その2:ヒノまる誘拐事件
第1話「やあ、野オポッサムだ」
私立
そんな広大な学園の中を、
「ご機嫌だね、ムジツさん」
牟児津の隣を歩く
「いや〜、もう塩瀬庵のあんワッフルがめちゃくちゃ楽しみなんだよ〜!」
「それ今朝からずっと言ってるね」
「15時発売で数量限定だから急がないとすぐなくなっちゃうよ」
「どっかのお店とのコラボなんだよね。テレビで結構よく見るとこ」
「東京のめっちゃオシャレなワッフル専門店ね!それだけでも美味しそうなのにあんこ挟まってんだよ?もう天才じゃん?」
時刻は15時を少し回った頃。牟児津たちは下校中である。牟児津は今日、毎朝欠かさず観ている『今日のあんこ』で紹介された、東京の有名ワッフル専門店と馴染みの菓子屋のコラボ商品のことばかり考えていた。東京の名店の味を近場で楽しめるとなれば、牟児津のような甘党でなくても買い求めるだろう。今日一日で売り切れ必至のレアものである。
「うりゅにも買ってあげるからね。この前のお礼したいから」
「やったあ。ありがとうムジツさん」
先日、牟児津はクラスで起きた黒板アート消失事件の犯人だと疑われ、瓜生田に助けを求めた。最終的には牟児津自身が解決したのだが、その過程で牟児津は瓜生田にずいぶん助けられていたのだった。
校舎の玄関で靴を履き替えて、校門までの長い小径を歩く。玄関から校門までは平坦で、道の両側によく整えられた生垣が並んでいる。生垣は暖かくなると花を咲かせ、盛夏には青々と葉をつけ、そこを通る生徒たちに季節の移ろいを感じさせていた。
その生垣の一つがガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな茶色が機敏に飛び出した。
「やあ、のら猫だ」
それは三毛猫だった。首輪をつけていない、汚れた体から判断するに野良猫らしい。牟児津がしゃがむと、猫はゆっくり近付いてくる。牟児津にあごを撫でられて気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「よしよし、可愛いね」
また一つ生垣がガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな黒色が緩慢に現れた。
「やあ、野だぬきだ」
それはたぬきだった。ずんぐり丸い体に短い手足でのそのそ歩く。自然の多いこの学園では、それほど珍しい生き物ではない。牟児津に撫でられていた猫と入れ替わるように、たぬきは牟児津の手に擦り寄ってきた。
「よしよし、いい子だね」
さらに一つ生垣がガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな白色が軽快に躍り出た。
「やあ、野オポッサムだ。よしよし、賢いね」
白い顔に赤い鼻のオポッサムが、生垣から一直線に牟児津の手を目掛けて走ってきた。丸まっていたたぬきを追い払い、そのまま牟児津の手から肩まで駆け上る。人に慣れているようで、可愛がる牟児津の指先を全く怖がらない。
そのとき──。
「あっ!!」
突然、背後から声がした。オポッサムだけでなく、牟児津と瓜生田もその声に驚いて身を強張らせた。何事かと振り向くより先に、どやどやと人が押し寄せてくる。行く手を阻むように、逃げ道を塞ぐように、退路を断つように、たちまち2人を取り囲んだ。取り囲む生徒は誰もかれも手に棒や網やカゴを持ち、いかにも何かを捕らえんという装備だった。
「ひえ〜〜〜」
状況を理解する暇はなく、しかし牟児津はとてつもないピンチに陥ったことだけはなんとなく理解した。肩の上にいたオポッサムはいつの間にか逃げ出し、取り囲んでいた生徒たちによって網で捕らえられている。しかし牟児津にはそれを気にしている余裕はなかった。なんと不幸なことか、牟児津らを取り囲んだ人集りの中から、見覚えのある金髪が歩み出て来た。吊り上がった切れ長の目でヘビのように牟児津を睨み付けている。
「お前は……確か、牟児津だったな」
「ひっ……!」
「あら〜、川路先輩」
名前を覚えられている、と牟児津は背筋が凍った。
「現行犯だ。一緒に来てもらうぞ」
「……!!」
「あのう、私は?」
「お前も来い」
それが牟児津に聞こえていたのかは分からない。なぜ目を付けられたのかも分からず、何が起きたのかも分からず、牟児津は声も出せないほど怯えていた。そして、たったいま歩いてきた下校路を、無抵抗のまま川路によって引き戻されていったのだった。瓜生田はひとまず事態の流れに従い、牟児津の後を追った。
〜〜〜〜〜〜
高等部には様々な部活動があり、文化系の部は一つの建物に部室がまとめられている。通称、部室棟である。その部室棟の南側には、各部活動や特別授業などで利用する様々な建物がある。中でもひときわ目を引くのが、生物部が利用している大小2つの飼育舎だった。ここでは小型から大型までバラエティに富んだ生物を飼育している。小型生物と中型生物が入ったケージを棚に並べて飼育している小飼育舎と、大型生物を一カ所に集めてブースに分け飼育している大飼育舎がある。その両方とも扉にカギがかかっており、部外者が入ることはできない。
2つの飼育舎からほど近いところに、生物部の部室はあった。壁はなく、日差しや雨から部室を守る
いま、その部室は取調室へと変わっていた。椅子に座らされた牟児津とその隣に立つ瓜生田、真向かいには牟児津へ鋭い視線を向ける川路が腰掛けている。
「お前がやったんだな?」
つい最近も耳にした質問だった。自分は何もしていない、と牟児津は思っているが、何をやってないのか分からない。また何らかの冤罪でこうなっているだろうことは理解できたが、川路からは連れて来られた理由について何一つ語られていない。それは瓜生田も同じで、しかし牟児津よりはいくらか冷静に川路に問うことができた。
「えっと……まず、なんでここに連れて来られたのか、理由を伺いたいのですけど」
「とぼける気か?」
「とぼけるも何も、私もムジツさんも、訳も聞かされずにいきなり連れて来られたんです。何か理由があってムジツさんをお疑いなら、その理由を教えていただかないとお答えできません」
「胸に手を当てて考えろ。さっきの現場を見られてまだ言い逃れができると考えているのか?」
「さっきの現場……?」
高圧的な川路の態度に、牟児津は緊張ですっかり萎縮してしまい、何も考えられなくなってしまった。小さく震えて青い顔をしつつ、縮こまり下を向いている。外敵に襲われたアルマジロが反射的に丸まるのと同じ、牟児津なりの防御反応だ。アルマジロのそれと異なるのは、敵から身を守る効果があるかないかだけだ。牟児津の場合はもちろん後者である。
そんな牟児津に代わって、瓜生田が川路の言葉の意味を推し量る。川路が見たであろう牟児津の姿を思い返す。下校路の途中で野生動物に出会い、牟児津がそれを可愛がっていた。するとたちまち取り囲まれて、群衆の中から川路が現れ、牟児津をここまで連れてきた。確か川路はそのとき、現行犯だと言っていた。
「あの動物ですか?」
「分かり切ったことを」
「あの……オポッサムでしたっけ?たぶんここの生物部で飼ってて脱走した……いや、犯人がいるっていうなら、連れ去りとかです?」
「白々しい演技はやめろ」
「ひどいなあ。少しくらい話を聞いてくれてもいいじゃないですか」
「私は今日イライラしているんだ。くだらない言い訳に付き合う気はない」
「言い訳じゃないんですってば。参ったなあ。どう言えば信じてもらえるんだろう……」
前回は目撃証言に基づいた取り調べだったため、牟児津が犯人だと決めつけてはいたものの、まだ弁解の余地があった。しかし今回は、川路によれば現行犯だ。弁明も言い訳も意味がない。川路の考えが勘違いだと納得させなければいけない。瓜生田は悩んだ。
「いい加減に認めろ。こいつが今日の午前中に小飼育舎からオポッサムを誘拐した。調べればいずれ分かることだ」
「今日の午前中?あの子、今日いなくなったんですか?」
「正確には、朝には小飼育舎にいるのが確認されていて昼休みに失踪が発覚した。だから連れ去られたのは午前中ということになるな」
「なるほど……それじゃあムジツさんにはアリバイがありますね」
「なにっ」
ふと川路の口から飛び出した新しい情報に、瓜生田は活路を見出した。未だ何がどうなっているのかは不明確だが、アリバイを証明できるチャンスが訪れたのは幸運だった。
「ムジツさんは授業と授業の合間はトイレに行く以外に教室を出ないんです。いつもお菓子食べてますから。クラスの人もみんな見てますよ」
「なんでうりゅ知ってんの……」
「初等部の頃からずっとそうなんだから知ってるよ」
牟児津はそこで、川路に捕まってから初めて言葉を発した。余計なことを言ったせいで川路に睨まれ、またすぐに口を閉じて丸まってしまった。
「なら昼休みになってすぐ行ったんじゃないのか」
「ムジツさんは私と一緒にお昼ご飯を食べてましたから。あと、風紀委員の葛飾先輩とご一緒しましたよ」
「……んん」
残念そうに唸りながら、川路は眉間を押さえた。授業と授業の合間のアリバイは、牟児津のクラスメイトに確認してみなければならない。瓜生田が名前を出した葛飾先輩こと
「あのオポッサムは草むらから飛び出してきたところを見つけたんです。ムジツさんの肩に乗ってたのはたまたまです」
「そんなバカげた偶然を信じろと言うのか」
「はい。信じてください」
瓜生田の話を聞きながら、川路だけでなく牟児津も馬鹿馬鹿しいと思った。なぜ野良猫と同じノリでオポッサムが出て来たことを不審に思わなかったのか。なぜ安易に近寄って肩に乗せたのか。乗せたというより勝手に乗られたのだが。しかし、何かおかしいと考える時間はあったはずだ。自分の無警戒さと運の悪さに涙が出て来る。
一方、論理的なアリバイと馬鹿馬鹿しい事実の二段階攻撃を受けた川路は、怒っているのか呆れているのか、しばらく黙り込んでいた。だが、これ以上の尋問は無意味と悟ったのか、深いため息を吐いた。
「アリバイは確認する。だが牟児津がオポッサムを連れていたのは事実だ。その上でお前は牟児津が潔白だと言う。つまりお前たちが言っているのは、誘拐されたオポッサムが
「まあ……そうなりますね」
「そんな豪運だか悪運だか分からんことを易々とは信じられない。少なくとも事が解決するまでは容疑者として付き合ってもらうぞ」
「ひぃ……そ、そんなぁ……」
それだけ言うと川路は立ち上がった。その勢いの強さに牟児津は驚き跳び上がったが、川路はそのまま教室棟の方へ向かって行ってしまった。おそらく葛飾に牟児津のアリバイを確認しに行ったのだろう。ひとまずその場は解放された牟児津が、空気の漏れた風船のようにへなへなと机に突っ伏す。目尻から涙がこぼれ落ちた。
「あえぇ……どうしてこんなことに……」
「怖かったね、ムジツさん」
「うりゅはあんまり怖がってるように見えなかったよ」
「だって私は疑われてないもん」
「他人事だと思いやがって!」
「いやいや他人事じゃないよ。このままだとあんワッフル食べられない」
「……そうじゃん!!おおおい!!」
時刻はすでに15時半を過ぎていた。まだ売り切れてはいないだろうが、人気店とのコラボ商品でしかも数量限定である。学園内にもライバルは多いだろう。このまま事件が解決しなければ、少なくとも今日は閉校まで残らされることになる。そんな遅い時間ではまず間違いなく売り切れている。
とはいえ、あんワッフルを買うために一時的にこの場所を離れたとして、それが川路に気付かれればさらに厄介なことになるだろう。下手をすれば逃亡と見なされて明日から学園全体で指名手配され、たちまち捕らえられて生徒指導室行きだ。牟児津が理想とする平和で穏やかな学園生活とは対極の日々を送ることになる。
「やべえ!!え、どうしよ!?どうしようりゅ!!」
「落ち着いてムジツさん。深呼吸して深呼吸」
「すぅ〜〜〜……はぁ〜〜〜……すぅ〜〜〜……はぁ〜〜〜……」
「落ち着いた?」
「落ち着いた。そんでどうしようりゅ!!あんワッフル売り切れる!!どうしよどうしよ!?」
「いま落ち着いてたじゃん」
興奮した牟児津をなんとか座らせて、瓜生田は考える。なるべく川路が納得する形で、この場から一刻も早く抜け出す方法は何か。そんなものは一つしかない。
「じゃあムジツさん。解決しちゃおっか」
「へ?なにを?」
「川路先輩が言ってた誘拐事件。誘拐って言うからには犯人がいるはずだよね。その人を見つけようよ」
「……またこの間みたいなことやんのお?」
「一刻も早く帰るにはそれしかないよ。大丈夫、ムジツさんならできるよ。私も手伝うし」
それはシンプルかつ明白な証明方法、即ち真犯人を見つけることだった。以前、黒板アート消失事件のとき、牟児津は同様に無実の罪で川路に疑われ、その誤解を解くために真犯人を暴いた。まだ記憶に新しいそれは、牟児津にとって決して良い思い出ではない。色々な不運や災難が重なった結果、やむを得ず真犯人を暴いたのだ。
しかしどうやら、今回も同じようなことをしなくてはならないらしい。牟児津は決して、推理好きが高じて事件に首を突っ込む人間ではないし、親族に高名な探偵がいてその血を受け継いでいるわけでもない。自らの潔白を証明するためとは言え、事件の真相を暴くのは牟児津にとって好きなことでも簡単なことでもないのだ。
「うぐぁ〜〜〜私が何したってんだ〜〜〜!」
「オポッサム肩に乗せたでしょ」
その代償としてはあまりに重い気がする。それでも牟児津は仕方なく事件解決のために行動を始めることにした。実に不本意で納得がいかないが、やるしかないのだ。
「そうそう、あのオポッサムのせいだ!あいつが肩に乗ったりするから私はこんな目に遭ってるんだ!」
「誘拐されたって言ってたけど……取りあえず、そのオポッサムが誘拐された現場を見るのがいいかもね。こういうときはまず観察だよ」
「現場って……どこ?」
「川路先輩は小飼育舎からって言ってたっけ」
「よく聞いてるよね、うりゅって」
「ムジツさんはそれどころじゃなかったもんね」
全くやる気が起きない牟児津に、瓜生田が捜査の方向性を示して促す。川路は容疑者として付き合ってもらうと言っていたが、この場所を離れるなとは言っていない。校外に出るわけにはいかないにしろ、生物部の活動範囲を移動するくらいなら問題はないだろう。牟児津と瓜生田は部室から延びる小径を進み、生物部が多数の生物を飼育している飼育舎へ向かった。
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