第4話「今日も私は無実だった!」


 帰宅支度する生徒を焦らせるように、太陽は少しずつ地平線へと下りていく。床に落ちる影が窓枠の形に切り取られている廊下を、葛飾は人を連れて歩いていた。その足取りは慎重である。逸る気持ちを悟られないよう落ち着いて、不安な気持ちを気取られないよう毅然と、それでいて着実に歩を進めていた。

 葛飾は未だに半信半疑だが、牟児津にはこの度の事件の犯人が分かったという。そして、その人物から直接話を聞くため、葛飾はその“犯人”を生徒指導室で待つ牟児津の元に連れて来る役目を任されたのだった。過程を飛ばして結論だけを聞かされた葛飾にとっては、いま後ろを歩いている人物が本当に事件の犯人なのか不安が残っていた。一方、後ろを歩く“犯人”はなぜ呼び出されたのか分からないまま葛飾に続いていた。

 不均一な緊張に包まれた2人は言葉を交わすこともなく、生徒指導室の前まで来て立ち止まった。葛飾がドアを開き、“犯人”を中に促す。


 「どうぞ」


 葛飾に軽い会釈で応えつつ、“犯人”は教室に入った。夕暮れ時の生徒指導室には低くなった陽が差し込み、部屋は幾何学的な模様で赤と黒に塗り分けられていた。目隠し用の衝立の反対側に回り込むと、牟児津と瓜生田が立っていた。“犯人”は再び会釈した。


 「ごめんね。急に呼び出して。まあ座ってよ」


 牟児津は“犯人”を椅子に座らせ、自分は机を挟んで反対側に腰かけた。机の上にはまっさらな紙と、赤と黒の2色ボールペンがある。ただならぬ雰囲気に“犯人”は目を細めるが、それ以上の反応はなかった。間合いを計るような堅い沈黙のあと、牟児津が口を開いた。


 「今朝、うちの教室の黒板が消されてた事件。知ってるよね?」


 “犯人”は小さく頷いた。知っていて当然だ。目の前の人物がしたことなのだから。牟児津は少しずつ、言葉を選びながら、説明するように自分の考えを述べていく。


 「みんなは私が犯人だと思ってるみたいだけど、本当はそうじゃないんだよね。だから、あなたには少しでいいから、私の話を聞いてほしくて呼んだんだ」

 「ちょ、ちょっと待ってください牟児津さん。話って、なんの話をするんですか?」


 長くなりそうな前置きから始まった牟児津の話に、横から葛飾が割り込んだ。目の前の人物が“犯人”だと言うのなら、それを指摘して認めさせれば終わりではないのか。葛飾はそう考えていた。だが牟児津は、葛飾を落ち着かせるように真剣な顔で返した。


 「大事なことだから、ちゃんと順番に話したいんだよ」


 それだけ言って、改めて“犯人”と向き合った。葛飾は何がなんだか分からないという顔で、瓜生田は牟児津の言葉を聞き逃すまいと注意して、“犯人”は話の内容を察知したのか緊張した面持ちで、牟児津の話に耳を傾けた。


 「そもそも私が疑われてる原因は、時園さんの証言があるから。今朝、教室に入る前に、廊下の奥に走って行く犯人らしい人影を見たっていうヤツね。葛飾さんが詳しい話を聞いたら、人影っていうのは厳密にはちょっと違くって、実際に見たのは赤い髪の色と結んだ髪の束だったそうだよ。だからクラスで特徴が一致してる私が疑われた。だけど、それだけじゃ私が犯人だとは言い切れないんだよ」


 “犯人”は黙って話を聞いていた。その視線は、机の上の何も書かれていない紙に落とされている。


 「髪が長い人なら髪型なんて自由に変えられるよね。私がこっそり教室に忍び込むなら、むしろいつもと違う髪型にするよ。ちょっとでも誤魔化せるようにさ。じゃあ髪色はどうかって言うと……これは見間違いだと思う」

 「見間違いってそんな!それを言いだしたら証言を聞く意味がなくなります!」


 横で聞いていた葛飾は、傍聴者に徹する態度を早々に改めた。完全に正確な証言は理想だとしても、時園の証言は、本人が何度も同じ内容を堂々と証言していたことからも信用に値する。それを見間違いだと切り捨ててしまうのは、牟児津がそれによって疑われているということを差し引いても、ひどく乱暴に聞こえた。しかし、葛飾は既に早合点をしていた。


 「犯人の髪は、時園さんには確かに赤く見えたと思う。だけどそれは髪が赤かったんじゃなくて、赤く見える髪だったんじゃないかな」

 「???」


 ますます訳が分からなくなり、葛飾は首をひねる。自分ひとりが分からないのかと思いきや、隣で聞いていた瓜生田もいまいち要領を得ていないようだった。しかし牟児津の話を聞いている中でただ1人、“犯人”だけは特に難しい顔をしてはいなかった。


 「犯人は逃げる直前に黒板アートを消してるでしょ。絵は黒板いっぱいに描かれてたから、人が来る前に急いで消したんだと思う。そのせいでチョークの粉が大量に舞って、犯人はきっと頭から被ったはずなんだ。バラを描くのに使われた、赤いチョークの粉を」

 「ああ、なるほど」

 「だから犯人の髪の色は必ずしも赤とは限らないと思う。赤い粉を頭から被った犯人を遠くから見れば、赤い髪に見間違えてもおかしくはないと思わない?」


 話に聞いていた完成予想図を頭に思い浮かべて、瓜生田は手を叩いた。黒板いっぱいに咲き誇る真っ赤なバラを消せば、確かに赤い粉が大量に舞うだろう。犯人が急いでいたのなら、髪に付いた粉を払い落とす間も惜しんでいただろうことは考えられることだ。時園の証言だけで牟児津が犯人だとする説は、かなり説得力を削がれたように思えた。


 「た、確かにそれなら時園さんの証言だけで犯人を絞り込むことは難しくなりますけど……それはむしろ容疑者の特徴が意味を成さなくなった分、犯人究明に関しては後退なのでは?」

 「そうかもね。だけど、時園さんは他にもいろんな証言をしてた。これを見て」


 葛飾の疑問は軽くいなし、牟児津は机の下から紙と手帳を取り出した。紙の一部には既に赤い線がいくつか引かれていて、“犯人”の視線は自ずとそこへ誘導される。


 「これ、新聞部が時園さんにインタビューしたときの記録と、葛飾さんが時園さんから話を聞いたときのメモなんだけど、この赤線を引いた部分、ちょっとおかしいんだよね」


 瓜生田と葛飾にとっては、少し前に聞いたものと同じ内容だった。逆に“犯人”には何がおかしいのか分からないようで、わずかに眉をひそめて牟児津の指先を目で追っていた。


 「葛飾さんの聞き取り調査では、時園さんはドアを開けて教室に入ったって言っているでしょ。でも新聞部のインタビューに答えたときは、教室のドアが開いていたとも言ってる。これって矛盾してるっぽいよね?だけど時園さんが犯人でウソを吐いてるんじゃないとしたら、この矛盾に対する説明は1つだ」


 牟児津は、用意していた白紙に教室の見取り図を描き始めた。俯瞰から見ていれば、ドアが開いていたり閉まっていたりする矛盾の説明は、容易に思い当たる。“犯人”はその説明に納得している一方、先ほどよりいっそう緊張しているように見えた。“犯人”は、何かに気付いた様子だった。


 「時園さんは東側の階段を昇ってきたから、当然教室に入るときは後ろのドアから入るはず。つまり、時園さんが開けたのは後ろのドアで、はじめから開いていたのは教室前のドアだっていうことだ。犯人が逃げるときに開けっ放しにしたんだろうね」


 黒板を消してから犯人がたどったであろう逃走経路を、牟児津が矢印で示す。教室後ろの黒板から、教室前のドアを通って西側の階段へ向かう。“犯人”は相変わらず黙ったまま、その軌跡を目で追った。


 「でもこれって不自然だよね。犯人は教室後ろの黒板を消したのに、どうして後ろのドアから逃げなかったんだろうって思うじゃん。絶対こっちから逃げた方が速いのに。あと不自然なのはそれだけじゃないよ。時園さんによれば、教室に入ったとき、カーテンが閉まってたんだって。犯人が閉めたんだと思うけど、黒板を消すのに関係ないことをどうしてわざわざやるんだろうって思うよね」


 見取り図にカーテンが描き加えられる。証言から状況を再構築し、犯人の行動をたどり、違和感を言葉に換えていく。何も描かれていなかった白紙の上に、徐々に今朝の事件現場が再現されていく。ただ話を聞いていただけの“犯人”は、自分のこめかみを伝う汗に気付いた。


 「でも、犯人にとってはきっと、どっちも不自然じゃなかったんだ。犯人は必要だからそうしたはずなんだよ」

 「必要って……ムジツさん、どういうこと?」

 「犯人はそうやって確かめてたんじゃないかな。

 「うぅっ……!」


 瓜生田の質問に対する牟児津の答えが、初めて“犯人”に声を出させた。それは牟児津の考えが的中していることの傍証であり、さらに加えて牟児津にある確証を与えた。しかし瓜生田にも葛飾にも、牟児津の言わんとしていることがまだ分からない。


 「消したいものって黒板アートのことですか?そんなのカーテン閉めたり教室の前まで移動したりしなくても、消えたのは分かるでしょう?」

 「いや、犯人が消したかったのは、たぶん絵じゃないよ」

 「絵じゃない???いや、黒板アートは絵でしょう???」

 「そうじゃなくてだから……犯人にとってあれはただの絵じゃなかったってこと」

 「ただの絵じゃない……何か、他の意味があったってこと?」


 もったいつけた牟児津の言い回しに葛飾は混乱しっぱなしだった。瓜生田はその意味するところを汲み取り、言い方を変えて確認した。それに返す形で、牟児津はその先の推理を話す。


 「あの絵にはたぶん、文字が隠されてたんじゃないかな。色や形を変えて絵の中に紛れさせつつ、全体としてなにかメッセージになるように」

 「完成予想図にあった“ようこそ”の字のこと言ってます?それは私も知ってますよ」

 「いいや。それは誰にでも見える隠し文字でしょ。私が言ってるのは、だよ」

 「へえ???」

 「1つの絵に、カモフラージュとしての隠し文字と、本当に分からないようにした隠し文字の2つがあったってこと?」

 「うん、そういうこと」


 にわかには信じがたいことだった。昨日まで手の込んだ絵だと思っていた黒板アートに、誰も気付かないうちに何らかのメッセージが仕込まれていたなど、荒唐無稽な空想に思えた。だが、それを聞いている“犯人”はその指摘を聞いてますます追い詰められたような顔になっていた。いよいよ牟児津の推理が信憑性を帯びてくる。今度は瓜生田が質問した。


 「でもムジツさん。そんなメッセージなんて紛れさせてどうするの?ムジツさんも葛飾先輩も……たぶんクラスの他の人もそれに気付いてないんじゃない?」


 瓜生田の指摘は尤もだった。実際に絵を見ていない瓜生田はもちろん、数日に亘って絵の制作過程を見てきた牟児津や葛飾にも、2つめのメッセージが隠されているということは分からなかった、メッセージである以上は誰かに読まれることを前提としているはずなのに、誰にもその存在さえ気付かれないのでは意味がない。


 「そりゃ隠しメッセージだからね。いつでも見えたら意味ないじゃん。そのメッセージは“特別な状況”で“特別な人”にだけ見えるように工夫されてたんだと思うよ」

 「“特別な状況”で“特別な人”にだけ見えるメッセージ?黒板に書いた文字が見えたり見えなかったりするってこと?そんなの──あっ」

 「え?え?すみません!私、全然分からないです!」


 牟児津の言葉を反復していた瓜生田が閃いた。1つ閃きが生まれると、連鎖するように次々と状況が頭の中に浮かぶ。そして、その最後に浮かぶ疑問は、果たしてそれは可能なのか、だった。そこに至って初めて、瓜生田は一足先にこの結論にたどり着いた牟児津が、その疑問を口にした理由も理解した。それが可能なら、実行できる人物──すなわち犯人は、一人しかいないからだ。


 「犯人は、赤シートの仕組みを使ったんだよ」


 教室の見取り図を描いた紙と赤シートを持って、牟児津は遂に核心に触れる。赤シートを被せると黒いインクで描かれた見取り図はそのままに、赤いインクで描かれた矢印だけが見えなくなる。その場の全員が、息を呑んでその続きに聞き入る。


 「赤シートを通すと赤色の文字や図だけが消えて、逆に緑色や青色は濃く浮かび上がって見える。犯人は、これと同じことを黒板の上でやったんだよ、赤いバラの絵の中に、緑色や青色の文字を隠した。だから普通に見てもバラの絵にしか見えないけど、赤シートを使えばメッセージが読める。そういう仕掛けになってたんだ」

 「で、でも赤シート越しに黒板を見る人なんていない……ですよね?」

 「そうですね。だからメッセージを読むのに必要なのは赤シートじゃなくて、その代わりになるものです」

 「瓜生田さん、もう全部分かってるんですか?」

 「たぶんムジツさんと同じことを考えてると思います。ね、ムジツさん」

 「うん」


 短く返事をした牟児津が席を立った。向かいに座る“犯人”は縮こまっているが、牟児津が立ったのは“犯人”を威圧するためではない。ゆっくりした足取りで牟児津は窓際に寄って行き、3人の方へ振り向いて言った。


 「このカーテンが、赤シートの代わりだ」


 陽の光が差し込む窓をカーテンで覆う。学園全ての教室に取り付けられている、赤い無地のカーテンだ。部屋に差す陽の光が、カーテンを通して赤く染まる。牟児津は、教室の見取り図を描いた紙をその赤の中に置いた。余白が全て赤に染まり、描かれていた赤い線はその中に沈んで見えなくなる。


 「うちの教室は、部室棟に反射して差してくる陽がまぶしいから午前中はカーテンを閉めてる。それは、いつも教室の誰かが勝手にやることだ。そして太陽がある程度の高さまで昇れば、自然と後ろの黒板まで陽が差す。だから犯人が何もしなくても、午前中だけは黒板に書かれた2つめのメッセージが見えるようになるんだよ」


 葛飾も瓜生田も、ましてや牟児津も、実際に2つめのメッセージが書かれていたかは確認していない。消されてしまった絵を見ることは二度と適わない。それでも、牟児津の言葉は大いに説得力があるように感じた。突拍子のない話でも、それなりの理屈があればいちおうは納得できてしまえた。もはやその先は敢えて説明されなくても察することはできたが、そうしなければならない気がして、葛飾は質問した。


 「じゃ……じゃあ、犯人が2つめのメッセージを読ませたかった相手っていうのは……?」

 「午前中、いつでも後ろの黒板を見ることができる人。私たちが背を向けている黒板を見続けることができる人……そんなの、教室を隅々まで見渡せる、先生しかいないよね」


 消失した黒板アートに隠された2つめのメッセージ。それは、教室に陽が差しカーテンが閉められる午前中の一部の時間に限り、教壇に立って生徒たちと相対する教師にだけ読むことができる、時間と読み手を限定するトリックによって秘匿されていた。

 しかしそれらが明らかにされた今、メッセージを隠すためのトリックは、逆にその実行犯を特定する決定的な根拠へと変貌していた。ほとんど言葉を発さずに牟児津の話を聞いていた“犯人”は、いよいよ緊張が高まり生唾を飲んだ。


 「高等部見学日になったら、秘密のメッセージが中等部の生徒に見られる可能性がある。だから犯人は消さなくちゃいけなかった。黒板アートがなくなっても代わりの飾り付けが間に合う、今日のうちに」


 牟児津は、声を荒げることはなく、責め立てることもなく、ただ冷静にその名を呼んだ。



 「そうだよね?足立さん」



 栗色の髪が揺れた。椅子に座り視線を落としたまま、足立がゆっくり頷いたのだ。それだけで足立は、今までの話の全てを事実と認めた。一切の反論も弁解もなく、訂正の1つもなく、肯定したのだった。


 「……ごめんなさい」


 か細い、震えた声だった。聞いている方が罪悪感を覚えるほど哀れな、怯えているような声だった。足立の目から熱いしずくがこぼれ落ちる。牟児津と葛飾はそれを見てぎょっとした。


 「牟児津さん、ごめんなさい……!お、怒ってる、よね……。私のせいで、みんなから責められて……!疑われて……!本当に、ごめんなさい……!」

 「わっ!?ご、ごめん!別に泣かせるつもりじゃなくて……!全然、足立さんを責めてるとかじゃないから!」

 「葛飾さんも巻き込んじゃって……ごめんなさい……!こんなに大事になるなんて、思ってなくて……!それで、言い出せなくて……!」

 「えええっ!?い、いや私はそんな謝られることなんて……あ、謝られてもこまります〜!」

 「なんでムジツさんと葛飾先輩が取り乱してるんですか?」


 黒板アート消失事件の謎を解き明かしていた生徒指導室は、足立の涙でたちまちに大騒ぎになった。牟児津も葛飾も、反論や弁解は想定していても泣かれることは全く想定していなかった。予想外の出来事にどうしていいか分からず困惑する2人を、瓜生田がなんとか落ち着かせようとする。このままでは足立の話を聞くどころではない。

 そのどたばたを収めたのは、牟児津でも瓜生田でも葛飾でも、況してや足立でもなかった。今まで誰もその存在に気付いていなかった声が、生徒指導室に降ってきた。


 「落ち着けお前ら!」


 牟児津と葛飾の騒ぎ声がぴたりと止む。4人全員の視線が声の方に向けられた。衝立の向こうに人がいたことなど、4人とも今の今まで全く気付いていなかった。

 衝立の向こう側から姿を現したその人物は、しばし足立と目を合わせたあと、牟児津たちを見た。


 「つ、つばセン……?」

 「あとは全部、俺が説明する」



 〜〜〜〜〜〜



 いつしか陽は沈み、生徒指導室は赤も黒も全てが暗がりの中に溶けていた。教室の外に人がいないことを確認したついでに、大眉は蛍光灯のスイッチを入れた。たちまち暗がりは部屋の隅に追いやられ、全員の顔が白い光に照らされた。5脚の椅子が並べられ、大眉と足立、牟児津と瓜生田と葛飾の組が机を挟んで向かい合っている。大眉は襟を正してから切り出した。


 「まず、教室の黒板を消したのは足立だ。時園が見た人影も、あの絵に隠してあったメッセージも、全部お前の言う通りだ、牟児津。お前マジですごいよ」

 「は、はあ……そりゃどうも」


 牟児津は面映ゆい思いがした。自覚していなかったが、事件の犯人を前にして長々と推理を披露するのは、まるで小説に登場する探偵のような行動だった。先ほどまでの自分の行いを振り返って、今さらながらに照れる。


 「で、今から話すのは2つ。“なんで足立はそんなことをしたのか”と“黒板に何が書かれていたのか”についてだ。ただしここから先は、この部屋の外で話すのは絶対に禁止だ。約束できるか」


 物々しい雰囲気だった。普段の大眉は割とフランクに生徒と接しているだけに、真面目な顔と真剣な声で話されると自然に体は緊張する。おそらく敢えてそうしているのだろう。それだけに、これから聞かされる話の重大さが予想できる。3人とも自然と背筋が伸びた。


 「は、はい!」


 緊張がそのまま声に乗って葛飾の口から飛び出た。大眉はもう一度足立を見た。足立は何も言わずにハンカチで目元を押さえ、ときどき肩を跳ねさせていた。止めようとしないことを確認した後、大眉は真相を話し始めた。


 「まず、なんで隠しメッセージを使ったかの理由についてだ。これはシンプルに、他人に知られたくなかったからだ。おおっぴらに話せることでもないし、職員室に来て俺に直接相談するのも憚られる内容だった。それくらいデリケートな問題だったんだ」

 「そうですか……。でも、メモにして渡すとか電話で相談するとか、名前を伏せたまま相談する方法は他にもあったんじゃないですか?」

 「ああ、そうだな。瓜生田の言う通りだ。けど、このケースの場合はそれも……なんというか、危険だったわけだ」

 「危険?」


 3人には大眉の言葉の意味が分からなかった、メモを渡すことの、電話をかけることの、何が危険だというのだろうか。わざわざ大掛かりな仕掛けを使って秘密裏に教師に相談したくらいなのだから、相当にデリケートな問題であろうことは想像に難くない。大眉は、問題の扱いにくさこそが、黒板アートを利用した理由だという。


 「で、黒板に隠されてたメッセージの内容についてだが……あー、端的に言えば、足立のご家庭の事情に関することだ」

 「ご家庭の……そ、そうですか」


 言い回しから、それ以上は追及させないという大眉の意図が伝わってきた。説明すると言ったものの、大眉は明らかに言葉足らずだった。問題の核心に触れることを避け、誤解も必要以上の情報も与えないように、言葉に気を付けつつ大事なことは誤魔化している。教師としての立場がそうさせていることは、その場の4人とも理解できた。だから牟児津も瓜生田も葛飾も、それ以上詳しいことを聞くつもりはなかった。しかし、ただ1人──足立だけは、それを許さなかった。



 「不倫……です」



 一瞬、部屋から音が消えたような気がした。話を聞いていた3人だけでなく、大眉も同時に耳を疑った。いつの間にか足立が顔を上げている。目を丸くする4人を前に、足立は語り始めた。


 「母の不倫について、大眉先生に相談しました。母と……石純先生の不倫について」

 「石純……えええええっ!?ず、ずみセン!?」

 「お、おい!?足立!?」

 「いいんです先生。みんなには……特に牟児津さんには全部を話さないと。そうする義務があるんです。しないと不誠実です」

 「そ、そうか……。いや、悪いが俺は立場上、生徒によその家庭の個人情報を話すことはあんまり……」

 「大丈夫です。私が話します。先生にもこれ以上迷惑かけられません」


 先ほどまでの可哀想な様がウソのように、足立は毅然としていた。今はしっかりと背筋を伸ばして、目は正面にいる牟児津たちを迷いなく捉えていた。その豹変ぶりのせいか、あるいは打ち明けた事実が衝撃的だっためか、3人は呆気にとられていた。真実は3人が考えていたどんな可能性も超えてくるものだった。


 「母は、数ヶ月前から石純先生と不倫してました。私はすぐに気付いて母に関係解消するように言ったんだけど、逆に石純先生にそのことを話されて……学園で石純先生から監視されるようになりました。何かされたわけじゃないけど、家でも学校でも石純先生に見られてるような気がして……!もし学園で2人の関係をバラしたらどうなるか……想像するだけで恐くて……!」


 また涙声になってきた足立は、それでも話すことを止めない。対する牟児津と葛飾は、ぽかんと口を開けていた。もはや驚きを通り越した先の何も考えられないパターンも通り過ぎ、なんだか恥ずかしくなった。こんな辛い思いをしている人がすぐそばにいたのに、何も気付かず過ごしていた自分たちが恥ずかしいと、そう感じた。


 「ずっと誰かに相談したかった……でも、石純先生がいる前でその話はできない。メモに書いても見つかるかも知れないし、電話だって石純先生が出たらそれで終わり……だから、石純先生にバレない方法で相談するしかなかったんです」

 「それが黒板アートですか?それもかなり綱渡りな気がしますけど」

 「石純先生は朝のホームルームの後は午後にしか教室に来ないし、黒板に陽が差してメッセージが見えるようになるのは2時間目からだったから、バレないと思いました……そもそも黒板アートを提案したのは、そのメッセージを書くためですし」

 「絵の方は、初めからカモフラージュのつもりだったんですね」

 「ああ……だから途中でやる気がなくなっちゃったんだ。メッセージさえ描ければ後は関係ないもんね」

 「クラスのみんなには……申し訳ないと思ってます。でも他の方法じゃバレそうで恐くて……!ほ、本当はもっと早いうちに、もっと良い絵を思いついたことにして描き直すつもりでした。だけど、誰かに気付いてほしくてズルズルと……」

 「そうだったんだ。つばセンはいつ気付いたの?」

 「つい昨日だ。教室で足立から話を聞いたときは半信半疑だったけど、いちおう理事には報告した。そしたら本当に不倫してて、足立の気持ちも考慮して内々に処理してもらうことになった」

 「仕事はやっ!」


 たったいま知らされた教師と生徒の親の不倫が、既にほぼ解決されているらしいことに、聞かされる一方の3人は驚くばかりだった。止めどなく溢れる情報の濁流が押し寄せてきて、頭の中は大氾濫している。大騒ぎする脳を落ち着かせるために、取りあえずの結論を出してそれに縋り付く。これ以上はもう処理できる気がしない。


 「じゃあともかく、足立さんは秘密を守るために黒板アートを消したってことだよね?それに、その黒板アートでやりたかったことも達成……は、まだこれからだけど、できそうな感じなわけだ」

 「そ、そうですね。でもこんなことになって、本当に申し訳ないと思ってます。黒板を消したことを牟児津さんになすりつけるつもりは本当になくて……でも、私がやったって言ったら、今までのことも全部言わなくちゃいけなくなるような気がして……」

 「まあ、事情が事情ならしょうがないんじゃない?私は、むしろ足立さんの発想と実行力パね〜って思ってるよ」

 「……怒ってないんですか?」


 おそるおそる足立が尋ねた。今日は牟児津にとって散々な日だったろうに、その責任がある足立は深く負い目を感じていた。今この場で怒鳴られようと罵られようと仕方がないと思うほどに、足立は牟児津を傷付ける原因を作ったのだ。

 しかし、当の牟児津はひどく落ち着いたものだった。自分の感情を確かめるように視線を上に振った後、からっとした笑顔で言った。


 「まあ、ぶっちゃけ最初は真犯人コノヤローって思ってたけど、今の話を聞いたらもうそういう気持ちにならなくってさ。そもそも私が疑われたのって時園さんの見間違いが原因で、それも足立さんがわざとやったことじゃないし、時園さんにも落ち度はないし。そんでそもそもの原因は、ずみセンが不倫したせいなわけだし。なんかもう怒ろうと思っても誰に怒ればいいか分かんないんだわ。だから、足立さんももういいよ」


 その言葉で、足立はようやく救われた。自分が傷つかない方法を選んだことが、クラスメイト全員をひどく傷付ける結果となってしまった。それでも、一番の被害者である牟児津にあっさり許されたことで、痛いほど重たかった背中がいくらか軽くなった気がした。さっぱりしたその笑顔が、太陽のように暖かく感じた。


 「あ、ありがとう……ございます……!私、牟児津さんにひどいことしたのに……!ごめんなさい……!本当に、ありがとう……!」


 足立はまた涙を流した。後悔や緊張による冷たい涙ではない。牟児津への感謝と、背負い続けてきた重荷から解放された喜びに満ちた、熱い涙だった。



 〜〜〜〜〜〜



 空には月が昇り、駅のホームは蛍光灯の白い光に照らされていた。これからの時間はちょうど帰宅ラッシュと重なるので、やってくる電車はぎゅうぎゅう詰めだろう。きっとダイヤも乱れて、帰宅にはいつもより時間がかかることだろう。まだ静けさが残るホームで、牟児津、瓜生田、葛飾の3人が並んでベンチに腰掛けていた。


 「いや〜〜〜終わった〜〜〜!」

 「ムジツさんお疲れ様。今日は色々すごい1日だったね」

 「うりゅも付き合ってくれてマジありがと〜〜〜!うりゅがいなかったら今日中に終わってなかったわ!」

 「ちゃんと葛飾先輩にもお礼言ってね。たくさん助けていただいたんだから」

 「いえいえ。事件の早期解決ができて、風紀委員としても大助かりです!委員会への報告は大眉先生からしていただけるようなので、ちゃっかり私もお仕事完了です!」


 駅のすぐ近くに店を構えている塩瀬庵で牟児津に奢ってもらったどら焼きを頬張りながら、葛飾は嬉しそうに言った。瓜生田が牟児津に無断で交わした約束だったが、無事に無実を証明できて気分を良くした牟児津は財布の紐が緩みきっていたので、特にもめることもなく履行されたのだった。ついでに牟児津は自分と瓜生田の分も買って、ホームで一緒に食べることにした。


 「そう言えば、あの後クラスに戻って説明したんだよね?なんて説明したの?」

 「つばセンが上手いことぼかして説明してくれたよ。とにかく犯人は自分なんだって足立さんが必死に謝って、足立さんにも事情があるってことをつばセンが説明してた」

 「誤解は解けた?」

 「うん。時園さんにめっちゃ謝られた」

 「一時は完全にクラスからハブられてたのに、牟児津さんはあっさり許しちゃうんですよ!竹を割ったような性格っていうのは牟児津さんのようなことを言うんですね!見習いたいです!」

 「私には竹を燃やして弾けさせたような性格に思えるけど」

 「それ爆竹じゃねーか!」


 クラスメイトへの説明に時間を取られて下校が遅くなってしまったが、そんなことは気にならないくらい、牟児津の心は晴れやかだった。平和で穏やかで快適な学園生活が、また明日からも続いていくのだろう。何の気負いも後ろめたさもなく、逃げ回ることも怯えることもない、理想の学園生活だ。


 「そうだムジツさん。明日の朝、新聞部に行って寺屋成先輩に今日のこと話さないと」

 「うわあ、そっか。あ〜、めんどくせ〜……」

 「きっとまた号外が出るよ。今度はムジツさんの活躍を報じる記事になるね」

 「私は別に目立ちたくないからヤなんだよ。まあ……逃げたら逃げたであの人しつこそうだから行くけど」

 「もうひと頑張りですね。お疲れ様です」


 明日に残したタスクはあるが、ひとまず今日という日の平和な終わりを喜ぶことにした。3人は一緒にどら焼きを頬張って舌鼓を打った。あっという間に食べきってしまうと、次の1個が欲しくなる。

 電車の遅れを告げる構内放送が聞こえてきた。どうやら列車の到着まで、まだずいぶん時間があるらしい。次の1個を買いに行けそうだ。


 「まあ、とにかく一件落着ってことで」


 ベンチから立って大きく伸びをした牟児津の目に、広い夜空の粒のような星が映った。ありふれたその景色さえも、今の牟児津には輝いて見える。


 「今日も私は無実だった〜〜〜!」


 星が瞬く夜空のように晴れやかな気分で、牟児津は宣言した。

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