その4:大桜連続ポイ捨て事件

第1話「よしなさいよ」


 私立伊之泉杜イノセント学園には、巨大な桜の樹があった。

 幹は大人が10人手をつないでも囲むには太過ぎて、盛り上がった根はベンチ代わりになるほど頑丈だ。夏は葉を茂らせて日差しを遮り、秋にはカラフルな落ち葉の絨毯を敷く。厳しい冬の寒さを生徒たちと乗り越えて、春には満開の花で門出と入学を祝う。通称『大桜おおざくら』と生徒や教師たちに呼ばれている、学園生ならば誰でも知っているシンボルのひとつだ。

 グラウンドの隅、体育館のすぐ近くの場所に、大桜は植わっている。今は緑の葉を大量につけて、風が吹くたびにざわざわと騒がしく音を立てている。その樹は人間に限らず多くの生物を惹きつけ、営巣する鳥や樹液を求める虫たち、リスなどの小動物さえもその恩恵を受けている。その根元、人を支えられる程度には頑丈な根のひとつに、牟児津むじつ 真白ましろは腰かけていた。

 高い位置で二つに結んだざくろ色の髪の下から大粒の汗が垂れる。半袖をさらにまくってほぼノースリーブにしたブラウスが、にじんだ汗を吸って肌にまとわりつく。牟児津は周りの目も気にせず、バサバサとベージュのスカートをあおいで、こもった空気を発散させていた。足元には丸々と肥えたゴミ袋が2つ転がっている。

 その牟児津の隣で同じように根っこのベンチに座るのは、空色の髪を結んでポニーテールにし、半袖のワイシャツに七分丈のスカートを履いた時園ときぞの あおいだった。牟児津と同じように汗だくで、満タンのゴミ袋を2つ持っている。


 「よしなさいよ」

 「だってあっちーんだもん」


 牟児津のはしたない姿に、時園は苦言を呈する。牟児津はお構いなしにスカートをあおぎ続ける。時園はそれを止めるわけでもなく、ふうとため息を吐いて汗をぬぐった。

 2人はクラスメイトであり、今週のゴミ当番でもあった。ゴミ当番とは、クラスで出たゴミをまとめて集積所に持っていく係で、クラス全員が輪番で務めている。高校の教室から出るゴミなので特別なものはないが、とにかく嵩張る上に量が多い。教室から集積所まで運ぶのは骨が折れる。


 「さ、休憩終わり。早く持って行きましょう」

 「待って待って。ちょっともう、さっぱりしたいから」

 「え?」


 そう言って、牟児津は懐をまさぐった。何が出てくるのかと思えば、小さな包みだった。半分は透明なビニール、半分は中が透けるほど薄い和紙でできた包みだ。その中には、ひとまわり大きくて透明な球体に包まれた黒い球体がある。どうやら和菓子のようだ。包みも菓子も透明感があるためか、なんとなく涼しげな印象を受ける。


 「なにそれ?」

 「塩瀬庵の期間限定新作和菓子『淡月たんげつ』だよ」

 「なにその日本刀みたいな名前」

 「かっこよくない?」

 「お菓子っぽくない」


 小豆の風味を重視した甘さ控えめのさっぱりしたあんこが、清涼感あふれる透明度の高い寒天に包まれている。あんこ菓子には渋い緑茶と相場が決まっているが、この『淡月』は後味すっきりでお茶がなくても食べられることを目指して制作された。

 というのが牟児津の説明だった。得意気に解説した後、牟児津は慣れた手つきで包みを開き、大口を開けて中身を放り込んだ。先ほどから所作のひとつひとつがはしたない。時園は、ふうんと鼻を鳴らす。


 「もうパクパクいけちゃって。気付いたら買い置きなくなってるくらい」

 「牟児津さん、そんなのいつも持ち歩いてるの?」

 「うん。時園さんもいる?」

 「……遠慮しとくわ」


 この暑い中で牟児津の懐に入っていた菓子を口にする勇気など、時園は持ち合わせていなかった。牟児津は『淡月』をじっくり味わったあと、よし、と気合いを入れたように立ち上がった。その拍子に『淡月』の包みが地面に転げ落ちる。


 「持っていこうか」

 「ええ。あ、落としたわよ」

 「おっと」


 時園に指摘されてから気付いたのか、牟児津は自分の足下を見た。ゴミ袋の口を緩め、それを拾おうとしゃがみこむ。


 「───ぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 「ん?」


 牟児津の動きが止まった。目の前にあるゴミを拾おうとした姿勢のまま、首だけを動かして辺りを見回している。早くゴミを持って行きたい時園は、じれったく感じて声をかける。


 「どうしたの牟児津さん?早く行こうよ」

 「なんか来る……!」

 「急になに?」

 「ぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおっ!!!」

 「はっ!?」


 気付けば、地響きがすぐ側まで近付いていた。しかもそれは雄叫びを伴っていて、こちらへまっすぐ向かってきている。時園がその存在に気付いたとき、は回避不能な距離まで迫ってきていた。


 「おおおおおおおおおおおおっ!!!せいそおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 「どはああああっ!!?」


 ぶつかる、と感じた瞬間に目を閉じた。だがは牟児津と時園の間を突き抜け、すさまじい土埃を巻き上げながら通り過ぎた。猛烈な風圧とエンジン音、そして雄々しい叫び声に襲われて、時園は大きくよろめく。何が起きたか把握しようとするが、舞い上がる土埃のせいで目がまともに開けられない。にもかかわらず、すぐそばを通過した雄々しい声が土埃の向こうから飛んでくる。


 「ついに見つけましたっ!!逃げられませんよっ!!観念なさいっ!!」

 「な、なに……?だれ?」

 「私が誰か?この腕章とっ!!相棒を見てもっ!!同じことが言えますかっ!!」

 「見えないわよ!あなたが巻き上げた土埃のせいで!っていうか牟児津さんの声聞こえないけど大丈夫!?」


 声を聞いた限りなんらかのポーズを取っているらしいことは分かるが、それ以上のことは何も分からない。そして声すらも聞こえない牟児津に至っては無事かどうかも分からない。心配して声をかけるが、やはり牟児津からの反応はない。

 やがて土埃はおさまり、時園はやっと正常な視界を取り戻した。


 「むっ、牟児津さあああん!!?」


 晴れた視界で最初に目に飛び込んできたのは、何がどうなってそうなったのか、頭からゴミ袋に突っ込んで動かなくなっている牟児津の姿だった。ゴミ袋の中身が周囲にぶちまけられていて、なんとも無惨な有様である。時園は慌てて牟児津をゴミ袋から引っ張り出し、体についたゴミを払った。


 「ちょっと牟児津さん!?大丈夫!?」

 「なんで私がこんな目に……」

 「あーもう、ひどい。ちょっとあなた!何やってるの!クラスと名前は!」


 たった一瞬でとてつもない悲劇に襲われた牟児津を、時園は自分の服が汚れるのも厭わずに抱きかかえ、もう一度根っこのベンチに座らせた。自分のハンカチで牟児津の顔を拭いつつ、突っ込んで来た謎の生徒に誰何する。牟児津の悲惨な様子を目の当たりにしても、その声は変わらずはつらつと答えた。


 「正々堂々お答えしましょうっ!!私は1年Bクラスの大村おおむら めぐる!!環境美化委員ですっ!!そしてこちらは相棒のバキュームくん2ndエディション!!」

 「…………ちょっと言いたいことが多すぎて何も言えないわ」


 左腕にかけた緑の腕章をきらりと光らせ、その生徒は高らかに名乗った。横に撫でつけた前髪をヘアピンで留め、整髪料で横と後ろの髪をぴっちりと頭の形に沿って固めている。半袖のワイシャツにハーフパンツとスニーカーを履いていて、まるで男子のような出で立ちだ。

 足を大きく開き腰に手を当て、もう片方の手には大きな掃除機の吸引口を持ったノズルを構えている。そのノズルからはホースが伸びて、大村の足下にあるいかついデザインの本体につながっていた。大型バイクさながらのエンジン音が周囲に響き、まるで大村の気迫が大気を震わせているようだ。大村の紹介に呼応するように、その掃除機はいっそう大きくエンジンを吹かした。その音が気付けになったのか、ようやく牟児津がまともに声を発した。


 「なっ、なんなんだあんたは!いきなり突っ込んで来て危ないだろ!」

 「それはすみません。少々バキュームくん2ndエディションが張り切り過ぎました」


 大村が掃除機のエンジンを2度吹かす。


 「この通り、お詫びします」

 「ヤンキー腹話術か!ふざけんな!」

 「ふざけてなどいませんっ!!バキュームくん2ndエディションは、工学総合研究部が技術の粋を集めてカスタムした、バキュームくんプロトを超える先代バキュームくんをさらに超えたスーパー掃除機なんですよっ!!」

 「出て来る単語ひとっつも知らねーわ!バカにしてんのか!」


 激昂する牟児津に対し、大村は真面目な顔と大真面目な眼差しで頓珍漢なことを言う。ただならぬ雰囲気を感じた時園は、今にも手が出そうな牟児津をなんとか押さえ込み、大村に話を促した。


 「で、結局あなたはなんで私たちに突っ込んできたの。危ないからそんなこと止めなさい」

 「危険は覚悟の上。私はどうしてもそこの環境汚染犯を引っ捕らえなくてはならないのです」

 「かん……?なんだって?」

 「私は現場を押さえたのですっ!!とぼけても無駄ですよっ!!」


 大村は、岡っ引きが下手人に十手を向けるように、牟児津に掃除機の吸引口を向けた。


 「ここ最近、この大桜の下にゴミをポイ捨てしていた犯人はあなたですっ!!観念なさいっ!!」

 「ええ……なにそれぇ」


 大村の口から飛び出す言葉は、いちいち牟児津を混乱させるばかりだった。掃除機の名前やその辺りの云々はどうでもいいとして、大桜の下にゴミのポイ捨てがあったことなど初めて知った。牟児津のリアクションを見ても、おそらく初耳なのだろうということが分かる。


 「ゴミのポイ捨てって、ここ学園内よ?しかも大桜の下になんて、そんなことする人いるの?」

 「いるからゴミが落ちていたんでしょうっ!!このところ、ここを通るたびにゴミが捨てられていて私は憤慨しているんですっ!!ただでさえ、美しい学舎を汚すような行為は許せないというのに、よりにもよって環美委(※員の略)のシンボルである大桜の下になんて……これは環境美化委員うちへの挑戦ですっ!!見過ごすわけにはいきませんっ!!」

 「……牟児津さん、心当たりある?」

 「ないない!わざわざこんなとこに捨てないって!」


 大桜があるのは陸上トラックや体育館、グラウンド等に近い敷地の中心部だ。普段から昼休み以外は教室にこもりっきりで、放課後になればすぐ家に帰る牟児津がこんなところまで来る理由など、ゴミ捨て当番にでもならない限りない。大村の言い振りだと相当な頻度で捨てられているらしく、牟児津が犯人だと言うのはかなり無理があるように思えた。しかし大村はなぜか、確信の色を帯びた眼差しを牟児津に向けている。


 「あの、大村さん?牟児津さんは心当たりがないらしいけど、どうして牟児津さんが犯人だと思うのかしら?」

 「ついさっき、ゴミを捨てていたでしょうっ!!それが何よりの証拠ですっ!!」

 「ゴミ袋持ったやつがポイ捨てなんかするか!」

 「環境汚染犯の言うことになど聞く耳持ちませんっ。お耳チャックですっ」

 「もう突っ込む気にもならんわ……」


 たった一瞬の出来事を根拠に、大村は牟児津がポイ捨ての犯人だと決めつけている。なぜそこまで確信を持てるのかは分からないが、牟児津に向けられた方の疑いは簡単には晴らせなさそうだ。理屈で説明したところで納得するような相手でもないらしい。

 頑固な大村の姿に、時園はかつての自分の姿を重ねていた。相手の言い分には耳を貸さず、自分の導き出した結論を盲目的に信じてしまう。その結論は一見、尤もらしい真実を表しているようにも思える。だが現実はそれほど単純なことばかりではないのだ。自分には考えもつかないことが起きている可能性もある。時園は少し前に、そのことを痛感したばかりだった。そして、そのときも隣には牟児津がいたような気がする。


 「牟児津さん……その節は本当にごめんなさい。大変ね」

 「ホントだよ!っていうかウソでしょ!?こんなもらい事故みたいな感じで巻き込まれんの私!?やだーーーっ!」

 「今さら悔やんでももう遅いですよっ!!どう罰してくれましょうかっ!!学園内のゴミ全部拾うまで帰れま1000gか……廊下磨きトライアスロンか……」

 「冗談じゃねーっつーの!私は犯人じゃない!」

 「そんなわけないでしょうっ!!」

 「そんなわけないことないわ!!」


 どれだけ大声で訴えても、大村は自分の目で見たことしか信じられない質らしい。全く理解してもらえず誤解を解く兆しすら見えない状況に、牟児津も時園も頭が痛くなってきた。大村はいくらでも相手してやるとばかりに掃除機のエンジンを吹かして応戦する。どちらも引っ込むわけにはいかない膠着状態に陥ったが、意外にも救いの手はすぐに差し伸べられるのだった。


 「おぉ〜〜〜い!めぐる〜〜〜ん!はぁ、はぁ……」

 「むっ!遅いですよっ!!もう犯人は私が捕まえてしまいましたっ!!」

 「いや、もう……取りあえず、その人は犯人じゃないからぁ」

 「何を言いますかっ!!みゃーちゃんまでっ!!」

 「へ……あああっ!なんだあんた!もう嗅ぎつけてきたのか!」

 「どっちも一回落ち着いてくださいって……!お願いですから……!」

 「また分かんない子が増えた……」

 「あれ私の番記者」

 「ああ、番記者……ばんきしゃあ?」


 へろへろに疲れた声とともに現れたのは、ハンチング帽でチョコレート色のボブカットを覆い、袖を結んだブレザーを肩にかけた1年生だった。牟児津が言うには、益子ますこ 実耶みやという新聞部の生徒らしい。どうやら牟児津とは陸上部で起きた事件をきっかけに知り合い、そのあと正式に牟児津の番記者として付きまとうことになったという。事件と聞けば持ち前の野次馬根性でどんなところにも飛んでくる益子が現れて、また学園新聞の記事にされる、と牟児津は心穏やかでないようだ。


 「めぐるん、一旦落ち着いてって。目にしたことだけが真実じゃないことだってあるんだから」

 「やけに深そうなこと言うわね」

 「ですが、さっき確かにポイ捨てをしていましたよ」

 「だからそれが何かの間違いなの。十中八九。だってムジツ先輩なんだから」

 「なんか失礼そうなこと言われてるわよ、牟児津さん」

 「あながち否定できない……私は私が悔しいよ」


 牟児津と時園には一方的に自分の主張をぶつけるばかりだった大村も、益子の話には大人しく耳を傾けている。これまで牟児津が巻き込まれた事件とその経緯を知っている益子にとって、大村が牟児津を犯人だと決めつけていることは、逆に牟児津がまたしても無関係の事件に巻き込まれたのであろうことを意味していた。益子としてはむしろ、そうであってほしいくらいだ。


 「一旦落ち着いて整理しよう。起きた事実と自分の主張をごっちゃにしてたら、いつまでも平行線のままだよ」

 「なんであんたはこんなときばっかりまともなこと言うんだ」

 「なんの!これも記事のネタムジツ先輩のためですから!」

 「やっぱまともじゃねーわ」


 にやけた益子の顔は、今回の件も色々脚色してネタにしてやろうという本音が透けて見えるようだった。大村に絡まれていたところを助けてもらった感謝もあるが、また面倒なことに巻き込まれたところを見つかってしまったという憂鬱な気持ちの方が、牟児津の心の大部分を占めている。そんな顔をしていた。

 ひとまずその場は益子の口利きで大村を宥め、牟児津と時園は予定よりだいぶ遅れてゴミ当番の仕事を全うすることができた。大村は他の場所の掃除に向かい、牟児津は一旦解放されることになった。が、明日からのことを思うと気が滅入るばかりだろう。時園は、ただ同情するばかりであった。



 〜〜〜〜〜〜



 「ということがあってさあ」

 「そっかあ。また疑われちゃったんだね」


 下校の途中、牟児津はため息を吐きながら今日の出来事を話していた。話を聞いていた瓜生田うりゅうだ 李下りかは、牟児津の巻き込まれ体質を十分理解していたので、さほど驚くこともなく笑って受け入れた。牟児津にしてみれば笑いごとではないのだが、瓜生田はとにかく大らかで何でも受け入れる性格なので、その笑いに悪意がないことも分かっていた。

 牟児津と瓜生田はいつも電車を使って通学するので、校門を出てからは駅に向かう。駅までは長く緩やかな坂道を下る必要があり、その途中で伊之泉杜学園の中等部や初等部の校門の前を通る。授業が終わって真っ先に帰る牟児津は、初等部生や中等部生に交じって帰るのが普通だった。しかし今日はいつもより少し帰りが遅いため、道を歩く学生の姿はまばらだ。


 「でも益子さんが来てくれてよかったじゃない。益子さんがいなかったら、きっと今ごろ環美委か風紀委員に捕まって取り調べだったよ」

 「いやいやさすがにそこまでは……なくはない、のか?やべえ……!」

 「明日からは背中に気を付けて過ごさなくちゃねえ、ムジツさん」

 「なんでそんなこと言うの!?やめてよ!」

 「ごめんごめん。でも事が大きくなる前に手を打たないとだよ。もしかしたらそのポイ捨ても、大村さんの勘違いじゃなくて本当に起きてるのかも」

 「わざわざあんなところに捨てる人なんていないと思うけどなあ」


 伊之泉杜学園の敷地が密集しているエリアと住宅街を突き抜ける大通りを真っすぐ進み、一度交差点で曲がってアーケード付きの商店街を抜けるのが駅に向かう最短ルートだ。直線が多い地域なので見通しが良く、交通量は多すぎず少なすぎずちょうどよい程度なので、道順が分かりやすく人の目も多い通学路にはうってつけの道のりである。ついでに大通りの脇には、少々立派なお堂を構えたお地蔵様が、日々通りすがる生徒たちを穏やかに見守っている。

 その地蔵堂の前に、二つの人影があった。どちらも白いポロシャツとベージュのスクールパンツを身に着け、大きなランドセルを背負っている。ひとつはベーシックな黒色を、ひとつは鮮やかな緑色をしていた。どちらも男子である。そしてどちらも、地蔵堂の前でしゃがみこんでいる。

 牟児津は、黒いランドセルを背負った方を見て、言った。


 「ヒロじゃん。なにしてんの」


 ヒロと呼ばれた男子は、その声に反応して顔を上げた。その表情は驚きと気まずさでいっぱいである。顔を見るなり勢いよく立ち上がって後ろによろけ、牟児津と瓜生田から距離を取る。短く刈ったざくろ色の髪から汗が垂れる。


 「……!」


 牟児津むじつ 真尋まひろは姉の質問には答えず、黙って二人を睨みつけた。大方、普段なら家でしか顔を合わせない姉や幼馴染みと通学路で出会ったために、なぜだか気まずさを覚えているのだろう。今の真尋はそんな顔をしている。からかうつもりはなかったが、あまりに焦った様子の弟を見て、牟児津は加虐心が湧いてきた。


 「なに黙ってんの。人に言えないことしてたんか」

 「ヒロくん、こんにちわ〜」

 「ん……」

 「なーにうりゅに緊張してんの。生意気な」

 「チッ」


 小さく舌打ちしたかと思うと、真尋は隣にいた少年のランドセルを叩いて走り出した。置いて行かれた少年は驚いて立ち上がり、牟児津と瓜生田に軽く会釈する。慌てて会釈したせいで、男子にしては少し長い翡翠色の髪がふんわり揺れた。そして少年は、真尋の後を追いかけて行ってしまった。どたどた走り去って行く二人の後ろ姿を見て、牟児津と瓜生田はにやにや笑い合った。


 「ヒロくん緊張してたね〜。可愛いなあ」

 「生意気なだけだよあんなの。一緒にいた子の方が可愛げある」

 「初めて見る子だね。ヒロくんの友達かな?」

 「あいつ学校の話とか全然しないからなあ。あの子のこといじめたりしてないよな」

 「ヒロくんはいい子だからそんなことしないよ。でも私も学校でのヒロくん全然知らなかったから、友達がいるなら一安心だね」

 「うりゅはどういう目であいつを見てんの」

 「贔屓目かなぁ」


 牟児津と瓜生田とでは、真尋に対する印象がかなり違うようだ。自分にとっては弟で瓜生田にとっては弟のような隣家の子どもなのだから、印象の違いもさもありなんというものだろう。牟児津はぼんやり考えて納得した。

 5つ年が離れた弟は早めの思春期に突入しており、姉の自分に対しては猛烈に反抗期真っ只中だ。生意気だとは思うが、そういう年頃なのだと思えば仕方ないとも思える。瓜生田やその姉の瓜生田うりゅうだ 李子りこを交えて四人で遊んだのも懐かしく、今は姉として生暖かく見守っている。


 「にしたって、私はともかくうりゅにあんな態度とるのは許せん!帰ったら姉として叱ってやらないと」

 「別にいいのに。もう6年生でしょ?そういう年頃だって」

 「いーや。ここで言っとかないとあいつは調子に乗る!あと姉らしいところ見せとかないと、私が叱られる。家でめちゃくちゃりこねえとうりゅのこと言われるからね」

 「なにそれ」

 「瓜生田さんところは李子ちゃんも李下ちゃんもしっかりしてるのに、うちのはだらだらしてばっかで……とか!」

 「それはどちらかと言うとムジツさんに問題があるような」

 「だから私がヒロをビシッと叱って姉らしいとこ見せて、真白お姉ちゃんさすがね、って言わせないとなの!あとうりゅ、明日の朝うちに迎えに来たときにそれとなくお母さんにアピっといてね」

 「迎えに来られてる時点でなんともなあ」


 弟をダシに自分のポイント稼ぎを目論む牟児津に、瓜生田は白い目を向ける。真尋はまだ幼いから失礼な発言も大目に見られるが、牟児津の卑怯な打算はそれこそ叱られるべきものだ。が、牟児津の企みは往々にして上手くいかないので、瓜生田はそれ以上何も言わなかった。



 〜〜〜〜〜〜



 帰宅してすぐ、牟児津は真尋の部屋に突入した。真尋はあからさまに姉を避けようとしたが、家の中という限られた空間で体格の勝る姉から逃げ続けられるわけもなく、さらに部屋の唯一の出口を塞がれてあっという間に袋の鼠となった。


 「うわっ!なんだよ!」

 「ヒロ、ちょっと話があるからそこ座んなさい」

 「はあ?知らねーし!ここおれの部屋なんだから出てけよ!プライバシーだぞ!かってに入んなバーカ!」

 「なにがプライバシーだ。あんただって私の部屋から勝手にマンガ持ってくくせに」

 「はあ?バカじゃん!そんなしょうこねえじゃん!」

 「あんた以外に誰が持ってくってんだ!」


 真尋は姉の言うことなど初めから聞く耳持たず大騒ぎし、牟児津は牟児津で売り言葉に買い言葉とばかりにヒートアップしていく。完全に逃げ道を塞がれた真尋は、ゆっくり部屋の反対側に近付いて行く。大きな窓を覆うカーテンの隙間に、真尋の手が伸びる。


 「いったん座って話を──あっ!こら!」


 一瞬の隙をつき、真尋は窓を開けてベランダに飛び出した。そこまでするとは思っていなかった牟児津は焦って駆け寄る。風で膨らんだカーテンを掴んで開くと、その向こうから姿勢を低くした真尋が飛び出してきた。


 「うおっ!?」


 無茶な逃げ方をすると思わせて大人を焦らせ、生まれた隙をついてフェイントをかける真尋の得意技、名付けて『無茶フェイント』である。真尋は小学生特有の小柄さと身軽さにより、牟児津の脇を通り過ぎた。が、逃げる真尋のシャツを牟児津がとっさに掴み、真尋は部屋の床に倒れ込んだ。


 「ぎゃっ!」

 「ヒロ!無茶フェイントすんなって言ってんだろ!ケガするぞ!」

 「ぎゃーっ!はなせバカ!はなせー!」

 「話を聞けコノヤロー!あんたうりゅに対してあの言葉遣いはなんだ!この前まで散々遊んでもらっといて失礼だぞ!」

 「カンケーねえだろ!つうか李下じゃなくてオメーに言ったんだし!」

 「オメーって誰に向かって言ってんだ!暴れんなこのっ」

 「うあっ!体バツだ!ぼう力反対!」

 「なにをこの聞きかじったことを分かったように使いやがって。生意気だぞっ」


 首根っこを掴まれては手足を振り回して暴れ、床に組み伏せてホールドすれば非暴力を唱える。冷静に真尋を叱るつもりだった牟児津も、真尋のテンションにつられてすっかり頭に血が昇っていた。もはや家中を巻き込んだ上へ下への大騒ぎに発展している。そんな牟児津家の姉弟喧嘩の音は、隣家の瓜生田家にも聞こえていた。


 「ムジツさんとヒロくん、今日もやってるな〜」


 この調子では真尋に説教することはおろか、牟児津自身もまとめて親から説教を食らうのがオチだろうと、瓜生田は近い未来に思いをはせた。果たしてその予想は数時間後、見事に的中したのだった。

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