第4話「いらない」
まだ日は沈んでいないが、すでに街灯は白い光を放っている。校庭で活動している運動部の威勢の良い声も、もう聞こえて来ない。夜が近付き、学園は一日の終わりを迎えつつあった。飼育舎で活動していた生物部もすでに片付けを終え、帰り支度を済ませていた。
「それでは先生、戸締まりよろしくお願いします。お先に失礼します」
「へーい。おつかれ」
暗い道をひとりで歩いて帰るのは危険だ。生物部員は防犯のためいつも集団下校し、家が近い者から各々の帰路についていく。部長の上野が飼育舎のカギを八知に預け、お辞儀して先に部室を離れる。それから八知は一度、大飼育舎と小飼育舎のカギがしっかりかかっていることを確認し、再び部室まで戻って来た。剥き出しの配線につながった蛍光灯が、東屋の中を照らしている。
「さて」
周りに人がいないことを確認し、八知は上着のポケットをまさぐった。取り出したるは太い筒状の器具。昼間に吸おうとしたのを大眉に咎められ、今まで我慢していた電子タバコだ。椅子にどっかと腰掛け、再度周囲を見渡してから電源を入れた。ちょろと突き出た先端を口にふくみ、アトマイザーのボタンに指をかける。
「八知先生!」
背後から突然声がした。誰もいないと思っていたところに声をかけられ、八知は驚いて電子タバコを落としてしまった。足下に転がったそれを、八知は足で隠しながら素早く手の中にしまい込んだ。慌てて振り向くと、そこには昼間からずっと生物部にいた、赤い髪の生徒が立っていた。
「よかった!まだ帰ってなかった!」
「キ、キミ、え〜っと……大眉先生と一緒にいたね。風紀委員じゃない──」
「牟児津!」
「ああ、そっかそっか」
牟児津は呆れ返った。いくらなんでも人の名前を覚えなさすぎる。それなりに珍しい苗字だという自負がある牟児津にとって、同じ日に同じ人物へ何度も名乗ったのは初めての経験だった。そんなことは今どうでもいいが。
「いま、タバコ吸おうとしてなかった?」
「ん?なにが?」
「なにがって……まあいいや。そんなことより、ちょっと聞いてほしいんですけど」
「……なに」
「ヒノまるを誘拐した犯人、八知先生だよね?」
それは、あっさりと口にするには重い言葉だった。牟児津は、今日一日さんざん生物部と風紀委員を巻き込んだ事件の犯人が、目の前の不良教師だと言い放った。その言葉に最も驚いているのは、まさに犯人だと言われた八知本人だった。隠していた電子タバコを、また落としそうになった。
「な、なんで……?」
「いやあの、違ったらごめんなさい。でもなんか、色々考えてたらもう先生しかいないなって思って」
電子タバコをこっそり懐にしまいつつ、八知は半身になって牟児津を見た。牟児津は東屋の中まで歩を進め、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。画面には、瓜生田が葛飾の隙を突いて撮影した、今日の事件についての通報記録が映っている。通報者の欄には、八知の名前がはっきりと書いてあった。
「今日の事件を風紀委員に通報したの、先生でしょ。風紀委員で通報記録見ました」
「あっそう……で?」
「部長さんたちから聞いた話だと、ヒノまるがいなくなったのが脱走なのか誘拐なのか、昼休みのときはまだはっきりしてなかったらしいじゃないですか。なんで誘拐って通報したんですか?」
「いや……そりゃあ、ケージにも小屋にもカギかかってたでしょ。動物にカギは開けられないんだから、自力で逃げられないなら誘拐しかないじゃんか」
「本当に?
「……ごめん、ちょっと意味が分かんないな。どういうこと?」
牟児津の言う意味を理解しかねているのか、あるいはシラを切っているのか、八知は首を傾げた。ひるまずに、牟児津は八知の質問を無視して続ける。
「この通報記録によると、八知先生が風紀委員に通報したの、昼休みが終わるギリギリだよね。なんで?」
「昼休みはここの部活に付き合ってたから」
「でもそれだとこんなに遅くならないはずなんですよ。だって、今日は部長さん、いつもより早く昼休みの部活を始めたんだから、終わりだっていつもより早かったはずなんです」
「途中でいなくなった動物捜してたから時間食ったんだよ」
「さっき、白浜さんに聞いてきました。今日は授業までかなり余裕を持って終わったそうです。もちろん、風紀委員に通報する時間だって余裕でありました」
「通報する前にも、色々仕事があったんだよ。教師ってのは忙しいんだ」
「部長さんからヒノまるがいなくなったこと聞いても、そんなに慌ててなかったらしいじゃないですか。でも通報記録にはかなり焦った様子で、って書いてありますよ。この間に何かあったんじゃないですか?」
「そんなもん、向こうの受け取り方だろ。俺は知らんよ」
八知の言葉が、徐々に苛立ちを含み始める。唐突に生徒から質問攻めにされ、事件の犯人だと問い詰められている。それが図星であれ濡れ衣であれ、心穏やかではいられないだろう。八知は、いつの間にか自分が拳を握っているのに気付いた。
一方の牟児津は、そんな危うい状況の中にいて極めて冷静だった。落ち着いて状況を把握しているからではない。頭の中で組み立てた論理を忘れないうちに話そうとしているので、焦る余裕もないのだ。八知が自分を睨みつけていることにさえ気付いていなかった。
「あのさ、その……通報記録か?それがどうしたの?確かに俺は風紀委員に通報したし、そこに書いてある通り焦ってるように見えたかも知れないよ。けどそれは他の仕事に追われてたからで、俺があのネズミだかなんだかを連れ出したって根拠にならないじゃんか。言ってること分かるか?」
「はい。でもこれがきっかけで、八知先生が犯人だっていう根拠に気付けました」
「あぁ?」
もはや八知は、自分が教師で相手が生徒であることを忘れていた。いまそこにいるのは、偉そうに自分を追及する背の低い女子高生だ。年も離れた、学校も卒業していない、生意気な子どもだ。だんだんと八知の思考が荒っぽくなってきた。それでもまだ、いっぱしの社会人としての理性が八知を踏みとどまらせていた。
「……根拠ってのは……なんだ?」
「放課後なんですけど、八知先生、私が部室の隅っこに置いといた汚いタオル、そこの隙間に隠そうとしたよね」
「まだ言ってんのかよ……どこにしまえばいいか分かんないから、一旦しまっとこうとしただけだろ。あの後ちゃんと上野さんに聞いて洗濯物に出したって」
「タオルをどこにしまえばいいか知らないのに、タオルがどこにしまってあるかは知ってたんだ」
「はあ?」
見え透いたウソを皮肉で返すような言葉が、八知の神経をますます逆撫でした。体温がふつふつと上がっていくのが分かる。顔が熱くなって冷静になろうとする思考が寸断される。大人としての態度を崩すまいとしていた理性さえ、今は違うことを考えている。どうすれば目の前のやかましい口を黙らせられるか。そればかりだ。
「つばセンに怒られた後、部長さんに言われて水拭く用のタオル持って来てたじゃん。どこにしまってあるか知ってたから、すぐに持って来られたんじゃないの?」
「……それは……だから、たまたま一発で見つけたんだよ。引き出し開けたら」
「どこにあるか分かんない人が、初手で引き出し開ける?水拭くだけなら洗濯物でもいいと思うけど」
「あのさあ。さっきから関係ねえ話してっけど、俺があのネズミだかを誘拐したって根拠の話はどこ行ったのかなあ?細けえことを取り立ててあれもこれも怪しいって言ってたら俺が認めるとでも思ってんの?あんま大人をナメんのはよくねえぞ、なァ?」
「……じゃあ、言いますよ」
頭に昇った血によって八知の口調が荒くなる。対して落ち着いて見える牟児津も、内心は非常に興奮していた。八知は反論こそしてくるものの、決定的な反証は出してこない。それどころか話を進めるほどに焦ってきている。牟児津は推理を話せば話すほど、それが確証を得ていくを感じていた。
そして全ての布石は打たれた。いよいよ牟児津は核心に迫る。
「八知先生があのとき、すぐにタオルを持って来られたのは、どこにタオルがしまってあるか知ってたからでしょ?あの部室の近くに落ちてた汚いタオルは、八知先生が使ってそのままにしてたものだったんだよ」
「なんで俺がタオルなんか──」
「あれで、ヒノまるを包んでたんでしょ」
「──あぁ?」
「オポッサムって、身の危険を感じると死んだふりをするんだって。しかも死臭まで出すんだ。私、飼育舎でそれを嗅いで思ったんです。部室で拾った、あのタオルと同じ臭いがするって」
部室付近で拾った汚いタオルが放つ強烈な臭い。大飼育舎でバケツの音に驚いて擬死行動をとったヒノまるが発した臭い。牟児津はそのどちらも直に体験して覚えていた。だからこそ自信を持って言える。タオルに染み付いた臭いは、ヒノまるが発する死臭に違いないと。
「朝にカギを借りたのは八知先生だから、警備室に返すのも八知先生。ってことは朝ここのカギを閉めたのも八知先生だよね。そのときに、もしかしたらヒノまるのケージを蹴っちゃったりしたんじゃない?そして、それに驚いたヒノまるが死んだふりをした」
「いや……さすがに死んだふりかどうかくらい分かるだろ……」
「どうですかね。生物部の部員さんだって本当に死んじゃったと思ってたし、八知先生は生物部の顧問になったばっかで、生物の知識がほとんどないんでしょ。動物が死んだふりなんてすると思ってなかったんじゃない?」
「……」
「ヒノまるを死なせたと思った先生は、焦ってヒノまるをケージから出して、タオルに包んで部室の近くに隠した。自分が死なせたんなら大変だから隠そうとしたんじゃない?だから、朝の時点でヒノまるはもう飼育舎の外にいたんだよ」
さっきまで強気の姿勢を崩さなかった八知が、途端に勢いを失った。今は黙って牟児津の話を聞いている。それがいったい何を意味するのか。牟児津にはまだ分からない。推理にはかなりの手応えを感じているが、八知自身が何も語っていない。
「だから部長さんからヒノまるがいなくなったことを聞いても落ち着いていられた。だって、どこにいるかは初めから分かってるんだから。だけど昼休みの活動が終わった後で、思いもしなかったことが起きた。死んだはずのヒノまるが、タオルからいなくなってたんだ」
「……くぅ……!」
はじめて、八知から苦しそうな声が漏れた。おそらく図星なのだろう。牟児津は続ける。
「死んだふりをしてたヒノまるは、とっくに復活して逃げ出してた。だから今日の放課後に草むらから飛び出してきたんだ。でも本当に死んだと思ってた八知先生は、ヒノまるが逃げるなんて考えもしなかった。だから、そこからもう一回部室の周りを捜したんじゃない?今度は本気で。それで風紀委員に通報するまでに時間がかかったんでしょ」
「はぁ……!はぁ……!」
「自分だけは居場所を知ってるつもりだったヒノまるが本当にいなくなった。八知先生にとっては、後に起きた方が本当の事件だった。だから部長さんにヒノまるの失踪を聞かされても落ち着いてられたけど、風紀委員に通報したときは焦ってたんだ」
「うぅ……!」
「誘拐だって通報したのも、脱走だと顧問の自分の責任になるから、自分以外の犯人をでっち上げようとしたんじゃない?ほとぼりが冷めたくらいに有耶無耶にするつもりだったんじゃないの?」
「ぐうっ……うっ……!」
八知は苦悶するような声を漏らす。少しばかり流れる沈黙。八知は大きくため息をついた。焦りも、苛立ちも、混乱も、恥ずかしさも、ありとあらゆる感情を絡め取って体の外へ排出するような、深い深いため息だった。そして、極めて冷静な口調で牟児津に言った。
「……キミ、すごいな。探偵とかに憧れてるクチ?」
「別に、そんなんじゃないですよ」
「まあどうでもいいか。まだ誰にも話してないんだったら」
「え……?」
八知がのろりと立ち上がった。普段は気怠そうに丸めている背中が伸びて、暗がりの中だとやけに大きく不気味に見える。ぎろりと剥いた目は、真っ直ぐ牟児津を捕らえている。ついさっきまでの激昂した雰囲気は鳴りを潜め、妙に静かだ。牟児津は本能的に危険を覚えた。そして気付く。いま、自分はひとりだった。
「どうすりゃ黙るかなあ。暴力は……目立たないとこならワンチャンあるか?あ、家でバレるな。ちっ」
まるでゾンビのような覚束ない歩き方だ。ふらつきながら、八知は少しずつ牟児津に近寄ってくる。自分自身と会話するような小さい声で、ぶつぶつ喋っている。漏れ聞こえてくる言葉はどうも穏やかではない。牟児津の直感が、体に逃げろと信号を発する。しかし同時に、目を逸らしてはいけないとも叫ぶ。後ずさるしかない牟児津に、八知はじりじり迫ってくる。いつの間にか牟児津は部室から離れた暗がりに追い込まれていた。
「やっぱ
八知の手が牟児津に伸びる。捕まったら終わりだと分かる。しかし体は強張ったままだ。恐怖に駆り立てられ叫びそうになる。
「ひっ……!」
為す術なく、牟児津は目を閉じた。
「おらあああああああああっ!!!」
「はっ──ぎゃあああっ!?」
突然の怒号。否、それは雄叫びだった。続けて聞こえる八知の悲鳴。重いものが地面に落ちる音が聞こえた。驚いて牟児津は目を開く。暗い中では何が起きたかよく分からない。耳に届く音だけが頼りだ。
「てめえ!うちの生徒になにしやがる!」
「ぐっ……!い、いててて!」
「ムジツさん!」
混乱する牟児津のそばで響く怒鳴り声と情けない声。それらの隙間を縫って、その声は牟児津の耳に滑り込んだ。引き寄せられるように、牟児津はその声がした方に駆け出す。すぐに大きな抱擁感にぶつかった。
「ムジツさん大丈夫!?」
「う……うりゅ〜!ヤバかった〜!ちびるかと思ったあ〜!」
「もう、だから言ったのに。間に合ってよかったよ」
瓜生田の胸に抱かれた牟児津は、全身で感じる温かさと柔らかさで一気に緊張がほぐれた。代わりにこみあげてきた安堵が目から溢れ出す。今更になって、瓜生田と離れていた間の不安や心細さを思い出し、その存在を確かめるようにしっかり抱きしめた。
教室から生物部部室に向かう途中、瓜生田はもしもの場合に備えるため大眉を呼びに職員室に立ち寄った。もし本当に八知が犯人なら、犯行を暴かれたとき何をするか分からない。牟児津にその危険を伝えたものの、白浜が帰る前に話を聞かなければと、牟児津は突っ走ってしまったのだった。
果たして牟児津の推理は正しく、瓜生田の懸念も的中した。八知に追い詰められた牟児津を見つけた途端、大眉は全速力で駆け出し、我が身を顧みない全力のドロップキックをかましたのだった。倒れた八知にすかさず馬乗りになって取り押さえる。大の大人が2人とも服を泥まみれにして取っ組み合う光景に、牟児津と瓜生田はなんとも言えない凄みを感じた。
「ちょっと……!なによこれ……!?」
唖然としていた牟児津と瓜生田は、いつの間にか隣に立っていた上野の声を聞いた。
瓜生田と別れて生物部部室に向かった牟児津は、校門の近くで生物部員たちを捕まえた。昼休みの部活から通報までに空白の時間があることを確かめるため、白浜に教室に戻った時間を確認したのだ。そしてさっさと去ろうとした牟児津を、今度は上野が引き留めた。上野にしてみれば、これ以上牟児津に部活動を邪魔され続けてはたまらない。犯人ならば認める、犯人でないなら早く風紀委員の誤解を解くように詰め寄った。まさかそこで捕まるとは思っていなかった牟児津は、ヒノまるを誘拐した犯人が分かったとつい口を割ってしまった。それを聞いた上野が牟児津を放っておくはずがなく、八知に気付かれないよう近くで牟児津の推理を聞いていたのだった。
「ぶ、部長さん……!聞いてました?」
「聞いたわよ。その後のことも見てたし……本当なの?全部、本当のことなの!?」
「そう、っぽいですね……」
「なによもう……!なんなのよ!」
上野は頭を抱えた。それも仕方ない。生物部で起きた誘拐事件の犯人は、生物部の顧問だった。なぜそんなことになっているのか。なぜそんなことにならなければいけないのか。部長として、生物部員として、生徒として、上野の心労と苛立ちは限界寸前だった。
だが、牟児津と瓜生田には何もしてやれない。ここで何を言っても気休めにしかならない。生物部員に落ち度はないにしても、この事件の後始末においては何らかの形で負担がかかるだろう。部長である上野はその責任を負い、なおかつ部員を守らなければならない。犯人を明らかにしたところで、生物部にとってはまだ事件は終わらないのだ。
「牟児津!大丈夫か!」
「うぇっ!?あっ、は、はい!無事です!」
「そうか!」
「な、なん……?おお、まゆさん……?」
大眉のキックが相当こたえたのか、突然のことでまだ混乱しているのか、八知は自分の上にまたがっているのが大眉だということにやっと気付いたらしい。すでに牟児津は離れた場所で瓜生田に保護されている。そしてようやく、八知はおおよその状況を理解した。もはや隠し通すことはおろか、言い訳も立たない。逃れようがないことを悟り、観念して大の字になった。
「ちっ……くしょう……!」
「ちくしょうじゃねえ!立てこら!」
「いたたっ……!やり過ぎだって!俺はなんもしてねえだろ!」
「うるせえ!このまま副理事に報告だ。行け!」
大眉が八知の上から降りて襟首に手を回し、八知をむりやり立たせた。暴れないように、片方の腕を後ろに回して関節をきめている。立ち上がった八知の脇腹には大眉の靴の跡がくっきり残っていて、相当な威力だったことが窺える。牟児津と瓜生田は驚いて顔を見合わせ、そのまま少し笑った。
「牟児津。いちおうお前も関係者だから来てくれ」
「は、はあ……あ、あの、この人らは?」
「ああそっか。悪いけど上野さんも来て。いるだけでいいから。瓜生田もいいぞ」
「じゃあご一緒します〜」
八知を連行するついでに、大眉は一連の出来事を眺めていた牟児津に声をかけた。学園中を騒がせた誘拐事件だけでなく、あろうことか生徒に手を出さんとしていた八知の暴挙について、教師にとって上司にあたる副理事に報告しに行くのだ。勘違いで濡れ衣を着せられ、自らその疑いを晴らしただけでなく、真犯人である八知から直接被害を受けるところだった牟児津は、もはや事件の中心人物のひとりとなっていた。何より事件の真相について、詳しく話を聞くことができるのだ。異例ではあるが、大眉は情報の正確さと迅速さを優先して、牟児津から事の顛末を報告してもらうことにした。当事者である上野と、おまけで瓜生田も付き添うことになった。
〜〜〜〜〜〜
牟児津の報告は、意外にもあっさり済んだ。ヒノまるが失踪してから発見されるまでの経緯と、八知が真犯人であることの根拠の説明。そしてその後に八知がしようとしたことについての証言をした。生徒の帰りが遅くなることがないようにという配慮のおかげで、牟児津と瓜生田と上野は報告を済ませたら早々に解放された。警備員の
理事室を出てからそこまで、3人は終始無言だった。牟児津は今日一日の疲れで何も考えられず、上野はバツが悪そうに2人から目を逸らし、瓜生田はその雰囲気を感じ取って敢えて口を開かずにいた。しかし校門の外まで来て、上野は意を決したようにひとつ息を吐いてから口を開いた。
「牟児津さん」
「は、はい!?」
「そんなに怖がらないでよ。いえ……そうじゃないわね」
神妙な気配を感じ取ったのか、牟児津は上野に名前を呼ばれて過剰に驚いた。落ち着きの無さに呆れつつも、上野はしっかり牟児津に向かい合う。そして、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「へ……?」
「あなたは真剣に事件を解決しようとしてくれてたのに、私はイライラしててちゃんと協力してあげられなかった。ひどいこともたくさん言ったし、大人げなかったわ。そもそも無関係なあなたを巻き込んでしまったことも……本当に、ごめんなさい」
それは、真摯な謝罪の言葉だった。反省を口にし、深々と頭を垂れる姿に、牟児津は目が点になった。まさかいきなり謝られるとは思っておらず、昼間の姿とのギャップもあって、それが謝罪だと理解するのにも少し時間がかかった。ようやく飲み込んだ謝罪の内容は尤もだと感じたが、そこで牟児津はよく考えた。よく考えて、考えて、考えた結果、首をひねった。
「そうですか?」
「……ん?」
予想だにしない返事をされて、上野は思わず頭を上げた。考え込んで首をひねってばかりいる牟児津の代わりに、後ろに立つ瓜生田に視線で疑問を投げかける。「ごめんなさい」に対して「そうですか?」では会話になっていないのでは、と。しかし、瓜生田は微笑んで肩をすくめるだけだった。
「あの、そうですかっていうのは……どういうこと?」
「いやあ……実際に話を聞いてメモ取ってたのはうりゅなんでうろ覚えなんですけど、部長さん、ちゃんと私たちに事件のこととか生物部のこと話してくれたじゃないですか。部長さんが部員のみんなの前で協力するって言ってくれたから、白浜ちゃんたちにも話をしてくれたんじゃないですか?」
「あ……そう、かしら」
「巻き込まれたってのはそうですけど、巻き込んだのは部長さんじゃなくて風紀委員ですからね。犯人は八知先生だったし、部長さんが謝ることってありますか?」
「……そ、そう言ってくれるのは、ありがたいんだけど……えぇ?」
「お昼の部長さんは正直怖かったですけど、部員の人はみんな優しい人だって言ってましたし、今日はイライラしてたんですよね。そりゃあんな人が顧問だったらイライラもするし余裕もなくなりますよ。部長って大変でしょうしね」
なぜこの少女は、完全に巻き込まれた立場にもかかわらず、巻き込んだ側を慮ることができるのだろうか。謂われのない罪で拘束され、怒鳴られ、邪険にされ、危ない目にも遭いかけた。それらを全て許すような、怒るべき相手を庇うようなことが言えるのだろうか。その理由は分からない。もしかしたら本当に何も感じていないのかも知れない。
あまりに呆気なく許されたことで上野は肩透かしを食らった。相応の覚悟をして頭を下げたはずが、許す許さないの話にすらならないとは思わなかった。もはや考えるのもバカバカしい。一周回って清々しい気分になった。
「そう……ありがとう。本当に、ありがとう」
「いえいえ。一件落着して私もよかったです。あ、そうだ。イライラしたときとか、私は甘いもの食べて落ち着くようにしてるんですよ。ようかん食べます?」
牟児津はポケットにあった携帯ようかんを差し出す。上野はふっと微笑んだ。その顔は、部員や動物に向けていたものと同じ、優しい表情を浮かべていた。
「いらない」
〜〜〜〜〜〜
上野と別れた後、牟児津と瓜生田は今度こそ帰路に就いた。色々あったせいで下校が遅くなってしまい、ちょうど帰宅ラッシュに重なるくらいの時間になってしまった。
「またこの時間だ〜〜〜!」
「すっかり遅くなっちゃったねえ」
「あ〜〜〜めっちゃ疲れた……っていうか報告すんの緊張した!あと助かったようりゅ〜!ありがと〜!」
「めまぐるしいなあ。でもムジツさんが無事でよかった。次からあんな危ないことしないでね」
「うん分かった──いや次とかないから!」
「あはは、そっかあ。そうだといいね」
軽い冗談のつもりで瓜生田は言ったが、牟児津にとってはシャレになっていない。前の事件のときも、その日のうちに解決したものの夜遅くまで学園に残るハメになった。牟児津は、こんな刺激的な日々は望んでいない。平和に、静かに、安全な学園生活を送ることができればそれでいいのだ。今日の放課後はひと時も心安らぐ隙がなかった。こんなことは二度と御免だ。
「まあ次があるかは分かんないけど、危ないことはしちゃダメだよ。大眉先生を連れてくるのが遅かったら、今ごろどうなってたか分かんないんだから」
「うん、それは本当に気を付け──あああっ!」
そろそろ駅に着こうかというとき、牟児津は急に大きな声を出した。道行く人々の視線を少しばかり集め、牟児津は瓜生田に言った。
「あんワッフルのこと忘れてた!」
「あ」
駅近くで煌々と光を放っている見慣れた店が視界に入り、牟児津は今日家を出た一番の目的を思い出した。慌ただしい出来事の連続で、今の今まですっかり頭から抜け落ちていた。数量限定売り切れ必至の商品が、帰宅ラッシュも始まりつつあるこの時間に残っているはずがなかった。
それでも牟児津は思い出してしまった。思い出してしまえば望みをかけたくなるのが人の性である。万が一の可能性に賭けて、牟児津は店に駆け込んだ。自動ドアが開くのを待つ時間さえ惜しい。通い続けてすっかり染みついた、入口から商品棚までの最短経路を進む。ちらほら隙間が目立ち始めている棚の一角に、目を引くポップが掲げられていた。
「あっ……!」
そこに、お目当てのあんワッフルはあった。四角く網目状に焼かれた柔らかなワッフルが二つ重なり、その間にたっぷりの粒あんが詰め込まれている。薄く化粧をするようにまぶされた粉砂糖が高級感を演出している。まさに牟児津が今朝から心待ちにしていたあんワッフルが、たった1つだけ残っていた。もはや奇跡だ。何も考えず牟児津はそれを引っつかんで勘定場に持って行き、素早く支払いを済ませて店の外に出た。考え得る限り最速の買い物を済ませた牟児津を、今まさに店に入ろうとした瓜生田が迎えた。
「早いね。あった?」
「あ、あった……!一個だけ……!」
「おお、そっかあ。よかったね」
店に入ってから出るまでの記憶を失ったかのように、牟児津は手にしたあんワッフルを驚いた表情で瓜生田に見せた。手にずっしりと感じる重量感すら幸せに感じられた。今日一日ずっと期待していた菓子が自分の手の中にあるという高揚感。長いようで短いようで最後に異常な伸びを見せた一日を思い返し、牟児津は感慨深げにそれを眺めた後、小さく瓜生田に差し出した。
「……うりゅにあげる」
「え?」
牟児津の予想外の行動に、瓜生田は小さく驚いた。一日中楽しみにしていて奇跡的に買えた菓子を、大の甘党で、特にあんこには目がない牟児津が人に譲るなど、考えられなかった。
「なんで?今日ずっと食べたかったんでしょ?」
「この前、色々と助けてもらったお礼するって言ってたから。それに今日だって、うりゅがいなかったら、生物部で話聞いたり風紀委員室行ったりできなかったし。あと最後つばセン呼んでくれてマジで助かったから」
「そんなの気にしなくていいのに。私はムジツさんが助けてほしいときはいつだって助けてあげるよ」
「うん、だからその辺も含めて……お礼」
牟児津の言うとおり、今日の事件の情報収集はほとんど瓜生田がした。だがそれは瓜生田が牟児津を助けるために進んでしたことだ。瓜生田は見返りなど求めていない。しかしそれでは牟児津の気が済まないということも、瓜生田は理解していた。
「それじゃあもらおっかな。ありがと、ムジツさん」
差し出されたそれを、瓜生田は快く受け取った。牟児津の手から瓜生田の手へ、幸せの重みが移動した。袋を開けると、ワッフル生地の甘い香りがふわりと漂ってきた。牟児津の腹が鳴る。焦らすように瓜生田はそれを口元に寄せて食べようとする。牟児津はそれを、つい羨ましそうに見つめてしまう。
そんな牟児津をちらりと見て、瓜生田はいたずらっぽく笑った。そして、そのワッフルを半分に分けた。割れた隙間からこぼれそうなほどのあんこがのぞく。そしてその片方を、先ほどの牟児津と同じように差し出した。
「はい。はんぶんつ」
「えっ……えっ!?い、いいの!?」
「ムジツさんが買ったんだから、本当はムジツさんのでしょ。それに、今回は私が集めた情報だけじゃ解決できなかったもの。ムジツさんもお手柄だったから、分け前ははんぶんつってことで」
「うりゅぅ〜……ありがと〜!」
差し出されるや否や、一も二もなく牟児津はそれを受け取った。先ほど感じていた重みのちょうど半分、ずっしりと中身の詰まった小さな四角が手の中に戻って来た。牟児津は嬉しそうにそれを見つめる。牟児津を見る瓜生田もまた嬉しそうだ。
2人は、せーのであんワッフルにかぶりついた。ふんわりと軽いワッフル生地は噛むほどにバターの香りが広がって鼻へ抜けていく。まぶしてある粉砂糖は控えめな甘みで生地の味を引き出しつつ、その後に訪れるあんこの邪魔にならないよう絶妙に加減されている。しっかり練られた甘いあんこのなめらかな舌触りが上品さを演出している。
「うんまあ〜〜〜!」
「おいしいね、ムジツさん」
「マジで買えて良かった〜〜〜!」
一口食べるごとに広がる幸せ。一噛みするごとにあふれる喜び。口いっぱいにあんワッフルを頬張りながら、2人は次の電車が来るまでたっぷり味わっていた。
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