第3話「サバ缶」


 益子は、陸上部部室の外で聞き耳を立てていた。薄いドアからはときどき川路の怒鳴り声が聞こえてきて、その度にヒステリックに叫ぶ木鵺の声もした。どうやら取り調べはかなり難航しているらしい。


 「……なら……か!いっ……ろ!」

 「だ……!……とだって……でしょ!」


 これでは何が何やら分からない。ドア越しに聞いているだけでは、盗み聞きをする意味がない。しかし堂々と部室に入っていくわけにもいかない。このままでは牟児津と瓜生田に託された仕事を完遂できない。

 木鵺が連行された後、牟児津たちはどうすればいいかを考えていた。牟児津を逃さないと言った木鵺が、風紀委員に連れて行かれてしまった。容疑者という立場なら、川路は木鵺に容赦しないだろう。しばらくの間、練習はおろか牟児津を見張ることもできない。となれば。


 「これ……調査に行くチャンスだね」

 「えっ!?いま!?に、逃げたと思われるんじゃないの……?」

 「木鵺さんの逮捕で陸上部みんなそれどころじゃないよ。それに、木鵺さんが犯人なら牟児津さんを見張る意味もないし」

 「それはそうですね……どうします?私としては、こんなおもし───大変なネタ、逃すわけにはいきません!このとおり、逮捕の瞬間も激写しました!」


 益子は自分のスマートフォンの画面を二人に見せた。前から川路に詰め寄られ、後ろから風紀委員に手や肩を掴まれている木鵺の驚愕の表情を、はっきりと捉えていた。なんとも趣味の悪い写真である。


 「私、取り調べの取材しに行こうと思いますけど、いいですか?」


 そう言いながら今にも飛び出しそうなほど、益子は鼻息を荒くしていた。新聞部としての性なのか、トラブルや厄介事には目がないようだ。牟児津は少し考え、そして益子に指示した。


 「よし!あんたはそのまま木鵺さんのとこ行け!私とうりゅは行かない!」

 「え、なんでムジツさん。行こうよ」

 「あの人の取り調べ、人がやられてるの見てもキツそうだから見たくない!」

 「なんて気が小さいんですか」

 「繊細なんだよ!こっちはこっちでアレしとくから、あんたはあんたで情報集めて来て」


 川路の取り調べがどんなものになるか容易に想像できた牟児津は、他人がされているときですら、近付くことさえしようとしなかった。ちょうど興味津々の益子がいるので、情報収集はそちらに任せて自分は距離を置くことにした。

 そういうわけで、益子は何がなんでも取り調べの内容を盗み聞きする必要があった。そこで益子は、腰に巻いたポーチをまさぐった。

 新聞部員として日々スクープを追う益子は、ポーチの中に様々な秘密兵器を忍ばせている。取材状況に応じて使うのだが、いずれも一般生徒が持っているべきものではないため、使用にはそれなりのリスクが伴う。しかし今は、そのリスクを背負ってでも情報入手を優先すべき時だと判断した。


 「ビールグラススーパーヘルイヤー君〜!」


 取り出したるは、100円ショップで購入可能なガラス製のコップだった。それほど上等なものではないうえ、秘密兵器として考えるとなおさら貧相に見える。

 益子はこれの口を部室の壁に押し当て、底に耳を当てがった。壁越しに途切れ途切れでしか聞こえなかった中の声が、まるでその場にいるようにクリアに──とまではいかないが、集中すれば聞き取れる程度には聞こえるようになった。


 「どうしても罪を認める気はないようだな」

 「だからウソなんかじゃないって言ってるでしょ!いい加減にしてよ!」

 「いい加減にするのは貴様だ!ウソではないというなら、何を盗まれたのか言ってみろ!」

 「だからっ!それは……!言えないって……!」

 「そんなものが認められるか!犯人を見たのは貴様ひとり!顔も体格も何の特徴も分からない!盗まれたものは教えない!そんなデタラメに付き合うほど風紀委員は暇じゃないんだ!!」

 「デタラメなんかじゃない!!」

 「だったら何度も同じことを言わせるな!盗まれたものは何だ!」

 「なんでもいいでしょ!そんなこと関係ないじゃない!犯人捕まえてよ!」

 「ふざけたことばかり言うな!!」


 もはやお互いが興奮しきっていて取り調べの体を成していない。それでも、木鵺が逮捕された理由、すなわち風紀委員が今回の事件を狂言だとした理由ははっきりした。木鵺はどうやら、まだ盗まれたものを明かしていないし、今後も明かすつもりはないらしい。川路の言う通り、これでは何の手掛かりもない。たとえ狂言でないとしても、ただの被害者というにはあまりに捜査に非協力的だ。


 「こいつぁ何かウラがありますねえ。ちょっと調べてみますか」


 なぜ木鵺が盗まれたものを明かさないのか、そこに事件解決のカギがあると感じた益子は、それを探るため行動を開始した。一度部室棟から競技場に戻る。そこで、スタンド席で緊急のミーティングを開いている家具屋たちを見つけた。メンバーは、部長候補の数名に下亀を加えた幾人かだ。


 「どうもどうも!皆さんお揃いで!いよいよ盛り上がって───ああいえ。大変な事態になってきましたね。お疲れ様です」

 「アナタ……どこに行ってましたの!こんなときに!」

 「いやあ。私は新聞部ですから、ちょっくら取材に」

 「牟児津さんと瓜生田ちゃんは?」

 「お二人なら捜査だと思いますが。木鵺さんと風紀委員が同時にいなくなって自由に動けるチャンスなので」

 「そ、捜査?本当に自力で解決する気なんですの?」

 「当然です!それがムジツ先輩ですから!」


 どさくさに紛れて逃げたか、まとめて風紀委員に連行されたか、そんなところだろうと思っていた陸上部一同は、牟児津たちが既に事件解決に向けて動き出していることに驚いた。このまま木鵺が犯人になったとして、風紀委員は狂言に惑わされたという汚点がつき、陸上部はエースを失う大損害を被る。唯一、それによって潔白となる牟児津だけが得をするはずだ。それなのに牟児津は、誰よりも早く行動していた。なぜか益子が胸を張る。


 「まあ……陸上部としては、もうお前たちを拘束する理由も権限もない。すまないが今は相手をしている場合ではないから───」

 「益子ちゃん!」


 家具屋の言葉を遮って、南良刻が声を上げて益子に詰め寄った。心配そうな、縋るような目で益子の手を握り、頭を下げた。周りで見ていた全員と益子が、不意の行動に驚く。


 「木鵺さんは、そんなウソ吐く人じゃない……!絶対、何かの間違いなはずなの!」

 「えっ、は、はい。そう、ですよね?」

 「ですが、風紀委員が狂言だと判断したなら、それなりの理由があるのではなくて?」

 「ならその理由が間違いなんだよ!とにかく、木鵺さんは……!今はただ余裕がないだけなのに……!なんでこんなことに……!」

 「落ち着け南良刻」


 家具屋が制止するが、南良刻は止まらない。益子は風紀委員ではないのだが、まるで益子に頼めば木鵺が解放されると信じているのかのような、それほど必死の様子だった。


 「木鵺さんは……ただ、自分を見てほしいだけなの……!いつも、お姉さんの存在が大きすぎて……先生も、先輩もみんな……あの子の気持ちを分かってくれないから……!」

 「もうやめろ南良刻。この子に言っても仕方がない」

 「自分からもお願いします、益子さん。南良刻さんは、木鵺さんのことを誰よりも心配してるんです。木鵺さんの気持ちとか、無茶しがちなところとか、南良刻さんが一番よく知ってるんす。もし本当に、牟児津さんが木鵺さんを助けることができるなら……自分たちに手伝えることがあるんなら……やらせてほしいす」


 必死に訴えていた南良刻は、とうとう涙をこぼし始めた。家具屋が宥めて益子から引き離す。益子は、涙ながらに何かを訴えかけられた経験などなかったため当惑し、ろくに返事もしてやれなかった。だが南良刻の必死の訴えは、益子の心のうちにしばらく忘れていた熱い気持ちが湧き上がらせた。下亀にも頼まれ、益子はいよいよ勢いづいてきた。


 「分かりました。微力ながら、私もムジツ先輩に手掛かり集めを任されてます。必ず有益な情報を掴んで、ムジツ先輩にまるっと解決してもらいます!」

 「陸上部としても真相究明はもちろんだが、できれば木鵺の逮捕は誤認であってほしい。できる限り協力させてもらう」

 「まあ、わたくしも。門限があるので長居はできませんが」

 「ほあ……皆さん!ありがとうございます!」


 部員たちから話を聞いた限り、陸上部における木鵺の印象はあまり良くなかった。だがいざとなれば部員たちが団結して木鵺を助けようとしている姿を見ると、益子は目頭が熱くなった。

 しかし、益子は知っている。木鵺が頑なに事件について口を閉ざしていることを。それは、部員たちの信頼への裏切りとも取れる態度だ。それだけは絶対に明かすことはできない。言葉に気を付けながら、益子は部員たちに頼んだ。


 「そしたら、木鵺さんのカバンを見せてもらっていいですか?」

 「カバンなんか見てどうするんですの?」

 「とにかく手掛かりが残ってそうなものを虱潰しにですよ!」

 「持ってきます!」


 いち早く下亀が飛び出し、スタンド席にある部員の荷物の山から、大きなスポーツバッグをひとつ持ってきた。他の部員がストラップや色付きのベルトで飾り立てている中、特にそうした遊びの気配がない、木鵺のイメージをそのまま反映したようなシンプルなバッグだった。

 益子は部員たちが見守る中、カバンを開けて中のものを並べていく。


 「教科書と勉強道具一式が入った小さいカバン……なんでカバンの中にカバンが?」

 「木鵺さんは部活中心の生活をしていらっしゃるから、教室には必要最低限のものしか持って行かれないんです。授業を受けるための道具と、お弁当箱ですわね」

 「なるほど……で、これは着替えた制服ですね。ジャージ、あとこの包みは……お弁当箱と水筒。おや、このお弁当、手がつけられてないですね。水筒の方はと……スポドリですか?こっちは結構減ってますね」

 「お昼は事件でごたごたしてたから、食べる暇がなかったんじゃない?スポドリは木鵺さんいつも飲んでるよ。お弁当もそれでいくぐらい」

 「この気温じゃあ、お弁当はもうダメかも知れませんね。もったいない。え〜っと、それからタオルが2枚とビニール袋3つ、お財布、ちいちゃい水筒、あとは汗拭きシート、制汗スプレー、日焼け止め、陸上関係の本。ポケットにヘアゴムと……家の鍵ですかね?こっちのポケットはと……スマホと充電器。むむむ。変哲がないですねえ」

 「だいたいこんなもんじゃないすかね」

 「ん?これは……」


 中身をすっかり吐ききったカバンは、布地が力無く垂れてどことなく物寂しく映る。益子は他にも何かないか徹底的に調べていたが、それ以上は何も入っていなかった。

 だが益子は、一番大きな収納スペースについた、小さなポケットに違和感を覚えた。そこからは何も出てこなかったが、ポケットの布地に角張った跡が残っている。底の方に2か所、ちょうど小さな箱を入れたような形だ。


 「ちょっと、失礼しますね」


 なんとなくその痕跡が気になった益子は、一言断って写真を撮った。いちおう、それ以外のポケットに同じような痕跡が残っていないか調べてみたが、四角い跡が残っているのはそのポケットだけだった。


 「……?あのう、益子さん。つかぬことを聞きますけど」


 益子が荷物を並べる様子を見ていた下亀が、首を傾げた。


 「木鵺さん、何を盗られたんすかね?」

 「へっ!?は、はい!?何がですか!?」

 「いや、見たところ、普通の陸上部員が持ってそうなものは一通りあるんで。貴重品も。木鵺さんが必死に追いかけるほどのものってなんなんだろうと」

 「ああ〜、そ、そうですね。確かに、変ですよね。あはは……ご、ご協力感謝します大変参考になりました私はここらでムジツ先輩んとこに戻りますありがとうございましたそんじゃさいなら!」

 「えっ!?あ、あれっ!?」

 「陸上部から逃げようとはいい度胸ですわね!お待ちなさい!」

 「待て音井!」


 都合が悪くなった途端にしどろもどろになり、益子は早口で捲し立てて逃げ出した。すかさず音井が後を追おうとするが、その足を家具屋の言葉が止めた。


 「答えられないわけがあるんだ。あの子らは別に仁美を陥れようとしてるわけじゃない」

 「……い、いいんですか?明らかに挙動不審でしたのに」

 「いいんだ。任せておこう」


 なぜ益子が逃げ出したか分かっていない部員たちとともに、家具屋は期待を込めて益子の後ろ姿を見送った。木鵺が盗まれたものを明かさないことも、その理由も、家具屋は分かっていた。だが自分が話さなくとも、牟児津たちはきっとこの事態を解決してくれるだろうと、確信めいたものがあった。



 〜〜〜〜〜〜



 木鵺逮捕のどさくさに紛れて、牟児津と瓜生田は競技場を脱出した。牟児津に目を光らせている木鵺と、怪しい動きを見せれば即逮捕しかねない風紀委員。その両方が同時に動けなくなったことは、牟児津には逃げ出すまたとないチャンスだった。しかもただ立ち去るだけでは追手が来るかも知れないので、上手いこと益子を言いくるめて人質として残しておいた。


 「よし、もう帰ろう。あとは風紀委員に任せてさ」

 「そういうわけにはいかないよムジツさん。ちゃんと最後まで付き合わないと」

 「だって風紀委員が木鵺さんのウソっつってんだから、もうそれで決着しそうじゃん!これ以上首突っ込むことないって!」

 「風紀委員はそれでよくても、陸上部はよくないよ。木鵺先輩だって納得しないだろうし、ここで逃げたら今度は陸上部全員から追われる羽目になるよ。いいの?」

 「……よくないぃ」


 今は逃げ出す絶好のチャンスではあるが、それは明日以降の平穏な学園生活を保証してはくれない。むしろ新たに敵を増やすことになり、牟児津が理想とする平穏な学園生活はいっそう遠ざかっていくだろう。いずれこうした事態になることも、牟児津が逃げ出そうとすることも想定していた瓜生田は、駄々をこねる牟児津の手を引いて歩いていく。


 「こうなると思ったからわざわざみんなの前で解決宣言したんだからね。ほら、捜査しに行くよ」

 「捜査ってどこに」

 「屋上。木鵺さんの狂言じゃないなら、犯人は屋上付近で消えたことになるでしょ。だからそこに手掛かりがあるはずだよ」

 「犯人が消えるなんてことあるのかなあ」

 「犯人が忍者なら消えることもあるんじゃない?」


 観念した牟児津は瓜生田の後を歩く。未だ解決に兆しが見えない事件を牟児津がぼやき、瓜生田が冗談めかして笑う。しかしその謎を解き明かさない限り、犯人の正体を掴むことはできないのだから、笑い事ではない。屋上まで続く階段を上がりながら、牟児津は瓜生田に重ねて尋ねる。


 「っていうかうりゅ、こうなると思ったって言った?木鵺さんが逮捕されるの分かってたの?」

 「逮捕かどうかは分からなかったけど、木鵺先輩が疑われることになるとは思ってたよ」

 「なんで?被害者でしょ?」

 「被害者だからだよ。葛飾先輩が言ってたんでしょ?何が盗まれたのか分かってないって」

 「うん。だから手掛かりが少なくて参ってるって言ってた」

 「普通の被害者だったら、何が盗まれてどこにどうしまってあったか、自分で言うはずだよね。それを敢えて言わないのは、盗まれたこと自体がウソか……」

 「言えない理由があるってことか!でもそんなことある?」

 「たとえば、持つこと自体が問題になるような危険な物とか、持ってることがバレると恥ずかしいものとか、色々あるんじゃない?それでも取り返したい気持ちはあるみたいだから、木鵺先輩にとっては大切なものなんだろうね」

 「なるほどなあ」

 「風紀委員にしてみれば言えない理由があったとしても言ってもらなわくちゃ話にならないから、無理矢理聞き出そうとするか、言えないならウソだと判断して逮捕するか、どっちかになると思ってたよ」

 「すげーうりゅ!賢い!」

 「ムジツさんはもっとすごいことできるでしょ」

 「へあ?」


 牟児津は、とぼけているというより間の抜けている声を漏らした。どうやらここ数日の、身の回りで起きた事件を解決したという自覚がないらしい。事件を経て牟児津が得たのは、事件を解決したという自信や達成感ではなく、平和な日常に戻ることが出来たという安心と解放感だけだった。もっと誇ればいいのに、と瓜生田は思うが、目立つことを嫌う牟児津らしくもある、と呆れ半分で笑っていた。

 やがて、二人は屋上まで階段を上がりきる。外に出るドアの手前に踊り場があって、ひとつ下の階段に被さるように防災用品や避難用品等をしまう細長いスペースがある。あまり人が立ち入らないため埃っぽく、節電のため照明も切られている。

 瓜生田は外に出て屋上を見渡した。巨大な貯水槽や転落防止柵など、ごく一般的な屋上設備しかない。昼休みに牟児津と瓜生田が腰掛けていたのは、屋上に入ってすぐ、昼休みには日陰になる辺りだ。屋上まで階段を駆け上がって飛び出せば、すぐにぶつかる位置にいたはずだ。


 「うーん」


 ざっと眺めただけで手掛かりが掴めるなら、とっくに風紀委員が調べているはずだ。瓜生田はどこかに目星をつけて調べてみようかと思っていたが、思った以上に取っ掛かりがない。やはり犯人は屋上には来ていないのではないか。早くもそんな気になる。


 「犯人が屋上に逃げたんなら、私かうりゅが見てるはずだよ。こっちには来てないんじゃない?」

 「そしたら……踊り場の方かな?」

 「ちょっと見てみよ」


 牟児津は明るい屋外から暗い屋内に引っ込む。踊り場に置かれた品々はどれも埃を被っていて、触れるのも躊躇われる。中央に道を作るように置かれているので肩をすぼませれば触れずに済む。牟児津は小さい体をさらに小さくして、踊り場の中を調べた。何か手掛かりが残されていないか、スマートフォンのライトを当てて注意深く探る。


 「ん〜、めちゃくちゃ埃に跡が残ってる。足跡とかなんか払った跡とか。この箱も動かしたっぽい。すごいな」

 「探偵っぽいことが板についてきたね」

 「嬉しかねえやい」


 ライトに照らされた踊り場の埃は、そこに誰かがいたことを実に雄弁に物語っていた。床に落ちた埃の跡、わずかに動かした形跡のある大きな避難はしごの箱、その周辺にある物は一部の埃が軽く払われている。おそらく犯人は、木鵺から逃げてここに身を潜め、避難はしごの陰に隠れてやり過ごしたのだろう。そのとき、服が当たって埃が絡め取られた。ざっとこんなところだろう。


 「屋上なんか逃げたらすぐ見つかるし、まあ隠れるよね」

 「おっ、まさに忍法土遁の術だね」

 「楽しそうだなあ、うりゅ」

 「そんなことないよマジメだよ」


 おどけて印を結ぶマネをする瓜生田に、牟児津が白い目を向けた。本当に犯人が忍者だとしたら、こんな隠れ方はお粗末過ぎる。犯人はとっさにここに隠れたのだ。牟児津はその場面をイメージした。


 「こう来て……こう逃げて来たから、ここでしゃがんで。うん。そうだよな。そしたらこの辺に……」

 「ムジツさん、何してるの?」

 「犯人の動き追ってんの。こっちにこう逃げて、ここにいて、もちろん覆面はしてるけど、そのまま戻るわけないからどっかで外すでしょ。そしたら……あっ!」

 「?」


 狭い踊り場の中を、牟児津は足元や周りを見ながらちょこまかと動き回る。どうやら、木鵺から逃げて来た犯人が実際にした動きをトレースしているらしい。それで何が分かるというのか、瓜生田は黙って見守った。冴えているときの牟児津は、余計な口を挟むとたちまちシナプスがこんがらがってショートする。放っておくのが一番だ。

 はたして牟児津は、床に落ちた何かを見つけた。指で摘み上げたそれは、暗がりの中ではよく分からない。瓜生田はその先に目を凝らす。


 「なに?」

 「髪の毛!たぶん犯人の!」

 「分かるの?」

 「ここ人が来ないから、埃とか砂はたまってるけど髪の毛はあんまり落ちてないんだよね。それから犯人はここで覆面を取って戻ったはずだから、髪の毛が落ちてる可能性が高い!そうするとこの髪の毛は、犯人につながる重大な手掛かりになるとは思わんかね?うりゅくん」

 「そっかあ。でも、誰のか分かる?」

 「ここじゃ暗くて分かんない。外で見よう」


 とんとん拍子に手掛かりを見つけた牟児津は、さっそくその髪を明るい場所で検める。細いながらもさらさらと手触りがよく、強い光の中ではキラキラと光るようだ。何より明るい日の下にさらされたその髪は、それが誰のものかを如実に物語っていた。


 「これ……あの人のだよね?」

 「うん。間違いないと思う」


 牟児津と瓜生田は顔を見合わせて頷く。二人ともこの髪の毛から同じ人物を連想したようだ。分からないことはまだいくつかある。だが、先に犯人が誰かはっきりした。


 「やったねムジツさん。これで忍者の正体が分かったよ」

 「うん。後はあの人が犯人だった証拠を集めて納得させるだけだけど……ううん」


 この髪の毛が本当に犯人のものか、犯人のものだとして今日の昼休みに落としたものか、証拠能力の不安は挙げればキリがないが、二人には決定的な証拠に思えた。ともかく牟児津は犯人のを突き止めたのだが、その顔は浮かない。


 「でもさあ、うりゅ。この人が犯人だとして……やっぱ、木鵺さんもおかしいよね?」

 「うん?盗まれたものを言わないこと?」

 「それもだし……いま思ったんだけど、なんで木鵺さんは踊り場をスルーしたんだろ?」


 屋上から校舎内へと続くドアに目をやり、牟児津は重たい唇を動かした。


 「犯人追いかけて来て、屋上にいなかったら普通踊り場見るよね?」

 「……ああ、そうだね。まあ木鵺先輩はムジツさんを犯人だと思ってたけど……私ならいちおう踊り場も確認するかな」

 「だよね。なんか……踊り場があることに気付いてないみたいじゃん?」


 階段を上がってくれば、踊り場の存在は当然分かることだ。むしろ暗がりの中に大きな道具が頭を突き出している異様な雰囲気は、屋上へ続くドアよりよっぽど目を引く。牟児津は階段の下から階上を見上げたり、実際に走って上がったりして確かめてみるが、やはり踊り場は視界の端で大きな存在感を放っている。これに気付かないなどということはない。確かめれば確かめるほど分からなくなってくる。


 「あー、またこの感じだ。手掛かりがあればあるだけこんがらがるやつ」

 「そうだねえ。他に手掛かりが残ってそうなところってあるかな?」

 「いや……部室?でもあそこは取り調べしてるし……」

 「あっ!いたいた!おーいムジツ先輩!瓜生田さん!」


 犯人の正体が分かっても、それ以上に木鵺の行動や態度に謎が多すぎて牟児津は頭を悩ませる。たとえ証拠を集めて犯人を追い詰めたとしても、木鵺の妙な態度を理由に言い逃れられる可能性がある。

 牟児津は本能的に理解していた。人を理屈で追い詰めるには、絶対に覆しようのない根拠と、言い逃れの隙を与えないことが必要なのだと。今はまだ、その隙が大きすぎる。

 そんな、決定的な証拠を手にしながらも足踏みせざるを得ない牟児津と瓜生田のもとに、陸上部から逃げ出した益子がやって来た。


 「お疲れ様です!不肖、実耶ちゃん、色々調べて参りましたよ!」

 「ありがとう益子さん。陸上部の方はもういいの?」

 「木鵺先輩が逮捕されたってんでもうてんやわんやですよ。でもね、部長さんも部長候補の皆さんも下亀先輩も、みーんな木鵺さんの潔白を涙ながらに訴えて……なんかこう、胸が熱くなっちゃいましたよ」

 「そう……」

 「気になるものもあったんで見てほしいんですけど」


 そう言って益子は、メモ帳とスマートフォンを取り出した。メモ帳には取り調べで聞き取った内容と、木鵺のスポーツバッグの中にあったものの一覧が、スマートフォンにはバッグに覚えた違和感の原因を映した写真がそれぞれ記録されていた。


 「いや〜、こんなに込み入った事件は入学して初めてですよ!ジャーナリスト冥利に尽きるってもんです!」

 「なんだろうね、この跡。何かの箱でも入れてたのかな」

 「携帯ようかんとかこんなくらいだよ」

 「それはこの街でムジツさんしか買ってないから」

 「そこまで珍しくねえわ!」

 「こうした些細な写真から真実が明らかになったりするんですよね〜!それにほら、事細かにメモも取りましたよ!デキるジャーナリストってのはこういうことです!」

 「木鵺先輩ってスポーツドリンクでお弁当食べるんだね」

 「米と合わなそ〜。変な好みしてんね」

 「ムジツさんにだけは言われたくないと思うよ」

 「私は甘党なだけで別に変じゃないから!うりゅこそ変でしょ。目玉焼きになにかけんの」

 「サバ缶」

 「そんなやつこの国でうりゅだけだよ!」

 「お姉ちゃんもサバ缶派だもんね」

 「そんなのりこねえがうりゅに合わせてるだけだね!りこねえに感謝しろ!」

 「感謝してますぅー。毎日電話してますぅー」

 「私、置いてけぼり過ぎません?」


 集めて来た手掛かりを見て推理が進むことはなく、起きたことと言えば牟児津と瓜生田のしょうもないじゃれあいだった。


 「いいですか?木鵺先輩は盗まれたものを頑なに明かさないせいで狂言を疑われてるんです!こんなことしてる間にも事件がそんなオチになっちゃうかも知れないんですよ!いいんですか!?」

 「私は別にそこんとこは困らないけど……」

 「それでも名探偵ですか!」

 「名でも探偵でもねえっつってんだ!」

 「だけど事件解決しないとムジツさんも大変だから、やることは同じだよね」

 「はあ……なんでこの期に及んで木鵺さんのせいで足止め食らってんだか……」


 今まで巻き込まれた事件と違って、今回ははっきりした被害者がいる。なのにその被害者が事件解決に非協力的なせいで、今まで以上に苦労を強いられている。ため息を吐きながら、牟児津は益子が写真に収めた木鵺の顔を恨めしそうに見た。風紀委員に拘束されて驚く木鵺が映っている。


 「ホントにさあ……勘弁してよ……」


 木鵺の手荷物を見る。遊びや余裕を感じない必要最低限の荷物だ。陸上に心血を注ぐストイックさも、スポーツドリンクで弁当を食べる共感しがたい味覚も、自分の考えを曲げようとしない頑固なところも、考えれば考えるほど、木鵺という人間が分かりそうで分からなくなってくる。不自然に見えてくる。

 だから、牟児津はその違和感に気付いた。必要最低限の荷物……本当にそうか?ここにあるものは、本当にそれ以上減らしようのないものか?本当にそれだけで全てを満たしているのか?そんなはずはない。だ。盗まれたものが欠けているはずなのだ。


 「……」

 「ムジツ先輩?」

 「しーっ。いま、ムジツさん集中してるから」

 「えっ?いま?こんなシームレスにスイッチ入ることあります?」

 「ムジツさんはそういう人だから。こっちが察してあげないといけないんだ。赤ちゃんだと思って」

 「やだなあ、こんな赤ちゃん」

 「うるさいなあもう!」


 大海原に浮かんだひとつの泡のように、少しでも気を逸らせば見失ってしまいそうな、今にも弾けて消えてしまいそうな、微かなひらめき。牟児津はそれを逃さないよう捕まえて、その正体を探り、手掛かりをかき集める。それが何を意味するのか、何を語るのか、何をその内に秘めているのか。見出した可能性が形を得てつながり、乱雑に散らばっていた意味同士がひとつの論理のもとに整列していく。


 「……スポドリ、必要最低限の荷物……じゃあこれは?ポケットの跡と……それは確かめなきゃ。だったらなんの……?」



 思い出す。今日1日の出来事を全て。


 昼休みに屋上で木鵺に飛びかかられたこと。そのとき木鵺はどうしていた?どうして踊り場を見ずに牟児津を犯人と決めつけた?


 放課後すぐ木鵺に部室まで連行されたこと。ミーティング中、木鵺はどうしていた?あのとき、なぜ瓜生田を無視しようとした?


 競技場で木鵺の練習する姿を眺めていたこと。風紀委員に逮捕されたとき、木鵺はどうしていた?逃げようと思えば逃げられたはずなのに、なぜ逃げる素振りも見せなかった?


 なぜ盗まれたものを明かさない?

 なぜ必要最低限の荷物の中にがある?

 なぜ学園内最速の足で犯人に追いつけなかった?



 「……んん」

 「まとまった?」

 「まとまりは、した。でも根拠がないよ。いくつか調べないと。益子ちゃん」

 「え?あっ、はい!」


 いきなり、そして初めて牟児津に名前を呼ばれた益子は、先ほどまでと明らかに雰囲気が違う牟児津の表情に思わず背筋が伸びた。牟児津は特にその様子には触れず、淡々と指示を出す。


 「木鵺さんの荷物の中で……これを調べてみて。私の予想も書いといたから、合ってたら連絡して」

 「は、はい!」

 「あと犯人の忍者頭巾についても」

 「わあ……なんかムジツ先輩、ホントに名探偵然としてきましたね!」

 「冗談じゃないってば。いいから、それお願いね」

 「かーしこまりゃーしゃー!」

 「すごい勢い」


 牟児津にお使いを頼まれ、益子は階段を転げ落ちるように飛び出していった。瓜生田は、牟児津に尋ねる。


 「ムジツさん、私たちはどうするか決めてる?」

 「うん」

 「そっかあ。どうするの?」


 牟児津は屋上から、競技場を見下ろした。まだ部活は続いており、部長候補のメンバーも練習を再開していた。牟児津は、ことを確認してから校舎内に戻った。


 「西先生のとこに行く」

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