第3話「これって、できんのかな?」
新聞部で事件に関する基本的な情報を得た2人は、次に調査する場所について悩んでいた。現場である教室は牟児津がまともに調べられる状況ではないため葛飾に頼んでいる。新聞部のような、この事件について調べている第三者から得られる情報は、これ以上ないだろう。しかしまだ教室に戻るには早い。どこか他に、事件について調べられる場所はないかと、足を向ける場所を考えていた。
しばらく思案していると、牟児津の頭に閃きが生まれた。ぽん、と手を叩き、その閃きを言葉にする。
「そうだ!警備室行こう!」
「なんで?」
「いちおう、外部犯の可能性も考えておこうと思って。学園外の人が犯人だったら、警備室に来客記録が残ってるはずだよね!」
「そっかあ。うん、いいと思うよ」
もし外部の人間による犯行だった場合、いよいよ2人だけでは真犯人を捕まえるのは絶望的になるのだが、牟児津は絶対にそこまで考えていないだろう。また、早朝に黒板アートを消すためだけに学園に侵入する変質者がいるかと考えれば、確認するまでもなさそうなことだと瓜生田は思った。それでも、ここで棒立ちになって考え呆けているよりはマシなので、牟児津の案に従って警備室へ聞き込みに行くことにした。
学園外の人間が校舎に立ち入るには、校門をくぐってから職員・来客用の玄関に入り、警備室で来客記録帳に必要事項を記入する必要がある。職員・来客用の玄関は校門のすぐ正面にあり。警備室からはそこを通るひとりひとりの顔までよく見える。放課後のこの時間は通る人影もまばらで、警備員はのんびりとコーヒーを飲んでいた。
「すいませーん」
来客対応用の小窓を覗き込み、牟児津が中の警備員に声をかけた。分厚い脂肪がマフラーのように首を覆っている中年の男が、牟児津に気付いてガラス戸を開けた。
「はいはい。どうした?」
「あのですね。ちょっと今日の来客記録を見せてもらいたいんですけど」
「来客記録?そりゃまたどうして」
「今朝2年生のクラスであった事件って知ってます?」
「ああ。知ってるよ。ちょうどその号外を読んでたんだ」
新聞部はこんなところまで号外を配りに来ているのか、と牟児津は呑気に考えていた。だが、そこまで言い切ってからその中年は牟児津の顔に気付いたようで、牟児津はそれを察して小さく声を漏らした。
「なんだ。どこかで見たことあると思ったら号外の子じゃないか。有名人だね」
「冗談じゃないですよ。風紀委員にはしょっぴかれるし、クラスメイトは冷たいし、新聞部には付きまとわれることになるし……私は無実だっつーの!」
「よく分からないけど大変そうだね」
「大変なんですよマジで!」
「それで、その事件の犯人が外部の人じゃないかと思いまして、確認のために記録を拝見したいんです」
「ほお、なるほど。面白そうなことしてるね」
今日一日の散々な出来事を思い起こしているうちに興奮してきた牟児津に代わり、冷静な瓜生田が補足を入れる。だいたいの事情を察したのか、中年警備員は特に警戒することもなく来客記録帳を取り出した。
日付、指名、来校時刻、退校時刻、用務先についてそれぞれ記載欄があり、今日も昼の間に何人か来客があったようだ。だが、事件が起きた早朝の時間帯には記録が残っていなかった。何度繰り返して見ても、書かれている事実は変わらない。外部犯の可能性はあっさりと否定された。
「ありがとうございました」
それだけ言って、2人は早々に警備室での聞き込みを切り上げた。やはり真犯人は、学園内部の人間のようだ。そもそも、まだ生徒がほとんど登校していない早朝に学校を訪れるような怪しい人間など、いるはずがない。考えてみれば当たり前のことをわざわざ確認していたことを痛感した牟児津は、無駄足を踏んですっかり意気消沈していた。
「あーもうわかんねー。誰だよ。誰が犯人なんだよ」
「投げ遣りになるのが早いよムジツさん。まだ調査始めたばっかりなんだから」
「でもこれからどうしよう。やっぱ葛飾さんの情報待つしかない?」
「うーん……教室は風紀委員や新聞部が調べてるはずだから、そこまで重大な手掛かりが今更出て来るとは思えないし……」
「うああああっ!!詰んだああああっ!!」
「早いってば」
なかなか思うように捜査が進まず、牟児津は頭を抱えた。まだそうなるには早いと瓜生田は思うが、調べるべきことが思い浮かばないのは瓜生田も同じだった。ひとまず落ち着かせるために何か話をしようと、瓜生田は昼休みから現在までのことを思い返していた。
そして、まだ牟児津と瓜生田で共有されていない情報があることに気付いた。
「ねえ牟児津さん。そういえばなんだけど、お昼休みに話してた人ってどういう人なの?」
「んぇ?えーっと……時園さんのこと?」
「あともうひとり。大人しそうな感じの人」
「そっちは足立さんかな。なんで?」
「うーん……なんとなく気になって。なんか、クラスの代表って感じだったから」
本当は牟児津を落ち着かせるために話題を与えただけに過ぎないのだが、それをそのまま言うわけにもいかないので、適当な理由を付ける。牟児津は深く考えず、瓜生田のリクエストに応えて二人の生徒について話すことにした。
「時園さんは学生生活委員で、まあクラスのまとめ役って感じの人だよね。毎朝一番に登校してるらしいし、真面目な人って印象だな」
「なんか怖い感じの人だったよね?いかにもムジツさんが苦手そうな」
「いや、いつもは結構優しいんだけどね。でもなんか、高等部見学日をすごい楽しみにしてて、黒板アート作るのもやけに張り切ってたよ。だから消されてショックだったのはあると思う」
「そっかあ」
時園は、絵が消された黒板を最初に見つけた生徒でもあり、黒板アートの完成を最も待ち望んでいた生徒でもある。教室での様子や新聞部のインタビュー記録を見る限り、その気持ちは本物だったのだろう。その犯人であると思えば、牟児津をあそこまで強く糾弾するのも頷ける。
「足立さんは確か美術部で……うん、大人しい人だから、私もあんまり話したことないな。でも顔に出にくいだけで、消されてショックなのは同じだと思う。足立さんも描いてたし」
「なんであの人が一緒に前に立ってたのか分かる?」
「いちおう、黒板アート制作リーダーってことになってたからかな。ある意味一番の被害者って言える人だし、時園さんが立たせたんだと思うよ」
「なんか迷惑そうだったよね」
「やっぱ人前に立つのちょっと苦手なのかも……まあ、あの雰囲気の時園さんには逆らえないだろうからしゃーないわ」
「色々と可哀想だね」
時園に比べて、足立のことを牟児津はよく知らない。クラスの中でも発言力のある学生生活委員と、授業中以外は声を聞くことも少ない大人しい生徒では、印象に差があるのも致し方ない。瓜生田にもなんとなく、牟児津から見た2人がそれぞれどんな生徒なのかのイメージはついた。
「ちなみに描いてたのってどんな絵だったの?」
「バラの絵だよ。黒板いっぱいに花が描いてあって、その中の1個だけめっちゃすごいの」
「すごいって何が?」
「“よ”“う”“こ”“そ”の文字でバラの花を描いてんの。なんか隠し文字?とかってヤツで、気付いたとき声出たわ」
「へえ。そんなことできるんだ。ちょっと描いてみてよ」
「よっしゃちょっと紙とペン貸して……って私が描けるわけないじゃん」
軽く仕掛けてみた瓜生田の小ボケにも、牟児津はしっかりつっこんできた。瓜生田の思惑通り、牟児津はいくらか落ち着いたようだ。落ち着けば、次にどう行動すべきか考える余裕が生まれる。やはり教室で起きた事件は教室内の事情について調べる方が真相が見えてきそうだ。教室の外で教室の中のことを調べるには、内情を知っている人物を訪ねる他にない。
「じゃあムジツさん。次に行くところだけど──」
「すみませーん。ちょっと通りまーす」
瓜生田が次の目的地を決めようとしたその時、背後から声をかけられた。話に夢中になっていたせいで、廊下を塞いでいることに気付かなかった。瓜生田の後ろには、段ボールを抱えた2人の女生徒がいる。胸にかけたリボンはレモンイエローで、瓜生田より1つ上の学年であることを示していた。
「おっと、すみません」
すっ、と壁際に体を寄せて瓜生田は道を空けた。後ろから来た2人組はそこを通り抜けようとする。何の気なしにその顔を見た牟児津が、小さく声を出した。
「あっ!」
「あっ」
牟児津が声を出したのとほぼ同時に、2人組も同じように声を漏らした。牟児津はとっさに2人組の前に立って道を塞ぐ。ほぼ反射的な行動だった。今この時を逃したら、もうチャンスはないと感じていたからだ。
「ま、まま、待って!ごめん箱根さん!砂野さん!」
「ちょっと!危ないよ!」
「ごめん!あの、でも……ちょっと話を、聞いてほし……かったり、聞きたかったり……」
廊下の真ん中で急に立ち塞がられて、2人の抱えている段ボールが落ちそうになる。牟児津は慌ててそれを支えて、立ち止まった2人に頭を下げた。話を聞いてほしいのか聞きたいのか、どちらでもあるだけに、どこから始めればいいか分からない。しかしこの機会を逃したら、クラスメイトとゆっくり話し合えるチャンスは二度と訪れないかも知れない。2人を含めクラスメイトはほぼ全員が、黒板アートを消した犯人は牟児津だと思っている。今でさえまともに話ができるかさえ怪しい。
「ムジツさん?どうしたの?」
「あっ……えっと、クラスメイトの、箱根さんと、砂野さんだよ。こっちはえっと……幼馴染みで1年生の瓜生田さん」
「どうもです」
横から瓜生田に声をかけられ、牟児津は我に返った。あまりに唐突過ぎて、流れも前提もない無茶苦茶な紹介になってしまった。全く動揺していない瓜生田に対して、つまようじのようなシルエットの
「どうしたの牟児津さん。謝る気になったの?」
「いや、だから私はやってないんだって……本当に」
「でも時園さんが見たって言ってるし」
「時園さんの話はそうだけど、見間違いかも知れないじゃん!私はその時間は家にいたんだってば!」
「ああ。『今日のあんこ』観てるって言ってたわね。私もいつも観てるのよ」
「私も観てるんですよ。ほっこりした気分になりますよね」
素気ない態度をとる箱根に対し、穏やかな砂野は呑気にテレビの話に食いついた。意図的か否か、瓜生田がさらに乗っかって話の流れを穏やかな方向に持ち込む。ここがチャンスとばかりに、牟児津は『今日のあんこ』の話を畳み掛けた。
「いいよねあれ。今日は近くのお店だったし」
「そうね。いつもはここから遠かったり高かったりするのにね」
「たまにデパートでお母さんが買ってきてくれると、もうめっちゃ嬉しくて」
「分かる〜!むしろ一緒に行って買ってもらったりしてるよ、私」
「ちょっと、砂野さん。仲良く話してたらまずいって。時園さんが知ったら……」
「えっ……時園さんに何か言われてるの?」
「うっ」
小声で言ったつもりが、牟児津にはばっちり聞こえていた。箱根は苦々しい顔をしたが、さほど間をおかず、観念したようにため息を吐いた。変に隠して面倒を増やすよりも、正直に言ってしまった方がいいと判断したのだろう。
「時園さんにね、牟児津さんがきちんと謝るまでは関わらないようにしようって言ったの。見学日の準備もそうだけど、それ以外も色々と。こんな事件起こした人とは……ちょっと、って」
それは、牟児津が最も怖れていたことだった。同時に、そうなることも不思議ではないと感じた。時園は本気で牟児津が犯人だと思っているのだ。クラス一丸となって取り組んでいたものを台無しにしたのだから、クラス一丸となって排除しようとするのは、自然なことに思えた。しかしクラス内のグループから省かれることは、この学園では数少ない、何の部活動や委員会にも所属していない牟児津にとって、人とつながる場所が失われることになる。充実した学園生活を送る上では死活問題である。
「い、いやいやいや!待って!本当に違うから!私じゃないから!」
「うん。私たちも、実は牟児津さんじゃないんじゃないかって思ってるの」
「へ?」
「でも時園さんがあまりにも言うから、なかなか言えなくて」
「ハブるのとか、ちょっと陰湿だなって思うし」
どうやらこの2人はなんとなく時園に賛同しているだけで、牟児津を怪しいと思っているわけではないらしい。むしろ、自分の考えに固執して暴走気味になっている時園にうんざりしている節もあるようだ。
しめた、と牟児津は思った。この2人になら、自分の話を聞いてもらえるし、話を聞くこともできそうだと感じた。ここにいるということは葛飾の調査から漏れているだろうから、ここで捕まえておかないと大事な情報を取りこぼしてしまうかも知れないとも感じていた。
「じゃ、じゃあ、あのね、実は私、自分で犯人見つけようと持って色々調べてるんだけど」
「教室にいないと思ったら、そんなことしてたの?」
「うん。私が無実だって証明するのに、それが一番手っ取り早いでしょ」
「そうだけど……行動力ヤバいね」
「それで、2人が知ってることを教えてほしいんだ。別に誰が犯人かとかじゃなくて、なんか気になったこととかいつもと違うこととか、事件に関係ありそうなことなんでもいいから教えて!」
案の定、牟児津はクラスメイトに呆れられた。どう考えても教室に残って無実を訴えるか飾り付けの準備を手伝う方が信頼を取り戻すには確実に思えるが、牟児津はそうしないことを選んだ。呆れはしたが、そこまで必死になる牟児津の姿は少なからずクラスメイトの胸を打ったようだ。箱根と砂野は顔を見合わせてから話し始めた。
「いつもと違うことって言うと……足立さんかな?」
「そうだよね」
「え、足立さん?」
つい先ほど話していた人物の名前が出てきて、牟児津も瓜生田も少し驚いた。牟児津の言う通り、この事件の関係者ということもあって周囲から注目を浴びているらしい。本人の性格を考えると気の毒なことだ。
「足立さん、やっぱり落ち込んでたよね」
「うん、落ち込んではいた。けど気になるのはそこじゃなくて、ここ最近のことなんだよね」
「どういうこと?」
牟児津はてっきり、黒板アートが消されてしまって足立が落ち込んでいることを言っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。箱根はより詳しく足立のことを話した。
「一週間くらい前に黒板アートを作りはじめて、足立さんも最初はすごく張り切ってたの。すごい細かいところまで色とか線とか決めてて、私たちも圧倒されちゃうくらい」
「2人も美術部でしょ?全部足立さんが決めてたの?」
「完成予想図も足立さんが書いてきたし、毎日出来映えをチェックしてたね。すごい熱意だった」
「それだけ魂を込めたものが消されちゃあ、そりゃあ落ち込みますよね」
「う〜ん、でもなんか、そうじゃない気がするんだよね」
「そうじゃない?というと?」
「最初は足立さんも一生懸命だったんだけど、なんか最後の方はどんどん勢いがなくなっちゃって……指示が雑になったよね」
「うん。私も好きに描いていいよって言われた。今までそんなことなかったのに」
どうやら足立は、絵が完成に近付くにつれて情熱を失っていったようだ。絵を描くことに詳しくない牟児津と瓜生田には分からないが、途中で飽きてしまったり思い通りにいかずに悩んだりというのは、よくありそうなことだと感じた。箱根と砂野に聞いてみると、そういうことは考えにくいという。
「足立さん、すごく真面目な人だから」
2人から聞き出せた情報は、それくらいだった。時園が暴走気味なことは、昼休みに少し様子を見ただけで分かったことだ。牟児津は箱根と砂野に深く礼をして道を譲った。警備室で得られる情報はなかったが、思いがけずクラスメイトから話を聞くことはできた。結果的に無駄足にはならなかったということだ。
「よかったねムジツさん。クラスに帰るところがあって」
「うん。なんかちょっと落ち着いた気がする」
「そっかあ。じゃあ、次行くところなんだけど、職員室に行ってみない?」
「職員室?なんで?」
「いつもと様子が違う人がいたら、先生の方がよく分かるんじゃないかなって思って」
期せずしてクラスメイトから手に入れた情報によって、牟児津と瓜生田は捜査の方向性を得ることができた。次に向かう場所への足取りは、今までになく軽かった。
職員室は放課後でも人の出入りが多くがやがやとしている。部活動や放課後活動で教師に用がある生徒や、逆に生徒に用がある教師がいて、とにかく誰もじっとしていないのだ。2人が用のある教師が職員室にいるかは分からなかったが、少なくともその足取りを掴むことはできるだろう。いずれにせよ話は聞けるはずだ。そう期待して牟児津は職員室のドアをノックし、中に入った。
「失礼しまーす……ってあれ、つばセンだ」
「失礼します」
「おう。牟児津、と瓜生田じゃん。どうした」
「こんにちわー」
「教室いなくていいの?」
「もうすっかり作業に集中してるからな。任せて大丈夫そうだから戻って来たんだ」
まるで友達と話すかのように、牟児津は大眉に遠慮がない。大眉は正担任である石純と比べて若いせいか、なんとなく教室全体から舐められているような雰囲気を感じている。実際、一部の生徒からは舐められている。だがクラス全員、授業は真面目に聞いているので、変に壁を作られるよりはマシ、と考え大眉は敢えて注意せずにいる。
「ふーん。まあいいや。ずみセンいる?」
ずみセンとは、正担任である石純が一部の生徒から呼ばれているあだ名だ。牟児津は悪気なく尋ねたのだが、大眉は少し苦々しい顔をして首を横に振った。
「石純先生は今日お休みだぞ」
「はっ!?聞いてないんだけど!?」
「午後の授業のときに言っただろ」
「ムジツさんそのとき放心状態だったんですよ。でも急にお休みですか?なにか退っ引きならない事情でもあったんですかね」
「さあな。まあ石純先生も色々大変でいらっしゃるだろうから、お前らあんまり詮索すんなよ」
「はーい」
今日の牟児津の思惑は悉く上手くいかないようだ。あてにしていた担任教師が、今日に限って休みとは。しかし自分のクラスで大変な事件が起きているのだから、休みだろうと飛んできてもいいのではないか、と牟児津は不満を覚える。しかしいないものは仕方がない。予定していた話は聞けそうにないが、代わりに話を聞ける相手が目の前にいる。
「じゃあ、つばセンでもいいや」
「失礼だなお前」
「なんか最近、いつもと違う感じの人いなかった?うちのクラスで」
「はあ?いつもと違う感じってなあ……いやだから、そもそもお前らはそういうことしなくていいんだよ」
担任の石純ならば、クラス全員の様子を把握しているかも知れないと思っていた。そうすれば、足立の他にも様子のおかしい生徒や、放課後の見学日準備を快く思っていない誰かの様子にも気付いていたかも知れない、と牟児津は考えた。そのため話を聞きに来たのだが、あいにく石純は不在だった。そこで副担任である大眉に同じ質問をしてみたのだった。
しかし大眉は質問に答えるどころか、牟児津と瓜生田があちこち回って事件の調査をしているらしいこと自体を問題視していた。風紀委員に任せていては自分が疑われるから、牟児津は自分で捜査をすることにしたというのに、それをやめろと言う。
「校内で起きた事件の解決は風紀委員の仕事だろ。もし風紀委員の手に負えなくても教師が手伝うし、お前たちが関わることじゃないんだ。そんなことより、クラスに戻って作業を手伝った方が絶対に良いぞ」
「いやでも……私めちゃくちゃ疑われてるし……」
「それなら俺が一緒に行って、手伝わせてもらえるように頼んでやるよ。俺は、黒板消したのはお前じゃないって思ってるよ」
正論に聞こえた。教師として、こういうときにはそう言うべきだという手本のような返答だと思った。それだけに瓜生田は、それが大眉の本心ではないと見抜いていた。ひとまずこの場を済ませようというその場しのぎの言葉だ。
こういうときに何をすればいいか、瓜生田は心得ている。教師としての大眉を切り崩すことは難しい。それならば、人間としての大眉を切り崩せばいいのだ。瓜生田は牟児津と大眉の間に立ち、牟児津には聞こえないように言った。
「そんなこと言わずに教えてくださいよ。翼さん」
最後に名前を呼ぶとき、瓜生田は敢えて言い聞かせるような言い方をした。それが何を意味するかは、瓜生田と大眉にはよく分かっている。
大眉は、大学生時代から瓜生田の姉である
「お、お前……あのなあ」
「最近、お姉ちゃんとどうですか?母も心配してるんですよね。そろそろ、そういう頃合いなんじゃないかって」
「い、いやお前……それはその、そういうのはそれぞれの家庭の話であって、生徒が首を突っ込むような話じゃなくてだな」
「私はお姉ちゃんの妹で、将来は翼さんの義妹になるんですよ。首も肩もつま先も最初から突っ込んでます」
「そりゃそうかも知れんが……こんなところでそんな話は……」
「いけずなこと言ってると、翼さんがいじめるってお姉ちゃんに言っちゃうかも知れないですね」
「いじめてないだろ!やめろよ!」
秘密を利用した瓜生田の脅迫は大眉に非常に良く効く。瓜生田李子は妹に甘く、数年来の恋人に比しても妹のことが愛おしい。したがって、妹から恋人へのクレームはそのまま受け止められてしまう可能性が高い。2人が不幸になることは妹としても望むところではないが、姉に対して強い態度に出られない大眉を強請ることはできる。ここぞというときにだけ使う、瓜生田の切り札だった。
「でもお姉ちゃんはきっと信じますよ」
「……まあ、李子さんそういうところあるからなあ」
「ムジツさんの質問に答えてくれるなら、翼さんに優しくしてもらったってポイント稼がせてあげてもいいですよ」
「いっちょまえに取引なんか持ちかけやがって……!」
「ダメですか?」
「答えるに決まってんだろ!」
大眉のこのチョロさが面白くて、瓜生田はつい必要以上に大眉をいじめたくなってしまう。同時に、大眉に教師としてのポリシーをあっさり捨てさせるほどベタ惚れされている姉が、大変誇らしい気分になるのだった。しかしやり過ぎると今度は自分が姉に怒られるので、ほどほどでやめておくのである。その加減も心得たものだった。
「ムジツさん。大眉先生がなんでも聞いてって」
「やったー!なんで!?」
「気が変わったみたい」
何がどうなったのか牟児津は知らないまま、大眉が質問に答えてくれるらしいことをよく考えずに喜んでいた。牟児津のこの単純さも、瓜生田は微笑ましく感じていた。
「で、質問は?」
「さっきも言ったけど、ここ最近でいつもと様子が違ったりおかしかったりした人いなかった?」
「なんでまたそんなことが気になるんだ」
「さっき箱根さんと砂野さんに会ってさ、足立さんが最近元気ないって聞いたから」
「足立が?」
僅かに大眉の声が大きくなった。驚いている、というよりは意外そうにしているという感じだ。それが何を意味しているのか、2人には分からない。ただ、少なくとも大眉は足立の様子には気付いていないらしいことは予想できた。
「つばセンから見てどうだった?」
「いや……別にそういう感じはしてなかったけどな。箱根と砂野は何か心当たりあるとか言ってたか?」
「ううん。なんでか分からないってさ」
「そうか……」
「大眉先生、生徒のことあんまり見てないんですか?」
「いや見てるよ。教壇からだと教室の全部がよく見えるんだぞ。牟児津がよく早弁してるのとか」
「げえっ!?見えてんの!?ってかよくしてねえし!たまにだし!」
質問には答えてもらえたが、代償として牟児津は早弁をバラされてしまった。今までバレていないと思っていたことが実はバレていたと知ったときの焦りと恥ずかしさで、かいたことのない汗が背中を伝うのを感じた。それと同時に、大眉にはきちんと教室全体がよく見えていることが分かった。
それでも牟児津が望んだ手掛かりは得られなかった。それどころか、先ほど聞いた足立の様子がおかしいという話も、大眉にとっては気付かない程度のことだったらしい。ということは、元気がなくなったというよりは単純に絵に対して飽きたか考え方が変わったということだろうか。考えれば考えるほどわけが分からなくなる。どこまでが正しい情報でどこからが間違った推論なのか、その判断もつかない。
「外れだったみたいだね、ムジツさん」
「うう〜ん、いい考えだと思ったんだけどな……」
「もう結構時間経ってるし、一回教室に戻る?葛飾先輩の調査もいい具合になってるんじゃない?」
「お前ら、葛飾まで巻き込んでんのか。あいつは風紀委員なんだから迷惑かけるなよ」
「違いますよ。葛飾先輩には、あくまでご自分の意思でご協力いただいてるんです」
「強いてるヤツの言い方だなそれ」
歩き回って話ばかり聞いていたので、一度整理した方がいいかも知れない。情報が詰まってきて重たく感じる頭を押さえて、牟児津は職員室を後にした。
瓜生田の言う通り、葛飾が調べた情報も併せて考える必要がありそうだ。これまで聞いた話は事件の周縁をなぞるような情報ばかりで、中心である教室の話が足りていない。日もずいぶん傾いてきて、そろそろ外で活動している部は終わる時間を意識し始めるころだ。今日集めた手掛かりをまとめるためにも、2人は葛飾と合流して話し合うことにした。
2人が教室に戻ったとき、葛飾は教室で得られた情報を整理しているところだった。風紀委員会に報告するにあたり情報の要不要や軽重をまとめておかなければならず、葛飾はいつもこの作業に手こずっている。戻った2人はさっそく葛飾に声をかけた。
「葛飾先輩、お疲れ様です」
「あっ。瓜生田さん。お疲れ様です、牟児津さんも」
「お疲れ。どう?なにか分かった?」
「おおよそは既に風紀委員が調べたことと重なりますけど、いくつか新しい発見もありますね。お二人も何か分かったことはありますか?」
「う〜ん、あるようなないような……。取りあえずさ、一旦他んとこ行かない?」
牟児津が教室に入るや否や、葛飾以外のクラスメイトが刺し殺すような視線を向けてきた。箱根の話では無視されると聞いていたが、むしろ強く意識しているのが丸わかりだった。さすがに居心地が悪すぎて、牟児津は葛飾の手を引いて早々と教室を出た。
「どっか別の教室で話そうよ」
自分のクラスだというのに、今の牟児津には一秒と長くいられない息苦しい場所になっていた。他に腰を落ち着けて話せる場所はないかと葛飾に尋ねる。それならと葛飾は、引かれていた手で牟児津の腕を握り返して先を歩き出した。
葛飾が2人を連れて来たのは、2人にとって見知った教室だった。今朝までは入ったこともなかったが、今では中にある机と椅子の配置までよく知っている。そして、昼頃にはちょうど建物の陰になっていたのに、日が傾いてきた今の時間はモロに西日が差すことを知った。
「
「ここなら他に人も来ないだろうから、秘密の話をするにはぴったりですね」
「別に私は秘密の話をするわけじゃありません。捜査情報なので慎重に扱うべきだと思っただけです」
「今朝はちょうどこの辺りに川路先輩がいて……」
「うりゅやめて〜〜〜!思い出すだけでお腹痛くなる〜〜〜!」
教室に入った3人はカーテンで陽を遮り、今朝と同じように机と椅子を並べてそれぞれ席に着いた。ちょうど今日の昼休みに牟児津が尋問されていたときの席順で、川路が葛飾に代わった格好になった。狭い教室だが圧迫感は昼休みのときより薄く、やはり川路の眼力があの息苦しさの原因だったのだと、牟児津は改めて感じた。
葛飾は手帳を開き、教室で調べた情報をまとめるため2人に共有する。教室の捜査を任された葛飾は手始めに、時園が見たという犯人像について深く尋ねたらしい。
「まず時園さんの証言についてですが、犯人が髪を結んでいるのを見たと仰っていましたが、正確には少し違います」
「え?そこ重要なんですけど!私そのせいで疑われてるんですけど!」
「まあまあムジツさん、落ち着いて」
「正確には、犯人が角を曲がって走り去るときに、髪の束がなびくのを見たそうです。ですので、牟児津さんのように小さく束ねているような髪型とは違うかと」
「おいおいおいおい!そういうの後から言うのアリか!散々人のこと疑っといて!っていうか決めつけてたろ!」
「でもまあ髪型なんて結び直せばいくらでも変えられますからね」
「はい。時園さんもそう仰っていました。ちなみに赤っぽい髪色だったことは間違いないようです」
「赤系の髪の人はムジツさん以外にいないからねえ」
「それでその後、ドアを開けて教室に入ったら黒板アートが消えていたと」
自分が疑われる原因となった時園の証言が、ここに来て内容が少し変わった。それは牟児津にとって自分の疑いを晴らす絶好のチャンスかと思われた。しかしよく聞いてみれば、誰でもいつでも変えられる髪型に少し違いがあっただけで、一番重要な髪色については相変わらずだった。牟児津は自分の髪を恨めしげに見つめる。
「あと、足立さんにも少しお話を伺いました」
「なんか、箱根さんと砂野さんは元気がなかったって言ってたけど」
「でも大眉先生はそんなことないって言ってたよ?」
「私が見た限りでは、元気がないって感じはしなかったですね。代わりの飾り付け作りはちょっと張り切ってる感じもしましたよ。珍しく髪をあげて腕もまくって」
「ええ……人によって話違いすぎる……。どういうこと?」
どうにも足立の様子に関しては、証言する人によって内容が全く異なる。落ち込んでいるという声があれば、いつもと変わらないという声もある。はたまたいつもより張り切っているという声も出て来てしまった。足立は意外に気が変わりやすい質なのかも知れない。
その他に葛飾が集めた手掛かりは、牟児津と瓜生田が既に知っている手掛かりと重なるものばかりだった。教室で直に得られる情報に期待していただけに、2人の落胆は大きいものだった。その後は牟児津と瓜生田が持っている情報を葛飾に共有し、ひとまず手掛かりを葛飾の手帳に書き出した。
「う〜ん……なんじゃこりゃあ!分からん!葛飾さん風紀委員でしょ!こんだけ調べたらなんか分かんないの!?」
「風紀委員は探偵じゃないんですから、手掛かりからいきなり真相を当てたりしませんって。ちゃんと捜査を続けて、何か知ってる人がいれば話を聞いて、そういう地道な努力の先に解決はあるんです」
「私の平和な学園生活が脅かされる〜〜〜!時園さんの見間違いであってくれ〜〜〜!」
「風紀委員としてもお話は何回も聞いてますし、さすがにもう訂正や間違いはないと思います」
「くそぉ……」
頭を抱えて机に突っ伏した牟児津は、新聞部でもらった時園への取材録を睨み付ける。全てこの証言のせいで、自分はいま大変な目に遭っているのだ。クラス全員に牟児津を無視するように呼びかけるほどのことをしておいて、まさか時園の自作自演ということもないだろう。もはや牟児津は、時園の証言をいかに違う解釈ができないかということを考えていた。
──取材録 記入者:益子 実耶──
・事件概要
高等部2年Dクラスで事件発生。黒板アートが何者かに消される。発見者は同クラス生徒の時園葵。学生生活委員。毎朝1番に登校している。
黒板アートについて。高等部見学日に向けて準備。クラスの美術部(足立)が提案。クラス内有志が一週間かけて教室後ろの黒板に制作。バラのイラストの予定だった。
・発見者(時園葵)インタビュー
───黒板が消えているのを発見してどう感じました?
時園:驚きました。昨日下校するときには絶対にあったのに、朝になったら消えてて、わけが分かりませんでした。
───犯人らしき人物を見たらしいですね?
時園:今朝教室に入る前に、廊下の向こう側に走って行く人影を見ました。きっと、犯人だと思います。
───なぜそう思いましたか?
時園:教室のドアが開いていたので、誰かが教室から出て行ったんだと思いました。中には誰もいなかったのにカーテンが閉まってましたし、床がチョークの粉まみれでした。絶対に誰かがいたんだと思って、怖かったです。
───犯人の特徴は?
時園:角を曲がるぎりぎりだったので顔も学年も分かりませんでした。でも髪が赤っぽくて、結んでいたと思います。
───犯人に言いたいことは?
時園:なぜこんなひどいことをしたのか、きちんと説明してください。こそこそ隠れて逃げるなんて卑怯です!正々堂々、ちゃんと出て来て謝ってください!
了
・風紀委員(川路委員長)のコメント
高等部見学日は毎年、中等部・高等部双方にとって多くを学ぶことができる日だ。その日を直前に控えたタイミングでこのような事態が起きたのは、風紀委員としても深刻に受け止めている。準備してきた生徒の心中は察するに余りある。犯人確保及び真相究明に向けて全力を挙げていく所存だ。
・その他特記事項
事件が起きた2年Dクラスには、前述の目撃証言に合致する生徒が在籍している。今後、風紀委員が個別に話を聞く予定。
「……んぅ?」
牟児津の口から音が漏れた。それは意識して出したものではない。牟児津の意識は声を出すことよりも、手にした文章の違和感に集中していた。一度は読み流したインタビュー記録だったが、改めてそのひとつひとつの意味を考えて読むと、見過ごせない矛盾が潜んでいるような気がした。
「どうしたのムジツさん?何か分かった?」
「いや分かったとかじゃないけど……なんか、これおかしくない?」
握り締めていた取材録を、瓜生田と葛飾に見えるよう机に広げる。葛飾からボールペンを借り、違和感を覚えた箇所に赤い下線を引いた。視覚的にはっきりと示すことで、牟児津自身にもぼんやりとしていた違和感の形が分かってきたような気がした。
牟児津が線を引いたのは、時園のインタビュー記録の一部分だった。時園が、走り去る人影が犯人だと断定した理由を述べている箇所の、最初の発言だ。
「ここで時園さん、“教室のドアが開いていた”って言ってるじゃん」
「それがなにか?」
「葛飾さん、さっきのメモ見せて」
先ほど葛飾が読み上げた、時園の証言をより詳細に聴取したメモを広げ、取材録の隣に並べる。二つの文章を見比べながら、違和感の在処をダウジングするように指でなぞる。そして、牟児津の指が止まった。
「あ」
その2つの記述が並んだとき、牟児津は違和感の正体が分かった。それほど大袈裟なものではない。その違和感に対する答えは容易に思い付く。
「これだ。葛飾さんが聞いてきた、時園さんが教室に入るときの証言」
「はあ。ドアを開けて中に入ったそうです」
「それって変じゃない?なんで時園さんはドアを開けなきゃいけなかったの?」
「……ああ。そっかあ」
横で聞いていた瓜生田が、牟児津の言いたいことをいち早く察して声を漏らした。未だ頭の上でクエスチョンマークを踊らせている葛飾に、そして違和感を上手く言葉にできない牟児津に分かるよう、瓜生田は牟児津の質問を改めた。
「時園先輩が登校したとき、犯人が逃げたと思われるドアは開いていた。その後、時園先輩はドアを開けて教室に入った。ムジツさんは、2回ドアが開けられてるのがおかしいと思ったんだね」
「そう!さすがうりゅ!」
「教室には2つドアがあるじゃないですか。時園さんは教室後ろのドアから入ったんですから、犯人は教室前のドアから出て行ったというだけのことじゃないですか?」
「いや、普通後ろのドアから出て行くでしょ」
「はい?」
質問の答えは容易に導けた。教室の出入り口が1つではないことは、同じ学園に通う生徒なら誰でも知っていることだ。しかしだからこそ、牟児津にとってはその後に続く質問の答えが分からなかった。
「ムジツさん。どういうこと?」
「だって黒板アートは教室の後ろにあったんだから、それを消して逃げようと思ったら、普通後ろのドアから出て行くじゃん?なんでわざわざ黒板からも階段からも遠い前のドアから出てくんだろう、と思って」
「それは……なんででしょうね?」
「あとこの、カーテンが閉まってたっていうのもよく分かんないんだよなあ。見つかりたくないならさっと消してさっと逃げればいいのに、なんでこんな余計なことしたんだろ」
まさか偶然にもカーテンが閉められたまま一晩中放置されてしまい、偶然その日に限って事件が起きたというわけでもないだろう。それはあまりにも都合が良すぎる。出来すぎている。そこにはきっと、犯人の意図が絡んでいるという確信が、牟児津にはあった。
見当もつかなかった真相への道に、一縷の光が差したような気がした。折れる寸前まで叩きのめされていた牟児津の心が、その光に向けて再び勢いを取り戻した。脳の中でぐるぐる巡る思考を、口にして自分に言い聞かせつつ整理していく。
「犯人は黒板アートがあることを知っていた人。朝早く登校してきて、教室に入ってから黒板を消して……カーテンを閉めて……教室の前に移動した?なんのために?」
小さな疑問は簡素な答えで解決する。一対となった疑問と答えは互いにつながり、絡み合って巨大な謎を形作る。どう並べても、どう結びつけても、どう言い換えても、最後には同じ疑問に行き着いて道を塞ぐ。すなわち、“なぜそうしたのか?”への答えが見つからないのだ。
なぜ犯人は黒板を消してから教室内を移動したのか。なぜ犯人は余計に時間をかけてまでカーテンを閉めたのか。そもそもなぜ犯人は黒板アートを消したのか。具体的で瑣末な疑問から、抽象的で根本的な疑問へ。考えるほどに問題の全容が朧気になっていく。
「考えてばかりいても仕方ないですよ」
その一言で、牟児津の思考が加速を止めた。葛飾は壁にかけられた時計に目をやる。閉校時刻にはまだ早いが、葛飾には今日の調査結果を風紀委員に報告する義務がある。他の2人よりも使える時間には制約があるのだ。
「やっぱり風紀委員に任せてください。牟児津さんが犯人でないことは、私たちがきちんと証明してあげますから」
「でも委員長が私のこと疑ってんだよ。無理じゃん」
「アリバイもありますし、きちんと根拠を示してお話しすれば大丈夫です。お二人から頂いた手掛かりは、善意の生徒からの情報提供として報告しておきます」
「ムジツさん、今日はもうこれくらいでいいんじゃない?」
クラスメイトから風紀委員へ、捜査協力者から一般生徒へ。葛飾が態度を改めると同時に、牟児津と瓜生田の立場もその特殊性を失った。葛飾には背景から浮き上がって見えていた2人の姿が、風紀委員の目に変わることでその他大勢の中に沈んで混ざっていく。そんな風に自分の言葉が力を失っていくことを、牟児津は感じていた。
「じゃあ私は風紀委員室に行きます。手帳を返してください」
「う、うん」
机に広げていた手帳に、葛飾と牟児津が同時に手を伸ばした。
「あっ」
牟児津から葛飾へ。葛飾から牟児津へ。正反対に働く力を同時に受けた手帳は、そのどちらの手に収まることもなく、机の上を滑って落ちた。パラパラとページがめくれて、隙間から2つの色が飛び出した。
「ごめん葛飾さん」
「いえ、ごめんなさい牟児津さん。私が拾いますから大丈夫です」
思わず席を立った牟児津を、葛飾は手で制した。床には、葛飾の手帳から飛び出した四角い“黒”がそのまま貼り付いていた。
「葛飾さん。その黒いのなに?」
「これですか?これは緑シートですよ。参考書の付録です。単語テストの勉強のために、いつも持ち歩いてるんです」
「普通赤じゃない?」
「よくある単語帳なら赤でいいけど、教科書の字は消えないでしょ?教科書に赤いマーカー引いて緑シート被せると、こうやって見えなくなるんだよ」
「ふーん」
瓜生田が取材録の余白にマーカーを引いて実演してみせた。説明した通り、赤地に緑を重ねると黒に見えた。牟児津は普段赤シートしか使わないので、当然のように説明されると、自分が非常識な人間に思えて心がざわつく。
その話を聞いている間も、葛飾はなかなか頭を上げない。教室の床を覗き込みながら、何かを探しているようだ。
「なにしてんの?」
「赤シートが見つからないんです〜!この辺に落ちたはずなんですけど……!」
「カーテンの影に紛れてるんですね。開けますよ」
どうやら葛飾の手帳から飛び出した赤シートは、カーテンが落とす赤い影の中に滑り込んで葛飾の視界から消えたらしい。瓜生田がカーテンを開けると、赤シートはたちまちその境界を明瞭にさせた。まるで、カーテンの影がそこだけ切り取られたかのようだ。
「……お?」
その様子をぼんやり眺めていた牟児津の頭で、一瞬何かが光った。その閃きを逃さないように、牟児津は頭の中で手を伸ばす。たったいま無意識に考えていたことを、意識の上に引きずり出す。
赤シートと緑シート。 消える赤い文字。 赤いマーカー。
陽の光。 カーテンの影。 色。 赤い色。
「あぁ……。そうかも」
牟児津の頭に生まれた閃きは、赤く光る火となっていた。進むべき先も見えない暗闇ではっきりと道を示す心強い灯火だ。その火に導かれるまま、牟児津はペンを手に取った。忘れてしまわないように、思考をそのまま書き出していく。
瓜生田と葛飾は、様子のおかしい牟児津を見つめながらも声をかけられずにいた。声をかけさせない雰囲気を、牟児津が発していたからだ。
ひとしきりペンを走らせてから、牟児津は手を止めた。前のめりになっていた体がふっと脱力し、背もたれに全体重を預ける。
「ムジツさん?」
「……あのさあ、うりゅ」
しばし天井を眺めたあと、牟児津は体を起こしてから言った。
「これって、できんのかな?」
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