第2話「その手があったか……!」


 運命の数字が導くところ   あなたの過去はそこにある

 終わらない時の子守歌    今のあなたは聞いている

 並んだ星々 空のしるべ      あなたの未来を見届ける

 三つの印はあなたのしもべ  司る時を捧げれば

 たどった指が知っている   あなたの運命がどこにあるか



 〜〜〜〜〜〜



 翌朝、牟児津は瓜生田と一緒にいた。糸氏の話によれば、牟児津の学生カードを不正利用し、図書館の蔵書を持ち去ったと思われる犯人は1年生だ。特徴的な恰好をしていることも分かったので、あとは虱潰しに聞き込みをしていくだけだ。おおよその生徒が登校してきただろう頃合いに、牟児津は行動を開始した。まずはBクラスからだ。軽くドアをノックして、中にいた適当な生徒に声をかける。


 「おはようございます。ちょっと話を──」

 「おはようございまーす!あれあれ?ムジツ先輩に瓜生田さん!朝からいったいどうしたんですか?あ、もしかして事件ですか?またムジツ先輩が何かに巻き込まれたんですか?お知らせに来たんですか?ご自分から報告に来ていただけるなんて、私も信頼されてきた証ってことですかね?いや〜照れちゃ──あっぶねッ!!」


 牟児津は捲し立てて来るその目と鼻の先で扉を勢いよく閉めた。よりにもよって、一番面倒くさい相手に声をかけてしまった。あわや鼻と口がドアギロチンにかけられるところだった益子ますこ 実耶みやは、ゆっくりドアを開け、金属同士をぶつけるようなカンカン声を響かせながら抗議した。


 「ちょっと!危ないじゃないですか!ジャーナリストへの暴力は報道の自由の侵害ですよ!」

 「な、なんであんたがここに……」

 「なんでって、そりゃ自分のクラスですからいてもおかしくないでしょう!私だって朝のホームルームくらいちゃんと出席しますよ!」

 「朝は帽子被ってないんだね。ブレザーもちゃんと着てる」

 「あれは私なりの勝負服スタイルですからね。こう見えても私、TPOを考えて行動できるんですよ」

 「人の迷惑を考えてくれ。朝っぱらから声でかくてうるさい」

 「こりゃ失礼!」

 「それがうるさい!」


 いつも被っているハンチング帽を脱いでチョコレート色のボブカットを露わにし、いつも肩にかけて袖を結んでいるジャケットに腕を通している。見慣れた格好と違ううえに後ろ姿だったこともあって、牟児津は顔を見るまでそれが益子だと気付かなかったのだ。気付いていれば、自分から声などかけたりしない。絶対に。


 「ムジツさん、益子さんなら知ってるかもよ」

 「あ、そっか。ちょっと人を捜してるんだけど、このクラスにいるか聞きたいんだよ」

 「ほうほう。どなたですか?」

 「黒縁眼鏡をかけてて、制服の上から黒いケープを被ってる子」

 「ああ、それなら“べーりん”しかいませんね」

 「べーりん?」

 「はい。このクラスの子ですよ。黒縁眼鏡に黒いケープ、黒い髪に黒い靴下と黒尽くしの“べーりん”です!でもお肌は色白です」

 「ど、どの子!?」

 「もう登校してきてるはずですけど……ありょ?席にいませんね。だいたいいつも席で本を読んでるんですが」


 益子がきょろきょろと教室を見渡す。牟児津と瓜生田も中を覗いてみるが、黒尽くしの生徒など見当たらない。そうでなくてもケープなど着ていればよく目立つだろうに、どこにも見つけられなかった。


 「消えちゃいました」

 「消えちゃいましたってあんた、手品じゃあるまいしどっかにいるはずでしょ」

 「うむむ」


 こめかみをぽりぽり掻きながら、益子が首をかしげた。そのとき──


 「おお!ベーりん!おはようございますっ!教室から出るなんて珍しいっ!どうしたんですかそんなにコソコソしてっ!」

 「ひああっ!ちょ、ちょっとやめて!」


 益子に負けないほど大きな声が廊下から聞こえてきた。何事かと思えば、マイ掃除機をつれて溌剌とした声をあげる大村おおむら めぐると、大村を制するように手の平を向ける小さな生徒がいた。

 肩の下くらいまでまっすぐ伸びた絵の具のように黒い髪と、肩から背中の上半分ほどを覆う黒っぽいケープが、朝の廊下ではよく目立つ。


 「ああっ!黒ケープの子!」

 「うあっ!?ひゃあああっ!」

 「逃げた!追っかけるぞうりゅ!」

 「えっ、あっ、ま、待ってムジツさん!廊下は走っちゃダメだよ!」

 「待てぃそこのまっくろくろすけ!」


 思わず牟児津が声をあげた。それに反応して振り返った顔には、黒縁の眼鏡がかかっている。間違いない、“ベーりん”だ。牟児津と瓜生田の姿を見るや否や、“ベーりん”は慌てて二人から逃げ出した。すかさず牟児津はその後を追いかける。瓜生田の忠告など耳に入るわけもなく、“ベーりん”と牟児津は廊下の向こうに消えていった。


 「行っちゃった……クラスが分かったんだから追いかけなくてもいいのに」

 「なんなんですかいったい?ああ、瓜生田さん。おはようございます。先日はどうも」

 「大村さんおはよう。さっきの人、“ベーりん”?」

 「はい。辺杁べいり 有朱ありすさん、すなわち“べーりん”です。牟児津先輩はどうしてベーりんを追って行ったのですか?」

 「色々あってね」

 「ほほう?事件ネタの気配がしますね。詳しく教えてください!」

 「あはは……まあ、いっか。実はね──」



 〜〜〜〜〜〜



 「待てええええい!!」

 「ひいいいいいっ!!」


 校舎の中を北へ南へ上へ下へ、教室棟から部室棟まで縦横無尽に逃げる辺杁を牟児津は追いかけていた。牟児津は決して足の遅い生徒ではないが、辺杁もなかなか負けてはいない。直線で距離を縮める牟児津に対し、辺杁は階段や曲がり角を利用して牟児津との距離を広げる。つかず離れずの逃走劇が続く中、辺杁は再び角を曲がった。牟児津はぐんと加速する。


 「んぬごああああっ!!逃がすかああああっ!!」


 曲がるたびに減速などしていてはいつまで経っても追いつけない。牟児津は意を決して、ノーブレーキで角に突っ込んだ。外側に踏み出した足で強く床を蹴り、体の進む向きを強引に捻じ曲げる。スピードを殺さずそのまま角を曲がりさらに加速して──。



 「おべえっ!!」

 「どうあっ!?」



 牟児津は全力を出した。全力を出して角を曲がった。に全力を出した。その先に人がいる可能性など、況してやそれが誰かなど、まったく考えていなかった。

 強い衝撃によって牟児津はずっこける。ぶつかった相手もろとも床に倒れこみ、顔面が廊下を這った。鈍い痛みが顔全体を覆いつくし、思考が数秒止まる。目に飛び込んでくる情報を整理し、理解するまでに時間がかかった。


 「ぐう……ふぁあ、はっ!?あっ……!」

 「くっ……!む、むじ、つ……!!きさまッ、どういうつもりだァ……!!」


 細長い手足。鮮やかな金髪。ナイフで切ったように鋭い目。苦しそうな冷たい声。床に倒れこんでなお、牟児津を睨みつける執念深さ。情報をひとつひとつ理解するにつれ、牟児津は冷たい針で体を貫かれたような感覚がした。

 それは牟児津の天敵──伊之泉杜学園高等部生徒会本部風紀委員長、川路かわじ 利佳としよであった。川路が起き上がろうとしたのを理解して、牟児津は絶叫した。


 「ぎゃああああああっ!!」

 「まっ……!!待たんかああああっ!!」


 牟児津は脱兎の如く逃げだした。出遅れた川路がすかさずその後を追いかける。


 「あああああああっ!!助けてえええええっ!!」

 「牟児津キサマあああっ!!この私にタックルしてくるとはいい度胸だ!!そんなに指導室のイスが恋しいか!!いいだろう!!尻が座面に癒着するまで座らせてやるわあああああっ!!」

 「ひええええええっ!!」


 そのまま牟児津は、授業が始まるまで校内を逃げ回り続けた。もはや辺杁のことなど頭の片隅にさえなかった。ただただ、鬼のような形相の川路から逃げることだけに思考のすべてを費やしていた。



 〜〜〜〜〜〜



 昼休み、クラスにいては川路に捕まってしまうと考え、牟児津はすぐに教室を抜け出した。昼休みなら辺杁も教室にいるかも知れないと考え、牟児津は再び1年Bクラスを訪れた。しかし辺杁は見当たらない。牟児津の顔を見た益子が、すぐに駆け寄ってきた。


 「ムジツせーんぱいっ。べーりんならいませんよ。授業が終わったら一目散に出て行っちゃいました」

 「考えることは同じか……」


 牟児津は肩を落とした。朝の一件で、牟児津は完全に辺杁に警戒されてしまった。その上、牟児津は今日、二度と川路に遭遇してはならないという制約の中で動かなければならない。どうしたものか考え込む牟児津に、益子がひとつ提案した。


 「ベーりんを追いかけるのはやめた方がいいですよ、先輩。どうせ上手くいきっこないんですから」

 「でも私はどうしても、あの子を捕まえて話をしないといけないの」

 「はいはい、聞いてますよ。学生カードを勝手に使われたそうじゃないですか。そのせいで図書委員から目をつけられて、また事件に巻き込まれてるとか!いやはや、先輩の巻き込まれっぷりはもはや才能ですね。うらやましい!」

 「……さてはうりゅだな。おしゃべりめ」

 「あ、ちなみにベーりんはあだ名で、名前は辺杁有朱です。で、そんなことよりムジツせんぱぁい。瓜生田さんとお二人では手が足りなくて大変でしょう?ねえねえ?人手が必要じゃありませんかぁん?」

 「変な声出すな!キモい!」

 「べーりんは逃げ足が速い上に警戒心が強いので、お二人じゃどうやっても先に逃げられちゃいます。そ・こ・で、ベーりんに警戒されてないこの私がべーりんを捕まえておきますよ?どうします?実耶ちゃんのこと頼っちゃいます?」

 「ぐぬぬ……!!せ、背に腹は代えられないか……!!」

 「ではでは!ドンと任せてください!その代わり、契約のことはお忘れなきように!」


 新聞部員である益子は、牟児津が巻き込まれた事件の解決に協力しつつ、同時に番記者として取材もしている。情報提供などの見返りとしてその活躍を新聞部で記事にするという契約を、半ば強引に結んでいるのだ。牟児津としてはなるべく益子に協力されたくはないのだが、辺杁を捕まえるために仕方なくその申し出を受けることにした。

 そして放課後、昼休みと同じように教室を素早く飛び出した牟児津は、まず瓜生田のいる1年Aクラスに駆け込み、昼休みに益子と話したことを瓜生田に伝えた。そして絶対に辺杁を確保するべく、教室にある二つの出口を牟児津と瓜生田で塞ぐ作戦を立てた。


 「もし逃がしても、私がデカい声出して教室の前に追いやるから、うりゅが捕まえて」

 「マタギがシカ狩るのと同じやり方」

 「いくよっ!!」


 Bクラス教室の後ろのドアに牟児津が立ち、瓜生田が前のドアに立つ。呼吸を整えた牟児津は、わざと大きい音を立てて教室に飛び込んだ。その目に、驚いて固まった黒いクレヨンが見えた。


 「とったああっ!!」


 辺杁に向かって牟児津が跳んだ。完全に退路を断たれた辺杁が席を立とうとする。すかさずその腕を益子が掴んだ。


 「えっ!?ちょっ……何して──!?」

 「許せべーりん!これも記事のためだ!」

 「わあああああああああああああっ!!?」

 「ぶぅおっぐっ!!?」


 周りは机と椅子に囲まれている。腕を押さえられ退路もない。突っ込んできた牟児津を受け止めることも、受け身を取ることもできず、辺杁は真正面から牟児津の突進を食らった。


 「んぐふっ!!お、おおおっ……!!」

 「み、みんな大丈夫!?」

 「ぐおおっ……!今日はよくぶつかる日だ……!」

 「ベーりん生きてる?」

 「な、な、なんなの……?なんなの本当?」


 もみくちゃになった三人に瓜生田が駆け寄る。衝突した拍子に互いの手足が絡まって身動きが取れなくなっていた。瓜生田がそれを丁寧にほどき、ようやく解放された牟児津と益子は、辺杁を取り囲んで逃げ道をふさいだ。追い詰められた辺杁が、きつく益子を睨みつける。


 「みゃーちゃん、裏切ったな!」

 「裏切るもなにも私ははじめから面白いネタの味方だよ。べーりんよりムジツ先輩方を助けた方が面白くなると判断しただけ」

 「くうっ……!これだから新聞部は……!」

 「辺杁ちゃん、だよね?」

 「うっ!」


 益子は胸を張るが、要するにネタのためなら友人を売ることも辞さないというだけのことだ。あだ名で呼び合うほどの仲でもあっさり差し出すのだから、益子のジャーナリズム精神の強さとこれまで買ったであろう恨みが相当なものであることが分かる。

 辺杁が落ち着くのを待ってから、牟児津は辺杁に目線を合わせて話しかけた。教室に飛び込んできたときの荒ぶり方は鳴りを潜め、今は声の調子も落ち着いている。瓜生田と益子はピンと来た。今の牟児津は少しだけ推理モードだ。


 「どうして私から逃げるの?」

 「べ、別に私は、牟児津先輩から逃げてるわけじゃ……!」

 「私の名前、知ってるんだね?」

 「……へ?」

 「さっき教室に入ってから、誰も私の名前は言ってないよ。なんで私の名前が牟児津だって分かったの?」

 「へぁ」

 「私の学生カードを見たから知ってるんだよね?3ヶ月くらい前、警備室に私の学生カードを届けたの、辺杁ちゃんでしょ。そのとき私のカードで本を借りたんじゃない?だから、私の顔を見てすぐに逃げ出した。カードを勝手に使ったのがバレたと思ったから」

 「あひぁ……!はわわ……!」

 「違うかな?」

 「ムジツさん。このリアクションで違うってことはないよ」

 「さっきの今でこのムジツ先輩の落ち着き方はビビりますよねえ。あ、この人は本気で怒ると冷静になるタイプなんだなって思いますよ」

 「別に怒ってるわけじゃないけど」

 「ご、ごめんなさいぃ!!出来心なんです!!」


 淡々と語りかける牟児津は、本人が意識しないうちに辺杁に威圧感を与えていた。気圧された辺杁は言い訳のひとつも浮かばないようで、その場で額を床につけた。きれいにまとまった見事な土下座である。まさかそこまで唐突かつ強烈な謝罪をされると思っていなかった牟児津たちは、一様に目を丸くした。


 「本当にごめんなさい!先輩にご迷惑をおかけするつもりはなかったんです!ただ、少しだけ……必要だったから……!魔が差したんです!」

 「ちょ、ちょ、ちょっと待って、待ってってば。あの、落ち着いて、だから、私は別にそんな、ええっと」

 「ムジツさんこそ落ち着いてよ」

 「うわー、クラスメイトが知り合いに土下座してるのって、見る方もなかなかキツいですね……」

 「と、取りあえず、頭上げて?順番に話してくれればいいから」

 「順番に……何をお話しすれば……?」

 「色々あるからなあ。何から聞けばいいんだ」

 「ムジツ先輩!ここから先は私と瓜生田さんに任せてください!」


 益子は土下座していた辺杁を椅子に座らせ、近くの適当な椅子を持ってきて牟児津と瓜生田の席を作った。顔を上げた辺杁は目の周りが赤らんでいて、涙が黒縁眼鏡のレンズに当たって落ちた。完全に観念した顔だ。3ヶ月前のことでこれほど追いつめられるということは、辺杁の中でかなり印象に残っているらしい。もしかしたら、他人の学生カードを使った罪の意識に苛まれていたのだろうか。


 「まず、警備室に学生カードを届けたのはベーりんなんだよね?」

 「うん……私が持って行った」

 「名前を言わなかったのは、自分が届けたってバレるから?」

 「そう。もしかしたら先輩が取りに来て、私に盗られたってバレるかもって思ったら、怖くなっちゃって……」

 「学生カードを盗ったの?どうやって?」

 「えっと……」


 3ヶ月前、辺杁は悩んでいた。とある理由から、図書室で本を借りる必要があった。しかし一人で借りられるのは3冊が限度だ。なのに辺杁は4冊目を借りなくてはならなかった。どうしても4冊そろえる必要があった。どうすればいいのか、悩んでいたのだ。


 「そんなときに……ふと、2年生の教室を見たら、机の上に学生カードが出てるのが見えたんです。中は誰もいなくて……移動教室だったんだと思います」

 「机の上にカードが?なんで?」

 「多分なんかに使ってそのままにしてたのかなあ。学生番号とか見て、出しっぱなしにしてたのかも」

 「いくらなんでも不用心すぎるよムジツさん。そりゃ盗られるよ」

 「それで……」


 学生カードがもう一枚あれば、4冊目を借りることはできる。しかし他人のカードを勝手に使ったことがバレれば、厳しい処分は免れない。だが、もしすぐに本を借りて元のように戻せば、バレないのではないか?そんな邪な閃きが脳を支配していった。倫理観や良心などのは、という暴論によって悉く駆逐されていった。

 気付けば、辺杁はカードを盗んで駆け出していた。そのまま図書室に向かうのではなく、自分のクラスに戻ってしまった。目の前にあるものを拾う。ただそれだけの動作に想像を絶するエネルギーを費やしてしまい、無意識に気を落ち着かせようとしていた。


 「それでその日の放課後、図書室に行きました。本を借りて、カードを返そうと思いました。でも……どこの教室から取ったのかが分からなくなっちゃって……私、夢中だったから……!」

 「それで、警備室に届けたんだね」

 「べーりんは律儀だなあ。私だったらその辺に捨てるよ。届け出ておいて名前を言わない方がよっぽど怪しいもん」

 「そ、その手があったか……!」

 「変なこと教えんなバカ!」

 「あれ?でも、本を借りたときに使った学生カードがないと、本を返せないよね?」

 「う、うん……それは、家に帰ってから気付いた。返すに返せなくなっちゃったなって……」

 「な、なんつう後先考えなさだ……」


 辺杁の話を聞いた牟児津は呆れ果てた。衝動的に学生カードを盗み、返すことを考えず本を借り、警備室でも自分の行動の不自然さに気付かず、巡り巡って先ほどの土下座である。勢いで突っ走る癖があるのは牟児津も同じだが、さすがにここまでひどくはない、と自分では思っている。


 「なんていうか……不器用だね、辺杁ちゃんって」

 「ムジツさんだって、学生カードがどれくらい大切なものか分かってる?机の上に放置なんて絶対ダメだよ。辺杁さんも悪いことしたけど、ムジツさんもだいぶ悪い!」

 「私も!?」

 「そうですよねえ。この情報化社会に自分の個人情報をその辺に放置って……それはないですよ」

 「いやだって……」

 「現にこうやって巻き込まれてるわけじゃん」

 「ぐう」

 「ぐうの音が出るくらい何も言えないみたいですね」


 昨日に引き続き、牟児津はまたしても自分の不用心さを論破されてしまった。最低限必要な防犯意識を持たないと被害者になることもできないと、牟児津は身に染みて感じたのだった。そんな後輩二人に論破される牟児津の姿は、辺杁にはさぞかし間抜けに映っただろう。泣きべそをかいていた辺杁は、いつの間にか小さく笑っていた。それに気付いた牟児津はますます恥ずかしくなったが、辺杁が落ち着いたことに安心もした。


 「ムジツ先輩、笑われてますよ」

 「あっ、ご、ごめんなさい」

 「いいよいいよ。私はとにかく、辺杁ちゃんが本を返してさえくれればいいんだから」

 「えっ……」

 「そうだね。辺杁さん、その本はいま持ってるの?」

 「家にあるけど……でも、ごめんなさい、まだ返せないんです」

 「か、返せない、とは?」

 「まだ……その、用が済んでないから……」

 「読み途中ってこと?3ヶ月も?」

 「そりゃ困るよ!私が借りっぱなしにしてることになってるんだから!」

 「ご、ごめんなさい!でも、本当に返せないんです!返すわけにはいかないんです!」

 「一旦ムジツさんに返してもらって、その後で辺杁さんが借り直すってことはできないの?」

 「私はもう限度いっぱいまで借りてますから……」

 「なんだよそれ!」

 「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!」


 辺杁は何度も謝りながら頭を下げるが、決して本を返すことに同意はしなかった。本さえ返してもらえば牟児津はきれいな体になれるというのに、辺杁はどうしてもできないという。それでは、牟児津にとってこの事件は解決したことにならない。


 「ねえ、辺杁さん」


 赤べこのようになっていた辺杁が、瓜生田に呼ばれて動きを止めた。瓜生田が辺杁に一歩踏み込もうとしているのを、全員が感じた。


 「そこまでして、どうしてその本が必要なの?その本で、辺杁さんは何をしようとしてるの?」


 辺杁が息を呑んだのが分かった。今の質問は明らかに、辺杁にとって重大な内容に触れるものだ。辺杁が敢えて言及を避けていた、“本を借りた目的”に踏み込んだ質問だった。既に辺杁は、三人に隠し事をし続ける自信を失っていた。あきらめを含んだため息を吐き、辺杁は答えた。


 「わ、私は……オカ研を救いたいんです……!」

 「ん……?なに?」

 「少し、長くなりますけど……聞いてもらえますか?」


 そう切り出して、辺杁は話し始めた。カードの不正利用をしてまで本を借りた理由と、その目的を。


 「私、こう見えてオカ研──あ、オカルト研究部に所属してるんです。結構由緒ある部活で……多いときには、10人以上の部員がいたんですよ。でもどんどん部員が減ってきて……今は、たった2人になっちゃったんです」

 「2人?部活動の構成要件は部員3人以上のはずだよ?」

 「……いろいろあったんです。それで、来年度までに新入部員を入れて部員を3人以上にしないと、同好会に落とされて部室を追い出されちゃうんです。あ、でも、それは別にいいんですっ。だけどその……そもそも部会として活動できないかも知れなくて……。そろそろ実定の時期じゃないですか」

 「ジッテー?」

 「活動期報告書、略して実定です。すべての部と同好会が提出を義務付けられている書類ですよ。未提出だったり内容が不十分だったりすると、活動実態なしと見做されて解体させられちゃうんです。ちなみにこれを導入したのは現生徒会副会長です。テスト期間も容赦なく提出を求めるし、部は同好会に比べて査定が厳しいので、既に色んな部会が解体されてるんですよ。私は副会長の陰謀だとニラんでますが」

 「それは分かんないけど……とにかく、その実定です」

 「へー、全然知らなかった」

 「つまり、オカ研は次の実定を出せそうになくてピンチってこと?」

 「そ、そうです。さすが……話が早くて助かります」


 新聞部に所属している益子は当然として、瓜生田も学園生としてそれくらいの知識は持っていた。知らなかったのは牟児津だけだ。道理で、テスト期間中も部活で忙しそうにしている生徒がいたわけだ、と牟児津は納得した。


 「でもそんなん、普段の活動を書くだけじゃないの?出せないなんてことある?」

 「うちは普段、部室でオカルト談議してるくらいですから。たまに実践的なこともしますけど、ほぼ遊びみたいなものですし。なんとか騙し騙しやってきたのももう限界で……」

 「う〜ん、ベーりんには悪いけど、そりゃ解体されて然るべきでしょ。むしろ耐えてる方だよ」

 「そ、そんな!確かに他の人には下らないことに見えるかも知れないけど、でも私たちにとっては……大切な居場所なんです……!」

 「まあいいよ。で、それと本を借りるのがどう関係すんの?」

 「あ、そ、それがですね」


 話が逸れてきたのを牟児津が修正した。オカルト研究部の実情など、牟児津にはどうでもいいことだ。それが辺杁の行動に関係していることは分かったが、まだ具体的な理由が分からない。


 「とにかく私は、実定を作って、せめて同好会としてはオカ研を続けたいんです。だから、そこに書ける活動実績が必要なんです。そのためには、あの本が必要なんです」

 「オカ研の実績のために、学園史の本が必要なの?もしかしてあの本って曰く付き?」

 「い、いわく……!?」

 「……みなさん、『運命辞典』って知ってますか?」

 「運命辞典?知らないなあ」

 「私もです。ムジツ先輩は?」

 「うりゅが知らないことを私が知ってるわけないじゃん」

 「これ、伊之泉杜学園うちの高等部に伝わる七不思議のひとつなんです」

 「なっ!?ななっ……!?」


 七不思議と聞いて、牟児津の顔がたちまち青くなった。オカルト研究部の名前が出たときから嫌な予感がしていたが、どうやら的中してしまったらしい。牟児津はすぐさま立ち上がった。


 「わあもうこんな時間。うちのお花にお水をあげなくちゃいけないからもう帰らないとお」

 「ダメぇー。はい、一緒に聞こうねー」

 「おあーっ!!はなせえええっ!!」

 「ベーりん、続けていいよ」

 「ぎゃあああっ!!はなすなあああっ!!やだあああっ!!」

 「だ、大丈夫ですか……?」

 「だいじょぶだいじょぶ。社交辞令で怖がってるだけだから」


 わざとらしい言い方で理由を付けて、牟児津は逃げ出そうとした。その腰を瓜生田が抱え、自分の膝の上に引き寄せてがっちり固定した。牟児津は叫んで暴れるが、チャイルドシートに座る子どものように無力だった。ただ事でない様子に辺杁はヒき気味になるが、他の二人は聞く気まんまんなので話すことにした。


 「『運命辞典』は、それを開く人の運命すべてが書いてある本です。この世に生まれてから消えてなくなるまで、どこで何をするか、誰と出会うか、どう生きていくか……それらはすべて運命で決まっていて、『運命辞典』には全てが書いてあるんです。そんな本が、この学園には隠されている。そういう話です」

 「ほほう。いかにもオカルトって感じですね。興味深い」

 「運命は変えられないので、それを開くことは自分の未来全てを知るっていうことです。中には『運命辞典』を開いたせいで、自分の運命に絶望して発狂した人とか、運命に逆らおうとして命を落とした人とか……そういう派生した話もありますね」

 「あわ、あわわわわ……」

 「七不思議について調べれば活動実績として書けると思ったので、『運命辞典』の話の真実を調べて、結果を書こうと思ってるんです」

 「真実?七不思議に真実なんてあるの?」

 「私なりに色々この話を調べました。そしたら、『運命辞典』を見つける方法っていうのが分かって、それには図書室にある本が必要らしくて……それで……」

 「それで今に至るってわけか……うん、なるほど。確かに、さっき話してくれたことと矛盾はないね」


 瓜生田と益子は全く怖さを感じなかったが、牟児津は瓜生田の膝の上でカタカタ震えて下唇をぶるぶる震わせていた。牟児津はこの手の話を避け続ける人生を送ってきたせいで、大したことない話でも怯えるようになってしまった。


 「要するに、ベーりんは『運命辞典』をまだ見つけてないから、その手掛かりである本を返すわけにはいかない。ムジツ先輩は本を返してもらわないと、持ち去り犯の濡れ衣を着せられたままで困る。こういうわけですね!」

 「状況は分かったけど私にどうしろってんだよ!クッソ怖え話まで聞かされて、結局なにも変わってないじゃん!いいから早いとこ本返してよ!」

 「ごめんなさいっ!」

 「ごめんなさいじゃなくて!本当に!」

 「じゃあ、ムジツさんも手伝ってあげたら?『運命辞典』探し」


 瓜生田の提案で、会話が唐突にぶった切られた。益子は、この事件にもう一つ展開を作るため布石を打った。それを察知した瓜生田がすぐさま便乗し、最も合理的かつ早急に事態の解決を図ったうえで提案した。目的の異なる二人の連携により、互いに相反する牟児津と辺杁の利害が強引に一致させられた。


 「それはいいですね!ベーりんは『運命辞典』を見つければ実定を作れてハッピー!ムジツ先輩は無事に本を返して疑いを晴らしてハッピー!ついでに私もいいネタ取れてハッピー!三方円満ハッピー曼荼羅の完成です!」

 「え……で、でも、私、これ以上、先輩に迷惑かけるなんて……」

 「でも辺杁さんはひとりで頑張って3ヶ月も悩んでるんでしょ?私たちが手伝えばもっと早く見つかるよきっと」

 「いやなんで私がそんなことまでしなきゃならないんだ!オカルトなんて一番関わりたくないわ!」

 「まあまあムジツさん」


 案の定、牟児津は瓜生田の提案に異を唱える。瓜生田はすかさず牟児津の口を押さえ、耳元でこっそりと囁く。


 「実際問題、本は辺杁さんが持ってるんだよ。家にあるんじゃむりやり取り返すなんてできないし、協力して早く用を済ませてもらえば、辺杁さんの方から返してくれるよ。それが一番いいと思わない?」

 「ぐぬぬ……尤もなことばっか言いやがってぇ……!」

 「尤もなこと言って怒られることなんてないよ」

 「でぇいもう!わあったよやるよ!やりゃあいいんでしょ!」


 本を取り返さなくてはならない一方、オカルトに自ら関わっていかなければならない状況で、牟児津はジレンマに陥る。ひとりで悩んでいても答えが出ることはないので、瓜生田が痛いほどの正論で背中を押した。牟児津が瓜生田の説得を突っぱねられるわけもなく、結局は瓜生田の提案通り、辺杁に協力することを決めた。


 「その代わり手伝うのは土日だけ!月曜日になったら問答無用で本は返してもらうよ!いいね!?」

 「あ……ありがとうございます……?」

 「あーちくしょう!また貴重な休みがつぶされる!」

 「いいでしょ。どうせ家でだらだらしながらお菓子食べてるだけなんだから」

 「学校でだらだらしながらお菓子が食べられるか!普段できないことするんだから私にとっては貴重な休みだ!」


 文句を言いつつ、牟児津は協力を約束した。オカルトなど近寄りたくもない人間が手伝ったところでプラスになるとは思えなかったが、瓜生田と益子もついて来るので、ある程度のことは期待できるだろう。いずれにせよ、遅くとも月曜日には本を返すという条件を付けたので、いましばらくの我慢だと、牟児津は自分に言い聞かせた。



 〜〜〜〜〜〜



 牟児津たちが協力する条件としてもう一つ、瓜生田が提案したことがあった。それは、辺杁がしたことをオカルト研究部にしっかり告白することであった。


 「やったことはやったこととして、きちんと謝らないといけないと思うな」


 辺杁によれば、カードの不正利用はおろか、実績作りのために行動していることさえ、部内では話していないらしい。今後のことを考えるなら、辺杁がきちんと自分の罪を認め、すべての事情を話したうえで部としての意思決定をするべきだと、瓜生田は言うのだった。牟児津は正直なところ面倒に感じていたが、やけに瓜生田が厳しく言うので、余計な口を挟まずに従うことにした。

 オカルト研究部の部室は、例によって部室棟にある。夕方になると窓の外に植わっている生け垣の影で薄暗くなる、1階の奥まった場所だ。新聞部とは違う、なんとなく陰気な雰囲気と匂いを感じた。


 「うぇ〜、薄気味悪いところだなあ。こんなとこに部室作らなくてもいいのに」

 「いまは部員が私と部長の2人だけです。あの、うちの部長はちょっと……ミステリアスな人なので、一連の説明は私からしますね」

 「2人だけ?でも、話し声がするよ」

 「本当ですね。交信でもしてるのかな……?」

 「私もう全部聞かなかったことにするわ」


 薄暗くなってきた廊下を、部室からこぼれた光が薄ぼんやりと照らしている。半端に閉められたドアの隙間から漏れてくるのは、2人の人物の話し声だ。ひとりは少し大人っぽい落ち着いた声で、もうひとりはどことなく間の抜けた、水に浮かんだ泡のような声だ。冗談か本気か分からないことを呟いて、辺杁がドアを開けた。

 部室には二人の人物がいた。二人ともいきなりドアを開けられたことに驚いた様子で、部屋に入ってきた辺杁たちに目を向ける。すぐに片方が、ふにゃっとした笑みを見せた。


 「やあ辺杁君。ずいぶん遅かったねぇ」


 ふわふわと揺れる水風船のような、何とも言えない不思議な雰囲気を持つ人物が、部室の真ん中に敷かれた畳の上で笑った。頭からはみ出るほど大きな帽子を被り、その隙間からみかん色の前髪がはみ出ている。眠たそうに半分閉じた目の上に薄い丸眼鏡をかけていて、制服の上から半分手が埋まるほどオーバーサイズのローブを着ていた。畳の上を四つん這いで移動するせいで、余った裾が十二単のように引きずられている。


 「今日はお客さんが見えてるよ。こちらはオカ研OGの虚須うろす 美珠みたま先輩。ごあいさつして」

 「あ、ど、どうも……はじめまして」

 「はじめまして。あなたがオカ研の未来を担うアリスちゃんね!お話は聞いてるよ〜!がんばってね!イノ学オカ研の期待の星!」

 「うっく、はあ」


 虚須は、さっぱりとした清楚な服に身を包み、灰白色の髪をシニヨンにしてまとめていた。きらきらした目で辺杁に近付くと、暑苦しいほどの激励の言葉とともに肩を叩いた。だぼだぼの服装で畳の上をはいはいする隣の人物と比べると、実に爽やかで快活そうな印象を受ける。


 「んでぇ、そちらは?」

 「あ、は、はい。こちらは、2年生の牟児津先輩です」

 「ども」

 「ムジツ?ああ、あなたが牟児津真白さん?」

 「へ?あ、はあ……そうですけど」


 牟児津の名前を聞くや、虚須は辺杁に向けていた視線をそのまま牟児津に移した。まさか自分に食いついてくるとは思っていなかった牟児津は、ぎょっとしてその目を見つめ返し、すぐ逸らした。


 「あ、あと……こっちが瓜生田さん。こっちが同じクラスの……益子さんです」

 「よろしくお願いします」

 「よっす、どうも」

 「瓜生田ちゃんに益子ちゃんね。よろしく!みんなはもしかして、オカ研の入部希望者!?」

 「美珠先輩、落ち着いてください」

 「あ、みなさん。あそこで眠たそうにしてるのが、今のオカ研の部長の、冨良場ふらば先輩です」

 「冨良場ふらば つきですぅ。よろしくねぇ」


 虚須は、牟児津たちひとりひとりを品定めするように見つめては勝手にテンションを上げている。辺杁は、戸惑いつつも牟児津たちとオカルト研究部を互いに紹介する。冨良場は、ただマイペースに笑って手を振っている。それぞれがそれぞれのしたいことをして、それらが一切絡み合っていない。どこから整理していけばいいのか分からず、牟児津は何も言えなかった。


 「大学の先輩にまで名前が知られてるなんて。有名になったね、ムジツさん」

 「うっそだろ……!恥ずかしい……!」

 「取りあえず、一回座ります?」

 「ああ、ごめんね!OGが出しゃばっちゃって!ウチは隅っこにいるから、あとはみんなで、ね。若い者同士でやっちゃって」

 「美珠先輩。そういうのが一番やりにくいんですよぉ。知ってるでしょ」

 「ほらほら部長、ちゃんとお客さんの相手してあげて」


 虚須はひとりで散々楽しそうにした後、部室の端に寄って座り込んだ。悪い人ではないが、面倒臭い人だと牟児津は感じた。

 先ほどより少し静かになった部室に、辺杁はパイプ椅子を並べた。部室の真ん中に敷かれた畳とその後ろの祭壇のような造形物の正面に、辺杁を含んだ牟児津たち四人が向き合う配置だ。冨良場は四つん這いのまま、辺杁が連れてきた三人の顔をじっと見つめた。途中、「ふぅん」や「へぇ」と言って頷いたり、後ろを覗き込んだりするので、牟児津はそのたび小さく震えていた。何をしているか分からないので気味が悪い。

 そしてひと通り終わると、冨良場は腰を下ろして落ち着いた。


 「……ふう、みっともないところを見せたね。あの人は他人にムチャ振りとダル絡みをするのが趣味なんだ」


 いやな趣味だ、と感じたものの、牟児津は寸でで口に出すのを堪えた。本人がすぐそばにいることを忘れていた。虚須がそこにいないかのように冨良場は言うが、小さな仕返しのつもりなのだろう。


 「まあそんなことはどうでもいいや。君たちはこんな辺鄙な場所まで、どういった用で来たのかな?」

 「……実は、部長にお話ししないといけないことがありまして」

 「うん?」


 一呼吸おいてから、辺杁は一連の出来事を冨良場に打ち明けた。オカルト研究部を存続させるための実績作りに向け行動していたこと。その中で牟児津の学生カードを盗んで不正に利用したこと。牟児津たちにそれを暴かれ、色々あって協力してもらうことになったこと。迷惑をかけたことのケジメとして全てを冨良場に打ち明けていること。

 辺杁の話を、冨良場はただ頷いて聞いていた。驚きや叱責や申し訳なさは見せず、ただただ辺杁が話すことをそのまま受け止めていた。


 「以上、です。本当に、すみませんでした……!」

 「うんうん。そうだったんだねぇ。よぉく分かったよ」


 現在に至るまでを話しきった辺杁は、最後にもう一度頭を下げて話を終えた。それを見て、冨良場は今まで座っていた畳の上に立ち上がった。立って初めて分かったが、3年生にしては少し背が低いずんぐりした体型だった。


 「牟児津君、瓜生田君、益子君。うちの部員が大変な迷惑をかけたね。部長として謝罪する。申し訳なかった」

 「い、いえいえそんな……」

 「ムジツ先輩はこんなん慣れっこなので、なんとも思ってませんよ!」

 「うっさいあんたは!でもまあ、そこまで大層なことじゃないですから」

 「いいや。わたしが言うのもなんだが、大層なことだよこれは。学生カードの不正利用、しかもそれが盗み取ったものとなれば、直ちに風紀委員か教師に通報するべきだ。部長として、先輩として、あるいは学園生としてはね」

 「ふ、風紀委員……!?」


 風紀委員と聞いて、牟児津が冷や汗をかいた。もういい加減、昼にあった事件のほとぼりも冷める頃だろう。冷めていても、川路が牟児津の顔を見れば再燃するかも知れない。風紀委員に連絡されるのは、牟児津としても避けたいことだった。


 「でも……どうやら君たちも、風紀委員と関わるのは困るようだ。協力して内々に処理するのが互いの利になると判断したから、ここまでやって来た。そういう理解でいいかな?」

 「むぐっ……!」

 「そんなところです。ムジツさんは風紀委員長が苦手なんです」

 「ははは、川路君は怖いからね」


 さっき三人を観察したときに何かを理解したのか、あるいは何かがえたのか、冨良場は鋭く状況を把握しつつ、相変わらずふにゃふにゃ笑った。


 「辺杁君の件は本当に申し訳ないと思っている。ただ、ここでわたしが床に頭をつけて謝罪したり彼女を叱責したりすることは、君たちの望むところではないことも理解した。君たちは結局、辺杁君が借りた本を早く返してほしい。それに尽きるのだろう?」

 「めちゃくちゃ理解が早いですね!こちらとしてはありがたい限りですが……話がトントン拍子に進み過ぎているような」

 「安心していいよ益子君。わたしはれいほと違って、情報に対価は求めない。そうでなくても君たちは、我がオカ研を救おうとしてくれてるのだからね。むしろこちらが対価を支払う側だ」

 「寺屋成じやなる部長のことご存知なんですか?」

 「クラスメイトだからね。それでなくても彼女は3年生では有名人だよ」


 寺屋成じやなる 令穂れいほの名前を聞いて、牟児津は新聞部長である詭弁家の顔を思い出した。益子を牟児津のもとに派遣している張本人で、牟児津の平穏で目立たない学園生活を脅かす目下最大の原因の一つである。オカルト研究部の部長が彼女を下の名前で呼び捨てるほどの仲だということも意外だった。水風船のようにとらえどころのない冨良場と、ダンプカーのように他人の事情にずけずけ踏み込んでくる寺屋成は、果たして気が合うのだろうか。


 「ところで辺杁君。君は何の七不思議について調べようとしているんだい?」

 「……『運命辞典』です」

 「えっ……!?」


 声を漏らしたのは、部屋の隅に収まっていた虚須だった。黙って辺杁の話を聞いていたので、牟児津たちはすっかりその存在を忘れていた。虚須は、激しく目を泳がせた後、牟児津と辺杁、そして冨良場を見て、立ち上がった。


 「ウ、ウチ、もう帰るね。ツキちゃんがきちんと部長やれてるとこ見れたし……あんまり長居しちゃ悪いから……!」

 「……そうですか。お疲れ様です」

 「うん。それじゃ。アリスちゃん頑張ってね!」

 「あ、ありがとうございます」


 先ほどまでのテンションはどこへやら、ぎこちない言葉と動きのまま、虚須は部室から出て行ってしまった。最後に辺杁に明るい言葉をかけてはいるものの、どう考えても不審だ。初対面の牟児津たちでさえ、様子がおかしいとしか思えなかった。


 「気にしない方がいい」


 冨良場が言った。


 「昔からああいう人なんだ」

 「虚須先輩がどうというより、『運命辞典』に何かあるように感じましたけど」

 「そう見えるかな」

 「明らかにその名前を聞いてから態度が変わってましたから。何かあるんですか?」


 瓜生田の問いかけに、冨良場はすぐには答えない。異様な雰囲気を感じ取った牟児津が、瓜生田と冨良場の顔を交互に見て、また怯える。


 「知名度が低いとは言え七不思議のひとつだ。それなりのことはあるよ。ただしそれを調べるのは、これから君たちがすることなんじゃないかな?」

 「そ、そうです」

 「ならいずれ分かるさ。今わたしが全てを話してしまったら、実定に書く話がなくなってしまうだろう?」

 「え、部長さんって、『運命辞典』の全てを話せるくらい知ってんですか?」

 「まあね」


 さすが部長と言うべきか、牟児津たちは聞いたことさえなかった『運命辞典』について、冨良場は熟知していた。その中身を聞くことはできないが、どうやら本当に『運命辞典』の話は存在するらしいことが分かった。もしかしたら、虚須も冨良場と同じくらい知っているのかも知れない。だとしたら、二人の態度の違いは何が原因だろうか。瓜生田は考えるが、この場で答えは出ない。


 「ありがとう辺杁君。君は、わたしにはもったいないくらい部活思いの後輩だ」

 「いえそんな……私はただ、オカ研が、ずっと続けばいいなと、思って……」

 「うんうん」


 優しく、慈しむように笑い、冨良場は辺杁の頭を撫でる。ひとしきり辺杁を労うと、冨良場は辺杁に、今日の部活として部室奥の整理を頼んだ。ひとりでは大変なので、益子が手伝いを申し出た。残された牟児津と瓜生田はまた、先ほどまでの部長然とした雰囲気がすっかり消えた冨良場に見つめられていた。


 「きっと」


 なんの脈絡もなく、冨良場が切り出した。


 「君たちがここに来たのは、何かの運命かも知れないね」

 「はあ……運命ですか」

 「まあ、そうだったらいいなと思っただけだよ。辺杁君の嬉しそうな顔を久し振りに見た」

 「『運命辞典』を見つけるのに一歩前進しましたからね。部がなくなっちゃうのは悲しいですし、希望が見えたんですよ」

 「……ああ、その通りだ」


 しばし沈黙が流れる。冨良場は、瓜生田の言葉を噛み締める様に、じっと顔を伏せていた。


 「牟児津君、瓜生田君。重ねて迷惑をかけるようなことを言うが、どうか辺杁君を助けてあげてほしい。彼女にとってこの部は……とても大きな意味を持っているんだ」

 「意味?」

 「辺杁ちゃんは居場所って言ってましたけど、それだけじゃないんですか?」

 「居場所か……ああ、そうだね。の居場所だ。彼女は、どうしてもこの部を失うわけにはいかないんだ」

 「本当に、ここが好きなんですね」


 そして、冨良場は真剣な表情で言う。


 「『運命辞典』を見つけた後も、彼女には試練が待っているはずだ。そのときわたしに何かできるかは分からない。でも君たちなら、彼女を助けることができるはずだ。勝手な頼みだとは思うが……せめて彼女のことを、これからも気に懸けてあげてはくれないか?」

 「試練って……なんですかそれ?部長さんが助けられないんじゃ、私たちはなおさら何もできないですよ。『運命辞典』ってそういうものなんですか?」

 「……」


 抽象的で、曖昧で、捉えどころがない。冨良場の話はどうにも要領を得なかった。牟児津が尋ねても、冨良場は少し黙った後に同じことを言うのだった。


 「それを言っては、実定に書けなくなってしまうだろう?」



 〜〜〜〜〜〜



 牟児津、瓜生田、益子はオカルト研究部で辺杁と別れた。週末に辺杁の家に集まって『運命辞典』を探し出す手伝いをする約束を取り付け、事態は一歩前進した。三人はその手応えを感じながら、その足で図書室に向かった。もともと図書室の本を持ち去った犯人だと疑われている牟児津に、今の状況を図書委員に報告しておくべきだと、瓜生田が助言したのだった。

 図書室には今日も阿丹部と糸氏がいた。本当は瓜生田も当番だったのだが、持ち去られた本を取り返す特命を受けているので通常業務を免除されているのだった。糸氏は瓜生田の代理である。


 「ただいま戻りましたあ」

 「どもです」

 「あっ、李下と、牟児津さん、と……?」

 「益子実耶、ムジツ先輩の番記者です!お気遣いなく!」

 「そ、そう。図書室だから、あんま大きな声出さないでね」

 「糸氏せんぱ〜い。戻りましたよ〜」

 「ふがっ?お、おう。李下。首尾はどうだ」

 「順調ですよ。来週には本を取り戻せそうです」

 「ほう、そうか。それは何よりだ」


 瓜生田は自信たっぷりに言った。まだ本を取り返せていないのに、もう取り返したような気になってそんなことを言うのは瓜生田らしくない。奪還の目途が立ってよほど嬉しいのだろう。


 「結局、例の黒ケープが犯人だったのか?」

 「そうです。でもその人にも事情があって、追い詰められた末に魔が差したっていう感じでした。ムジツさんもちょっと悪かったですし」

 「そこまで正直に言わなくていいじゃん」

 「私たちは本が戻ってくればなんでもいい。しかし、あんな渋い本をよく3ヶ月もかけて読む気になるな」

 「『運命辞典』っていうのを探すために必要だそうですよ。高等部のうわさらしいんですけど、ご存知ですか?」

 「運命辞典?」


 その言葉を聞いた途端、何か空気が変わったのを牟児津は感じた。オカルト研究部の二人も、図書委員も、『運命辞典』の名前を聞いた人はみんな、それぞれ違いはあれど何らかの反応をする。冨良場は知名度の低い話だと言っていたが、本当なのだろうか。

 そういえば、知名度が低いはずの『運命辞典』の話を、辺杁はどうやって知ったのだろう。


 「何か御存知なんですか?」

 「いや……知らないな。たぶん。全然ピンと来る記憶がない」

 「私もそんな感じ……かなあ」

 「ふぅむ。ただ知らないという感じではありませんね。聞いたけど忘れているのかも知れませんよ」

 「1年生の頃に七不思議か何かが流行ったような気がするが……分からんなあ」

 「糸氏先輩が1年生ってことは、2年前ですか」

 「そういうのって語り継がれていくものだから、誰かが話してるのを聞いたとかはあるかも知れないかな……」

 「なんかキナ臭くなってきましたねぇ、ムジツ先輩。犯人を見つけたのに事件が解決しないなんて、今までにないパターンですよ。こりゃあ学園新聞が分厚くなりますねえ!」

 「あんただけ楽しそうだな」

 「あんまり危ないことしないでよね。なんか変だし、あんまり深入りしない方がいいんじゃない?」

 「大丈夫です。本がお役御免になれば、後はあっちにお任せですから。私たちはその前段階をちょっと手伝うだけです」

 「な、ならいいんだけど……」

 「ムジツさん。明日、ちゃんと朝起きてね」

 「ん〜……まあ、努力する」


 『運命辞典』が何なのか。どうやって見つけるのか。昨日までは知りもしなかった学園の七不思議に、牟児津たちは立ち向かうことになってしまった。その先で本当に『運命辞典』を見つけられるのか。その後は?冨良場によれば辺杁に試練が訪れるらしい。そのとき、牟児津たちは果たして何ができるのか。

 分からないことだらけだった。なぜこんなことに巻き込まれているのか。不用心は罪だが、ここまで面倒なことになるほど重い罪だろうか。牟児津は心の底から今の状況を憂いた。そして、もっと防犯意識を持とうと心に誓った。

 明日は休日返上で、『運命辞典』探しのため辺杁の家を訪ねる。瓜生田家以外を訪ねるなど久し振りなので、牟児津はその夜、少し緊張して寝床に入った。

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