第3話「正体を突き止める」


 土曜日、世間は休日である。牟児津は朝から瓜生田に叩き起こされ、電車に乗って見たこともない駅に連れて来られていた。電車を降りるまで寝惚け半分だったため、気が付いたら到着していた。改札を出て、左右に伸びる通路の真ん中に牟児津と瓜生田は立っていた。


 「どこ?」

 「辺杁さん家の最寄り駅。ここから益子さんが案内してくれるはずなんだけど、まだ来てないのかな」

 「いますよ」

 「オッッッ──ぎぁ!!」


 急に背後から声がして、牟児津は遅れて悲鳴が出るほど驚いた。振り向けば、益子がいたずらっぽい笑顔を浮かべていた。いつものハンチング帽とワイシャツ、制服の代わりに紅葉色のジャケットを着ている。


 「びっくりしたあ。いつの間に後ろにいたの?」

 「電車内で偶然見つけたので、こっそり後をつけてみました。これもジャーナリストの必須スキルの一つです」

 「ただのストーキングだろ!びっくりし過ぎて心臓裏返ったらどうすんだ!」

 「そういう仕組みになってないから大丈夫だよ。それより益子さん、素敵なジャケットだね」

 「ありがとうございます!瓜生田さんこそ今日は大人っぽくて素敵ですよ!ムジ……はい、それじゃあべーりん家に参りましょう!」

 「なんか言えよ」


 ファッションチェックもそこそこに、益子は二人を案内し始めた。



 〜〜〜〜〜〜



 駅を出て住宅街に入ると、益子はずんずん進んでいく。土地勘のない人間にとっては、戸建て住宅が立ち並ぶエリアは方向感覚が狂って迷路のように感じた。益子と逸れたらこの迷路から出られない気がして、ぴったり後ろをついていく。ほどなくして、益子は立ち止まった。


 「ここです。こちらがベーりん邸です!」

 「邸って別に辺杁さんが建てたわけじゃないでしょ」

 「べーりんとは辺杁の転訛したものですから、間違いではないでしょう」

 「あだ名は個人を指すものなんだから、ベーりん邸だとやっぱりおかしいよ」

 「マジでどうでもいいから早く入ろうよ」


 益子の背中を牟児津がそっと押した。牟児津たちが訪ねて来ることは辺杁から家族に話してあるはずだが、ほぼ初対面の相手の家のチャイムを鳴らす度胸など、牟児津にはなかった。急かされた益子がチャイムを鳴らす。インターフォンの向こう側から、女性の声がした。


 「はい。辺杁です」

 「あ、どうもおばさん。同じクラスの益子です。ベーりんいますか?」

 「あらぁ、みゃーちゃん。はいはい、ちょっと待ってね……」


 受話器が置かれるくぐもった音の後、ドアの向こうで辺杁を呼ぶ声が薄く聞こえた。ドタバタ階段を駆け下りる音がして、ドアが勢いよく開く。相変わらずの黒縁眼鏡に地味なトレーナーを着た辺杁が、三人を出迎えた。


 「お、お、お待たせ……!早いね……!」

 「そう?こんなもんだよ。ムジツ先輩と瓜生田さんも来てくれたよ」

 「あっ……ど、どうも……!」

 「どーも」

 「こんにちわあ。今日はよろしくね」


 牟児津がやる気なく、瓜生田がのんびりと、それぞれ辺杁にあいさつした。早速三人は家に上がる。玄関には、先ほどインターフォンに出た女性が待っていた。目元がよく似ているので、それが辺杁の母親だとすぐに分かった。


 「まあまあ、こんなにお友達が来るなんてねえ。うちの子がいつもお世話になってます」

 「お母さんやめてよっ!みゃーちゃん、先に部屋に行ってて」

 「おじゃましまーす」

 「お菓子持って行かせるから、ちょっと待っててね」

 「おかし……!」


 あまり母親と同級生たちに会話してほしくないのか、辺杁は三人を部屋へ促して母親から引き離した。牟児津は、辺杁母の去り際の言葉に期待を持ち、瓜生田の後に続いて階段を上った。階段を上った先にはドアが2枚あり、正面が辺杁の部屋、右手が両親の寝室のようだ。益子は正面のドアを開けて、辺杁の部屋に入った。


 「うおーっ!すごいですね!磨きがかかってます!」

 「わっ……え、すご」

 「ひぇ〜」


 部屋の中を見た三人は、一様に目を丸くした。ありふれた一般住宅の中に、まるで遊園地のアトラクションのような部屋が現れた。血のような赤色のカーテンと歪んで育った観葉植物が窓から入る光を遮り、朝なのに蛍光灯の光がないと薄暗い。床には巨大な魔方陣が描かれた絨毯が敷いてあり、木製の本棚が壁沿いに並び、同じく木製の巨大な事務机が部屋の中央に鎮座している。

 収められている本はどれも怪しげなタイトルや装丁のものばかりだ。さらに、燭台ごと壁に埋め込んだような蝋燭型の照明器具、壁中に貼り付けられた怪しげな呪文や不気味な生物を象ったシール類、髑髏やランタンや鉄鍋を模したインテリアが部屋中に散りばめられていて、どこに目を向けても世界観の綻びがない。唯一あるとすれば、スマートフォンの充電コードくらいだろうか。


 「すっ……ごい、ね。本の中に入っちゃったみたい」

 「こんな部屋で寝てんのか……マジか……」

 「ベーりんのお父さんがマルチデザインコーディネートアドバイザーなんですよ。小さい頃から色々とわがままを聞いてもらって、結果こうなってるみたいです」

 「なんだその仕事」

 「あっ!」

 「ぎゃっ!?ど、どうしたうりゅ!?」

 「これ、うちの図書室の本!ムジツさんの名前で借りられてるやつだ!」

 「マジで!?」


 事務机の上に置かれた、色がくすみ日に焼けボロボロになった本を見て、瓜生田が声をあげた。背表紙には学園が保有することを示すラベルが貼られており、表紙の裏には掠れてはいるものの、高等部図書室の印が捺してあった。


 「これ持って帰ったら終了じゃね?」

 「ここまで来てそれはないよムジツさん。私だって持って帰りたいけど、辺杁さんともオカルト研究部の人たちとも約束したんだから」

 「そうですよ!こんなところまできて引き返したら記事にならないじゃないですか!」

 「冗談なのに……」


 瓜生田と益子に同時に諫められて、牟児津はしゅんとしてしまった。冗談とは言うが、もし二人が賛成したら本当にそうするつもりでもあった。もちろん、そんなことは口が裂けても言わない。

 すぐに階段を上がってくる音がして、部屋のドアが開いた。四人分の飲み物と菓子を持ってきた辺杁が、事務机の上にそれらを乗せた。


 「あっ……それ、あの、む、牟児津先輩のカードで借りた……」

 「うん。そうだね。ようやく現物を確認できて一安心したよ。汚れや破損はないみたいだね」

 「はい……あ、で、でもよかったです……」

 「なにが?」


 辺杁は、申し訳なさそうに言った。


 「それを見たら、持って帰って終わりだって言われちゃうかもって、ちょっとだけ……不安だったんです……」



 〜〜〜〜〜〜



 辺杁が両親の寝室からローテーブルを持ってきて、4人でそれを囲った。お茶とジュースが1本ずつと、皿いっぱいに盛られたお菓子を中央に置く。


 「これがオレンジピール入り。こっちは抹茶味。あと紅茶の葉を混ぜたやつと、これはプレーン」

 「すごっ……これ、お母さんが作ったの?」

 「う、うん……うちのお母さん、お菓子作るの好きだから……」

 「手作りのラングドシャって初めて見たかも」

 「味は私が保証します!あとベーりんのお母さんはサービス精神旺盛ですから、リクエストすればここにない味も作ってくれますよ!」

 「あんこ入りも?」

 「あんこは……あったかな。こしあんをバターや生クリームと一緒に挟んで食べたら美味しいですよね……」

 「たのもう!」

 「そんな道場破りみたいなリクエストって」

 「ほ、本題に入っていいですか……?」


 走り始める前から脱線する会話をぶった切り、辺杁はスマートフォンをテーブルに出した。三人ともそれを覗き込むが、何も表示されていない。


 「ベーりんどした?スマホがどうかしたん?」

 「……『運命辞典』の、見つけ方です」

 「スマホが?」

 「いや、スマホじゃなくて……えっと、見つけ方を調べてくれた人がいて……」

 「調べてくれた人?」

 「ちょっと……み、みなさんに話すか、迷ったんですけど……話さないと、先に進まないと思って」

 「別に隠すことないのに」


 そして辺杁は、スマホを手元に戻して何らかの操作をする。迷いのない指運びから、その操作に慣れているのが分かる。きっと何度も同じ操作をしたのだろう。次に辺杁がスマホの画面を見せたとき、そこには真っ黒な背景におどろおどろしいフォントで、“伊之泉杜学園裏サイト”と書かれていた。


 「な、なにこれ?」

 「学園の裏サイトです。ご存知ないですか?」

 「知らないけど……」

 「裏サイトっていうものは知ってるけど、うちにもあったのは知らなかったなあ」

 「存在は知ってたけど、実物を見るのは初めて。こういうところの情報はあんまりアテにならないからねぇ……」


 問いかけに対する答えは、見事に三者三様だった。辺杁は、一番知識のない牟児津に合わせて説明した。


 「裏サイトとは、通常の検索方法とかではたどり着けないウェブページのことです。専ら、特定の学校に関する掲示板サイトのことを指します。だいたいが非公式で、その学校への愚痴や文句、噂話や怪談みたいな、表では話しづらいテーマがメインですね」

 「なにそれ……合法?」

 「合法ですよ……たぶん。少なくとも、伊之泉杜学園うちの場合は学園が認知してますから」

 「え?そうなの?じゃあ裏サイトじゃなくない?」

 「工学総合研究部が実験的に作ったサイトだそうです。当時の工総研が活動の正当性をアピールするためだったとかなんとか。でもうちって、生徒の自由度かなり高いじゃないですか。だから……敢えてここに書くほどの不満ってなくて……サイト自体、あんまり活発にならなかったんです。学園としても、そんなサイトを規制する必要はないから、放置してるみたいです……」

 「裏サイトって言うほどのダークさはないんだね」

 「で、でもいちおう、アングラな話題もあったりするんです。私、ここで学園にまつわる怪談とかを集めるのが好きで……よく見てたんです」

 「よう見るわそんなの」

 「それで……そこで知ったんです。『運命辞典』のこと」

 「おん?」

 「……その人は、“ササカ”と、名乗ってます」


 サイトを見せつつ、辺杁は学園の裏サイトを通じて知り合った“ササカ”という人物、そして『運命辞典』の話を知った経緯について話し始めた。

 辺杁は日ごろから、裏サイトで怪談やオカルトに関する情報を集めることを趣味としており、そこで知った情報をオカルト研究部で話したりしていた。オカルト研究部で提出する実定の内容に困っていた辺杁は、裏サイトの情報を頼りに学園の噂などを調査して実績とすることを考えた。そして裏サイトに情報提供の依頼を書き込むと、すぐに返事が来た。そこで語られた噂話が『運命辞典』だった。辺杁はその書き込みの情報を手掛かりに『運命辞典』を見つけ出すことを決め、たびたび同サイトで助言を求めたという。その、『運命辞典』の話を最初に辺杁に語ったり、相談を受けたりしていた人物というのが、“ササカ”らしい。


 「それであの、一昨日の夜……いつもは、私から連絡して、“ササカ”さんが返事するって感じでやってたんですけど……珍しく、“ササカ”さんから連絡してきて……えっと、き、気をつけろって……」

 「気を付けろ?なにに?」

 「よく……分かりませんでした。でも、とにかく、私のしようとしてることが、邪魔されるって……。そしたら次の日、牟児津先輩が私を訪ねてきて……」

 「おお、すごい。当たってるじゃん」

 「それで……私、牟児津先輩の顔を見たとき、学生カードのことと、“ササカ”さんの忠告を思い出して……捕まったらダメだと、思っちゃって逃げちゃいました……」

 「なるほど。自分のしたことがバレたっていう理由だけじゃなかったのか。でもこれは分からなくても仕方ないですよ。ムジツ先輩、ドンマイです」

 「ちょいちょいあんたは私を探偵だと思ってる節があるな。違うぞ?いい加減覚えろ?」

 「もう、マジギレやめてくださいよ〜」

 「どんなメンタルしてんだ?」

 「あ、辺杁さん。気にしなくていいから続けて続けて」

 「気になりますよ!ケンカしないでください!」


 牟児津にガンを飛ばされても益子はへらへら笑う。瓜生田はそれを無視して辺杁に話を促す。オカルト研究部の上級生はみんなマイペースなのでいつも部室はカオスな空間だったが、今もたいがいだ。仕方なく瓜生田が二人の顔を押さえて引き離し、改めて話を聞く体勢を整えた。


 「だからそれで……えっと、なんだっけ?」

 「ベーりんが“ササカ”からの予言を思い出して、ムジツ先輩から逃げたところまで」

 「ああ、そう。うん。そうだわ。だから……とにかく、『運命辞典』の話は“ササカ”さんから聞いて知りました。私はずっと、“ササカ”さんの言うとおりに『運命辞典』を捜してきました」

 「ふ〜ん……なるほどね」

 「ムジツさんの学生カードを使ったのは?」

 「そ、それは、気の迷いっていうか……サ、“ササカ”さんが指示したわけじゃないです……」

 「でも、4冊以上本を借りる必要があったんだ」

 「そ、そうなの!えっと……取りあえず、これを見て」


 辺杁はスマートフォンの画面を素早く指でタッチし、自分が建てたスレッドを開いた。学園に関する噂話や怪談、言い伝えなどを募集するものだ。辺杁の書き込みが一番に表示されている。そのすぐ下、二番目に書き込んだ人物のハンドルネーム欄には、“ササカ”と表示されていた。辺杁の話にあった人物だ。三人はスレッドの書き込みを追いながら、辺杁と“ササカ”のやり取りを振り返っていく。


 「『運命辞典』……確かに、“ササカ”の方から話し始めてるね」

 「内容もべーりんが言っていたことそのままです!」

 「いや、私が“ササカ”さんの内容をそのまま言ってるだけだから……」

 「なんか背景色のせいかな……めちゃくちゃ胡散臭いんだけど。本当に信頼できんの?この“ササカ”って人」

 「裏サイトにアクセスするには、工総研が管理してるURLとパスワードが必要なんです……。だから、少なくとも学園生であることは間違いありません。それに、この噂を知ってる人は少ないんです。きっと……“ササカ”さんも、オカルトが好きな人なんですよ」

 「ああ、そうそう。それなんだけど、本当にこの話ってマイナーなの?」

 「はい。自分で言うのもなんですけど、私それなりにオカルトには詳しいつもりでした。でも『運命辞典』の話は“ササカ”さんから聞いて初めて知りました。冨良場部長や虚須先輩もご存知でしたから、“ササカ”さんが出まかせを言っているわけじゃないことも分かります。つまり、私でも知らないくらい語り手の少ない噂っていうことになります」

 「ふぅん」

 「そもそも高等部に七不思議があるっていうことすら知られてないのに、その中のひとつなんて知られてなくて当たり前です。それでも、確実に存在はするんです。私たちの知らない場所、知らない文化、知らない世界……もしかしたら目に見えないし音も聞こえないかも知れない。それでも、確かにそこにある。それを探究するんです。それって、オカルトの本質じゃないですか?」

 「いや、熱く語ってくれてるところ本当ごめん。マジで分からん」

 「ロマンは分かるけどね。私も宇宙人は否定しない派だよ」

 「うんん」


 牟児津はうなった。辺杁のオカルト語りに感心したわけではなく、なんとなくすっきりしない気持ち悪さを感じていたからだ。喉に何か詰まったような、はっきりしない不快感だ。


 「あと『運命辞典』について知ってる人は、それについて語ることを避けるようです。昨日の先輩方がまさにその通りです」

 「ああ、確かに。虚須先輩なんて、名前を聞いた途端に出て行っちゃったね」

 「ほうほう。『運命辞典』を知る者は『運命辞典』について語りたがらない、つまり語ることが何かしらの不利益になり得るからですかね?ありそうなのは……呪われるとか?」

 「ひぃっ!?」

 「ですから、『運命辞典』についての情報が、今のところ“ササカ”さんからしか得られないんです。信頼できるかどうかなんて言ってられません」

 「焦ってるのは分かるけど、きちんと情報は取捨選択しないといけないよ。まあ、これに関してはもう遅いか」

 「で、ここからです。『運命辞典』を見つけるには3つのステップがあります。“ササカ”さんがそれについて説明してくれてます」


 スレッドの続きを指さして辺杁が言う。三人は再び辺杁のスマートフォンを覗き込んだ。


 「まず、4冊の本を用意します。1冊は伊之泉杜学園の歴史についてまとめた本です」

 「なんでそんなもんが必要なんだ」

 「『運命辞典』は学園のどこかにあるんです。最終的にこの本が、その場所を示してくれるんです」

 「細かいところを突っ込んでたらキリがないですよ、ムジツ先輩」

 「分かったよ。最後まで聞くよ」

 「ありがとうございます。それで、“ササカ”さんは『運命辞典』に纏わるこんな詩を教えてくれました」



── 運命の数字が導くところ   あなたの過去はそこにある

   終わらない時の子守歌    今のあなたは聞いている

   並んだ星々 空のしるべ      あなたの未来を見届ける

   三つの印はあなたのしもべ  司る時を捧げれば

   たどった指が知っている   あなたの運命がどこにあるか ──



 三人にはちんぷんかんぷんだった。何やらオカルトめいた言葉が散りばめられているが、具体的な意味はさっぱり分からない。辺杁によれば、『運命辞典』を見つけるには、この詩が示す三冊の本を集める必要があるらしい。


 「ここに書かれているのはそれぞれ、人の過去・現在・未来を示す本です」


 辺杁が説明する。


 「最初の一節。運命の数字とは、運命数──つまり自分の生年月日を全部足し合わせた数のことです。それが導くところなので、運命数番目の書架の、運命数番目の段の左から運命数番目の本。これがその人の過去を示す本です」

 「なんで過去?」

 「誰にとっても生まれた日は過去でしょう」

 「ん、おおう」


 筋が通っているようないないような気がすることでも、当然だという顔で言われると、牟児津は受け入れざるを得なかった。益子の言うとおり切り込めばキリがないので、ひとまずここは飲み込んでおく。


 「次に『終わらない時の子守歌 今のあなたは聞いている』ですが、これは現在を示す本です。時の子守歌とは、時計の針の音です、それを聞いているということは、その時計に一番近い場所にある本こそが、現在を示す本になります」

 「……はい」

 「そして未来を示す本──『並んだ星々 空の標 あなたの未来を見届ける』は、占星術に関する本を意味します。星の輝きや並びは未来を示すものとして、古来から学問として研究されているくらいです。オカルト的にも大きな意味があります」

 「そっかあ」

 「……ここまでは、私でも分かりました。問題はこの先です」


 正直、三人には辺杁の言う“ここまで”も分からない。“ササカ”の書き込みにも似たようなことが書いてあるので、辺杁の解釈はおそらく正しいのだろう。しかしどうにも『運命辞典』というのは、オカルトに詳しくないと見つけることができない代物のようだ。


 「『三つの印はあなたのしもべ 司る時を捧げれば たどった指が知っている あなたの運命がどこにあるか』。これがいったいどういう行為を指すのか……“ササカ”さんにも聞いてるんですが、いつでもすぐ返信が来るわけではないので……」

 「え、私たちにこの意味を考えてくれってこと?」

 「はあ……そうですけど……」

 「ええ……?」


 牟児津は思わず頭を抱えた。気が乗らない、近寄りたくない、前提知識もないの三重苦である。こんな状態でこの詩が意味するところを正しく解釈することなど、可能とは思えない。


 「あったまいてえ〜〜〜!」

 「落ち着いてムジツさん。ほら、ラングドシャ食べて」

 「ぐぅ〜〜〜!んまぐ……うん、うまい」

 「すぐに詩の意味は分からないよ。私たちは辺杁さんみたいにオカルトに詳しいわけじゃないし。辺杁さんなりに解釈しようとはしたの?」

 「したけど……上手くまとまらなくて……」

 「ちょっと教えてくれる?」


 そう言って、瓜生田は詩の内容を紙に書き出し、それについて辺杁がどのように解釈したか、オカルト的にどのような意味を持つかについてを教わりだした。興味も持てない牟児津はそれを横目に見ながら、辺杁母特製ラングドシャをもりもり食べ続けた。


 「瓜生田さん、今からオカルトを勉強するつもりですかね?」

 「うりゅなら大丈夫でしょ」

 「いやあ……瓜生田さんは勉強できるとは思いますけど、さすがに付け焼き刃が過ぎません?」

 「でも、いつもテスト前は教科書読んで私に教えてくれたりするよ。数学とか英語とか」

 「そうなんですか!?すごっ!?というか瓜生田さんに教わってるんですか!?ムジツ先輩はプライドとかないんですか!?」

 「なんで?」


 益子は驚いた。もはや牟児津が、瓜生田に物を教わることになんの違和感も抱いていないことに。瓜生田も瓜生田で自分の勉強があるだろうに、一学年上の内容を教科書だけで理解し、あまつさえ人に教えるなど、どれほどの能力と時間をかけているのか。そもそもなぜ瓜生田が牟児津のためにそこまでするのか、その答えに考えが及ばず理解できなかった。


 「ムジツ先輩、瓜生田さんにあんまり迷惑かけちゃいけませんよ」

 「いやあんたが言うな」


 呆れた視線を投げかける益子に、牟児津は冷めた視線を返した。



 〜〜〜〜〜〜



 辺杁から小一時間ほどレクチャーを受けた瓜生田は、独自に詩の内容を理解しようとしていた。少し読んで解釈しては辺杁と相談し、詩が示す内容を牟児津たちにも分かりやすい言葉に書き換えていく。瓜生田の呑み込みの早さと理解力、応用力の高さに最も驚いたのは辺杁だった。自分が持っている知識を与えたはずなのに、瓜生田は辺杁の予想を超えて詩に新しい解釈を加えていった。


 「すごい……!瓜生田さんって、昔オカルトやってたりした?」

 「しないよ。ムジツさんがそういうの得意じゃないから、私もなんとなく興味を持たなかったんだ」

 「そう、なんだ……」

 「で、ここなんだけど、こういう解釈はどうかな?3と1っていう分け方に意味がありそう」

 「3か……三角形はオカルト的に結構重要な意味を持ってるよ。ピラミッドとか、三位一体とか、プロビデンスの目とか」

 「最終的に学園史の本が在り処を示すっていうことは、学園の中の一箇所を示すってことだよね。指が知ってるっていうのは指で探る、こうパラパラ捲っていくってことじゃない?」

 「す、すごい……!じゃあ、過去・現在・未来の本をそれぞれ正三角形の頂点に配置して、その中心で学園史の本をめくれば……もしかしたら……!」

 「時を捧げるっていう部分の解釈はどうだろう?抽象的だけど、捧げるっていうのはそこまで深い意味はなさそうだね。単純に開けばいいのかな。だとしたら時ってなんだろう」

 「それぞれの本が司る時間、過去・現在・未来のことだよ。たぶん、過去の本は運命数のページ、未来の本は私の星座のページだと思う。現在は……今日の日付とか?」

 「もうちょっと神秘性が必要かもね。前後の文脈からしても」

 「うりゅが向こう側に行っちゃう……」

 「いやいや、こっち側にもいますよ。こっち側と向こう側を反復横跳びしてるみたいですね」

 「すげー。現実だと全然できないのに」


 そして、辺杁と瓜生田による詩の読解が完了した。それが本当に正しいという保証はないが、現時点で可能な限り解釈を凝らした。その結果、『運命辞典』の在り処を見つけるためには、ある儀式が必要であると判明した。


 「まず北に現在の本を置いて、そこから正三角形になるように過去と未来の本を配置して。過去の本が南西側、未来の本が南東側。魔方陣は絨毯で代用しよう」

 「この絨毯すっごい便利だね。ちょっと儀式したいときに書かなくていいんだ」

 「ちょっと儀式したいときっていつだよ」

 「そしたらそれぞれで開くページがあるから、三人で開いて押さえててください。まず過去の本が……」


 辺杁が、魔方陣の描かれた絨毯の上でテキパキ準備を進めて、牟児津たちにも指示を出す。ラングドシャでお腹がいっぱいになった牟児津たちも、辺杁の指示通りに本を開いたり押さえたりして準備する。牟児津と益子は何をしているのかさえ分からないが、意見できる知識もないので、何も考えず従った。

 そして準備が整った。部屋の中央には辺杁。それを三方から囲む牟児津、瓜生田、益子。四人はそれぞれ指定された本を床に置き、特定のページを開いている。ただでさえ暗い部屋の窓をふさぎ、照明を薄暗くして雰囲気を作る。辺杁は、これも儀式には必要なことなのだという。


 「では、私が呪文を唱えながらページをめくっていきます。解釈が正しければ、どこかで自然に指が止まるはずです。『運命辞典』はきっとそこにあります」

 「……あのさ、今更なんだけど聞いていい?」

 「はい。なんですか牟児津先輩」

 「もし間違ってたらどうなんの?」

 「さあ……それは儀式で得られる効用の程度によります。このくらいの儀式だったら、そこまで大きなことにはならないでしょうが……いちおう藁人形みがわり要ります?」

 「あああキモいッ!!でも要る!!」


 儀式が始まった。辺杁は学園史の本を持ち、ぶつぶつ呪文を唱え始めた。薄暗い部屋で怪しげな儀式をしながらだと、意味不明な呪文にも尤もらしさを感じてくる。牟児津にはそれが恐ろしかった。

 辺杁が学園史を床に置き、閉じた状態からゆっくりと指でそれをなぞっていく。目を閉じて苦しそうな表情をしている。この儀式が本当に魔術的な力を持っているようにも感じた。さすがの瓜生田と益子も、辺杁の尋常でない様子に不安な顔をした。ページをなぞりめくっていくその動作がしばらく続く。暗い部屋では時間の流れさえも狂わされるようだ。

 ──そして、儀式は唐突に終わった。辺杁が呪文を唱えるのを止めたのだ。


 「……?べ、べーりん……?大丈夫……?」

 「……っ!」


 特に何かが起きたとは思えなかった。魔方陣が光り出したり、部屋が揺れてガタガタと音を立てたり、天気が変わって雷が落ちたり、空想の中のようなことは何も起きなかった。

 しかし、辺杁は学園史のある1ページを開いたまま固まっていた。三人はおそるおそる、そのページを背後から覗き込む。


 「みなさん……!儀式は……成功しました!」

 「え?」

 「ここです!『運命辞典』はここにあるんです!指が、指がすっとここで止まったんです!本当に、私は何もしていないのに!まるで導かれるように、指がこのページを示したんです!奇跡です!」


 辺杁は興奮していた。自然に指が止まったと言われても、牟児津たちにはよく分からない。しかし跳び上がるほど喜んでいる辺杁に水を差すこともできず、牟児津たちはその様子を見守っていた。


 「じゃあ、詩の読解はこれで合ってたってこと?」

 「はい!瓜生田さん、ありがとうございます!」

 「じゃあ、後はべーりんが『運命辞典』を見つけて実定を書けばオカ研は助かるってこと?」

 「うん!『運命辞典』がどんなものか分からないけど……取りあえず、活動したって言えるよ!」

 「じゃあ、うん……まあ、なんか、よかったね。おめでと」

 「ありがとうございます!」


 あまりに辺杁が喜んでいるので、特に言うことのない牟児津もひとまず祝福しておいた。


 「で、『運命辞典』はどこにあったの?」

 「ここは……特別教室棟3F図書準備室……!配架棚まで書いてある……!」

 「図書準備室?」


 牟児津は首を傾げた。あの薄暗くて本がびっしり並んだ場所なら、確かに怪しげな本の1冊や2冊は置いてあっても不思議ではない。だが、牟児津が抱いた感想はそれだけではなかった。ここに来て、話がまた図書室に戻ってきた。牟児津は、なんらかの意図を感じて気味が悪かった。


 「図書準備室なら、うりゅがよく出入りしてるよね。なんか心当たりないの?」

 「うーん、あそこはたくさん本があって広くて暗くて、あんまり一冊一冊を注意して見たことはないからなあ」

 「つまり、怪しい本を隠すならうってつけの場所ってことですね!どうします?早速見つけに行きますか!図書室なら休日も開放されてますよ!」

 「ううん。見つけるのは月曜日にする」

 「ありゃ。べーりん、気にならないの?」

 「『運命辞典』を見つけるときは……冨良場部長も一緒に来て欲しいから。オカルト研究部の活動だもん。オカルト研究部の……全員で、ちゃんとしないと」

 「ふむ。まあ、べーりんがそうしたいなら」


 益子は事を急ごうと興奮していたが、辺杁はそうでもなかった。『運命辞典』の在処が分かってしまえば、後はその場所に行って確認するだけだ。そのときは冨良場も一緒に。それが辺杁のこだわりだった。


 「じゃあ学園史はもう返してもらってもいいかな?」

 「いちおう、月曜日までは待ってもらえますか?ちゃんと返しますけど、もしものときのために持っておきたいので」

 「もしものときって?」

 「さあ……何が起きるか分からないのがオカルトですから」

 「そういうものなのかな」

 「そういうものなんですよ」

 「じゃあさ。ちょっと見せてもらっていい?」


 用が済んだ本を瓜生田が回収しようとするが、辺杁は念のためまだ本を持っておきたいらしい。月曜日までは協力すると約束していたので、瓜生田は待つことにした。ひとり、どうしても気持ち悪さが消えない牟児津は、学園史の本を辺杁から預かる。辺杁は、空いたグラスを片付けて部屋を出た。


 「ムジツ先輩、どうかしました?何か気になることでも?」

 「……辺杁ちゃんは、本をなぞってる指が止まったって言ってたけど、なんかおかしくてさ」

 「おかしいって、何が?あっ──!」


 牟児津が、学園史を閉じた。せっかく辺杁が探し当てたページが、数百の分厚い紙の束に消えてしまった。


 「ちょっ、何してるんですかムジツ先輩!べーりんがせっかく見つけてくれたのに!」

 「……」


 牟児津は、先ほどの辺杁と同じように、しかし黙ったまま、学園史の本を指でなぞり始めた。小気味よくパラパラとページがめくられていき、分厚い紙束が徐々に減っていく。その様子を、瓜生田と益子は心配そうに見ていた。牟児津が何をやっているのか分からない。

 そして、牟児津の指が止まった。絶え間なく続いていたページの波がぴたりと止まる。開かれたページは、ついさっき、牟児津が紙の束の中に消したのと同じページだった。


 「あれ?おんなじですね」

 「う〜ん……やっぱり、なんか違う」

 「何が?」

 「うりゅもやってみて」


 促されるまま、瓜生田も同じように本を閉じ、最初のページから指でなぞってペラペラめくっていく。そして開いたのは、また同じページだった。益子がやっても同じ。背表紙からやっても同じ。どうやっても、何度やっても同じページに行き着くのだ。


 「……どういうことですかね?」

 「儀式なんて関係なく、誰がどうやってもここが開くようになってるってこと?」

 「たぶん。これさ、外に出てる栞紐が2本あるけど、もう1本めちゃくちゃ細いのがここに挟んであるんだよ。だからここのページだけちょっと浮いてて、めくってくとここで止まるようになってる」

 「あっ!本当だ!白くて分かりにくいですけど、確かにあります!」

 「なんでこんな細い栞紐があるんだろう?それもこのページに」

 「いや……ううん、なんとなく……誰かがここに挟んだって気がする」

 「意図してこのページを開かせた誰かがいると?」

 「……分からん。でも、なんかおかしいと思わない?」


 上手く言葉にできない気持ち悪さと、頭の中でまとまらない違和感を、牟児津はなんとか言葉にして二人に話す。


 「なんか学園の七不思議って言う割に、『運命辞典』と学園の関係が薄い気がするんだよな。学園史を使ってなんとかこじつけてるような……そもそもこの儀式だって、3冊しか本を借りられないのに4冊の本を必要としてるのがおかしい。ひとりじゃできないようになってるんだよ。学園史なんて普段誰も借りないものだから、何か仕掛けをするならちょうどいいし」

 「おっ?おっ?やっぱりムジツ先輩は探偵してるときの方が生き生きしてますね!で、つまるところどうなるんですか?」

 「……『運命辞典』なんて七不思議、本当にあんのかな?この話も、儀式も、情報の出所は全部……同じ人だ……!」

 「“ササカ”だね」

 「辺杁ちゃんは“ササカ”って人を信じてるみたいだけど、なんだか怪しいよなあ……」


 学園史の本の仕掛けを発見した途端、牟児津はこれまで恐れていた『運命辞典』の話や儀式が、一気に不可思議さを失ったように思えた。状況を俯瞰して見れば、辺杁は丸っきり“ササカ”の指示するままに動かされている。牟児津の学生カードを盗んだことは辺杁の判断だが、そもそもひとりでは不可能な儀式が設定されていることに違和感を覚えた。

 牟児津は考える。噂話から儀式から、一連のことは全て“ササカ”が指示したことだ。“ササカ”に何らかの目的があって、辺杁を操っているのかも知れない。だが『運命辞典』の話をしたところで、“ササカ”に何の得があるというのか。“ササカ”は一体何者なのか。


 「このこと、べーりんに話しますか?」

 「……いや、もしかしたらまだ何かあるかも知れない。内緒にしておこう」


 『運命辞典』を見つけた後も、辺杁に何らかの試練が訪れると冨良場が言っていた。少なくとも冨良場は『運命辞典』が何か、その話や儀式について知っているはずだ。それなら、『運命辞典』を見つけた後に起きることも──もしかしたら、“ササカ”の正体も知っているかも知れない。


 「なんだか急に本気になったね、ムジツさん」

 「元をたどれば“ササカ”ってやつのせいでこっちは巻き込まれてんだ。こそこそするのも気に入らん!文句言ってやる!」

 「思ったより小さい目的でしたね」

 「うっさい!休日だって潰されてんだぞ!」


 そのとき、階段を上ってくる音がした。辺杁が戻って来たのだ。


 「や、やばい!これ元に戻さないと!」

 「二人ともくつろげ!」

 「くつろげ!?」


 急いで三人は学園史を元の場所に戻して、何事もなかったかのように床に寝そべった。ドアが開き、辺杁が新しいお茶を持って来た。


 「みなさん、お疲れ様でした。今日はとても助かりました」

 「いやあ、なんのなんの。ところで辺杁ちゃん、今日はこの後どうするの?」

 「学園史の本はまだ持っておきますけど、占星術の本は大学部で借りたので、それを返しに行こうかと」

 「大学の図書館でも本借りられんの?」

 「冊数の制限は変わらないけど、学生カードがあればどこでも借りられるよ。私もたまに本館で借りたりするし」

 「瓜生田さんの学力の底が知れませんね……せっかくですから、私たちも行きましょう!」

 「え?私らも?」

 「どうせ帰り道なんだし、行こうよムジツさん。たまにはマンガ以外の本も読まないと」


 平日は大学部生で混み合うので、高等部の生徒が大学部の図書館を使うなら休日が良い、というのは一部の生徒にとっては常識だった。当然そんなことなど知らない牟児津は、瓜生田と益子に腕を引かれ、辺杁が大学部で借りた本を返しに行くのに付き合うことになった。


 「お母さん、行ってきま〜す」

 「お邪魔しましたあ」

 「あら。みんなもう帰るの?ムジツちゃんだっけ?あんこのラングドシャも作ってあげようと思ったのに」

 「やっぱまだ残らん?」

 「それはまた今度もらいます!大学部に用事があるので!」


 非常に強く後ろ髪を引かれる思いで、牟児津は辺杁家を後にした。



 〜〜〜〜〜〜



 辺杁家から駅まで戻って再び電車に乗り、少し揺られてすぐ学園の最寄り駅に着いた。大学部は高等部と接しているが、入口が高等部から敷地を挟んで反対側にある。いつもの通学路から大きく外れ、商店街の先にある交差点を真っ直ぐ進む。緩やかな坂道を一番上まで登ったところに、大学部の校門はあった。

 休日の昼過ぎだというのに行き交う人は多く、サークル活動や勉強のため訪れる学生が多いようだ。ほとんどの生徒は近くの住宅街に家があるか、駅の反対側にある一人暮らし用マンションに住んでいるので、いつでも足を伸ばしやすいのが伊之泉杜学園大学部の特徴でもある。


 「うへ〜、私、大学部なんて初めて来た」

 「一緒に学園祭行ったでしょ」

 「あのときとはノリが違うから初めてみたいなもんだよ」

 「私も初めてです。広いですね〜!伊之泉杜学園はどこもたいがい広いですけど、ここは一入ですね!」

 「うっかりすると迷子になっちゃうから……はぐれないようにしてね。図書館はこっちです」

 「あっちから良い匂いがする……」

 「ほらムジツさん、手つなぐよ」

 「本当にちっちゃい子みたいですね」


 なぜかぽつんと出店している屋台や、謎の道具を使って演舞を繰り広げる集団、アカペラで歌うグループに、何らかのコスプレをしている人々など、高等部に負けず劣らず大学部も学生の活動は広く自由が認められているようだった。それでもキャンパス内が荒れていないのは、自治機能がしっかり働いているからなのだろう。


 「あった、あそこが入口だよ」

 「うおーっ!すげーっ!」


 辺杁の案内で一行は、建物の奥に隠れて見えなかったガラス張りの建物の前までやって来た。建物の四隅にレンガ造りの巨大な柱が建ち、その間は全てガラス張りになっていて、椅子に腰掛けて本を読む人や勉強している人の姿が外からでも見える。エントランスホールは吹き抜け構造になっており、学生カードをかざして入る自動改札機が並んでいた。牟児津がその建物の姿に圧倒されている間にも、ひっきりなしに人の波が寄せては返していく。


 「みんな、学生カードはあるよね。これで入れるから」

 「うちの学園にこんなのがあるなんて……10年以上通ってるのに知らなかった……」

 「何年か前に改築されたんだけど、その前はその前でステキだったんだよ。壁の彫刻がゴシックな感じで」

 「何年か前って……うりゅ、中等部のときからここ通ってたの?」

 「ううん。初等部から」

 「ひえ〜〜〜!」

 「図書館だから静かにしてくださいね」


 図書館の造りにも、幼馴染みの知られざる一面にも牟児津は舌を巻きっ放しだった。辺杁に注意されて大人しくなった牟児津たちは、学生カードで改札を通過し、中へと入っていった。

 分厚い壁でエントランスホールと仕切られた建物は、一歩踏み入れた途端に周囲の雑音が消えたような気がした。温かみのあるレンガと木でできた内装と落ち着いた色合いのカーペットがあらゆる音を吸収し、蛍光灯の光さえも包み込まれるような優しさを感じさせた。窓から差し込む光は柔らかく、整頓された本棚やカウンターの奥で働く司書の洗練された姿は、大学という牟児津たちの日常のワンランク上にある品格を見せつけていた。


 「おおっ……!これが、大学……!」

 「の、図書館ですよ。いいですね、この雰囲気。おしゃれで清楚で」

 「大学部では、返却はカウンターを使います。自動返却機もありますけど、カウンターで返すと次に借りたい本が予約できたりして便利なんです」

 「私もそれよくやる。使いこなしてるなあ」


 辺杁は返却カウンターの中央に置かれた発行機から整理券を切り取り、ランプが付いたカウンターに向かった。牟児津たちも一緒について行き、カウンターに座った司書に返却する本と学生証を差し出す。


 「これ、返却お願いします」


 そう言って辺杁が差し出した本を、若い司書は受け取った。


 「うん?あっ……アリスちゃん?牟児津ちゃんも!」

 「ふへぇ?……あ!オカ研の先輩!」

 「えっ?う、虚須先輩?」


 カウンターに座っていたのは、部室で冨良場と話していた虚須だった。昨日と同じように髪をシニヨンにまとめていたが、メガネをかけていたこととスーツだったことで、ずいぶん印象が違っていた。


 「どうしたのみんなして!ここ大学部だよ?」

 「あ、あのえっと……ちょっと、本を返しに来ただけで……」

 「そうなんだ。よく来るの?」

 「私はたまに……瓜生田さんはよく使われてるみたいです……」


 辺杁は、虚須に『運命辞典』のことは話さなかった。部室でその名前を聞いたときはひどく動揺していたので、牟児津たちも口にはしないようにしていた。それよりも気になるのは、なぜ虚須がここにいるかだ。


 「虚須先輩って、確か大学部1年生じゃありませんでした?」

 「うん、そうだよ。学生協働って言って、有志で図書館のお仕事を手伝ってるんだ。私、将来はこういう仕事したいと思ってるから」

 「へえ……ステキですね」

 「ありがとう!まあでも、今は高等部の図書委員と変わらないっぽいけどね。館内の見回りとか、本を戻したり清掃したり、学園中で期限超過してる本のチェックとか」

 「変わらないですね」

 「アリスちゃんは大丈夫かな〜?お、ちゃんと期限守ってるね。感心感心。誰かさんとは違うなあ?」

 「いや私じゃないっつうのに……まあ、いいや。月曜には解決するから」


 にやにやしながら見てくる虚須に、牟児津は眉をひそめた。まさかここに来てまでそれを蒸し返されるとは思わなかった。しかしあと少し待てば解決するのだから、いまは辛抱だ。


 「はい。それじゃ返却手続きもOKね。ちなみに次に借りたい本はある?」

 「いえ……今のところは」

 「この後は?もうちょっとここにいるの?」

 「少し本を読んで帰ろうかと思います。あの……虚須先輩も、お休みの日までお疲れ様です」

 「あははっ、アリスちゃんこそ、実定頑張ってね。それじゃあみんな、バイバイ」

 「ありがとうございました〜」


 明るくて爽やかだ。スーツを着ていても虚須の人柄で堅い印象になっていない。牟児津たちにはそれが、とても大人びてかっこよく見えた。

 その後、瓜生田と辺杁で牟児津と益子に図書館を案内し、益子は数々の記録や文献に目を輝かせていた。辺杁も気になっていた本を読み耽ったり、瓜生田は新しく本を何冊か借りたりした。途中から牟児津はふかふかの椅子に埋まって眠っていた。



 〜〜〜〜〜〜



 図書館を出て、一行は帰宅するため駅に向かった。辺杁と益子、牟児津と瓜生田の二組がそれぞれ反対方向の電車に乗って別れ、家路に着いた。長い一日だったような気がしたが、時刻はまだ夕方である。普段家でごろごろしている牟児津はだらけ足りない気がして、自分用のお菓子カゴからお気に入りのお菓子を一つとって部屋に戻った。


 「あー、疲れた。でもおかげで月曜日には万事解決だ」


 月曜に辺杁が学園史を持って来て牟児津に返す。それを牟児津が図書室に返却すれば終わる。今回の事件はそれだけで済む話だったのだ。思えばずいぶん遠回りをしたような気がする。『運命辞典』がどうのこうのというのは、そもそも牟児津には無関係な話なのだ。


 「……」


 それでよかった、何の問題もないはずだ。それなのに、牟児津はなぜか気持ち悪さを抱えていた。午前中に辺杁の家で感じた気持ち悪さと同じだ。何かが引っかかる。何か釈然としない。『運命辞典』のうわさから今に至るまで、ずっと何者かが姿を見せないまま、自分たちを見つめているような気がしてならない。

 辺杁の家に向かう道の奥に。辺杁の部屋の窓に。駅で電車を待つ列の背後に。図書館の雑踏の中に。ありとあらゆる場所で、自分たちの行動が把握されているような。牟児津はずっとそんな不気味さを感じていた。


 「うぅ……」


 不気味だ。この不気味さの正体をはっきりさせないと。背後に何者かの影が立っているような、言い知れない恐怖が付きまとってくる。後ろを振り返るのもいちいち怯えてしまう。牟児津は、この不気味さを解消することにした。それはつまり、『運命辞典』にまつわる気味の悪い謎を解明することだ。

 早速、牟児津はチャットアプリで瓜生田と益子に電話をかけた。


 「もしもし、うりゅに益子ちゃん?急にごめん」

 「ムジツ先輩からかけていただけるなんて珍しい!何かありました?」

 「どしたの?怖くて寝れなくなっちゃった?」

 「子どもか私は!そうじゃなくて、『運命辞典』の話のこと。なんかこのまま月曜日になって本を返しても気持ち悪いから、ちゃんと解決しときたいと思って」

 「ちゃんと解決、というと?」


 形を得ない不気味さを解消するには、解消できる具体的な謎を以てその感覚を捉えなければならない。牟児津は、いま最も不気味に感じているそれを言葉にした。


 「……“ササカ”の正体を突き止める」

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