第3話「ずらかるぜ!」


 大飼育舎は、小飼育舎の右に延びる小径をさらに奥へ進んだ先にあった。近付くだけで牛や馬の存在を感じさせる独特の臭いが漂ってきて、今は小飼育舎から小動物のケージを移動していることもあり、様々な動物の鳴き声も聞こえてくる。扉は閉まっているが、臭いも鳴き声もそれを突き抜けて牟児津たちに届いていた。

 開けた途端に動物が飛び出して来ないかと心配しながら、牟児津はおそるおそる扉を開けた。


 「お゛っっ!!くっっっっっ──!!」

 「そんな露骨に臭がっはらひつれいらよムイツさん」

 「うりゅも鼻止めてんじゃん!」


 扉を開けた拍子に、こもっていた獣臭が流れ出てきた。牟児津と瓜生田は思わず顔をしかめる。動物は飛び出して来なかったが、牟児津にとってはそれと同じくらい厳しい洗礼だった。

 飼育舎の中はいくつかの区画に仕切られ、そのひとつひとつで大型の動物が飼育されている。入口から見えるだけでも牛や馬、ロバ、豚、山羊など様々だ。その手前には仕切りのない広い空間があり、小飼育舎から運ばれてきたケージがきれいに並べられていた。生物部員と顧問の八知は、そこで作業をしていた。

 約半分の部員たちがケージから別のケージへ動物を移し、残りの部員たちが空いたケージの中を掃除する。移した動物はよく観察して異常がないかをチェックしていく。部員たちの動きはスピーディだ。なおかつ動物を傷付けないよう、ストレスがかからないよう、やさしく丁寧に取り扱っている。八知はケージの掃除を任されている。ひっくり返して中のゴミを落としたり、濡れ布巾でガシガシこすったりする手つきは丁寧とは言えない。素早くはあるが、雑な印象を受ける。


 「すみませーん。ちょっとお話を伺いたいんですけど」


 作業に集中していた部員たちに、瓜生田が声をかけた。その場にいた全員が手を止めて瓜生田の方を見る。先ほど小飼育舎で会った、部長の上野が立ち上がった。


 「あなたたちさっきの……。何か用?」


 その目はあからさまに不愉快そうだった。新しい顧問はやる気がなく、昼間には動物が誘拐され、今は作業を邪魔された。部長である彼女は今日だけでかなりストレスが溜まっているのだろう。しかしそれを気遣って引き下がるほど、牟児津たちに余裕はない。


 「誘拐事件の真犯人を見つけるために、何人かお話を伺いたいんです」

 「意味が分からないわ」

 「風紀委員はいま、こちらのムジツさんを犯人だと疑ってるんです。でもそれは間違いなので、真犯人を私たちで見つけようと」

 「なんでそんなこと……できるわけないでしょ」

 「できないと私が困るんです!なんでもいいからお話聞かせてください!」


 上野は、少しでも答え方を間違えれば会話を打ち切ってしまいそうなほど厳しい態度だった。それに対し牟児津は、答えになっていない答えを返す。上野は呆れたのか驚いたのか、少しだけ目を丸くして、頭を下げる牟児津を見た。そこに、瓜生田に肘で小突かれた大眉が追撃する。


 「俺からも頼むよ。自分のクラスの生徒が濡れ衣着せられてるんじゃ見過ごせないし。あと、こう見えて牟児津はそういうの得意なんだ」


 教師としての大眉の言葉は、上野にとってそれなりに効果があったようだ。教師にまで頭を下げられては、無碍に断るのも心苦しい気にさせた。そして、その間もずっと頭を下げている牟児津の姿を見て、その必死さが十分に伝わったようだ。


 「まあ話くらいなら構わないけど、作業の邪魔はしないでね」

 「はい!ありがとうございます!」

 「あと大声はやめて。動物がびっくりする」

 「あっ、すいません……」


 いきなり注意されてしまった。ともかく、牟児津たちはなんとか生物部員に聞き込みすることを許された。上野は許可を出すとすぐに作業に戻ってしまった。聞かれれば話はするが積極的に協力はしないという意思表示だろうか。困った牟児津は瓜生田を見る。ひとまず、今朝から昼休みにかけてカギを借りた人物に、順番に話を聞くことにしよう、と瓜生田が方針を決めた。

 瓜生田のメモによれば、最初にカギを借りたのは顧問の八知だった。ケージ内の掃除をしている八知を大飼育舎の外に呼び、大眉と三人で話を聞く。


 「作業中にすみません、八知先生」

 「別にいいですよ。この中めちゃくちゃ臭いし。あとちょうど一服したいところだったんで」

 「いや学園内は禁煙ですから!生徒の前ですよ!」

 「電子タバコっすから火も煙も出ないっすよ」

 「そういう問題じゃねえだろ!」


 外に出るやいなや八知は大眉に叱られた。まさか生徒の前でタバコを吸おうとするとは思わず、大眉はうっかり素の言葉遣いが出てしまった。八知は取り出したタバコをしぶしぶ懐にしまい、軽く伸びをして牟児津と瓜生田を見た。


 「まあいいか。取りあえず話すればいいんだ?」

 「は、はあ……えっと、誘拐されたオポッサムについて聞きたいんですけど」

 「あ〜、むりむり。そういうのは部員に聞いて。俺なんも知らないから」

 「なんつう無責任な……」

 「分かりました。じゃあ取りあえず、今朝カギを借りたときに何をしたかと、事件が発覚するまでで御存知のことを教えてください」


 あまりにもやる気のない八知の態度に、牟児津も大眉も呆れて言葉もなかった。それでも瓜生田だけは、全く動じず聞き取りを続ける。八知もマイペースだが、瓜生田も大概である。


 「カギは毎朝借りて飼育舎を開けてるよ。朝のエサやりと体調チェックが必要だから、部員のみんなで当番回してやってんだ。顧問の俺は毎日だけどね」

 「今日の当番はどなたでしたか?」

 「上野さんと、あ〜……旭山あさひやまさんと、白浜しらはまさん。だったかな。確か。うん」

 「旭山さんと白浜さん……ほうほう」


 八知の心許ない話し方に牟児津と大眉は相変わらず呆れ気味だが、瓜生田は興味深げに頷いてメモを取る。どういうわけかと牟児津はそのメモを覗き見て、納得した。いま八知が名前を挙げた部員は、どちらも午前中に個別にカギを借りていた。元から話を聞くつもりではあったが、どうやら詳しく聞く必要がありそうだ。


 「朝の部活の間、先生は何を?」

 「こっちの動物のことは分からないけど、部室に水槽あったでしょ。魚のエサやりくらいならできるから、それをやってるよ。後は……まあ、テキトーにぶらぶらしたりぷかぷかしたり」

 「カギを返すのも先生が?」

 「そうだね。今朝もちゃんとカギ閉めて、部室も確認してから返したのに……なんでこうなるんだろうなあ」


 我が身に降りかかった不幸に苛立っているのか、八知は頭をがしがしと掻いた。誘拐事件において八知は被害者の立場になるのだろうが、新任とはいえ顧問でカギの管理をしていた以上、責任の一部は負うことになるだろう。赴任早々に気の毒なことではあるが、どうにも同情しきれないのは本人のいい加減さ故だろうか。


 「事件を知ったのはいつですか?」

 「昼休みが始まったくらいに部室に行ったとき。そのときはもう上野さんがいて、とにかく来てくれって言うから飼育舎まで来た。そしたらあの……例の動物が消えててさ」

 「なるほど。昼休みが始まったくらいに知って、そこからどうされたんですか?」

 「一回みんなでそこら中を捜したけど、見つからなかったね。放課後には風紀委員も加わって大捜索だよ」

 「それであの大捕物が」

 「こっちはエラい迷惑してるんですよ!」

 「俺だって迷惑してるよ。あーもう、こんなことになるなら顧問なんて引き受けなきゃよかった」

 「アンタ全部言うんだな!教師だろ!大人だろ!生徒の前なんだからちょっとは弁えろよ!」

 「子どもの前なんだから、ウソ偽りなく正直でいた方が良くないっすか」

 「もういい!ちょっとこっち来い!話がある!」

 「うえー」


 教師として、大人として、人として、大眉は八知の態度を許せなかったようだ。怒りを隠すこともせず、聞き込みを終えた八知を、そのまま部室の方まで引きずっていった。おそらくこれから先輩教師として説教でもするのだろう。大人が大人に叱られるところはあまりに見るに堪えないので、牟児津も瓜生田も部室へは戻らず、そのまま大飼育舎の前で聞き込みを続けることにした。

 次にカギを借りたのは、3年生の旭山あさひやま北美きたみという生徒だった。先ほど八知が名前を挙げていた生徒で、朝の部活動にも参加している。瓜生田が中に入って名前を呼ぶと、ブラシで床を磨く手を止め、そそくさと飼育舎から出て来た。縁の薄い控えめなメガネと顔のそばかすが特徴的で、ピリついていた上野と比べるといくらか大人しそうな印象を受ける。


 「どうも。部活中にすみません」

 「それはいいけど……そっちの子」

 「は、はい?なんでしょう?」

 「あなた、風紀委員が誘拐犯だって言ってた子でしょ?あ、でも違うんだっけ?なんであなたがこんなことしてるの?」

 「え〜っとそれには深いワケがありましてですね……あの……」

 「疑いを晴らすには真犯人を見つけるのが一番手っ取り早いので」

 「はあ……」


 牟児津が長々話し始めようとしたのを、瓜生田がばっさり切った。こちらの話などどうでもいい。必要なのは、生物部員がどう動いたか、それによっていつ誰ならオポッサムを連れ出すことができたかを調べることだ。


 「はい。それじゃあ早速伺いたいんですが、旭山先輩は午前中に飼育舎のカギを借りられてますよね?その理由を聞かせてください」

 「忘れ物を取りに来たの。動物の体調チェックするときにペンが要るから自分のを使ってたんだけど、それを忘れてね。でも小飼育舎には入ってないよ」

 「どういうことですか?」

 「部室にあったから、こっちまで来てないだけ。てっきり飼育舎で落としたと思ってたから借りたけど、結局使わなかったよ」


 旭山は記憶をたどるように、視線を上に向けて話した。


 「じゃあそのときは、例のオポッサムがいたかどうかは──」

 「ヒノまる、ね」

 「え?」

 「あの子の名前。日の丸弁当みたいな顔してるから、ヒノまるっていうの」

 「ああ、失礼しました。で、ヒノまるちゃんがいたかどうかは見てないんですね。なにかいつもと違う様子とか、怪しい人影を見たとかは」

 「風紀委員にも聞かれたけど、そういうのはないね。授業と授業の間で時間もなかったし、私は部室までしか行ってないから」

 「そうですか……」


 旭山の証言を瓜生田がメモに書き留める。牟児津は今日見たオポッサムの顔を思い出していた。確かに、白い顔に鼻の先だけが赤くて、日の丸弁当のような色合いだったと思う。ストレートに日の丸みたいな顔、ではダメなのだろうか、と余計なことを考えていた。


 「それで、事件発覚当時のことを教えていただきたいんですが」

 「発覚当時っていうか、ヒノまるがいなくなってたのに気付いたのは東子ちゃん……ああ、部長ね。あの子が最初だよ。私たちより先に来て作業してたみたい」

 「やっぱり部長だから率先して部活に取り組んでるんですね」

 「別に、今日はたまたまそうだっただけじゃない?いつもは私たちと同じくらいに部室に来てるけど」


 どうやら第一発見者が部長の上野であることは確からしい。上野は今日の昼休み、いつもより早めに飼育舎を訪れていたようだが、果たしてそれは事件に関係あるのだろうか。疑わしいことは全てメモに残す。


 「でも……最近はちょっとピリピリしているんだよね」

 「上野先輩ですか?」

 「そう。なんかいきなり前の顧問の先生が辞めちゃってさ、理由も教えてくれないままだよ?ヤバくない?」

 「そ、そりゃあヤバいっすねえ……」


 何がヤバいって、牟児津と瓜生田はその理由を知っている。当事者の話も直に聞いた。前任者である石純が教職を辞したことに牟児津らは直接関係ないにしても、その経緯を知っているだけでなぜか後ろめたい気持ちになった。


 「代わりに来た新任の人は若いけどなんかやる気ないし、大変だよ。部長って立場だから責任もあるしさ」

 「普段はあんな感じじゃないんですか?」

 「もっと優しい人だよ。動物とか部員以外にも、さっきみたいな冷たい態度は取らない人だった。だから東子ちゃんをあそこまでイラつかせる今の顧問がヤバいっていうか……だって、ヒノまるがいなくなったっつってもなんかぼーっとして、全然慌てたり焦ったりしてなかったんだよ?めっちゃヤバくない?」

 「あー、でも分かる。なんかそういう感じの人だわ」


 上野だけでなく、旭山も顧問の八知には相当不信感を募らせているだ。牟児津がそれに同調する。牟児津は八知と二、三言葉を交わした程度だが、それでもあの男が教師として不出来であることは非常に共感できた。

 その中で唯一、八知に対して特に何の感情も抱いていない瓜生田が、冷静に先ほど八知に尋ね損ねた質問をぶつけた。


 「あの、ヒノまるちゃんのことについて聞きたいんですけど」

 「うん。いいよ。ヒノまるはね、東子ちゃんのお気に入りなんだよね。最近は生物部のポスターに写真を載せて、マスコットとして押し出し中だよ」

 「マスコット、ですか」

 「人懐っこいから、誘拐犯とかにもあっさり懐いちゃったりしてたのかな」

 「ああ……」


 その人懐っこい性格のせいで、牟児津はこうして巻き込まれているのだった。そう思うと人懐っこい性格も考えものである。


 「ヒノまるちゃんはケージの中からいなくなってたんですよね?」

 「そうだね」

 「なんで誘拐だと思ったんですか?」

 「……ん?どういうこと?」

 「いえ、ケージから動物がいなくなってたら、誘拐よりも脱走を考える方が自然かなって思いまして」


 牟児津は、頭の中で何も入っていないケージを思い浮かべた。明らかに何かを飼育している痕跡があるが何もおらず、ケージの扉が開いている。中の動物が逃げ出したのか攫われたのかは分からない。だがそれを見ていきなり、攫われたと思うだろうか。牟児津の考えは旭山と同じだった。


 「まあ私も、最初は脱走したんじゃないかと思ったよ。でもヒノまるの大きさじゃケージの隙間は通れないし、ケージにも小屋にもカギがかかってんのよ。だから自力で逃げ出せたとは思えないんだよね」

 「なるほど。それで誘拐だと思ったんですね」

 「まあそれを言いだしたのは東子ちゃんよ。私は脱走の可能性もあると思うけどね」

 「上野部長が。なるほど……ありがとうございます」


 脱走は、生物部の誰もが最初に考えた可能性だろう。その可能性を考えない根拠があるのかと思って、瓜生田は敢えて尋ねた。部屋とケージの二重のカギは、確かにオポッサムにとっては突破不可能な関門だろう。だとすれば、何者かが手を加えたという考えは納得できる。ひとまず旭山への質問はそこまでで終え、次に話を聞く生徒を呼ぶように頼んで旭山を解放した。旭山はすぐに大飼育舎の中に戻っていき、入れ替わりで3番目にカギを借りた生徒がやってきた。

 次に牟児津と瓜生田の前に立ったのは、背の低い牟児津と比べてもさらに小柄な、ふわふわした雰囲気の1年生だった。制服のサイズが微妙に合っておらず、袖が余っているせいで幼く見える。同い年の瓜生田と並ぶと、互いの大きさと小ささが一層際立った。


 「えっと、1年生の白浜しらはま西乃にしのです。よろしくお願いします」


 白浜は、先に話を聞いた八知や旭山とは違い、はきはきと喋って礼儀正しく頭を下げた。それだけで、2人はこの小さな少女に対して好感を抱いた。


 「白浜ちゃんかあ。可愛いねえ。ようかん食べる?」

 「ムジツさんおばあちゃんみたい。あんまり人に携帯ようかん勧めない方がいいよ」

 「そんなことないよね?白浜ちゃん」

 「いえ結構です」


 自分より小さい相手に思わず庇護欲をくすぐられた牟児津は、手持ちのようかんを勧めた。人肌に温まったようかんは当然のように断られた。


 「それじゃあ、二つ教えてほしいんだけど、まず午前中にカギを借りてることについてだけど、なんで借りたか教えて?」

 「えっと……今日は午前中に美術の授業があって、学園内で何でも好きなものをスケッチするっていう課題だったんです。だから、ほくさいちゃんをスケッチしようと思って」

 「ほくさいちゃんっていうのは?」

 「うちで飼ってるウサギです。アメリカンファジーロップっていう種類で、これくらいのサイズのとっても可愛い品種なんですよ。耳がぺたっとしてて、富士山みたいな形してるんです」

 「へー、かわいいんだろうね」

 「そう!可愛いんです!」


 白浜が手で末広がりの形を作りながら、楽しそうに話した。そのウサギのことが本当に好きなのだろう。好きなものについて語るその姿は、本人のかもし出す雰囲気も相まって実に癒されるものだった。と思いきや。


 「アメリカンファジーロップは飼育しやすさや寿命の長さからペットとして人気なんですけど、一番の魅力はやっぱり人懐っこくて甘えん坊なところですよねえ。慣れると自分から手の下に入ってきて撫でて欲しいアピールするんですよ!こうやって!もうそれが可愛くて可愛くて!」

 「そ、そうなんだ……」

 「ウサギの特徴っていったらやっぱり耳じゃないですかあ。ロップイヤーは耳の通気性が悪いしアメリカンファジーロップは長毛でもあるから定期的にお手入れしてあげなくちゃいけないんですねっ。人間と違って耳のすぐ近くに脳があるのでお手入れも慎重にやらなくちゃいけないから、これってウサギを飼育する上ですごい重要なスキルなんですよ!それで私が綿棒で耳をお掃除してあげると、気持ちよさそうにパタパタ足を動かすんです!もう本当に……!!」

 「し、白浜さん、あのね」

 「それでですね、私のお気に入りのほくさいちゃんはですね…………が…………かわいくて……たまんない……くう…………さらに……もう……すごすぎ……で……はー!…………だきしめて……ねるときも……おフロのときも……でしょ…………すばらし……!……うつくし…………」

 「ひええ……」


 いったいどこでスイッチが入ったのか、それとも元からこういう性質なのか、白浜はなぜかお気に入りのウサギについての語りが止まらなくなった。ふわふわした第一印象からは想像できない圧倒的な熱量と勢いに押され、牟児津は瓜生田の後ろに隠れてしまった。

 しばらくして、ようやく語るべきを語り尽くしたのか、あるいは体力が尽きたのか、白浜は落ち着きを取り戻した様子で深呼吸し、語りを止めた。


 「ご、ごめんなさい……聞かれてもないのにちょっと喋りすぎました」

 「自覚があるのが余計怖い」

 「まあ……なるほどね。白浜さんの気持ちはよく分かったよ」

 「ありがとうございます。もういいですか?」

 「まだウサギの話しか聞いてないよ!」


 危うく勢いに流されて白浜のウサギトークだけを聞かされて終わるところだった。飼育舎に戻ろうとする白浜を引き留めて、瓜生田が改めて質問に戻る。


 「えっと……白浜さんがスケッチしに来たとき、ほくさいちゃんは小飼育舎にいたのかな?」

 「はい。カギをお借りして、小飼育舎からほくさいちゃんのケージを部室に持っていって、そこでスケッチしました。じっとしてて欲しいのに、私に構って欲しそうにすり寄ってきちゃってもう……あ、ご、ごめんなさい。またやっちゃった……」

 「うん。危なかったね。えっと……スケッチのとき、ちゃんと飼育舎のカギはかけた?」

 「は、はい!ちゃんとかけました!」

 「そのとき、ヒノまるちゃんのケージは見た?」

 「いいえ……ほくさいちゃんとは離れてますし、ちゃんと見てなかったです」

 「ちぇっ。誘拐された時間が絞れるかと思ったのに」

 「ごめんなさい……」

 「ええあっ!?ご、ごめん!白浜ちゃんは悪くない!泣かないでほら、ようかんあげるから」

 「それは結構です」

 「そう……」


 期待が外れた牟児津は口が滑る。それを聞いた白浜は見るからに落ち込んでしまったが、その場に流されない意思の強さは垣間見えた。瓜生田は気を取り直して、発見時の経緯について尋ねる。


 「ヒノまるちゃんがいなくなってることに気付いたときのことを教えてくれる?」

 「はい。朝とお昼休みはいつも当番の人が小飼育舎の空気を入れ換えたりご飯をあげたりするんです。今日は私と上野先輩と旭山先輩が当番でした。お昼休みに部室に来たらもう騒ぎになってて、八知先生からヒノまるちゃんがいなくなったのを聞いて……みんなで捜したんですけどいなくて……」

 「その後は?」

 「ヒノまるちゃん以外にいなくなった子がいないか確認して、ひとまずいつもやってる給餌や体調チェックを済ませました。その後はもう1回辺りを捜してから、後のことは八知先生に任せていつもより少し早く教室に戻りました」


 旭山の話も合わせてまとめると、生物部は朝と昼休みに生物の世話をする係を当番で回しており、今日は上野と旭山と白浜がその当番だったらしい。そして当番である3人ともが、午前中にそれぞれ個別にカギを借りている。可能性の一つとして考えていた、部外者が授業時間中に小飼育舎に忍び込んで連れ去るという説は薄くなってきたように思えた。

 そして瓜生田は、さらに突っ込んだ質問をした。


 「ねえ白浜さん。ヒノまるちゃんが誘拐されたことに心当たりはある?」

 「こ、心当たり?」

 「たくさん動物がいるのに、なんでヒノまるちゃんが誘拐されたのかなって思って」


 ヒノまるがいたケージは、飼育舎の出口から一番遠く、かつ脚立の足下にあり持ち出しにくい位置にあった。それにもかかわらず犯人はヒノまるを攫っている。動物を攫うのが目的なら、より連れ出しやすい選択肢はいくつもあった。瓜生田にはどうしてもその点が不思議だった。


 「どうでしょう……やっぱりかわいいからですかね?」

 「何か特別な動物だったりしない?」

 「上野部長のお気に入りで、部のマスコットとしてポスターとかに載ってます。だから学園でもそれなりに知ってる方はいると思いますよ」

 「旭山先輩も仰ってたね。他の部員からそれについて何か聞いたりしてない?」

 「みんなそれぞれ“推し”がいて、自分の“推し”をマスコットにしたいんですけど、ヒノまるにはみんな納得してますよ。“推し”を部のマスコットにできるのが部長特権なんですけど、上野部長はきちんと3年生の先輩方の“推し”から投票で決めたんです。今年が最後のチャンスだからって。優しいですよね」


 どうやら生物部員は、自分が贔屓にしている生き物については譲れない部分があるようだ。あの厳しい上野にもそんな一面があるのかと思うと、牟児津と瓜生田には意外だった。しかし、にこやかに話す白石からは、上野への遠慮は感じられなかった。どうやら上野が部員に慕われていることは事実らしい。


 「ありがとう白浜さん。それじゃあ聞きたいことは聞けたから、上野部長を呼んできてもらえる?」

 「分かりました。調査がんばってください!」

 「いい子だ……」


 現状、風紀委員が誘拐犯だと考えているのが牟児津であることを理解しているのかそうでないのか、白浜は牟児津と瓜生田にエールを送って大飼育舎に戻っていった。やる気ゼロな教師や敵意剥き出しの上級生を相手にしてささくれ立っていた牟児津の心が、白浜の無邪気さに優しく撫でつけられたような気がした。

 思いがけない癒しにほんわかしていた牟児津と瓜生田だが、入れ替わりに大飼育舎から出て来た上野の顔を見て再び緊張が走った。小飼育舎で会ったときよりは苛立ちも落ち着いたようだが、相変わらず厳しい表情で2人を見ている。


 「部長。お忙しいところすみません」

 「手短にお願いね」

 「はい。それじゃあまず、お昼にカギを借りてからのことを伺いたいんですけど」

 「……そうね。今日は午前中最後の授業が体育で、いつもより早めに終わったの。だから一足先に部室に行ってようと思ってカギを借りたのよ」

 「そのまま小飼育舎に?」

 「ええ。小飼育舎はちゃんとカギがかかってたわ。開けて、手前から順番にご飯をあげたり状態をチェックしたりしていったわ」

 「生き物のお世話って大変なんですね」

 「いつもしてることだし、生き物は好きだから別に大変と思ったことはないわ」


 思いの外、上野はすんなりと話をしてくれた。先ほどは何者か分からない牟児津と瓜生田を警戒していたのだろうが、今は事件の真相解明に向け、いちおうは協力すべき立場であると理解を得られたのだろうか。瓜生田が最低限の相槌を打つだけで、上野はすらすらと淀みなくしゃべる。


 「それが半分くらい終わってヒノまるのケージを見たら、中が空だったわ。ケージが開いてたからヒノまるが脱走したのかと思って、人を呼ぼうと思って部室に向かったら、ちょうど旭山さんたちが来たから皆に伝えた、って感じね」

 「脱走だと思ったんですか?」

 「そりゃあいきなり誘拐なんて思わないでしょ?さっきも言ったけど小飼育舎はカギがかかってたし、入口以外でヒノまるが出入りできるところなんてないし。普通は脱走したって思うわよ」

 「でも……最初に誘拐だって言いだしたのは部長だと伺ってますが」

 「そうだったかしら。あんまり覚えてないけど、誘拐の可能性を考えたのは本当よ。脱走だとしてもケージのカギをヒノまるが自分で開けられるわけないし。だけど……誘拐だとしてもおかしいわよね」

 「おかしいというのは?」

 「なんでヒノまるなのかが、いくら考えても分からないのよ」


 それは、つい先ほど瓜生田が白浜に尋ねたことだった。上野が同じ疑問を持っているということは、小飼育舎の構造やヒノまるについてよく知っている生物部員ですら、ヒノまるを誘拐する理由はないということになる。上野のその言葉を聞いて、2人はますます訳が分からなくなる。


 「結局のところ、部長は脱走と誘拐のどちらだとお考えですか?」

 「その質問、意味ある?分かんないけど、風紀委員が誘拐だって言うなら誘拐なんじゃない?」

 「風紀委員が誘拐だって言ったんですか?」

 「そうよ、実際に誘拐犯を捕まえたっていう報告もあったし。まあ、その誘拐犯がいま目の前にいるから、余計に訳分かんないんだけど」

 「だから私は違いますって!」


 聞けば聞くほど話がややこしくなっていくような気がした。動物がカギのかかったケージを自力で開けられるはずがないから、外部から人の力が加わっているのはほぼ確実だ。しかし誘拐だとすると、敢えて連れ出しにくいヒノまるを狙う理由が分からない。しかも、牟児津が取り囲まれる直前、ヒノまるは草むらから飛び出してきたのだ。誰かに攫われたのだとしたら、野生のように駆け回っていたのはおかしい。脱走だとしても誘拐だとしても、一連の出来事のどこかに説明できない箇所が生まれてしまう。


 「誘拐犯捜そうとしてんのに、そもそも誘拐かどうかも分からないってなんだよ……。脱走だったらこれ、私どうすりゃいいの?」

 「脱走の証拠を見つければ、連れ出したんじゃないってことの説明になるかな」

 「脱走の証拠って?」

 「うーん、分かんない」

 「そりゃないようりゅ〜!助けて〜!」

 「私もう戻っていいかしら?」


 話を聞いて前進するどころか余計にこんがらがってしまい、牟児津は頭を抱えた。真犯人を見つければ潔白を証明できると考えていたのに、真犯人の存在すら疑わしくなってきてしまった。どうすればいいか分からず瓜生田に泣きつく牟児津と、泣きつかれながらも呑気に笑う瓜生田。そのやり取りを、上野は冷めた目で見ていた。

 その緩んだ空気を、甲高い金属音が打ち砕いた。大飼育舎の中から大きな音がしたのだ。軽い金属が転がるような音と液体が床に流れ出す音。それらとほぼ同時に部員たちの悲鳴も聞こえた。


 「どうしたの!」


 上野がとっさに大飼育舎の中に戻る。牟児津と瓜生田は驚いて出遅れたが、上野に続いて大飼育舎に入っていった。

 慌てて駆け込んだが、大飼育舎の中はそれほど深刻な事態は起きていなかった。床に転がった空のバケツと倒れたモップ、そして辺り一帯に黒いシミを作る水たまりがあった。どうやら掃除用に水を汲んできたバケツを誰かが倒してしまったらしい。


 「大丈夫?」

 「だ、大丈夫です……!ああっ!」


 部員たちが靴を濡らさないように気を付けつつ、ケージが水に浸かってしまわないよう手当たり次第に移動させている。バケツを倒したらしい部員がケージのひとつを見て声をあげた。水をこぼしたにしては大袈裟な、今にも泣き出しそうな顔だ。ケージを持ち上げると、中の動物がぐったりと横たわっていた。


 「ヒ、ヒノまるちゃんが……!ヒノまるちゃんがあ……!」

 「うわっ!えっ?も、もしかして……死んじゃった?」

 「ひいいっ!」


 そのケージはヒノまるのものだった。中のヒノまるは完全に脱力したように口を開き、中から舌がだらりと垂れている。目は苦悶するように閉じて細くなり、全身から生気が抜けたようだ。牟児津が見たままの感想を口走ると、ケージを持ち上げた部員の目から涙があふれだした。さすがに上野も焦ったようで、部員と一緒にケージを水から離して降ろすと、中からヒノまるを取りだして様子をみた。


 「……ふぅ」


 しばらくヒノまるをまさぐっていた上野は、ひとつため息を吐いた。無念さなどは感じられず、むしろ安堵しているようにさえ聞こえた。


 「安心して。ヒノまるは大丈夫よ」

 「で、でも……こんなにぐったりして」

 「これはね、擬死行動っていうの。死んだふりよ」

 「へ?」

 「へぇ?死んだふり?」


 上野はべそをかいている部員に向けて言ったのだが、近くで聞いていた牟児津が上野の言葉を復唱した。


 「オポッサムは、身の危険を感じると死んだふりをする習性があるの。きっとバケツの音にびっくりしたのね。特に怪我をしたわけじゃないみたいだけど、大きい音はストレスになるから気を付けましょうね」

 「は、はい。ごめんなさい……」

 「へえ〜、動物って死んだふりとかするんだ」

 「ウサギやタヌキもするよ。狸寝入りって言葉があるでしょ」

 「うりゅはなんでも知ってるなあ」


 顧問や部外者には厳しい上野だが、部員に対しては全く厳しい顔をせず、優しく注意するに留めた。旭山が言っていたとおり、牟児津たちが知る厳しい態度は余裕がないからで、本来はこの動物と部員に対して向ける顔が似合う、優しい人間のようだ。

 上野たちはヒノまるをケージに戻すと、こぼれた水が広がらないようにモップで隅に寄せ始めた。牟児津は好奇心から、その隙にこっそりヒノまるのケージに近付く。中のヒノまるは、体を丸めたままぴくりとも動かない。


 「うわすげ〜。本当に死んでるみたい」

 「ムジツさん。あんまり近付かない方がいいよ」

 「え──お゛っっっぐっっ!!」

 「オポッサムは死んだふりするとき死臭も出すから」

 「早く言ってよ!」


 不意に鼻を襲った悪臭で、牟児津は思わず野太い声を漏らした。声に反応して上野たちが牟児津の方を振り返ったので、慌てて瓜生田のもとに戻って何でもない風を装う。ちらとヒノまるのケージを見ると、すでに何事もなかったかのように動き回っていた。呑気なものである。


 「ん〜?どうかしたか」

 「あ、つばセン」


 そこへ、説教を終えたらしい大眉が戻って来た。後ろにはげっそりした様子の八知もいる。どうやらかなり叱られたようだ。いい大人が叱られて元気を無くしているところを見て牟児津は少し面白く感じたが、その無礼な感想は上野の声に阻まれて言葉には出せなかった。


 「八知先生。部室からタオルをいっぱい持って来てください」

 「ええ?俺たったいま部室から戻ってきたところなんだけど……」

 「すみませんが、お願いします」

 「はいはい。ったくもうしょうがねえな」

 「八知先生」

 「はーい。行ってきます」


 戻るやいなや上野の指示を受けて、八知は部室にとんぼ返りした。相変わらずやる気のない態度だが、大眉が名前を呼んで釘を刺すと、背筋を伸ばして小走りで向かって行った。どうやら説教の効果は少しだけあったらしい。走って行く八知の背中を見て、大眉が深い深いため息を吐いた。


 「先輩教師ってのも大変だね、つばセン」

 「お前は生意気なこと言うな」


 牟児津のにやけた顔に、大眉は疲れがのぞく呆れ顔で返した。



 〜〜〜〜〜〜



 八知が運んできた大量のタオルで水を拭き取るのを手伝った後、牟児津たちは生物部の部室まで戻ってきた。未だ川路は戻らないので部室を離れない方がよさそうだ。大眉は他の仕事があるということで職員室に帰ってしまった。牟児津と瓜生田は部室の実験机を挟んで向かい合い、集めた情報から手掛かりを見つけ出そうとしていた。


 「やっぱり誘拐じゃないのかな……脱走の方が納得できそう」

 「でもうりゅ、動物にはカギ開けらんないよ?」

 「かけ忘れてたっていうのが一番自然な説明かな。誘拐よりはあり得るんじゃない?」

 「ケージはね。でも建物のカギはちゃんとかかってたって部長さん言ってたよ」

 「換気用の小窓は?」

 「網戸あった」


 誘拐ではなく脱走という説を推す瓜生田に、牟児津はそれを否定する根拠を投げ返す。犯人がいない脱走よりは、犯人がいる誘拐の方が牟児津にとってはありがたい。しかし脱走の場合と同じくらい、誘拐の場合にも疑問はある。それが説明できない限り真犯人にたどり着くことはおろか、その存在すら証明できない。


 「あっ。もし誘拐だったら、あそこにいる動物の1匹くらいは臭い覚えてたりしない?警察犬みたいに臭いで犯人追いかけりゃ見つかったりして!」

 「あれは特別に訓練された犬だからできるんだよ。それにもし臭いを覚えてても……難しいと思うなあ」

 「なんで?」

 「今日の午前中にカギを借りたのは生物部の人だけなんだから、もし誘拐犯がいるんならそれは……」

 「生物部の誰か、ってこと?」


 その推理は、初めから頭の中に思い浮かべていて、かつこれまで得た手掛かりから当然に導かれるものだった。カギを開けない限り中の動物を連れ去ることはできない。そのカギは警備室で管理されており、午前中に生物部員たちが頻繁に借りていた。ヒノまるがいなくなったのは午前中なのだから、仮に誘拐犯がいるとするならば、どう考えても疑わしいのはカギを借りた人物、つまり生物部員たちなのだ。


 「それから、上野部長が気になること言ってたよね」

 「なんか言ってたっけ?」

 「この事件が誘拐だって言いだしたのは風紀委員だって。なんで風紀委員は誘拐事件だと思ったんだろう」

 「そりゃあ風紀委員は犯人しょっぴくのが仕事だから。犯人がいた方が腕が鳴るってもんでしょ」

 「ムジツさんは風紀委員をなんだと思ってるの」


 まさか牟児津の言うような理由で誘拐事件だと判断したわけでもあるまい。そもそも風紀委員が事件の内容について判断することは、基本的にない。風紀委員は、生徒や職員から受けた通報に基づき行動する。捜査初期ならなおさら事件に対する認識は通報の内容に左右される。つまり風紀委員が誘拐事件と判断したのではなく、風紀委員に誘拐事件と伝えた人物がいたと考えられる。問題は、その人物がなぜ失踪ではなく誘拐と通報したかだ。


 「ううん……これは、私たちで考えてても仕方ないかもね」

 「え。じゃあどうすんの?」

 「風紀委員に話を聞きに行こう。葛飾先輩なら話してくれそうじゃん」

 「……え、でもこまりちゃんとこって今さ」

 「川路先輩が行ってるはずだね」

 「じゃあ無理じゃん!“無理”が服着て歩いてんじゃん!」

 「だけど、風紀委員が誘拐事件って判断した理由が分かれば、真相に向けて大きく前進って気がしない?」

 「そりゃそうだけど……」

 「大丈夫だって。ムジツさんの潔白は葛飾先輩が証明してくれるから。ここから移動したって、川路先輩が遅いから様子を見に来たって言えばいいんだよ」

 「う〜ん、うりゅが言うなら……でもあの人がキレてきたら守ってよ!?全力で守ってよ!?」

 「うんうん。守る守る」


 川路が葛飾に話を聞くため生物部を離れてから、すでにかなりの時間が経っていた。戻ってくる気配すらないことを考えると、何らかの用事ができたのだろう。葛飾と一緒にいるかどうかは分からないが、少なくとも戻って来ない川路を捜しに校舎に入ったと言えば、部室を離れた言い訳にはなる。不安そうにわめく牟児津を連れて、瓜生田は葛飾のもとへと向かった。


 「こまりちゃんなら、ホームルームのときに教室を出てったよ。風紀委員活動のためだからホームルーム免除だとか言って」


 牟児津の言うことが確かなら、葛飾はもう教室にはいない。風紀委員としての活動のために教室を出たなら、向かうのは風紀委員室だろう。玄関で靴から上履きに履き替えて、階段を上って風紀委員室へと向かう。どんどん近付いて来る川路の気配に牟児津は震え上がるが、瓜生田に腕を引かれているので気持ちとは裏腹に足はどんどん前へ進む。

 伊之泉杜学園には生徒による11の委員会があり、それらの委員長と生徒会長から生徒会本部が組織されている。委員会はそれぞれが専用の執務室を持ち、そこで日常事務や会議などを行っている。基本的に生徒が委員会として活動するときには、一部例外を除きこの執務室にいることが多い。いま、牟児津と瓜生田はそのうちの一つ、風紀委員会室の前までやってきていた。

 いかにも重そうな漆塗りの扉が、蛍光灯の光を受けてつやつやと輝いている。落ち着いた色合いの木目や金ぴかのドアノブがかもし出す高級感が、そのドアを叩こうとする者を威圧するオーラとなってしまっている。しかし瓜生田は全く臆さずそのドアを叩く。それを見た牟児津は自分の心臓が小突かれたかの如く体を震わせた。


 「失礼しまーす」

 「はいはーい。どう──あれ、瓜生田さん」

 「あ、葛飾先輩。ちょうどよかった」


 瓜生田の呼びかけに応えて出て来たのは、都合のいいことによく見知ったおかっぱ頭だった。くりくりした大きな目の幼顔が重厚なドアの向こうから現れるのは、なんとも違和感を覚える光景だった。


 「どうしたんですか?真白さんは……何してるんです?」

 「隠れてんの」

 「……ああ、川路委員長なら生徒会室に行かれましたよ。なんでも緊急会議だとかで」

 「会議ぃ?人のことほったらかして何してんだ!」

 「ムジツさん、また疑われたんですよ」

 「そういえば真白さんのこと聞かれましたね」

 「ちゃんと庇ってくれた?私は犯人じゃないって言ってくれた?」

 「いえ、教室でお菓子を食べてたことと一緒にお昼を食べたことしか言ってません。何の事件かも分からないのに庇えませんよ」


 虎の巣穴に無防備で突撃する覚悟で来た牟児津だったが、どうやら川路は席を外しているようだ。それならそれで待ちぼうけを食うことになる自分への伝言などがあってもいいのではないか、と牟児津は頬を膨らませた。そんな暇もないほどの呼び出しだったということだろうか。しかし緊急会議ということはしばらく川路の動きが制限されるということである。牟児津が調査に動いたり逃亡したり身を隠したりするなら今の内だということだ。


 「実は葛飾先輩に教えていただきたいことがありまして」

 「なんですか?」

 「生物部のオポッサムがいなくなった事件ありましたよね」

 「ああ。生物部の誘拐事件ですか。オポッサム見つかったそうじゃないですか」

 「そうなんです。ムジツさんったら今度は誘拐犯だと思われてるみたいで」

 「しょうがない人ですね」

 「私が悪いのこれ?」


 牟児津にしてみれば完全に濡れ衣を着せられているのだから自分に非はないと思いたいが、どこから来たかも分からないオポッサムを安易に手懐けようとした軽率さは反省すべきであった。それはともかく、今の葛飾との会話で、瓜生田には上野の言葉が真実みを増したように感じた。


 「ところでですね、葛飾先輩。いま誘拐事件って仰いました?」

 「え?はい。そうですね。そう聞いてますよ」

 「それは風紀委員の判断ですか?」

 「いえ、風紀委員に誘拐事件として通報があったみたいなんですよ。通報の記録ならいま見られますよ」

 「見せて!なるべく早く!」


 緊急会議でしばらく動けないと聞いたものの、川路の縄張りにいるというだけで牟児津は心穏やかでなどいられない。得るべき情報があるならさっさと得て、一刻も早くこの場を去りたいのだった。ただごとでない牟児津の焦りようを察したのか、葛飾は部屋に引っ込んで数秒でファイルを持って来た。風紀委員に寄せられた通報の記録をまとめたものらしい。いつ、どこで、誰が、どんな方法で通報したか、通報を受けた委員は誰か、通報の内容や通報者についてなど細かな事項までびっしり書き込まれていた。

 こんなに情報が詰まった書類を、どこか抜けている葛飾にも書けるのだろうか、と牟児津と瓜生田はどうでもいいことを考えた。


 「これです」


 そんな無礼なことを考えられているとは夢にも思わず、葛飾はその中のひとつを指さした。日付は今日。時間は昼休みが終わる直前の時間。通報者はひどく慌てた様子で風紀委員室を訪れたようだ。そこには、『誘拐事件。生物部小飼育舎からオポッサム』と記されていた。そして、その通報をしたのが誰なのかもはっきり記録されている。


 「ありがとこまりちゃん!これもらうね!」

 「いやダメですよ!大切な記録なんですから!」

 「写しをいただくのは?」

 「通報者保護のために原本も写しも持ち出しは認めていません。委員長の許可があれば別ですけど」

 「じゃあ無理じゃん!“無理”の規則じゃん!」

 「葛飾先輩、そこをなんとか……」

 「こまりちゃんには悪いけどあれもダメこれもダメなんて甘い世界にゃ生きてねえんだよこちとら!」

 「お願いしながら強奪しようとしないでください!こまります〜!」


 牟児津が葛飾の腕からファイルを奪おうと引っ張り、横から瓜生田があくまで丁寧に頼み込む。まるで北風と太陽の同時攻撃を受けているような連携に、葛飾はファイルを奪われないよう必死に抵抗した。瓜生田は上級生2人が紙切れ一枚を巡って小競り合いしているのを横目に、懐からスマートフォンを取り出した。そしてそのレンズをファイルに向ける

 ぱしゃり、というシャッター音。途端に動きを止める牟児津と葛飾。そして瓜生田は穏やかに笑って、その画面を見せた。そこには、渦中の通報記録がしっかり収まっていた。


 「というわけで葛飾先輩。


 その意味を瞬時に理解した牟児津は、掴んでいたファイルを手放し、瓜生田の手を引いて走り出す。


 「でかしたうりゅ!ずらかるぜ!」

 「ヘイ親分」

 「ちょ、ちょっと!ダメですよ!委員長にバレたら怒られちゃいます!」

 「ご心配なく〜!用が済んだらちゃんと消します〜!」

 「そうそう!バレるかどうかはこまりちゃん次第ってことで!」

 「そ、そんなあ……こまります〜〜〜!」


 廊下の曲がり角を利用して、牟児津と瓜生田はあっという間に葛飾の視界から外れた。このことがバレたら牟児津だけでなく瓜生田、そして葛飾にも間違いなく川路の雷が落ちることだろう。そしてそれは、葛飾が自らの失態を報告することで訪れる未来である。2人は葛飾自身を人質に、まんまと通報記録をせしめることに成功したのだった。



 〜〜〜〜〜〜



 葛飾から通報記録を奪取した2人は、2年Dクラスの教室を訪れ、手に入れた情報を確認していた。通報記録に記された情報には、事件について大きな手掛かりが隠されているはずだ。

 瓜生田が警備室と生物部で得た手掛かりと合わせて、牟児津は関係者の動向を頭の中で整理する。この中の誰かが犯人であれば、どこかにウソが紛れているはずだ。何か矛盾はないか、綻びはないか、ひとつひとつの情報から手掛かりを引き出せるだけ引き出す。


 「いつか分かんないけど、午前中にヒノまるが攫われて……昼休みに部長さんが見つけたんだよね」

 「そう。で、白浜さんによると、いつも通りの部活をしてから通報したことになるから、昼休みの終わりごろだね」

 「……ていうかぶっちゃけ、この人めっちゃ怪しいんだけど」

 「うん、私もそう思う」


 記録とメモを見比べた牟児津が、事件発覚までを振り返る。風紀委員に誘拐事件だと通報したこの通報者が、どう考えても怪しい。しかしそれは、ヒノまるがいなくなったことを誘拐だと断定しているというだけに過ぎない。それ以外にこの人物を犯人だとする根拠が、2人には浮かんでいなかった。そもそも怪しいと言っても、この人物が悪意を持って誘拐したのか、あるいは過失で逃してしまったのか、具体的な犯行内容すら判明していない。


 「昼休み……部長さんは来てて、カギは閉まってた。ケージからヒノまるが消えてて、みんなで捜してから普通に部活をして……その後に通報……した?いや……うん?ちょっと待てよ?」


 ふと、何かに気付いた牟児津の動きが止まった。頭の中で情報が飛び交う。関連しあい、渦巻き、交錯する。一瞬のひらめきの後に訪れる情報の混乱で、牟児津の頭の中はたちまち秩序を失い、重要な情報が散逸してしまう。


 「ちょっと待てちょっと待て?え〜っと……えっとえっと」

 「どうしたのムジツさん?なにか分かった?」

 「いま考えてるから待って!」


 牟児津はカバンからルーズリーフと筆箱を取り出し、いま頭にひらめいたことを走り書きする。そして、それが根拠を伴って言えるかどうか、通報記録と瓜生田のメモを見ながら情報をまとめていく。


 「朝、ヒノまるはいた。みんなで世話して教室に戻った。授業中に何回か来てて……部長さんがカギ開けて入ったら、いなくなってた。んでみんなで捜して……一旦教室帰って、通報があって……こうか」

 「それなに?」

 「関係者の動きを時間で並べて表にした。で、えっと……そうか。やっぱおかしい」

 「どこが?」

 「ん〜〜〜、でも一旦確認しときたい!うりゅ、もっかい生物部に聞き込みに行こう!」

 「え。今から?」


 瓜生田が時計を見る。それにつられて牟児津も時計を確認した。今まで時計のない場所にいたこともあって気付かなかったが、すでに相当な時間が経っていた。もうじき生徒は部活動を終えて帰宅を始める時間だ。生物部員が帰ってしまう前に、もう一度確認しておきたいことがある。まだ、急げば間に合う時間だ。


 「行ける!行こう!つうかもう今日で終わらせたい!」

 「そっかあ。じゃあ行こう」


 奮起する牟児津は勢いそのままに立ち上がる。瓜生田は、牟児津が自分の推理に相当自信を持っているらしいことを感じ取り、細かいことは考えず任せることにした。ルーズリーフを引っつかんで教室を飛び出した牟児津の後から、忘れ物のカバンと筆箱を持って瓜生田も生物部に向かった。廊下は、もう夕焼け色に染まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る