第2話「全部明らかにしてみせます」
瓜生田は頭を捻っていた。放課後、約束していたとおり2年Dクラスを訪ねたというのに、そこに牟児津の姿がなかったのだ。
「おう、瓜生田」
2年Dクラスの担任である
「大眉先生、ムジツさん知りません?」
「牟児津ならさっき木鵺に連れてかれたぞ。逃げないように監視するとかなんとか言って」
「はあ。木鵺先輩、本当に逃さないつもりなんだ」
「あと、瓜生田の前にも牟児津を訪ねてきた子がいたな。1年生だったぞ」
大眉が言っているのは、おそらく益子のことだろう。瓜生田とて寄り道せずに真っ直ぐ来たのに、一足遅れてしまったようだ。木鵺に連れて行かれたということは、おそらく向かう先は陸上部部室だろう。瓜生田は運動部の部室棟へと向かった。
放課後になれば部活動が始まり、部室棟はその準備をする生徒でごった返す。陸上部の部室も大勢の生徒が出入りしており、瓜生田はその手前で中を覗き込もうとしている益子を見つけた。
「益子さん。来てたんだ」
「あれれ。瓜生田さん。ムジツ先輩と一緒じゃなかったんですか」
「うん。私たちより先に木鵺先輩に連れて行かれちゃったみたいだね」
「そうなんですよ。部室にいると思うんですけど、なかなか様子が分からなくて」
アパートの一室程度の広さがある部室だが、出入口はそれほど広くない。通行の邪魔にならないよう端に避けたままでは、中の様子は窺えない。益子より大きい瓜生田が中を覗こうとするが、それでも牟児津の姿は見えない。2人並んで中を覗き込む姿は、こそこそしているつもりでもひどく目立っていた。
「ちょっとアナタたち!」
行き交う生徒たちを意図せず驚かせていた2人は、背後から飛んできた声に驚かされた。鐘のように甲高く、笛のようによく通り、大太鼓のように力のこもった声だった。とっさに2人は振り向き、そこに立っていた2人に向き合った。
「こそこそと怪しいですわね!そこでいったい何をしているのです!」
ひとりは、手足がすらりと伸びた背の高い生徒だった。この暑いのに白のロングシャツにロングスカートを履いていて、いかにもお嬢様という格好だった。ウェーブした蒼く長い髪を手で撫で払うと、風になびく髪の一本一本がきらきらと光った。
もうひとりは、隣に立つお嬢様に比べるとかなり地味な印象を受ける丸眼鏡の少女だった。耳の下まで伸びたクリーム色の髪に丸まった背中、穏やかな顔立ち、学園指定の半袖ブラウスにズボンと、大人しい亀の様な印象を与える生徒だった。
瓜生田も益子も、声の主は直感的に分かった。どう考えても蒼い髪のお嬢様だ。
「あ、怪しくないです!私、新聞部の益子という者で……!」
「アナタがどこの誰かなんて聞いていませんわ。陸上部に何か御用?」
「友達が木鵺先輩に連れて行かれまして、こちらにいると思うんですけど」
「木鵺さん?ふぅん……アナタたち、お昼もここにいらしたのかしら?」
「はい。連れて行かれた人も一緒でした」
「へぇ……なるほど」
お嬢様は、木鵺の名前を聞くと何かを考え込む仕草をし、改めて瓜生田と益子をじろじろと眺めた。どうやら昼休みに起きた事件は、既に陸上部の中では周知の事実らしい。しかしお嬢様の、敢えて事件のことを明言しない口振りから察するに、まだ表沙汰にはしていないらしい。
「少しお待ちになって。これからミーティングがあります。アナタたちも参加できるか部長にご相談します」
そう言うと、お嬢様はつかつかと足を鳴らして部室に入っていった。亀のような少女は瓜生田と益子にぺこりとお辞儀して、その後に続いた。なぜお嬢様が2人をミーティングに参加させてくれようとしているのかは分からないが、事件について詳しい話を聞けるチャンスが訪れた。2人はお嬢様に期待して、その場で待った。
少ししてから、亀の少女が出て来て、短く告げた。
「どうぞ」
どうやら許可が下りたらしい。2人は遠慮がちに部室に入った。
部室の中は、大勢の部員で埋め尽くされていた。着替え用のロッカーやベンチ、表彰状やトロフィーが飾られた棚が並び、その真ん中に十二畳ほどのスペースがある。大勢の部員が向かうホワイトボードを背にして立つのは、灰桜色の髪を固く結んでポニーテールにした女子生徒と、その隣でいかめしい顔をしている木鵺、そしてガチガチに緊張して冷や汗をかいている牟児津だった。ぴんと糸が張ったような、厳しい静かさだった。
瓜生田と益子は邪魔にならないよう、部屋の隅に移動して聴衆に混じった。
「では、ミーティングを始める」
2人の後に続いて亀の少女が部室に入り、扉を閉めた。それを確認した後、灰桜髪の女性が切り出した。彼女がこのミーティングを取り仕切る立場にあるらしい。おそらくは部長だろう。
「今日のお昼休みに、部室に不審者が現れた。風紀委員には通報済みだが、犯人はまだ捕まっていない。各自、自分の身の安全や持ち物には十分気を付けるように。また、不必要な混乱を避けるため、風紀委員から発表があるまで部外では他言無用とする」
「あのぅ、すでに何名か部外の方がいるみたいなんですけど」
灰桜髪の女性の言葉に、部員の中からすっと手が挙がった。深緑色の髪を肩まで下ろした、人懐っこい顔の生徒だ。その質問は想定通りなのか、灰桜髪の女性は考える素振りもなく答える。
「前にいる方は仁美が、出入口にいる2人は
「関係者?不審者と関係があるってことですか?」
どうやら先ほどのお嬢様は、音井というらしい。部外では他言無用の話題を扱うミーティングに瓜生田たちを参加させられるということは、それなりに部長に近い立場なのだろうか。
「詳細は仁美から話してもらう」
自分からは手短に伝え、灰桜髪の女性は木鵺に場所を譲った。木鵺は牟児津と一緒に全員の前に立つ。ただでさえ目立つことが嫌いな牟児津は、そんな場所に立たされて震えが止まらない様子だった。牟児津の気質と事情を知っている瓜生田からすれば、なんとも可哀想な姿である。
「なぜかみんなもう知ってるみたいだけど、お昼の不審者について、私の見たことをそのまま伝えます」
連れてきた牟児津はほったらかしにして、木鵺は自らの目撃情報を語り始めた。てっきり自分の紹介があるものだと思っていた牟児津は、ぎょっとした顔で木鵺を見る。木鵺は正面の一点を見つめて続けた。
「お昼休みに私が部室に来たとき、その不審者はちょうど部室から出て来るところでした。格好は上下ジャージで、顔は白い覆面をしていて分かりませんでした」
「覆面?とは?」
「こう、頭と口元を丸ごと覆ってて、目元だけ出してる……忍者がするような覆面を被ってました」
「ほほう!これは興味深い!『陸上部の覆面泥棒事件』改め、『白い忍者泥棒事件』ってとこですかね!」
「そこ!静かになさい!私に恥をかかせるつもりですか!」
「す、すみませ〜ん」
「もごもご……」
忍者というフレーズに反応して、益子は不謹慎にも大声で面白がった。たちまち音井に注意され、瓜生田が益子の口を塞いで引っ込ませる。ガチガチに緊張していた牟児津だったが、そこでようやく2人の存在に気付いたのか、少しだけ顔の強ばりが緩んだ。
「それで、不審者が私に気付いて逃げ出したので、私もとっさに追いかけました。風紀委員には友達がいたから、その子に電話して通報しました」
「怪我がなかったからよかったが、次からは人を呼んで、風紀委員か大人に任せるように」
木鵺は灰桜髪の女性の言葉に軽く頭を下げ、続けた。
「不審者が階段で上に逃げたので追いかけました。最終的には教室棟の屋上で、この子を捕まえました」
「捕まえたって、その子が不審者なの?」
「私はそう思ってるけど、風紀委員はまだ捜査中ってことにしてる。重要参考人ってくらい」
「重要参考人というのは、ほぼ容疑者と同義でなくて?風紀委員の捜査を待たずとも、その方のお話を伺うのがよろしいのではなくて?」
「えぅ」
音井の発言で、全員の視線が牟児津に集まる。無数の視線が自分に注がれるのを感じて、牟児津は小さく声を漏らす。このままでは牟児津が公開尋問にかけられてしまうと感じた瓜生田は、助け船を出すことにした。静かに、しかしよく目立つように手を高く掲げた。
「じゃあ、話を──」
「待て仁美。……なんでしょう」
「部外者が発言いいですか?」
牟児津に話させようとした木鵺を、灰桜髪の女性が止めた。そして、部室の隅にいた瓜生田を睨み付ける。牟児津に集まっていた視線が丸ごと瓜生田に注がれる。牟児津さえも驚きとともに瓜生田を見ている。この大勢の中で、部外者でありながら自ら発言するなど、牟児津にはとても考えられなかった。しかし瓜生田は、木鵺の厳しい視線にも、音井の訝しげな視線にも、灰桜髪の女性の冷たい視線にも全く動じず、口を開いた。
「実は、お昼に風紀委員立ち会いの下で実験したんですよねえ。そこのムジツさんが、部室から屋上まで木鵺先輩に捕まらずに逃げ切れるかっていう。結果は屋上どころか、階段にたどり着く前に捕まっちゃいましたけど」
「だから不審者ではないと?そんなもの、風紀委員の前だからわざと捕まったのかも知れませんわ。何の意味もありません!」
「どうですかね。少なくとも私は、ムジツさんは本気で走ってたように見えましたよ。木鵺先輩はどう感じられましたか?」
「……まあ、適当に走ってたようには見えなかったわ」
「第一、木鵺先輩は全国レベルの陸上選手なんですよね。日頃から運動なんかこれっぽっちもしてないムジツさんが、そんな人から逃げ切れるわけないんですよ。失礼ですけど、この中にいらっしゃる何人が、木鵺先輩から屋上まで逃げ切れる自信がありますか?」
たちまち部室内は静かになった。それは、瓜生田たちが入ってきたときにあった緊張による静かさではなく、誰も発する言葉を見つけられないが故の重い沈黙だった。そしてそれは瓜生田の計算通りだった。ここで逃げ切れる自信があるなどと宣う者がいれば、その人物こそ不審者の正体である可能性が生まれるからだ。きっちり牟児津を庇って部員を黙らせた瓜生田は、しかし感謝の視線を向ける牟児津とは目を合わせない。この後、その感謝を裏切るつもりだからだ。
「つまるところ、ムジツさんは不審者ではないわけです。でも木鵺先輩は、少なくともムジツさんは不審者の関係者だと思っています。このままではムジツさんは謂われのない疑いをかけられて、陸上部の皆さんは本当の不審者を取り逃がすことになります。どちらにとっても損でしかないですよね?ですから、本物の不審者の正体を暴き、全員を納得させた上でこの事件を解決してみせます。そこのムジツさんが」
「へぃげっ!?」
陸上部員全員の前で、瓜生田はそう宣言した。同時に下ろした手は、部室の反対側にいる牟児津を真っ直ぐ指さしている。それに合わせて全員の視線が動き、牟児津は再び全員の視線にさらされて変な声が出た。思いもよらない瓜生田からの攻撃に、牟児津は為す術なく丸まるしかなかった。
その瓜生田の宣言に、灰桜髪の女性が異を唱える。
「それは風紀委員の仕事で、あなたたちはただの関係者でしょう。危ないことをするつもりなら止めなさい」
「ご心配なく。ああ見えて、ムジツさんはそういうの得意なので。ですから木鵺先輩」
瓜生田が木鵺を見た。
「必ず、全部明らかにしてみせます」
それが何を意味する言葉なのか、その場では、瓜生田にしか分からなかった。木鵺はたっぷり数秒の間、瓜生田を睨み続けた。しかしその場では口を開かず、隣にいた牟児津を見て、背中を軽く叩いた。どうやら解放するという意志表示のようだ。牟児津はどうしていいか分からず戸惑っていたが、瓜生田に手招きされると大勢の陸上部の隙間を縫って、あっという間に瓜生田の下まで駆け抜けた。それを見届け、木鵺も下がった。
「では次、今日のメニューについて」
「は、はいっ」
灰桜髪の女性が進行し、先ほど手を挙げた深緑の髪の生徒が前に出た。
「え〜っと、じゃあ、来週末にある大会に向けて──」
「ああ。ちょっと待て
「こちらこそお邪魔しました〜」
灰桜髪の女性が牟児津らに声をかけると、それに合わせて亀の少女が部室のドアを開けた。もうこの事件に関する話は終わりだから出て行けということだろう。牟児津らは促されるまま部室を出た。
部室棟の近くには陸上部専用の競技場があり、そこには大会の際に関係者や保護者らが観戦するためのスタンド席も用意されている。普段は陸上部の休憩場所や練習中の荷物置き場になっており、部活中でなければ部外者でも入ることができる。瓜生田と益子は部室を出た後そこに向かい、未だ緊張が抜けない牟児津を運んで席に座らせた。
「あわあわわわわあわ……」
「ムジツさん、大丈夫?」
「だっ!大丈夫だあ!?どの口が言うんだ!この口か!ぷにっぷにだなコノヤロー!」
「むごむご。ほひふいへっへ」
「落ち着いてられっか!なに解決宣言なんかしてんだ!こちとらノミの心臓なんだぞ!びっくりしすぎて口から飛び出したらどうすんだ!」
「どうどう。ムジツ先輩、ほっぺ掴んだら瓜生田さんがしゃべれません」
緊張の糸が切れた牟児津は、バネのように跳ねて瓜生田に飛びかかった。牟児津にしてみれば、陸上部全員の前での解決宣言は、まさかの瓜生田による裏切りであった。あの場でそんなことをする意味が分からない。ただただ牟児津の肝が冷えるばかりだ。しかし瓜生田は、牟児津に両頬をつままれながらもへらへら笑う。
「ぷはっ。だって、ああでも言わないと陸上部の人たちが協力してくれないでしょ」
「どゆことだっ」
「木鵺先輩の言い分のままだと、ムジツさんは重要参考人、というか犯人扱いだったよ。それじゃあ話なんて聞けないしこっちからも話できないでしょ」
「そうですね。木鵺先輩は部内でも発言力がある人のようですし、あのままだと協力は望めないでしょう」
「ぐぬぬ……それはそうかも知れないけど……」
瓜生田の説明に益子が頷く。尤もらしい考察に、牟児津も納得せざるを得ない。
「だから私が、ムジツさんは犯人じゃないってことを取りあえずは説明した。でもこれじゃあ、よくてまだ事件の関係者止まり。灰桜髪の人が言ってたみたいに、解決は風紀委員に任せて大人しくしてなさいってなるよね」
「むん」
「だから最後に、事件解決してみせるって宣言するの。そしたら、それでムジツさんに期待してくれれば当然話してくれるだろうし、疑ってる人もやれるものならやってみろって気持ちになるから、取りあえず情報はくれるようになるよ」
「なるほど!まあほとんどの人は後者でしょうけど、少なくとも事件解決を目指す人、と刷り込まれるので、情報は引き出しやすくなるかも知れないですね!瓜生田さんお見事!」
「お見事じゃない!大ごとだこっちは!私は目立ちたくないっつってんのに!」
「みんなの前に連れ出された時点で同じだよ」
「そうですよ。あと今回の件こそ新聞部で記事にするので、悪しからず」
「悪しかるわ!なんでみんな私を表舞台に引っ張り出すんだ!私は静かに平和に穏やかに過ごしたいだけなのにー!」
「よしよし」
昼休みの終わり頃は単なる巻き込まれた立場だった牟児津は今や、事件に首を突っ込まざるを得ない立場になっていた。いずれにせよ事件を解決しなければ牟児津の望む平穏な学園生活など訪れないので、すべきことは変わらない。理不尽な事の次第を嘆きながらも、瓜生田に励まされ、益子に囃し立てられ、牟児津は覚悟を決めるのだった。
〜〜〜〜〜〜
陸上部の練習が始まると、牟児津たちがいるスタンド席に部員らが次々と荷物を運んできた。練習に使うであろうカラーコーンやハードル、大量のタオルに制汗スプレー、クーラーボックスなど色々だ。ほとんどの生徒は体操着の上から自分の学年と同じ色のゼッケンを着ている。
その中に交じって、ミーティングで南良刻と呼ばれていた深緑の髪の少女が、特に大きなカゴを抱えてスタンド席にやって来た。先ほどは下ろしていた髪を後ろに結び、学園名と氏名がプリントされた紫色のゼッケンを着ている。
「おっ、さっきの名探偵さん」
牟児津の姿を見つけ、南良刻は明るく声をかけた。名探偵と呼ばれても牟児津は全く嬉しくないのだが、悪意のないその表情にあてられてぎこちない笑みを返した。
「あ……いちおう、牟児津です」
「へえ、珍しい苗字だね」
「いやあ……そんな」
「でも珍しさだったら私も負けてないよ。私は
明朗快活とはこのようなことを言うのだろう、と瓜生田は感じた。さっきの今で、陸上部員にとって牟児津の印象は複雑なものだと思っていたが、南良刻は極めて温かく牟児津を受け入れ、握手まで求めた。木鵺や音井、灰桜髪の女性に比べるととんでもなく優しく映る。牟児津はその温かみに流されるまま握手に応じ、下手くそな作り笑いを浮かべていた。
「へ、へえ……えへへ、すいやせん、ども」
「そっちの2人は?さっきミーティングにいたね」
「1年の瓜生田です」
「同じく1年で新聞部の益子です!」
「そう。今日はこのまま見学でもしていくの?」
「不審者についての聞き込みをしようかと。お手すきの時にお話を伺いたいんですが」
「私でよければ今いいよ。準備しながらになっちゃうけど、練習までは話せるから」
南良刻は話しながらカゴの中の道具を取り出し、てきぱき並べて数を数えていく。その手際を見ているだけであっという間に時間が過ぎてしまいそうになる。瓜生田は、南良刻の明るさに押されてもじもじしている牟児津を脇に置いて、メモ帳を取り出し聞き込みを開始した。
「お昼の不審者事件について、どれくらい御存知ですか?」
「う〜ん、そうだね。木鵺さんは不審者ってことしか話してなかったけど……でも、泥棒なんだよね?」
「知ってるんですか?」
「ミーティングのとき、そっちの子が泥棒事件って言ってたから」
「あっ」
南良刻に指摘され、益子はそこでようやく気付いた。木鵺が敢えて不審者とオブラートに包んでいたのに、益子は大声で泥棒と明かしてしまっていた。あの場では気付かなかったが、おそらく多くの部員が今回の件について窃盗事件と認識してしまっただろう。
「誰の何が盗まれたのかは分からないけど、たぶん木鵺さんのだよね?でなきゃわざわざ追いかけたりしなよ」
「う〜ん、鋭い推理……この人、できますね」
「あんたが余計なこと言うからだろ!」
「木鵺先輩の持ち物で、何か盗まれるようなものとか、あるいは大事にされているものとか御存知でないですか?」
「それは……ううん、分かんないなあ。木鵺さん、あんまり物に思い入れあるタイプじゃないと思うし」
牟児津が葛飾に聞いた話では、風紀委員でさえ、未だ何が盗まれたのかは分かっていないらしい。木鵺が明かせばすぐに分かるのにそうしていないということは、何か事情があるのだろうか。まだ牟児津たちは、木鵺という人間について何も知らない。聞き込みの中でそうしたことも分かるのだろうか。
「でも、なにもこんなときに起きなくてもいいのにね」
「むっ!なにやら意味深ですね!詳しくお願いします!」
「深い意味はないよ。来週末に陸上大会があるってだけ。まあ……私たち2年生にとっては大事な大会なんだけどね。木鵺さんにとっては、特に」
含みを持った南良刻の発言に益子が食いつく。渦中の牟児津は未だに自分の立ち位置を見つけられず、練習に励む他の陸上部員をぼんやり眺めていた。当事者である牟児津が蚊帳の外になっていることを気にしながらも、南良刻は答える。
「来週末の大会はね、次の部長を決める大会でもあるんだ」
「ほう!部長を!なるほどなるほど!確かにそれは大事ですね!」
「といっても大会の記録だけで決まるわけじゃなくて、あくまでそこでの成績も加味して決めるって感じだけどね。でも部長候補の人はもう決まってるから、本番に向けてみんな気合い入ってきてるよ」
「ふむふむ。つまり、大会で結果を出すのが部長になるための条件の一つ、ということですね」
「南良刻さんも部長候補なのに、練習しないでいいの?」
「……え?」
ぽつり、と牟児津がつぶやくように尋ねた。唐突に質問されて驚いた南良刻が牟児津を見ると、相変わらず練習風景を眺めていた。瓜生田たちは不思議そうに顔を見合わせ、代表して瓜生田が尋ねた。
「ムジツさん、なんで南良刻先輩が部長候補だって思うの?」
「だってみんな学年色のゼッケン付けてるのに、木鵺さんや南良刻さんは違う色だから。他の人たちがみんな準備してるのにその色の人たちだけ先に練習してるの、変だなって思ってたんだよね。でも南良刻さんは準備してるし、なんでかなって思って」
「そっかあ。ムジツさん、見てただけで分かるんだね」
「なんとなく?違うかも知んないけど」
「いや……合ってるよ。うん。紫色のゼッケンの人は部長候補だから、優先的に練習できるの。みんな気を遣ってくれてるんだ。私は……そういうの苦手なの。みんなと一緒に練習したいから」
ほんの数分、ぼんやりと練習風景を眺めていただけの牟児津が突然そんなことを言い出し、ただの昼行灯だと思っていた南良刻は驚いた。牟児津は相変わらず練習風景を眺めているが、瓜生田は少しだけ得意気になって南良刻に視線を戻した。
「ムジツさんはその気になればちゃんとできる人なんですよ。その気になるのが自分でコントロールできないだけで」
「……それ致命的じゃないの?」
感心半分、呆れ半分で南良刻は再び牟児津を見た。ミーティングでは小さく丸まってガタガタ震え、発した声と言えば瓜生田が解決宣言をしたときの鳴き声だけだった人とは思えない、ひどく落ち着いた雰囲気だった。先ほどから様子を見ていても、どうやら牟児津のハンドルを握っているのは、この瓜生田という生徒らしい。どういう関係性なのか気になってきた。
「でも、これでちょっとは信用していただけたと思います。次は木鵺先輩について伺いたいんですけど、よろしいですか?」
「木鵺さんかあ……ううん。そうだね。どこから話そうかな」
「どこから、というと?」
「木鵺さんのことはよく知ってるつもりなんだけど……最近、よく分からなくなってきちゃってさ」
「これまた意味深ですね!ぜひ詳しく教えてください!」
「あの子はね──」
「あのう。南良刻さん」
木鵺という人間について話そうとした南良刻は、控えめな声に呼ばれてその言葉を止めた。見ると、2年生の学年色ゼッケンを着た亀の少女が、南良刻の側に立っていた。瓜生田も益子も、南良刻もその存在に気付いていなかった。いつの間にそこに立っていたのだろうか。
「そろそろ練習を始めてください。南良刻さんに期待してる人もいるんすから」
「あ……ああ、ごめん。ありがとう、
下亀と呼ばれたその少女は、立ち上がった南良刻から準備途中の道具を預かり、入れ替わりに準備をし始めた。南良刻に比べると素早いとは言えないが、ゆったりとしつつ流れるような手捌きだった。南良刻はシューズを履き直し、軽く足首を回して準備を整えた。
「そうだ。下亀さん、この子たちに協力してあげて。さっきミーティングに参加してた牟児津さんと、瓜生田ちゃんに益子ちゃん」
「はあ。私でよければ。よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
なんともゆったりもったりした、亀の歩みのような喋り方だ。それを聞いて、南良刻は瓜生田たちに笑顔を向けた。
「下亀さんに聞けば、木鵺さんのことよく分かると思うから!それじゃ、がんばってね牟児津さん!」
爽やかにそう言うと、南良刻はトラックに飛び出して練習に加わった。その姿を見送った下亀は、感情の変化に乏しい顔を瓜生田たちに向けた。喋り方や見た目も相まって、なんとも不思議な雰囲気をかもし出す少女である。
「改めて自己紹介すね。
「よろしくお願いします」
「下亀先輩は部長候補ではないんですね?」
「自分はそんな大した成績は残せてないす。部長候補のメンバーとは比べものにならないすよ。でも走るのは楽しいすから、のんびりやってますよ」
「つまり、ウサギとカメだったらカメ派ってわけですね!」
「油断してくれるウサギばっかりならいいんすけどね」
ずけずけと言う益子に下亀は機転を利かせて返し、二人してからからと笑いあう。瓜生田はそんな話を聞きに来たのではないと、いささか強引に話に割って入った。
「下亀先輩は木鵺先輩のことをよく御存知なんですか?」
「ううん……答えづらい質問すね。よく知ってるっていうのはちょっと気負っちゃうんすけど、木鵺さんと南良刻さんとは中等部から一緒すよ」
木鵺、南良刻、下亀の三人は、中等部から陸上をしている同級生らしい。同学年の牟児津も中等部に通っていたので三人と同級生のはずなのだが、三人とも今日が初対面らしい。それが偶然なのか、牟児津の交友関係が狭いせいなのか、瓜生田は敢えて追及することはしなかった。
「中等部の頃はそうでもなかったんすけど、ここじゃあの2人はライバルなんすよ」
「ライバル?実力伯仲ってことですか?」
「ん〜、正直言うとそうじゃないす。陸上選手としてじゃなくて、部長候補としてのライバルす」
そう切り出して、陸上部における木鵺と南良刻の関係性について、下亀は語り始めた。
「来週末に陸上の大会があるんすけど、そこはうちの部にとっては重要な大会なんす」
「ああ。次の部長が決まる大会ですね!さっき南良刻先輩に聞きました!」
「さっくり言えばそうす。あっちで練習してる紫ゼッケン着てる人はみんな部長候補す。でも事実上、木鵺さんと南良刻さんの二択って感じすね。実力派の木鵺さんか、人望が厚い南良刻さんか。今んとこ部の中でも真っ二つす。いちおう他のメンバーを推す人もいますけど、少数派すね」
「ほうほう。ちなみに下亀さんはどちら派ですか?」
「自分は……無派閥ってことにしといてください。どっちが部長になっても、少なくとも部の約半分の意見は通らないってことすから。簡単には決められないす」
「難しい問題ですね」
「ただまあ、先輩の代には木鵺さんを推す人が多いす。結局上の人の意見が強いすから、木鵺さんになるかなーって思ってます」
「それはまたなんで?」
「木鵺さんのお姉さんが、前の前の部長なんす。だから今の3年生は、1年生のときにお姉さんにお世話になってるんすよ。部長もそうすから、その影響はあると思いますよ」
もうじき準備が終わり、部長候補以外のメンバーも練習が始められそうな頃合いになってきた。相変わらず周りの様子などお構いなしにトラックで練習に励む木鵺を眺めて、下亀は少し寂しそうな顔をした。
「一番影響受けてるのは、木鵺さん本人すけどね」
「というと?」
「木鵺さんは、たぶんお姉さんの存在にプレッシャーを感じてるんじゃないすかね。先生も先輩もみんな、お姉さんを知ってる人にとって木鵺さんは、お姉さんの妹すから」
「部長になるくらいですから、立派なお姉さんだったんでしょうね。でも木鵺さんは、その人の妹として見られるのがイヤになっちゃったってことですか」
「自分は分かんないすけど、やっぱり同じこと言われ続けたらうんざりするもんなんじゃないすか。だから、なにがなんでも部長になって、お姉さんと同じところに立ちたいんだと思います。そうすれば、ただの妹じゃなくて部長として見られますから」
「そういうものかな」
三人の中では唯一姉を持つ瓜生田にも、木鵺の気持ちは理解できていなかった。常に妹としてしか見られないことがイヤになるということに共感はできるが、その先にある部長になってコンプレックスから抜け出すというところまでは思い至らない。それほど木鵺にとって、姉は大きな存在なのだろうか。
「中等部でもそのきらいはあったんすけど、まだ陸上をすること自体が楽しそうでした。高等部に入ってからはやっぱりお姉さんの名前もよく聞くようになりましたし、ますます力が入ってきて……最近は余裕がなくなってるように見えます」
「大会が近付いてナーバスになってるのかな」
「最後の追い込みですか。負けられない戦いですもんねこれは!」
「ううん……少なくとも木鵺さんにとってはそうすね。それで解決するかは別として」
木鵺の、部長という立場に対する思い入れの程は分かった。単に部のトップであるという以上に、木鵺にとっては意味があるようだ。完全な理解には程遠いが、納得はできたという程度だろう。
「まあ、部長であることは一種のステータスですし、それぞれ部長になりたい理由があるのは当然すからね。でも……どうしたって結局最後には競争になっちゃうんすよね」
ため息交じりに、下亀は乾いた笑いをこぼした。
「こういうの、自分は好きじゃないす」
〜〜〜〜〜〜
本格的な練習が始まり、下亀も自分の練習場所に行ってしまった。残された3人は、集めた情報をまとめていた。しかし得られたのは陸上部の内情に関する情報ばかりで、肝心の忍者泥棒事件についての情報はてんで集まらない。
「やっぱり木鵺さん本人に話を聞くのがいいよ」
そう提案する瓜生田だが、木鵺は依然練習中である。他の部員が練習を始めた頃、すでに部長候補のメンバーは相当ハードな練習をこなしていた。数名のメンバーが入れ替わりで休憩に入る中、他のメンバーより遅れて練習を始めた南良刻を除き、木鵺だけは練習続けていた。ただでさえ話を聞きにくそうなのに、このままでは今日一日かけても聞き出すチャンスさえ訪れなさそうだ。
「実際、事件に直接関わってるのは木鵺先輩だけですからね。あの人から詳しい話が聞けない限り、進展はありませんよ」
「じゃあ話聞こうよ」
「聞けるかな……まだ全然終わる気配ないけど」
「いつ終わるか他の方に聞いてみましょうか。すみませ〜ん」
益子が、水分補給を兼ねた休憩を始めた部長候補メンバーに声をかけた。炎天下というほどではないがそれなりに高い気温の中、しっかり練習した部員たちは汗を流し、ゼッケンごと体操着をあおいで蒸れた空気を吐き出している。その中のひとりが、益子の声に反応してすっと立ち上がった。
「なんですの」
それは、瓜生田と益子が陸上部部室の前で会ったあのお嬢様、音井と呼ばれていた生徒だった。益子は、思わず顔を引きつらせた。この生徒は、話すのに少々気を遣う。
「……あ〜」
「なんですかその、あちゃあみたいな顔は」
「い、いやとんでもない!ちょっと聞きたいんですけど、木鵺さんっていつ休憩入るんですかね?」
「入りませんわよ」
「へ?」
「あの人は練習を始めたら片付けまで休みませんわ。水分補給くらいはなさいますけど、1分とじっとしていられない方ですの」
「え、だって、片付けって……何時間ぶっ続けなんですか」
「平日はまだ短い方です。お休みの日なんて、朝来て夕方帰るまで、お昼の時間以外はぶっ通しです。どうして倒れないのか不思議なくらいですわ」
音井が語ったのは、木鵺の驚異的なスタミナと集中力だった。放課後の時間とはいえ、日が長いいま、部活動の時間は4時間ほどある。休日なら少なくともその倍だ。それだけの時間をぶっ通しで練習し続けるなど、非運動部生活を送ってきた牟児津たちには想像できなかった。
たまらず牟児津が尋ねた。
「じゃ、じゃあいつになったら木鵺さんに話聞けるの」
「さあ。少なくとも、今日は諦めた方がよろしいと思いますわよ」
「大会の後なら時間できますかね?」
「多少は練習量を減らされると思いますけど、保証はできませんわ」
「こりゃ長期戦になりそうだね、ムジツさん」
「助けてくれ〜〜〜!!」
木鵺しか姿を見ていない犯人を突き止めるのに、木鵺から話が聞けないのではどうにもならない。事態の長期化を予感した瓜生田が苦笑いし、牟児津が頭を抱えた。
「そんなことより、アナタ新聞部でしょう?先程から木鵺さん木鵺さんとあの方のことばかり!いいですこと?次の部長になるのはわたくしですの。取材するならそんな事件より、わたくしを取材なさいな!この
「うへ〜!やっぱりそういうタイプだった〜!」
「そういうタイプ、とは?」
「いやいやあの、変な意味じゃないですよ。へえ。大層自信を持ってらっさる方ってことでやす。うへへ」
「変なへつらい方だなあ」
面倒臭い気配を感じて、つい益子が口を滑らせた。しかし音井は敢えてそれを流して、咳払いをして改めた。
「次の部長になる自信があるんですね」
「もちろんです。部室では無用の混乱を避けるために名乗り出ませんでしたが、学園内最速は
「え、そうなの?」
「じゃあ忍者の正体じゃん!」
「失礼な!根拠もなしに軽率なことを言うものではありません!」
「ひぃっ」
音井が牟児津にぴしゃりと言い放った。尊大な物言いはそういう気質だとして、木鵺より足が速いとまで言い出した。そんなことを言い出せば事件の犯人だと疑われても仕方ないように思うが、部室で瓜生田の挑発に乗らなかったことからも、そうなることは理解しているようだった。
「今のはムジツさんが悪いよね」
「だ、だって最速って言うから……木鵺さんがエースなんじゃないの?」
「
「どういうことですか?」
「木鵺さんは専門が短距離走で、わたくしはハードル走です。競技としての違いはありますが、同じ距離で記録にほんの数秒の差しかないなら、ハードル走者の方が実質は速いということになりますでしょう?」
「そ、そうなの?」
「ハードル走の方がタイムが伸びる傾向があるからね。まあ言わんとしてることは分からないでもないけど、そもそも比べるものじゃないかな」
「とはいえ、木鵺さんも実力で部長候補になった方ですわ。彼女から逃げ切るなど容易ではありませんが……あるいは、木鵺さんもお疲れなのでしょう。最近は明らかに根を詰めすぎていますし、周りが見えないほど集中されているようですから」
胸を張って高らかに語る音井に対し、益子は適当にメモを取る振りだけして相槌を打つ。結局のところ数字の上では木鵺の方が速いわけだし、見たところ南良刻ほど人望があるようにも見えない。部長候補である以上、実力は本物のようだが、下亀が言っていたように音井は有力視されてはいないようだ。
「まあともかく、分かりましたね?伊之泉杜学園最速は誰なのか、しっかり覚えておくことです!」
「はあ……さいですか」
「興味なさそ〜〜〜」
「ちょうどいいので音井先輩にもご協力いただけますか?」
「なんですの」
「木鵺先輩の持ち物で、盗まれそうなものとか心当たりはありますか?」
「さて、どうでしょう。なにか大切なものはお持ちだったようですけど、そういうものは誰しもありますから」
「音井先輩にもあるんですか?」
「わたくしはこの蒼い髪と美肌が自慢ですのよ!このトレーニングウェアも、UVカットと通気性を兼ね備えた特注品ですわ!ほっほほ!」
さらさらの髪を手で撫で払い、白くきめ細かなロングウェアを見せびらかし、音井は高笑いした。自慢にはなるかも知れないが、盗みようがないものと他人が盗んでもどうしようもないものでは、事件の参考にはならなさそうだ。
「人呼んで“伊之泉杜学園に吹く蒼い風”とはわたくしのことですわ!」
結局音井はその後、練習を再開するまで、いかに自分が次期部長に相応しいかを益子に説明していた。確かにスタミナは木鵺に負けず劣らずあるようだ。
〜〜〜〜〜〜
思いがけず音井に体力を削られた牟児津たちは、それでもまだ解放されずにいた。木鵺が練習を終えるまではこの競技場から一歩たりとも踏み出せないと覚悟していたが、いざ何事もなく時間が過ぎていくのをただ待っていると、たちまち気怠さがこみ上げてきた。
音井たち部長候補メンバーが再び練習に向かうと、それとは入れ違いに、ミーティングを仕切っていた灰桜髪の女性がスタンド席にやってきた。その隣には、不服そうな顔をした木鵺がいる。どうやら、一向に休もうとしない木鵺を無理矢理休ませるために、灰桜髪の女性が自分の練習を切り上げてまで連れて来たようだ。
「水分をきちんと摂れ。いま倒れたら大会なんて出させないからな」
「これくらい平気です。時間がないんですから、一本でも多く、一歩でも多く走らなきゃいけないんです」
「お前を倒れるまで練習させたら、
「なんで私が、あの人と部長の関係に気を遣わなくちゃいけないんですか……!」
「仁美。部長になるつもりなら、人間関係に気を遣えるようになっておくべきだ。部長になることはゴールじゃないんだぞ」
牟児津たちからは少し離れたところから、そんな会話が聞こえてきた。木鵺は最後、灰桜髪の女性を睨みつけるだけで、それからは何も言わずに自分のボトルを傾けていた。寿美というのは、会話の流れからしておそらく木鵺の姉の名前だろう。となると灰桜髪の女性はいま3年生で、木鵺の姉に世話になった世代の一人ということだ。部長とも呼ばれている。瓜生田の予想が当たった。
木鵺はボトルをあおった後、流れる汗をタオルで拭いて、靴を履き直し、再びトラックに飛び出した。本当に水分補給をしただけで、ほんの数秒間の出来事である。部長と呼ばれた灰桜髪の女性は、その後ろ姿を見てため息を吐いた。
「みっともないところを見せた。申し訳ない」
一連の出来事を見守っていた牟児津たちに顔を向けて、部長は言った。聞き耳を立てていたことに気付かれていたことで、牟児津たちはバツが悪そうに口ごもる。部長は相変わらずの鋭い目つきのまま、再度ため息を吐く。
「仁美は頑固なヤツだから……これでも心配してるつもりなんだが」
「十分伝わってると思いますよ」
「だといいが……エースとして気負いすぎているのかも知れないな」
「なんでも次の大会で来年の部長が決まるから躍起になってるとか!他の方々も同じ気持ちでしょうし、バチバチですね!」
「切磋琢磨するのはいいことだが、少し熱が入りすぎだな。無理をして転ばなければいいんだが」
疲れた様子の部長に、瓜生田が慰めの言葉をかけた。実際のところ、木鵺がどう感じているかなど分からない。しかし瓜生田が見てもその練習量は尋常でないことが分かる。部長が心配するのも当然だ。
「えっと……部長さん?」
「ああ。
ようやく牟児津たちは、陸上部部長───
「家具屋先輩ですね。事件のことについて、木鵺さんから何か伺ってますか?」
「…………いや、仁美が知っている以上のことは知らない。手掛かりになりそうなことはあいつが風紀委員に話しただろう」
「いやあ、実は私たち、風紀委員とは別に捜査をしてるものですから、情報共有ができないんですよ。お手数なんですけど、お話しいただけません?」
「悪いな。さっきも見た通り、私とあの子の関係は芳しくない。口を滑らせて余計なトラブルを起こしたりしたくないんだ」
「そんなあ……」
家具屋の口は、木鵺並みに固かった。事件の早期解決を望んでいるのは家具屋も同じだが、それ以上に木鵺の扱いに難儀しているようだった。部長候補筆頭のエースにもかかわらず、ストイックすぎる性格は人間関係に軋轢を生みやすい。世話になった先輩の妹であることや、他の部長候補らのこともあり、目下最大の悩みの種のようだ。家具屋は申し訳ないとばかりに牟児津たちに手刀を切ると、トラックに戻って行った。
「あーもー、なんなんだよこの部の人たちは」
「タイミングが悪かったね。部長の座がかかった大会の直前じゃあ、ピリピリもするよ。大きい部活だしね」
「なんでそんな部長なりたいのかな。面倒なだけだと思うけど」
「色々特典がありますからね。内申点とか生活評価のプラスは進学にも就職にも有利ですし、面接で話せるエピソードも増えます」
「か〜、真面目だね〜」
「部長は部活動なら無条件で公欠出せるし、単位の補助もあるよ。細かいところだと購買とか近所のお店の割引特典なんかも。塩瀬庵も対象だよ」
「マジで!?それ知らないんだけど!」
伊之泉杜学園で部長になることのメリットは、通常の高校のそれよりも遥かに多い。牟児津は初めから部活動には興味がなかったので知らなかったが、ほとんどの生徒にとっては常識である。だからこそ多くの生徒はそれぞれの部の部長を目指すし、新たに部を立ち上げようとする生徒も多い。結果的に生徒の自主性が育まれるのを促進することになるのである。
「ただ、部として認められるのはそれなりの条件があります。予算や承認される活動規模なんかが部と同好会じゃ全然違いますからね。だから同好会止まりのとこも多いんです」
益子が他人事とばかりに笑った。新聞部も歴史は浅いなりに部室を持てる程度には大きな部だから安泰なのだろう。いずれにせよ牟児津にとってはどうでもいいことである。
それから牟児津たちは、ただ陸上部の練習を眺めていた。木鵺に、陸上部員たち全員の前で逃がさないと言われてしまったので初めから逃走など考えていなかったが、当の木鵺は牟児津などほったらかしで練習に没頭し、それ以外の部員も練習が始まれば誰も牟児津たちのことなど見ていなかった。
「これ……逃げるチャンスじゃね?」
「やめときなよ。今日のところは逃げられても、明日もまた逃げ続けられるとは限らないよ」
「十中八九無理でしょうね!」
「じゃあなにか!私はこれからずっとこうやって放課後に家でだらだらできる貴重な時間を、意味なく練習を見せられ続けなきゃならないのか!」
「まあ」
「やだよ〜〜〜!だったらせめて事件の調査させてくれ〜〜〜!」
「おっ、とうとうやる気になってきましたか。ムジツ先輩」
「一日も、いや一刻も早く事件が解決してほしいんだよ!」
自分で事件について調べられるならまだしも、今は誰もいない部室に目を盗んで忍び込むなどすればますます疑われてしまうだろうし、事件に関係する場所を訪ねて回ることも逃げたと思われてはかなわない。それもこれも、木鵺が牟児津を犯人だと疑わないせいでこんなことになっている。とんでもない相手に捕まったものだ。
「風紀委員の方がまだマシだよ……」
頭を抱えてうずくまり、牟児津はごちた。組織で動く風紀委員と違って、木鵺の個人的な行動は理屈で対処できるものではない。感情に訴えかけるか、絶対に覆しようのない理屈を突きつけるしかないのだ。
「そう?」
「そうだよ。風紀委員だったら、いつもうりゅが上手いこと言って助けてくれるし、川路さんも証拠がなきゃいつまでも拘束なんてできないし。顔が怖いだけの方がまだマシ」
「そっかあ」
「問い詰めてくるときのあの鬼……鬼っていうか般若?悪魔?似たようなもんか」
「ほう……鬼に般若に悪魔、か」
「ホントそうだよ。よくもまああんなに眉吊り上げて怒れるよね。どういう表情筋してんだか──」
ふ、と頭を上げた牟児津の目が、自分を見下ろすナイフのような吊り目とかち合った。金の毛束がバタバタと風になびき、影を落とす長身が太陽を隠して実際以上の大身丈に見せていた。目の前にいる人物が誰かを知り、牟児津は、
「ひおっ」
と息を呑んだ。そして、
「んぎゃあああああっ!!」
脱兎の如く駆け出し、瓜生田の背後に隠れた。川路は視線でそれを追いながらも、牟児津の発言について追及することはなかった。ただそこにいないかのように、瓜生田と益子に問うた。
「なぜ貴様らがここにいる」
瓜生田は落ち着きながらも、少しだけ牟児津を庇うように手を広げた。
「木鵺先輩が、ムジツさんを犯人だといって無理矢理連れて来たんです。逃げるわけにもいかないので、練習を眺めてました」
「……そうか。ならもう帰っていいぞ」
「へぇえ……?」
普段ならここで、瓜生田の発言が本当かどうか疑うか、後ろに引っ込んだ牟児津に詰め寄ってさらに深く事情を聞き出そうとするかなのだが、今の川路は何やらひどく落ち着いていた。よく見れば、何人もの風紀委員を引き連れて来ている。練習中の陸上部員たちが何事かとこちらを見ているので、その中の誰かが呼んだわけでもなさそうだ。いったい何事だというのだろう。
「風紀委員だ!今すぐ練習を止めろ!」
それ以上は牟児津たちに用はないとばかりに、川路は陸上トラックの方に向けて大声を出した。そして風紀委員たちを引き連れてコースを突っ切り、戸惑う陸上部員の中から家具屋を見つけ、何かを話した。
「そんな……!
「窃盗は歴とした犯罪だ。今は真相究明を何よりも優先すべきだと仰っていた。部活にも後で顔を出されるだろう。それより、木鵺はどこだ」
しばし、川路と家具屋は睨み合う。二人が無言で見つめ合うと緊張感がトラック全体に広がっていった。先に折れたのは家具屋だった。諦めたようなため息を吐き、そして、風紀委員などお構いなしに練習を続ける木鵺を指差した。
川路はずかずかと木鵺に近付いていく。そして、走る木鵺の行く手を阻むように正面に立った。驚いた木鵺は慌てて減速し、川路にぶつかる寸前で止まった。
「な、なにあなた!危ないでしょ!どいて!」
「木鵺仁美、一緒に来てもらうぞ」
短く言葉を交わすと、川路は手を挙げた。それを合図に、木鵺の真横や背後を取り囲んでいた風紀委員たちが飛びかかった。木鵺はいきなり腕を掴まれたことに驚いたのか、はたまた蓄積した疲労のためか、逃げる素振りも見せずあっさり捕まった。そして、抵抗しつつも部室棟の方へと連れて行かれてしまった。一連の出来事に、牟児津たちをはじめ陸上部員たちさえもぽかんと口を開けていた。
こういうとき一番に動き出すのは、野次馬根性でどんなことにも首を突っ込む質の悪い人間である。今回の場合、それは益子であった。すぐにスタンド席を飛び出して、ざわめく部員たちに混ざり家具屋の言葉を聞く。そして、楽しそうな顔色を隠しきれないまま、走って戻ってきた。
「急展開です!」
「なに、どうしたの」
「木鵺先輩が狂言の容疑で逮捕されました!」
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