第4話「勘弁してくれぇ〜〜〜!!」
日は傾き、今日も学園の一日は終わりに近付いていく。木鵺に口を割らせようと執念深く取り調べを続けていた風紀委員だったが、そろそろ時間の限界を迎えようとしていた。木鵺の逮捕は生徒の通報によらない、風紀委員独自の判断によるものだ。逮捕とは言うものの、できることは通報によるそれとは違い、緊急時の風紀維持を目的とした特権的活動はできず、取り調べは停滞していた。未だ頑なに何も認めず、何も語ろうとしない木鵺に、川路は頭を抱えていた。
その停滞を打ち破るように、部室のドアが勢いよく開かれた。全員が入口に目を向ける。そこに立っていたのは、白い頭を角刈りにした不貞不貞しい顔立ちの男性だった。えらが両側に突き出して輪郭を角張らせ、潰れた鼻と垂れたまぶたが、本人の感情とは無関係に、不機嫌そうな表情に見せている。
「宇西先生……!」
木鵺がつぶやく。それは、陸上部顧問の
「なんでしょうか。今は風紀委員が取り調べ中です」
「帰んな。もういいだろ」
「もういいとは?我々は風紀委員として正当な活動の下で取り調べを───」
「ここでにらめっこしてても解決しねえのは分かってんだろ?俺が諦める理由になってやるってんだよ」
立ち上がった川路の目線は宇西より上にある。それでも、そのがに股男が放つ眼力と有無を言わせない雰囲気、そして川路たちの状況を見抜いている言葉に、川路はたじろいだ。今ならたとえ帰ったとしても、それは諦めたのではなく、教師である宇西に指示されて仕方なく捜査を切り上げたと言うことができる。現実的な落とし所を提示され、川路は木鵺を一瞥し、悔しげに歯を食いしばった。
「今日はもう下校時刻が近い。他の陸上部員の帰りまで遅らせるわけにはいかないので、取り調べはここまでにします。明日以降、授業時間以外の木鵺の身柄は風紀委員で預かりますが、ご承諾いただけますね」
「構わねえよ。お前らの頓珍漢な言い分に納得するやつが残ってたらな」
「……ッ!行くぞ!」
最後の抵抗とばかりに、川路はあくまで正式な捜査協力依頼として宇西に確認を取る。だがそれすらも宇西は軽く受け流し、逆に風紀委員の迷走ぶりを笑った。川路は顔を真っ赤にして、他の風紀委員を全員連れて部室を出た。
残された木鵺は、宇西の顔を呆然と見ていた。宇西以外の人間は一切いなくなってしまった。宇西はのっそり部室の中に入ると、木鵺の正面に立って半目で見下ろした。その顔から、先ほどの薄ら笑いは消えている。
「ばかやろう」
短く、宇西は言った。
「隠して続けられるほど甘かねえっつっただろうが。部も風紀委員も関係ねえ生徒も巻き込んで散々迷惑かけやがって」
「……すみません」
「迷惑かけたって自覚があんのか?」
「はい。自覚は、してます……」
「その気持ちがあるんなら、話してえことがあるらしいから聞いてやれ」
「え……?」
「木鵺さん。木鵺さんは……私が見えてないんだね」
そこにいるはずのない声がした。自分のすぐ近くで。驚き、反射的に声のした方に目を向ける。
正面に立っている宇西の、すぐ隣。木鵺の斜め向かいに、牟児津が立っていた。その目は確信の色を帯びている。木鵺は声がするまで、そこに牟児津がいることに全く気付いていなかった。それを自覚したとき、木鵺は理解した。牟児津は、敢えてそこに立ったのだと。
そこは、たとえ正面に目を向けていても、その存在に気付くであろう場所だ。意識しなくても視界の隅に映るはずの場所だ。木鵺が、
「視野が狭まって、正面の限られた範囲しか見えなくなる病気……心因性視野
「そんな……!?なんで……!?」
「俺が話す前からこいつは分かってたよ。俺は答え合わせして正しい病名を教えただけだ」
「ウ、ウソ……!ウソだ!そんなの、分かるわけ……!」
「だって木鵺さん。周りが全然見えてなかったから」
当惑する木鵺に、牟児津はあくまで冷静に言う。
「ここでミーティングしたとき、後ろでうりゅが手を挙げたのに、そのまま話し続けようとしたでしょ。わざと無視したのかと思ってたけど、木鵺さんは部室の隅っこにいたうりゅが見えてなかったんだ。だから部長さんに止められて初めて、うりゅが手を挙げたことに気付いた」
「……!」
「風紀委員に逮捕されたときもそう。飛び出してきた川路さんにぶつかる寸前まで気付いてなかった。川路さんが真正面に来るまで見えてなかったんでしょ?その後に取り押さえられたときも、周りにいる風紀委員が見えてなかったから、いきなり取り押さえられて驚いた。競技場以外は何があるか分からないから危なくて走れない。だから逃げるに逃げられなかった」
「うっ……!」
「犯人を追いかけて屋上まで来たとき、木鵺さんには私しか見えてなかった。だから私を犯人だって決めつけた。本当はそのとき、うりゅも一緒にいたのに。それに屋上のドアのすぐ横にあった踊り場も、見えなかったから気付かなかった。だから木鵺さんは、犯人が屋上にいるはずだって思い込んだんだ。そのとき、横にある踊り場に犯人が隠れてたのに」
「くうっ……!な、なんで……そんな……!」
「木鵺さんの荷物を調べさせてもらったよ。勝手なことしてごめん。でも、そのおかげで全部分かった」
牟児津はそう言って、益子から送られてきたポケットの写真と手荷物リストを取り出した。
「木鵺さんの持ち物リストを見て、最初は必要最低限の物しか入ってないんだと思った。でもよく見たら、この小さい水筒の意味が分からなかった。予備にしては小さすぎる、でも木鵺さんが意味なく入れてるとは思えなかった。だからきっとこれは……薬を飲む用の水だよね?」
「な、なんでそこまで……!?」
「カバンのポケットに四角い跡が残ってたよ。小さい箱型の物を入れてたような……これ、薬が入ってたんじゃない?」
益子から水筒の中を調べた結果の連絡があったとき、牟児津は一連の推理を確信した。なんでもスポーツドリンクを合わせる木鵺が、敢えて別に水筒を用意する理由。それが予備ではないとするなら、考えられるのはひとつだけ。スポーツドリンクでは合わせられないものを食べるか飲むかするためだ。最も可能性が高いのは、薬だろう。
「そんな……全部、それだけのことで……?」
「ごめん」
目の病のこと。そのために飲んでいる薬のこと。ひた隠しにしてきたことを全て暴かれ、木鵺は愕然とした。牟児津は、木鵺の秘密を無理矢理暴いたことについて謝罪の言葉を述べる。しかし木鵺は、謝られる意味が分からなかった。全てを暴かれた今、謝るべきは自分だと感じていた。
「なんで、あんたが謝んの……!謝んのは私じゃん……!私が……言わなかったから……!あんたも、部のみんなも……!巻き込んで……!わ、私が……言えば……!」
「勝手に知ってごめん。木鵺さんは、知られたくなかったんだよね。目のこと。だから、薬を盗られたことを風紀委員にも言えなかったんだよね」
「うん………………、うん」
ここまで事態が大きくなったのは間違いなく、自分が口を閉ざしていたからだ。秘密を守ろうと躍起になったせいだ。その秘密が暴かれたとき、もはや閉ざした口は役目を失い、途切れ途切れに自責の念を吐き出すことしかできなくなった。涙をこぼし、鼻をすすり、やっとの思いで言葉を吐き出す。固く閉ざしていた心から、とめどなく言葉が溢れ出してくる。
「わ、わたしは……!ただ……まけたく、なくて……!!あの人の、い、いもうとだって……言われるのが…………くやしくて……!!なのに……!それだけなのに……!!」
「こいつの目の病気はな、心因性っつって精神的なもんに原因がある。自分で自分を追い込みすぎてんだ。しっかり休んでストレスの原因を取り除けば治るんだが、なかなかそうもいかなくてな」
「お姉さんのこととか大会のこととか、色々重なって余裕がなくなってるんですね」
木鵺は、部長の座に固執していた。それは姉へのコンプレックスや、そこから生まれた焦りや強迫観念に突き動かされていたものだった。その強すぎる感情は同時に、視野狭窄という重い枷を木鵺に与えたのだった。
牟児津はすすり泣く木鵺の肩にそっと手を置き、そっと尋ねる。
「木鵺さん、もう隠してることはないね?」
木鵺は無言だ。しかし、はっきりと頷いた。
「そしたら、これから私は薬を盗んだ犯人を呼び出す。木鵺さんはどうする?」
「……わ、たしは……ちゃんと、最後まで付き合う。私は、そうする責任があるから……」
「うん、分かった」
それを聞いて、牟児津はポケットからスマートフォンを取り出した。調べ物をさせていた益子に連絡し、この後すべきことを伝える。不必要な絵文字だらけの返事を確認し、牟児津たちは犯人がやってくるのを待った。
〜〜〜〜〜〜
陸上部は一日の活動を終えて、片付けを始めている。部長候補のメンバーも、暗くなってから走るのは危険なため片付けを手伝う。そこへ、跳びはねるように軽快な足取りで益子がやって来た。片付けをしている生徒の1人に声をかける。
「すみません!ちょっとお時間いただきたいのですが!」
声をかけられた生徒は、片付けを他の生徒に預け、益子について行く。トラックを離れてスタンド席の横を通り、部室棟の前までやって来た。益子は陸上部部室のドアを開けて、その人物を中へ促す。
「長くなるので、座ってお話ししましょう。ささ、狭いところですがどうぞ──えっ、ああ、私が言うことじゃなかったですね、すみません」
厚かましい態度を指摘され、益子はへらへら笑った。どうにも不自然な様子に、その人物は警戒する。だが、ここで足を止め引き返す理由はない。そうすれば不自然なのは自分の方だ、そう考え、促されるまま部室に入った。その後に続いて益子が部室に入り、ドアを閉めた。かちゃん、とカギがかかる音がした。
「ムジツ先輩!お呼びしました!」
部室から出る唯一の出口を塞いだ益子が、中で待っていた牟児津を呼んだ。ざくろ色の髪を揺らして牟児津は立ち上がる。隣には赤らんだ目を少し見開いている木鵺、反対側の隣には瓜生田がいる。呼び出された人物の真後ろには益子が、そしてすぐ隣では宇西がいかめしい顔をして立っている。
瞬間に理解し、その人物の全身が汗ばんだ。言い訳も逃走も考える隙を与えず、牟児津が口を開く。
「昼休み、ここで起きた窃盗事件の犯人、白い忍者の正体はあなただよね。音井さん」
「……!?」
確信のこもった指摘に、音井は息を呑んだ。思わず後退りしそうになる足をぐっと堪え、動揺を悟られないように振る舞う。焦ってはいけないと、まだ冷静さの残る頭で考えた。
「なんですのいきなり……?わたくしが、忍者の正体?あの、先ほども申しましたけれど、根拠もなしに人を泥棒扱いするのは感心しませんわよ」
「根拠ならあるよ。今から、それを聞いてもらう」
「なんのためにそんなことを……」
「あなたに、自分が犯人だって認めてもらうためだよ」
冷静に、強気に、平常心を保ちながら、音井は牟児津の指摘をいなす。しかし牟児津もまた、冷静に、強気に、平常心で音井を追及する。音井が意識的に取り乱さないようにしているのに対し、牟児津は取り乱す余裕さえない。どちらの緊張の糸が先に切れるのかは、誰にも分からない。
「音井さん、言ってたよね。比べたことはないけど、足の速さなら木鵺さんにも負けないって」
「え、ええ……ご本人や宇西先生がいらっしゃる前で申し上げるのは恐縮しますけど、確かに言いましたわ。それがなんですの?」
「犯人はここから屋上まで、木鵺さんから逃げ切った。陸上部の中でだって、そんなことができる人は限られてるよね」
「それはそうですが、わたくしはあくまで陸上コースを走る前提でそう申し上げたのであって、段差や曲がり角がある校舎内を走ることなんて、全く想定しておりませんでしたわ。単純な足の速さだけでわたくしが犯人だとおっしゃるつもりなら、申し訳ありませんが、浅はかと言わざるを得ませんわよ」
「他にもあるよ。犯人は木鵺さんから逃げながら、屋上への階段を上がった。だから木鵺さんは、犯人が屋上に逃げたと思い込んで、そこにいた私を犯人だと勘違いした。だけど本当はそのとき、犯人は屋上手前にある踊り場の、防災用品置き場に隠れてたんだ」
「何を根拠にそんなことを」
「防災用品置き場は普段人の出入りがないから、床にも備品にも埃がたまってるんだけど、犯人が逃げ込んだ道と隠れた避難はしごの箱の周りだけ埃がなくなってたんだ。つい最近、誰かがそこを通った証拠になるよね」
「それが犯人の痕跡だなんて……況してやそれがわたくしであるなんて、どうして言えますの!」
音井が声を荒げる。牟児津はまだ口調を乱さない。少しずつ、少しずつ、均衡が崩れていく。せめぎ合う緊張感の片方が、他方を飲み込んでいく。
「これ、分かる?」
「……?よく見えませんわ。なんですの?」
「髪の毛だよ。音井さんの自慢の髪と同じ、蒼い色の」
「……!」
牟児津が取り出した一本の髪。蛍光灯の光を受け、深い蒼色にきらめいている。それが自分の髪だと気付いた瞬間、音井の顔色は明確に変わった。理性に支配されていた表情筋が、強い感情に引かれて歪む。牟児津はその髪をしまい、さらに追及を続ける。
「犯人はジャージ姿で覆面を被って逃げてたから、木鵺さんをやり過ごした後、覆面を外して着替える必要があった。屋上だと人に見られるかも知れないから、踊り場で着替えるしかなかったんだ。髪の毛が落ちてるってことは、音井さんがそこにいた証拠になるよね?」
そう牟児津が話す間に、音井の顔はたちまち元の平静を装った無表情に戻った。髪の毛の存在は音井をかなり動揺させたようだが、それだけで犯人だと認めるつもりはないようだ。
「確かに証拠になるかも知れませんわね。もしそれが、
「どういうこと?」
「青い髪をした方は、この学園には数多くいらっしゃいましてよ!たった一本の髪を見つけた程度で、他のどなたかのものである可能性をどうして無視できるのでしょうか!」
「こんなに長くて艶のある髪は音井さんくらいだと思うけど。自慢の髪なんでしょ?」
「お褒めに預かり光栄ですわ名探偵さん!ですが、もしかしたらわたくしと同じくらい髪を大切にされている方がいらっしゃるかも知れません。今は長さが違っていても最近髪を切られたのかも知れません。はたまたそれは人の髪ではなくヘアエクステンションかも知れません。そういった可能性を全て検証されましたの?どうにも先ほどからアナタのお話は、わたくしが犯人であるという結論ありきに聞こえますわよ!」
それは、懸念していたとおりの指摘だった。犯人を特定する証拠として、たった一本の髪の毛では心許ない。特殊な科学捜査ができるならまだしも、一介の女子高生である牟児津がこの短時間でできることなど限られている。今や音井の顔は勝ち誇った笑みにあふれていた。髪の毛の証拠能力を論理的に否定できる理性と、自分を追及する相手に勝利したという感情とが、音井の口角を強く吊り上げていた。
「……犯人はさ」
「はい?」
「顔を隠すために覆面をしてたんだよね」
まだ、牟児津は表情を変えない。勝ち誇った笑みを浮かべる音井をじっと見つめている。
「そんなものどうやって用意して、どこに隠したのか、ずっと気になってたんだ」
牟児津が腕を上げる。ゆっくりと、指先で弧を描くように。
「でも、用意する必要も隠す必要もなかった。犯人はそれを、堂々と私たちに見せてたんだ。私たちがそれを、覆面だと思っていなかっただけで」
音も無く、真っ直ぐに、牟児津の指は、音井の胸元を指した。
「そのシャツ。音井さんは犯行当時、それを覆面にしてたんだよね」
「……は……?なっ……!?」
「ロングシャツを被った後に袖を後ろで結べば、覆面の代わりになるよね。それに元々がシャツなら犯行後に着ちゃえば、誰もそれが覆面だなんて思わない。でも犯行時は他に着るものがなくなっちゃうから、ジャージを着てたんだよね。制服と違ってジャージなら、みんな同じものを着てるから」
「な、なにを……!」
「でもそれは致命的なミスだよ。この暑い時期にロングシャツを着てるのなんて、陸上部では音井さんだけなんだ」
「うぅっ……!くうぅ……!」
音井の口から声が漏れる。言葉にならない悔しげな声だ。もはや言い逃れる術はないように思えたが、まだ音井の心は折れていない。
「このシャツが……証拠?そんな世迷い言で誰が納得なさいますの?わたくしが!このシャツを覆面にしたという証拠はありますの!?犯人が木鵺さんから逃げ切ったという事実も!アナタが拾ったその髪の毛も!覆面とこのシャツも!どれ一つ犯人がわたくしであることの証明にはなり得ません!そうでしょう!?どれもこれもわたくしにつながるよう恣意的に解釈しているに過ぎないではありませんか!」
「だけど、全部の証拠につながる人は音井さんしかいない。犯人だっていうには十分な根拠だと思うけど」
「いいえ!断じて認めませんわそんなこと!だいたい、風紀委員は木鵺さんを取り調べていたのでしょう?彼女に何か後ろ暗いところがあるからそうなったのではなくて!?そんな方の証言を安易に信じることこそ危険だとは思いませんか!?そもそも白い忍者など本当にいたのですか!?」
「いたよ。証拠が残ってる。なにより、木鵺さんがはっきり見たんだ」
「
「……ぁ」
部室から怒声が消え去る。反響した自分の言葉が耳に入り、音井はその意味と、
「犯人は木鵺さんのカバンから薬を盗んだ。そんなことをするのは、木鵺さんの病気のことを知ってる人しかいないんだよ」
こうなることを予見していたように、牟児津は落ち着いていた。決定的な根拠を自ら露呈してしまった音井は、部屋中に視線を泳がせる。そこにある全ての視線は自分を向いている。全ての出入口を塞がれている。全ての反論の道は、たったいま自分が潰してしまった。思考を諦めた脳が途端に重たくなっていくのを感じる。折れた膝が冷たい床板を打つ。一言も発さずとも、音井はその全身で物語っていた。自ら犯行を認めてしまったことを。
牟児津は、苦しそうに顔を歪ませる宇西を見た。
「後は任せます。宇西先生」
宇西はため息を吐き、固く組んでいた腕を解いた。
〜〜〜〜〜〜
日の落ちた競技場は薄い闇に覆われ、漂う空気は重く息苦しかった。部長候補のひとりであり、木鵺に比肩する実力を有していた音井が、窃盗事件の犯人として風紀委員に逮捕された。代わりに木鵺は無罪放免となったが、一連の事実は陸上部内に強いショックを与えた。全ての事情を知る宇西から、木鵺の目の病気のことは伏せつつ詳細な経緯が語られ、数名の部員を残しその日は解散となった。
スタンド席には木鵺と宇西、部長の家具屋、南良刻と下亀、そして牟児津ら3人が残っていた。木鵺は、改めて宇西と家具屋に頭を下げる。
「ご迷惑おかけしました。部長も先生も、私のことを心配してくれてたのに、それを全然分かってなくて……意地張って、本当にすみませんでした」
「ああ。私も、木鵺には謝らないといけない。正直、お前に少し遠慮していた。お前は才能があるし、自分で努力ができる人間だ。私がその努力に水を差してしまわないか……不安だった。だから、お前がとっくに限界だったことを分かっていながら、きちんと助けてやれなかった」
「そんな……」
「家具屋は失敗に対する覚悟がねえ。木鵺は人の話を聞く余裕がねえ。精神が未熟じゃベストパフォーマンスは出せねえんだ。そこんとこ肝に銘じとけ」
「は、はいっ!」
「だがまあ、今回のことは俺の監督責任だ。申し訳なかった。こっちでやるべきことはやるから、お前ら、今はとにかく休め。遅くなる前に帰れよ」
互いに謝る家具屋と木鵺をまとめて宇西がまとめて説教し、そして自分もまた謝罪した。最後に暖かい言葉をかけ、宇西は踵を返してスタンド席を降りて行った。このあと、音井がしたことについて始末をつけなければならないのだろう。その足取りは重たそうだ。
競技場から出る前、部員たちから少し離れた場所にいた牟児津に、宇西は声をかけた。
「今日はうちの部員がずいぶん迷惑をかけた。その上、あんなことまでして始末もつけてもらった。本当に申し訳ない」
「い、いやあそんな……まあ、はい……」
「家は遠いのか?俺は今日帰れそうにねえから、他の先生に送ってもらうよう頼んでやるぞ」
「や、や、そこまでは……」
「大丈夫ですよ〜。これくらいの時間に帰るのは慣れっこなので。家もすぐですし」
「そうか。じゃあ……気を付けてな。本当に助かった。ありがとう」
相変わらず不貞不貞しくいかめしい顔つきだが、牟児津に向けるその顔は、ひどく疲れているように見えた。歩いて行く背中を見送り、牟児津たちはこのあと待ち受けているであろう宇西の多忙さに同情した。
宇西が去って行ったあと、今度は木鵺が牟児津に声をかけてきた。スタンド席にあった荷物を片付け、自分のカバンを提げている。その後ろでは南良刻と下亀が、心配そうな顔を木鵺に向けていた。
「あ、あのさ……」
木鵺はバツが悪そうにうつむいていたが、意を決したように息を吸って牟児津の目を見た。
「……牟児津さん。その、色々と迷惑かけて、本当にごめんなさい。先生に言われたとおり、私、余裕がなかった。周りのみんなが敵に見えて、人に頼ったり信じたりする余裕がなくなってた。そのせいで牟児津さんを巻き込んで、疑って、こんな遅くまで付き合わせちゃって……いくら謝っても足りないと思うけど……本当、ごめんなさい!」
「や……そ、そんな──」
「牟児津さん!木鵺さんを責めないであげて!木鵺さんが追い詰められてたのは、私たちにも責任があるから……私たちがもっと相談に乗ってあげられてれば……!」
「自分たちも一緒に謝ります!だから、木鵺さんを許してあげてください!」
「い、いや、ちょっと待ってって!別に謝り足りないことないから!私は誤解が解ければそれで良かったんだし!」
木鵺たちの真摯な謝罪に、牟児津は猛烈な後ろめたさを感じた。風紀委員が木鵺を逮捕したとき、自分はそのまま木鵺を身代わりにして逃げようとした。そのくせ事件解決の功労者として頭を下げられることが、申し訳なくて堪らなかったのだ。もちろん、それは牟児津と瓜生田だけの秘密である。
「いや、自分でこんなこと言うのもなんだけど、どんだけ怒られても当然だと思ってる。犯人扱いもしたし、部室にもむりやり連れてきたし、解決するって言ってくれたのにちゃんと協力しなかったし……」
「うん、確かにそう言われるとぉ……これは私、怒ってもいいような気が……怒ってもいいかも……怒ってもいいのか?いや、怒るとしたら音井さんに怒ればよかったんじゃないか?」
「ムジツ先輩、なにぶつぶつ言ってるんですか?」
「いやあ……木鵺さんにも木鵺さんの事情があるわけだし、その原因が木鵺さん自身にあるとしても、なんかそれって木鵺さんに言ってもしょうがないんじゃないかと思ってさ。私だったらそれで怒られても、私だって好きでそうなってねーし!って思うよなあ。それに、なんかここで怒るのってめっちゃかっこ悪くない?どう思う?」
「いや、私にきかれても……」
「うりゅ、どう?」
「どうだろうね。でもムジツさんのそういうところ。私は好きだよ」
怒るべきか怒らないべきか、それを怒られるべき木鵺に尋ねる時点で、既に牟児津は怒ってなどいないことが明らかだった。問いかけられた瓜生田は、質問には肯定も否定も返さず、牟児津が悩むこと自体を肯定した。その回答が余計に牟児津を混乱させたのか、ますます頭を抱えてしまった。
間が持たなくなった木鵺たちは、牟児津の後ろにいた瓜生田と益子を見て、頭を下げ直した。
「え、えっと……瓜生田さんと益子さんも、巻き込んでごめんなさい!」
いっそ怒鳴られた方が気持ちの整理がつく。非難され責められた方がケジメを付けられる。そう期待して頭を下げた木鵺だが、それも外れた。瓜生田と益子は互いに顔を見合わせ、からっと笑いながら答えた。
「巻き込むだなんてとんでもない!ジャーナリストは自分から事件に巻き込まれに行くものです!むしろこんな特ダネに巡り会えたのはラッキーと言う他ありませんよ!あ、ご心配なく。ちゃんとプライバシー等々には配慮して記事にしますので!」
「私も全然構いませんよ。初めてのことじゃないですから。それに、全部明らかにするって宣言しちゃいましたからね」
「人の名前でな!」
「まあいいじゃん。ムジツさんと私はいつも一緒にいるんだから」
この三人は、とことんまで自分を責め立ててはくれない。なじったり、叱ったり、罵ったりしない。この場限りの安易な清算で終わりにすることを許してはくれない。そんな相手に対して、真に謝罪の意を示す方法など一つしかない。
それは、変わることだ。過ちを犯した自分を反省して、同じ過ちを繰り返さないことだ。そうすることでしか、この三人にかけた迷惑を清算する方法はない。そうすることでしか、木鵺は今回の事件を乗り越えられない。
「厳しいなあ……」
木鵺は、熱くなる目頭を押さえてつぶやいた。南良刻と下亀は、じゃれ合う牟児津たちを見てぽかんと口を開けているばかりだった。
〜〜〜〜〜〜
「と、いうのが事の顛末です」
「陸上部エースに追われ忽然と姿を消した謎の白い忍者……摩訶不思議なそのトリックにはエースが抱えるある秘密が関わっていた……!次期部長の座を巡る陸上部内の人間関係、そして旧友たちの熱い想い……!深まる謎の全てを暴き犯人の正体を白日の下に晒したのは伊之泉杜学園が誇る赤い名探偵!牟児津真白!」
「いかがでしょう部長!」
「いいねえ、いいぞ益子くん!早速記事をまとめてくれ!今日の昼休みに発刊だ!」
「了解です!」
「いいわけあるか!誰が名探偵だ!」
まだ登校している生徒も少ない朝の学園の中でも、さらに人の少ない文化部部室棟。カビとインクの臭いに包まれた新聞部部室に、牟児津と瓜生田はいた。昨日の白い忍者泥棒事件について、自分ひとりで説明しきる自信がないと、早朝から益子に呼び出されたのだった。
事件の翌日、益子は聞き取り記録や写真などの資料をまとめ、さらにどこから仕入れたのか新しい情報まで盛り込んだ記事の素案を作ってきた。曰く、音井が事件を起こした動機は、部長候補から木鵺を排除するためだったらしい。部長の座に固執するあまりに事件を起こすなど、牟児津には理解し難かった。
一連の報告を聞いていた新聞部部長の
「そんな書き方したら目立つだろ!やめろ!」
「何を言うんですか!今回の事件もムジツ先輩の活躍で解決したんですよ!2年Dクラスの黒板アート消失事件然り、生物部のヒノまる誘拐事件然り、まさに八面六臂の大活躍ではありませんか!これはもう名探偵と呼んで差し支えないと思いますが?」
「私はそんなつもりじゃないんだってば!好きで事件に関わってんじゃねえ!」
「まあまあ、落ち着きたまえ。優れた探偵は自ら事件を呼び寄せるものだ。つまり牟児津くんには探偵の才能があるということさ。そういう意味でも名探偵と呼べるんじゃないかな」
「認められてない前提から結論を出さないでください。相変わらず寺屋成先輩は油断も隙もないなあ」
「瓜生田くんこそ、相変わらず耳聡いじゃないか」
「おかげさまで、先輩のお話はよく聞くように心がけてますので」
「聞いてるこっちがヒヤヒヤするから冷静に口喧嘩すんの止めてくんね!?」
瓜生田と寺屋成は和やかに笑い合いながら激しい舌戦を繰り広げる。益子は寺屋成からゴーサインが出た勢いでみるみるうちに記事を清書していき、牟児津が記事内容に文句をつけるものの取り付く島もない。原稿用紙の上を滑る益子のペンを払い落とし、記事机にしがみつこうとする益子を羽交い絞めにして妨害する。
「とにかく私は静かに過ごしたいんじゃあ〜〜〜!!名探偵なんて書き立てられてたまるかあ〜〜〜!!」
「こっちだってこんなドデカいネタつかんどいてボツなんて死んでも御免なんじゃあ〜〜〜!!」
「がんばれムジツさ〜ん」
「応援はいいから手伝ってよ!」
陸上部から逃げ回る生活を回避し、平穏な学園生活を取り戻すために事件を解決したのに、そのことを新聞部に持て囃されては本末転倒もいいところだ。名探偵などと書かれることは絶対に避けなければならない。一方の益子もジャーナリスト魂でなんとしてでも今回の一件で紙面を飾りたい。互いに譲れない戦いを見た寺屋成は、一計を案じた。
「牟児津くん。良い機会だからここらで
「はい?契約?」
「おあーっ!いきなり離したらあぶらっははあああっ!!」
「うわ、痛そ」
寺屋成に意識を逸らされた牟児津は、益子をおさえていた腕から力を抜く。途端に益子がすっぽ抜けて、自分の記事机の下に頭から突っ込んでいった。聞くだけで痛そうな音がしたが、寺屋成と牟児津は目も向けない。
「以前、君のクラスで起きた事件を解決するにあたり、君は私と約束したね。こちらから情報提供する代わりに、君の活躍を取材して記事にさせてもらうと」
「そ、それはあのとき限りの話だったんじゃないんですか」
「私もそのつもりだったさ。だがさっきの報告を聞く限り、どうやら今回も益子くんの入手した情報が、事件解決を大いに支えたそうじゃないか。部長としては鼻が高い話だね」
「誰か私を支えてください……目が回っちゃって……」
「益子さん大丈夫?あ、鼻血」
ふらふら起き上がった益子に瓜生田が肩を貸す。そこらにあった古新聞で垂れてきた鼻血を拭い、また別の古新聞を丸めて鼻に突っ込んだ。
「さて、前にも話したように、
「ええ……?えっと……そ、そりゃそうかも知れないけど……」
「それとも君は、うちの部員が努力の末に手に入れた貴重な情報を、何の対価も支払わず一方的に搾取しようというのか?はっきり言ってそれは困る。うちの活動を根幹から揺るがす横暴と言わざるを得ないよ」
「い、いやいやいや!なんか話がデカくなってますって!私は別にそんなこと言ってませんから!」
「そうか。いやあそうかそうか。それを聞いて安心したよ。ということはつまり、今後も取引に応じてくれるということだね?」
「とり……?え、そんな話してた?」
「心配することはない。牟児津くんは目立たず静かに過ごしたいのだろう?それを邪魔するつもりはない。名前は出さないようにするし、その他関係者のプライバシーには十分気を付けるとも」
「……まあ、それはそうしてほしいですけど」
「よし!では交渉成立だ!さあ手を出して」
「へ?は、はあ……」
「はい、いただきましたー!」
淡々と、しかし着実に積み上げていく寺屋成の詭弁に誘導され、いつの間にか牟児津は握手を交わしていた。途端に連続したシャッター音がしたかと思うと、瓜生田に支えられた益子が鼻血を垂らしながらスマートフォンのレンズを向けていた。スマートフォンの中には、寺屋成と牟児津が固い握手を交わす写真が収められていた。
「では改めて牟児津くん。今後とも
「…………はあ?」
「あ〜あ、やっちゃったねえムジツさん」
「え?え!?なになになに!?いま私なにしたの!?」
「早速今後の話だが、引き続き益子くんを番記者として側につけよう。いや礼はいらないよ。いちいち報告に来てもらうのは悪いからね。これはうちからのサービスだ。事件解決のためなら情報提供は惜しまないから、いくらでも使ってやってくれるといい」
まんまと寺屋成にはめられ、牟児津は情報提供の代わりに自身の活躍を記事化することを恒久的に認める業務提携契約を結ばされてしまった。おまけに寺屋成の策略により、契約締結の瞬間を写真に収められている。一連の出来事を眺めていた瓜生田が、何が起きたかを牟児津に説明する。はめられたことを自覚した牟児津は、激しく叫びながら頭を抱えた。
「というわけでムジツ先輩!今後とも末永〜いお付き合いになります!よろしくお願いしますね!」
「んもぉ〜〜〜!!どいつもこいつもぉ〜〜〜!!勘弁してくれぇ〜〜〜〜〜〜!!」
牟児津の叫びは、部屋の隅に積み重ねられた古新聞の隙間に吸い込まれて消えた。
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