があった。


 「『運命辞典』の話を知っててそれを盗めるのは……阿丹部先輩ですかね?」

 「まさか!阿丹部先輩は辺杁さんとオカルト研究部を守るために……守るっていう目的のために、色々手を尽くしてたんだよ!それを自分で台無しになんてしないって!」

 「加えて、辺杁君に新たに接触した嘘の七不思議を語る人物……裏サイトは同じIPアドレスでは同じハンドルネームしか使えないから、阿丹部君ではないことは確かだ」

 「ううむ……謎ここに深まれり、って感じですねぇ」

 「……そお?」


 悩む三人に、牟児津の声が投げ込まれた。三人とも、あまりに気の抜けた牟児津の声に、逆に呆気にとられた。


 「な、なんだい?その軽々しい言い方は……私は、かなり重大な事態だと思っているんだが」

 「いえあの、すいません。でも、犯人なんて決まってるじゃないですか」

 「え!?ほ、ほ、ほんとうですかムジツ先輩!?そんなスピード解決なんてあります!?」

 「だって、どう考えても『運命辞典』を盗める人なんて限られてるし……あとたぶん、さっき辺杁ちゃんを招待したっていう人、その人が犯人ですよ」

 「それは……タイミング的にそうかなって思うけど、でもそんな確証ある?」

 「うん。取りあえず……うりゅと益子ちゃん、一緒に行く?」

 「ど、どこに……?」

 「犯人のとこ」

 「そんなコンビニみたいに……行くけど」


 まるで瓜生田たちの方が察しが悪い、と言わんばかりの態度で、牟児津はすっと席を立った。瓜生田と益子は指示されるまま牟児津と一緒に席を立ち、残された冨良場に牟児津が言った。


 「部長さん。たぶん今頃、阿丹部さんと辺杁ちゃんがぶつかってるころだと思います。このままだと大変なことになると思うので、なんとか取り持ってください」

 「い、いや牟児津君、あの……」

 「それじゃ、なるべく急ぎますから!よろしくお願いします!」


 今、阿丹部は“ササカ”としての行いや退部したことについて、辺杁に謝罪しようと部室に向かっている。辺杁は“ササカ”という新しい七不思議の登場に興奮して、部室で実定の原稿作成に勤しんでいる。ただでさえケンカ別れしたこの二人がぶつかれば、混乱と関係の悪化は避けられない。部長としてそれは見過ごせない。冨良場はため息交じりにぼやいた。


 「私はこんな役回りばかりか……」


 とうとう部員でもない後輩にまで無茶振りをされて、自嘲気味に笑った。



 〜〜〜〜〜〜



 ついて行くる瓜生田と益子などお構いなしに、牟児津はずんずん歩いていく。校門を出て高等部の敷地の外に出ると、普段の下校路とは逆に坂道を登っていき、敷地を挟んだ裏手側にぐるりと回りこんだ。


 「ねえムジツさん。この道がどこに続いてるか分かってる?」

 「分かってるよ」

 「こっちに犯人がいるっていうことは、正直私にはひとりしか浮かんでないんですが……」

 「うん。考えてるとおりだよ」


 歩きながら瓜生田と益子が牟児津に質問し、牟児津はさらに先を歩きながら答える。そして夕方で人の出入りが活発になりつつある正門にたどり着き、牟児津は断言した。




 「『運命辞典』を盗んだのは虚須さんだ」




 高等部の制服を着たままなので、大学生の中ではよく目立つ。しかし牟児津はそれすら気にせず、下校しようとする人の流れに逆らって構内に入っていく。あまりに注目を浴びるので、瓜生田と益子の方が俯いてしまうくらいだ。


 「ム、ムジツさん!ちょっと、速いよ!目立ってるって!」

 「んなこと言ってられないよ。辺杁ちゃんと阿丹部さんが仲直りするチャンスは、今しかないんだから」

 「うひょ〜!まさかとうとう大学部にまで入り込むとは!ムジツ先輩、一生ついて行きます!」

 「面白がってる場合じゃないと思うけど……」

 「うりゅ。図書館ってどっちだっけ?」

 「覚えてないなら先に行かないでよ……案内するから、教えて」

 「何を?」

 「なんで虚須先輩が犯人って言えるのか」


 大きな道の真ん中で進むべき方向を失った牟児津は、真剣な表情のまま瓜生田に案内を頼む。瓜生田も、牟児津のいまいちしまらないところにはもう慣れているので、すぐさま牟児津の手を引いて歩きだした。


 「虚須さんは去年までオカ研にいたんだから、『運命辞典』の真相は知ってるはず。大学部生でも警備室を通れば高等部には入れるし、高等部の図書室は土日も開放されてるから、たぶん休みのうちに盗んだんだと思う」

 「なんで虚須先輩がそんなことするの」

 「……理由は分からない。でも狙ったように裏サイトでウソの七不思議を吹き込むなんて、辺杁ちゃんの行動を知ってないとできない。私たちはやってないし、部長さんはその場にいたから、スマホをいじったらすぐに分かる。阿丹部さんは“ササカ”でしか書き込みができないから、当てはまるのは虚須さんだけだ」

 「で、でも裏サイトは高等部生しか書き込めないはずでは!?虚須先輩は大学部生ですよ!」

 「パスワードは3年に1回変更されるんでしょ。そしたら、大学部生だって最高で3年生までは使えるじゃん」

 「……あっ、ホントですね」

 「後で工総研に教えてあげないとだね。そういうのは毎年変えなきゃ」


 瓜生田の案内でいくつかの建物の間を抜け、ガラス張りの図書館までたどり着く。帰りに本を借りようとして詰めかけた大学部生の波で、入口の改札ゲートはひどく混んでいた。


 「でもムジツ先輩。確かに虚須先輩は怪しいですが、裏サイトの書き込みは決定的な証拠たりえないのでは?結局のところ誰が書き込んだのかは分からないです」

 「他にも証拠はあるよ。昨日の晩、“ササカ”が阿丹部さんだっていう根拠をうりゅに聞いたでしょ」

 「毎月の未返却チェックのこと?」

 「うん。この前ここに来たときに、虚須さんが言ってたでしょ。大学部では学園全体の本をチェックしてるって。それなら──」

 「──虚須先輩もムジツさんの期限超過を見過ごしている……!それも先月と今月の二度……!」

 「学園史が『運命辞典』を捜すのに必要だっていうのは分かってたはずだから、たぶん虚須さんも気付いてたんだよ。誰かが『運命辞典』を捜してることに」

 「なるほど!」

 「あっ……だからか!」


 瓜生田が声を上げた。


 「オカ研の部室で虚須先輩にお会いしたとき、初対面のはずなのにムジツさんを知ってたみたいだったの……!チェック画面でムジツさんの名前を見てたからだったんだ!」

 「なあんだ。大学部まで名前が轟いてたわけじゃないんですね」


 ようやく列が進んで、三人は学生カードをかざして改札を通る。中に入ると雑踏は足元のマットに吸収されて、途端に静かになった。牟児津は返却カウンターの方へ足早に近寄り、虚須の姿を探す。

 いた。今日もカウンターで利用者の対応をしている。牟児津は整理券を取り、前に並んだ利用者たちを虚須がさばくのを待った。順番が回ってくる少し前に、虚須には気付かれていたようだ。にこやかに手を振る虚須に、牟児津はどういう顔を返せばいいものか悩み、微妙な顔をして待っていた。そしてようやく、牟児津たちの番号が呼ばれた。


 「やあ三人とも。どうしたの今日は」

 「虚須さん、今すぐオカ研に行って謝ってください。『運命辞典』を返してください。阿丹部さんと辺杁ちゃんが仲直りするには、これが最後のチャンスなんです」

 「………………へぇ?」

 「いやいやムジツさん!いくらなんでもいきなり過ぎだよ!」

 「さっき順を追って説明できてたじゃないですか!相手が犯人だからって結論でぶっ叩けばいいわけじゃないんですよ!」

 「え?あっ、えっと……は、犯人?『運命辞典』って……え、なんで?なんで知ってんの……?仲直りって……?」

 「あのっ、すみません!ちゃんと説明します!」


 瓜生田も益子も忘れていたが、牟児津は冷静かつ論理的に思考しているように見えるときほど余裕がない。人の視線が苦手で目立つことを嫌っているのに大学部生の中を突っ切ってこられたのは、それを気にする余裕すらなかったからだ。虚須を前にした牟児津は、これまで話した推理を前提にした結論をいきなりぶつけるから、犯人である虚須にとってはひどく不親切だった。

 きょとんとする虚須に、瓜生田と益子が慌てて頭を下げて、再度説明する。牟児津がいかにして虚須を犯人だと特定したか。阿丹部と辺杁に何があったか。オカルト研究部でいま何が起きているか。自分たちが何のためにここに来たか。全てを。


 「──というわけで、虚須先輩が『運命辞典』を持って行かないと、オカ研は今度こそおしまいなんです!実定どころか、壊滅しちゃうんです!それでもいいんですか!」

 「……うそ。あの手紙……そんな大事なものだったの……!?う、うちはてっきりサトちゃんのいたずらか何かだと……」

 「阿丹部先輩が退部されたの、御存知なかったんですか?」

 「この前いなかったのは気になったけど、まさか辞めてるなんて……え?じゃあ、もしこのままアリスちゃんとサトちゃんが仲直りできなかったら……オカ研は……?」

 「おそらく、消滅でしょうね。来年同好会になっても辺杁さんは続けるでしょうが、1人の同好会が3年以上続くことはありません」

 「……!」


 二人の説明を聞き、虚須はみるみる顔が青くなっていった。そこでようやく虚須は、自分のしたことの重大さを認識したらしい。少しだけ虚須は葛藤したようだったが、すぐに近くの図書館司書に体調が悪いと言って仕事を切り上げた。

 『運命辞典』はカバンに入れてあり、挟んである阿丹部の手紙もそのままらしい。阿丹部たちがいる場所を確認すると、虚須は牟児津たちがついて行けないほどのスピードで駆けだした。牟児津たちは、来た時と同じように瓜生田に案内されつつその後を追った。



 〜〜〜〜〜〜



 オカルト研究部の部室は、痛いほどの緊張感に包まれていた。部屋の隅にある机には、書きかけの活動実績定期報告書がある。その前に座る辺杁は、部室の入口に立つ阿丹部に冷たい視線を向けていた。

 阿丹部はやっとの思いで部室までたどり着いた。そのせいか、あるいは緊張で落ち着かないのか、浅く短い呼吸を繰り返している。その隣には、牟児津から無茶を言われて部室に急行した冨良場がいた。にらみ合う二人の間に立って、どう仲を取り持ったものか考えあぐねている。

 先に口を開いたのは、辺杁だった。


 「何の用ですか」

 「あ、あの……その……『運命辞典』の、ことなんだけど……」

 「は?」

 「ご、ごめんなさい!あのっ、“ササカ”は私なの!私が、辺杁ちゃんに『運命辞典』を見つけてほしくて……!」

 「……何言ってんですか?あなたが“ササカ”?意味が分かりません」

 「い、いや辺杁君!“ササカ”は──!」

 「部長と私にあんなこと言っておいて、よく顔を出せましたね。オカルトなんてバカみたいなこと、もう辞めるんじゃなかったんですか?今さら来て、“ササカ”がどうとか『運命辞典』がどうとか、ありもしない話で誤魔化すつもりですか?神経を疑います」

 「あ、ありもしない、話って……?」

 「あなたは“ササカ”じゃありません。『運命辞典』も実在しません。帰ってください」


 いま、辺杁と阿丹部には決定的な認識の齟齬がある。阿丹部は、辺杁が『運命辞典』を手に入れたと思っている。まさか盗まれたなど夢にも思っていない。一方の辺杁は、『運命辞典』は架空の七不思議で、“ササカ”こそが七不思議のひとつだと思っている。“ササカ”がオカルト上の存在である限り、今回の話に阿丹部が関与する余地はない。辺杁にとって阿丹部の訪問は、何の脈絡もないことなのだ。


 「ち、違うんだ辺杁君。阿丹部君は決してそんなつもりで言ってるんじゃあない。それに君は大きな勘違いをしている」

 「冨良場部長だって同じようなものじゃないですか。『運命辞典』なんて話、本当はないのに、私に気を遣って知ってる風を装ったんですよね?この人と一緒になって私をバカにしてたんじゃないですか?」

 「ちょ、ちょっとアリスちゃん!月先輩まで疑うの!?私のことはいいけど、月先輩はそんなことする人じゃないでしょ!」

 「偉そうにしないでください!もうあなたはオカ研じゃないんです!」

 「落ち着きたまえよ君たち。まずお互いの認識をすり合わせないことにはどうにもこうにも──」

 「私は!ただ──!」


 謝りたい。勝手に退部したこと。二人の好きなオカルトを侮辱したこと。辺杁を騙していたこと。独り善がりで卑怯な謝罪をしてしまったこと。全てを、ただ謝りたいだけだった。言い合いになることなんて望んでいない。喉につかえた謝罪の言葉を、阿丹部はなんとかして吐き出そうとする。少しずつ、少しずつ言葉にする。


 「ただ……!あ、ああ……!ご、ご、ごめ──!」




 「みんなごめえええええええええええええええんっ!!!」




 狭い部室に、謝罪の言葉が轟いた。勢いよく開かれたドアの向こうから、雷のように空気を震わせる力強い声が部屋に飛び込んできた。

 自分の言葉ではない謝罪。突然飛び込んできた謝罪。思いがけない人物からの謝罪。その場にいた三人全員、誰の発言かを理解するのに時間がかかった。スーツ姿のまま汗だくで呼吸を乱した虚須が、さらに畳みかける。


 「アリスちゃんごめん!『運命辞典』を盗んだの私なの!裏サイトで“ササカ”のスレに招待したのも私!でもあれはウソなの!“ササカ”なんて七不思議はなくて、私が自分のしたことを誤魔化すために作った話なの!」

 「え……えっ……?」

 「サトちゃんごめん!私、“ササカ”の名前も『運命辞典』もあなたから奪った!サトちゃんがどれだけ悩んでるか、どれだけ苦しかったか全然知らなくて……とんでもないことしちゃった!これ、本物の『運命辞典』!ちゃんと手紙もあるから!本当にごめん!」

 「えっ、あの……み、美珠先輩……?なんで……?」

 「ツキちゃんごめん!オカ研がこんなことになってるなんて知らなかったから、部長だからってツキちゃんに全部任せてムチャ振りして、しかも私が自分勝手にそれを引っ掻き回して……私、最低な先輩だ!」

 「いやあの……えっと、先輩が……えぇ?」

 「サトちゃんもアリスちゃんもケンカしないで!サトちゃんはただ謝りたいだけなの!アリスちゃんだって本当はサトちゃんのことを待ってたの!ほんっと!私が余計なことしたからめちゃくちゃになっちゃってるだけなの!みんな本当ごめん!!」


 一息で言い切ると、虚須は肺の空気を全て出し切ったように、しおしおとその場に崩れ落ちた。ぜぇぜぇ濁った深呼吸をする虚須を前にして、オカルト研究部の面々は一人残らず──


 「……ひぇ」

 「えぇ……?」

 「ど、どゆこと……ですか……?」


 ──ドン引きしていた。準備も前提も心構えもなく嵐のような謝罪を受けると、人はただ引くことしかできないのだった。

 いち早く我に返ったのは阿丹部だった。虚須のハチャメチャさは阿丹部も知るところであり、それに付き合うより自分の目的を達成するのが先決だと判断した。改めて辺杁に向き直り、まだ虚須に目を奪われている辺杁に近づいて、正面に立った。


 「……!」


 それに気付いた辺杁と目が合う。人の目を見ると緊張する。反射的に逸らしてしまいそうになるのをぐっとこらえ、阿丹部はそのまま深く頭を下げた。


 「アリスちゃん。本当に、ごめんなさい」


 雷雨のような虚須の謝罪とは違う。深く、鋭く、辺杁の胸に刺さっていくような、ストレートな謝罪。だからこそ、混乱していた辺杁の頭にも染み込んでいった。


 「退部するとき、二人にひどいことを言ったの、すごく後悔してる。私が人と向き合おうとしなかったから……自分の言いたいことを言う勇気がなかったから……心にもないことを言って二人を傷つけた。しかもそれを、手紙なんかで謝ろうとした。アリスちゃんの気持ちを考えようとしないで、自分だけすっきりしようとしてた。本当に、ごめんなさい」


 言おうとしても言えなかった言葉が、今は流れる様に出てくる。自分より慌てている人間を見て冷静になったせいだろうか。阿丹部は言いたいことを言えた。一番伝えたいことを、一番伝えたい相手に。

 それを正面から受けた辺杁は、阿丹部の頭を見ていた。手紙が何のことかは分からない。さっき虚須がそんなことを言っていたような気がする。しかしそれより前に、退部するときのあの言葉は、阿丹部の本心ではなかった。阿丹部はずっとそれを後悔していた。オカルトが──オカルト研究部が嫌いになったわけではなかった。


 「……なんですか、それ」


 辺杁の声がした。阿丹部が頭を上げる。そこには、目から大粒の涙をこぼす辺杁がいた。眼鏡に落ちた涙が滑り落ちて、膝の上で固く握った拳に降っていく。


 「さ、さと、さとせんぱいは……オカルトが、きらいになったんじゃ……!私たちが……気持ちわるいからやめたんじゃ……ないん、ですね……!」


 泣きながら、途切れ途切れになりながら、辺杁が言葉をこぼす。嬉しさ、後悔、安堵が混ざった気持ちを吐き出す。阿丹部は、再び強く頭を下げた。

 辺杁も同じだったのだ。オカルト趣味を周りから気味悪がられることに怯えていた。他の誰でもない、阿丹部自身がそう思わせてしまっていた。ますます阿丹部の後悔の念は強くなった。同時に、辺杁と同じ気持ちを分かち合えたことに感極まっていた


 「ごめん……!ごめんね……アリスちゃん……!」

 「はい……!わ、わたし、でも、さとせんぱいが……かえってくるかもって……ちょっと、だけ、思ってました……。ごめんなさい……!来て、くれたとき……さと、せんぱいが、ここに来たの、すごく……う、うれしかったのに……!」


 互いに謝る二人のわだかまりは、熱い涙でゆるやかに溶けていった。人と向き合うことができなかったばかりに、自分の言いたいことを素直に言えなかったばかりに、二人は辛く険しい遠回りをしてしまっていた。二人の行く道はこのときようやく、再び交わった。


 「ぐすん……。いいわね、青春って感じで」

 「美珠先輩。牟児津君たちに言われてここに来たんでしょう。後で詳しいお話を聞かせてもらいます。まあ、美珠先輩がめちゃくちゃで余計なことをするのは昔からなので、わたしは慣れっこです。けど、二人にはまたきちんと謝ってくださいね」

 「はい……」

 「それと……わたしも今回のことで、部の在り方を考え直しました」

 「うん?」

 「わたしたちに必要なのは部室じゃないってことです。元部長の前でこんなことを言うのは申し訳ないですが……」

 「……いいよ。今はツキちゃんたちの世代だもん。生徒の好きにやるのが伊之泉杜学園ここの校是でしょ。自分が良いと思ったことをしな」

 「はい。ありがとうございます」


 抱き合う二人を見ながら、冨良場は決意した。前々から考えてはいたことだ。これが良い契機かもしれない。

 斯くして、オカルト研究部四代と図書委員の一部を巻き込んだ、『図書館蔵書持ち去り事件』は決着した。牟児津たちが部室に戻ってくるころには、オカルト研究部全員が、この事件の全ての真相を知り、互いの行いについて謝罪し、許しあった後だった。



 〜〜〜〜〜〜



 牟児津はゴキゲンだった。机の上には、高級そうなお菓子の缶と甘ったるいミルクコーヒーの2Lボトルがあった。缶の中は、ラングドシャやフィナンシェ、カップケーキに焼きメレンゲなどが詰まっている。そのどれもが小豆色に染まり、彩られている。


 「よかったねえ、ムジツさん。しばらくお菓子に困らないね」

 「いや〜、こんなにもらっちゃうとなんか悪い気がしてくるなあ。っていうか調子に乗って結構な無茶言ったのに、完璧に応えてくれるとか、辺杁ちゃんのお母さんマジ神だわ」

 「それくらいムジツ先輩に感謝してるってことですよ。むしろムジツ先輩はこれをドンと受け取るくらいの度量がないといけません!」


 食べるどころか持ち帰るのも骨が折れそうな大量のお菓子と飲み物は、どちらも辺杁が牟児津に感謝の印として渡したものだった。オカルト研究部の事件から一夜明け、解決に大きく寄与した牟児津への感謝の証として、辺杁が母に頼んで作ってもらったものだそうだ。辺杁の情熱もさることながら、娘のために一晩でこれを用意してしまえる辺杁母もすごい。


 「そういえば、阿丹部先輩から聞いたんだけどね。オカ研、同好会にするんだって」

 「えっ!?そうなんですか!?せっかく実定のネタもできて阿丹部先輩も部に戻って、これからってときなのに!」

 「部の形が残ってると三人ともそこにこだわっちゃって、自分が本当にやりたいことにブレーキかけちゃうと思ったんだって。同好会なら実定の基準も緩いし、人数制限もないし、好きにオカルト談議ができるだろうって」

 「結局、必要なのは部室じゃなくてみんなで集まれる場所ってワケか。そんならどこでもいいもんね」

 「うぬぬ……!学園の部会のほとんどが、喉から千手観音が出るほど欲しい部室を手放してしまうとは……!もったいない!」

 「あんたんとこは立派な部室あるんだからいいでしょ」

 「そろそろ手狭になってきたので、新聞部の倉庫にでもできないものでしょうか」

 「そっちの方がもったいないよ」


 牟児津は早速、辺杁母の手作りお菓子をほおばりながら甘いミルクコーヒーで流し込んでいく。部に所属したことがない牟児津には、冨良場の決断がどれほどの意味を持つかは分からない。だが、オカルト研究部にとって良い道を選んだのなら、それは結構なことである。瓜生田の話では、阿丹部もあれから両親と話し合うことができたようで、牟児津に感謝しているようだ。それを聞くだけで牟児津は、勢い説教してしまった昨日の自分に少しだけ自信が持てるような気がした。


 「あと虚須先輩。やっぱり『運命辞典』のことレポートに書くんだって」

 「あっそ。なんでもいいけど、大学生って大変なんだなあ」


 牟児津の推理で唯一曖昧なままになっていた、虚須が『運命辞典』を盗んだ動機についても、昨日の時点で決着がついていた。

 虚須は大学に提出するレポートで、オカルト研究部で社会実験を行っていた『運命辞典』について書こうと考えていた。しかしオカルト研究部に顔を出した日に、辺杁が『運命辞典』を見つけた暁には実定に書こうとしていることを知り、真相が明るみになって七不思議としての『運命辞典』が失われてしまうことを避けるために犯行に及んだ。

 レポートを書いたら本は戻すつもりだったらしいが、いずれオカルト研究部を担っていくだろう辺杁が『運命辞典』の真相を知らなければ、実験が立ち消えになってしまうというところまで考えが至らなかったのだという。つくづく浅はかなことをしたと、虚須は深く反省していた。


 「そこまでしないとレポートのネタがないって、大学であの人なんの勉強してんの?」

 「学生協働とかもあって忙しかったから、余裕がなかったんだよきっと」

 「結局のところ、『運命辞典』も“ササカ”も、架空の七不思議だったわけですか……本当にうちに七不思議なんてあるんですかねえ?」

 「いいよそんなの、なくて」

 「あ、七不思議かどうかは分からないけど、この前の件で思い出した話ならあるよ。ムジツさん、大桜の下に何が埋まってるか知ってる?実はね──」

 「わああああああっ!!!やめいやめいやめい!!!聞きたくないーーーっ!!」

 「ムジ先輩ビビりすぎですって……もむ。おいしいですねこれ!」

 「もぐもぐ。辺杁さんのお母さんすごーい!私も頼めばよかった!それでえっと、どこまで話したっけ?あ、そうそう。真夜中に大桜の下で校歌を歌うと──」

 「あああ食われてる!でも耳外したら怖い!食われてる!怖い!食われてる!うりゅ食い過ぎ!」


 ぎゃいぎゃい騒ぎながらも、牟児津は目の前で摘まれていくお菓子をただ眺めることしかできなかった。事件を解決したお礼の菓子が減るにつれて、この日のことも牟児津の中では思い出となっていくのだろう。小さな自信と新しい友を得た、美しい思い出として──



 〜〜〜〜〜〜



 ──などという風に終わりはしなかった。しばらくの後、この事件を発端に牟児津は、学園のほぼ全てを敵に回すことになるのだが、それはまた別のお話。

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