第2話「どら焼き食べたいです」
「説明して。なんでこんなことをしたの」
「だ……だから、私はやってないんだってば。そんな早い時間に登校してないんだよ。そこの1年生の子と一緒に登校したから証明してくれるよ」
「なら私が見たのは誰なのよ!赤い髪を結んでる人なんて、このクラスでは牟児津さんしかいないでしょう!」
「そんなこと言われても私は本当にやってないんだって!」
私立伊之泉杜学園高等部2年Dクラスは、まさに修羅場と化していた。教壇に立たされた牟児津は、クラスメイトからの厳しい視線に晒されていた。怒りの感情を隠さない
時園は、喋るたびに揺れる空色のポニーテールが活発な印象を与えている生徒だ。しわのないワイシャツを一番上のボタンまで留めてリボンをかけ、七分丈のスカートを履いている。比較的制服の自由度が高い私立伊之泉杜学園では基準とされている格好だった。
足立はさらさらに梳かされた栗色の髪を肩の下まで伸ばしていた。横に流した前髪と大きな丸眼鏡で目元が見えにくくなっているせいで、隣の時園に比べて控えめな印象を受ける。時園と同じく七分丈のスカートに加えて、こちらはブレザーも着ていた。
葛飾によれば、時園は黒板アートが消えているのを最初に発見した生徒であり、同時に牟児津らしき人影を目撃した生徒でもある。つまり牟児津が疑われている原因である。もう一方の足立は、件の黒板アートの制作を主導していた生徒である。今回の事件においては、最大の被害者とも言える立場だ。
「それに、私にはその時間のアリバイがあるんだよ。ねえ?葛飾さん」
「へっ……は、はあ。そうですね。牟児津さんは、今朝放送された『今日のあんこ』の内容を正確に言い当てました。これを観ていたということは、朝8時には自宅にいたということです」
「そんなもの、そっちの証人っていう1年生の子から聞いてたのかも知れないでしょう。風紀委員はその程度のことでアリバイを認めるの?いい加減な仕事をされると困るのよ!ね、足立さん!」
「は、はあ……」
「ええ……そ、そんな……」
頼りにしていた葛飾は時園の反論に対応できず、涙目になって瓜生田の後ろに引っ込んでしまった。自信満々に用意していた切り札を一蹴され、あっという間に丸腰になった牟児津は頭の中が真っ白になった。
牟児津は甘く考えていた。論理的な説明さえできれば人は納得するものだと。第三者の言葉なら無条件で信じられるだろうと。事実と異なる疑いは必ず晴れるものだと。しかし現実は非情であり、牟児津の想定よりも複雑だった。すなわち、論理は感情の前に無力なのだ。人は信じるべきものを信じるのではなく、信じたいものを信じるということだ。
自分の体が支えを失い豆腐のごとく崩れていくような感覚に陥り、牟児津は気が遠くなった。ようやく我に
返ったとき、昼休みの終わりのチャイムが自らの敗北を告げるゴングのように鳴り響いているのが聞こえた。
「よーし授業始めるぞー。石純先生は今日お休みだ」
チャイムとともに教室に入ってきたのは、2年Dクラスの副担任を務める
「わあ大眉先生。こんにちわ」
「おう、瓜生田か。お前も早く教室戻れよ」
「はーい。じゃあムジツさん、またね」
「よし。それじゃまず単語テストやってくぞー」
クラスの異様な雰囲気を気にも留めず、大眉は無神経に生徒たちを撤収させて席に着かせた。斯くして、牟児津は自分への疑いを一切晴らせないまま、昼休みを終えることとなった。
午後の授業を、牟児津はこれ以上ないほど居心地の悪い環境で受けていた。実際に牟児津に目を向けていたのはひとつ後ろの席に座っているクラスメイトぐらいだが、牟児津にとってはクラス内の全員が自分を射殺さんばかりの視線を向けているような気がしていた。まるで針の筵で簀巻きにされているようだ。
終業のホームルームが終わると、一部の生徒は教室の前に集まった。黒板アートがなくなったため、高等部見学日までに教室の飾り付けを考え直す必要があるので、その相談をするのだろう。昨日までは牟児津もその中にいたが、今はとても参加する気にならない。それどころか参加させてももらえないだろう。だが、素知らぬ顔をして帰るのもなんとなく気が引ける。牟児津は逡巡していた。
「どうした牟児津?教室の飾りやらないのか?」
なんとなく帰り支度に手間取っているようなフリをしながら周囲の様子を窺っていた牟児津に、大眉はまたしても無神経に声をかけた。やれるものならやっている。やれないのに帰れないから困っている。それを察してくれ、と牟児津は胸の内で叫びながら、大眉に視線を返した。
「はあ……つばセンさあ、そういうところマジであり得ないわ」
「なにが」
「だからさあ──」
新しい飾り付けのアイデアを相談する集団には聞こえないように、なるべく自分が犯人ではないことを強調しつつ、牟児津は昼休みの顛末を大眉に説明した。おおよその事情を理解した大眉は口をへの字に結んでから、特に良いアドバイスも思い付いていない様子でたどたどしく応える。
「まあ、お前がやってないんだったら、行動で示すしかないんじゃないか?」
「どゆこと?」
「やっぱり、せっかく作った黒板アートが消されたんだから、みんなだって口で言ってもなかなか納得できないもんだよ。だから、飾り付けのやり直しを一生懸命手伝って行動で示せば、誤解も晴れるんじゃないか?」
「そもそも手伝わせてもらえないでしょ。空気的に」
はっきり言われてはいないものの、もはや牟児津は時園を中心とした集団──ひいてはこのクラス全体から爪弾きにされてしまっている。一度失った信用を取り戻すには、まず信用を取り戻すために行動することを認めてもらわなければならない。今の牟児津は、スタートラインに立つことすら許されていないのである。
牟児津は考えていた。このままでは残りの学生生活を、無実の罪を被ったまま過ごす羽目になる。なにがなんでも自分の無実を証明しなければならない。どうすれば論理だけで納得させられない相手を納得させられるのか。どうすれば、絶対に自分は潔白だと証明できるのか。
「あっ──」
そして、牟児津は閃いた。論理にも勝る感情──その感情にも勝る、絶対に疑いようのない証明方法を。
「そうじゃん!」
自分が無実であることは自分が一番よく分かっている。同じように、自分が真犯人であることは真犯人が一番よく分かっているはずだ。つまり、真犯人を見つければいいのだ。真犯人を見つけ全員の前で自白させてしまえば、必然的に自分の無実は証明されたことになる。
追い詰められた牟児津にとってこの閃きは希望であった。これから数百日と続くはずの平和で快適な学生生活を取り戻すには、それしか方法がないように思えた。その興奮に突き動かされるまま牟児津は立ち上がった。
「お。やる気になったか」
「違うよ。犯人見つけんの」
「は?」
「犯人連れてきて謝らせれば私がやったんじゃないってことになるじゃん」
「いや、それは風紀委員の仕事だろ?」
「あの人ら私のこと疑ってんだもん!任せてらんない!」
それだけ言い残して牟児津は教室を飛び出した。大眉が廊下を走らないよう注意する暇もなく、牟児津は赤い髪を揺らして走り去ってしまった。
取りあえず走り出した牟児津だったが、真犯人に繋がる手掛かりなど持っていない。生徒指導室で川路が事件の概要を説明していたときは緊張でまともに耳が働いていなかったので、内容はほとんど覚えていない。走るほどに名案は希望的観測になり、気付けば単なる無茶な思いつきにまで萎んでしまっていた。興奮が冷めるにつれ足取りも鈍くなり、最後にはとぼとぼと惨めに廊下の隅を歩いていた。それでもその足は、無意識に1年生の教室がある階へと向いていた。こういうときに牟児津が頼れる相手はひとりしかいない。誰よりも心強い一つ年下の幼馴染みだ。
「あれ。ムジツさん。どうしたの」
雨に打たれる捨て犬もかくやという悲壮感を漂わせていた牟児津は、その声を聞いて顔を上げた。目の前には、帰り支度を済ませた瓜生田が心配そうな顔をして立っている。その姿を見た牟児津は、いくらか元気を取り戻した。
「うりゅ……あのさ、昼休みのことなんだけど」
「ああ。大変だったね」
「あれさ。どうやって私の無実を証明しようかって考えてて、そんで、真犯人捕まえるのが一番いいんじゃないかって、思ったんだけど。どうかな?」
「そっかあ。真犯人かあ。それは確かに分かりやすいね」
「そ、そうだよね!で、あのさ、取りあえず何かしなきゃと思って来たんだけど……どうしたらいいかな?」
我ながら間抜けな質問だ、と牟児津は自嘲気味に笑った。一時の思いつきで後先を考えずに行動し、自分ひとりでは何も決められず年下の幼馴染みに頼るなど、あまりにもみっともない。自分がそう思うのだから、他人が見れば一入だろう。
だが、そんなみっともなささえ、この幼馴染みは受け入れてくれる。それが瓜生田李下という人間の器の広さであり、甘さであり、牟児津にとっての救いだった。
「じゃあ私も手伝ってあげるよ。ムジツさん困ってるみたいだし。あと面白そうだから」
「マジ?ありがとう!やっぱり持つべきものはうりゅだ!」
ずぶ濡れの犬はすっかり元気を取り戻し、心強い味方を手に入れることに成功した。斯くして、牟児津と瓜生田は黒板アートを消した真犯人を突き止めるため、行動を開始するのだった。
「よしよし。それじゃあまずはムジツさんのクラスに戻ろうか」
「えっ!?マジで言ってる?」
「マジマジ。事件解決のためには、まずどんな事件か知らないといけないからね。川路先輩はざっくりとしか教えてくれなかったし。だからこういうときは現場を調べるのが一番だよ。手掛かりがあるかも知れないし、時園って先輩の話も聞きたいし」
「いや……それは厳しいと思うよ。私いまクラスで完全にハブられてるもん」
さすがと言うべきか、何をすべきか見当もつかなかった牟児津と違い、瓜生田はすぐに具体的な行動を提案した。しかしそれは、牟児津にとって極めて高いハードルを超えなければならないことだった。グループから追い出されていることに加え、自分で教室を飛び出した手前、どんな顔をして戻ればいいか分からなくなってしまった。牟児津は考え無しの行動をいまいちど後悔した。
「そっかあ。それじゃあ、お昼にいたあの風紀委員の……葛飾先輩だっけ?あの人は残ってる?」
「風紀委員だし事件のこと調べるために残ってると思うよ」
「なら、教室のことは葛飾先輩にお願いして、私たちは他のところを調べに行けばいいね」
「他のところ?」
「どっちにしても一回ムジツさんの教室に戻らないとだね。ほら行くよ」
「うげ〜!気が重てえ〜!」
駄々をこねる牟児津を引きずって、瓜生田は牟児津が来た道をずんずんと戻っていく。嫌がりながらも瓜生田の言うことに従うしかない牟児津は、教室の前まで戻って来ても瓜生田の陰に隠れたままだった。
時園たちは会議の結論が出たらしく、何やら作業をしていた。手元には紙やテープ、糊と鋏が見える。残された時間が少ないため、手軽にできる飾り付けに変更したようだ。それを見た牟児津は、自分に責任はないもののどこか侘しい気分になった。昨日までクラスに満ちていた高等部見学日への期待や高揚感は一切なく、毎年の恒例だから何かしなければならない、という妥協と諦めの混じった義務感だけが残っていた。
「すみませーん。1年Aクラスの瓜生田です。葛飾先輩はいらっしゃいますかー?」
そんな教室に入るのはとても耐えられないと、牟児津は葛飾を呼ぶ役目を瓜生田に押しつけた。自分はクラスが瓜生田に注目している隙に教室に入り、机に残していたスクールバッグを引ったくるように持ち去って再び教室の外に出た。自分のクラスだというのに、完全に不審者の挙動である。
バッグを手にした牟児津が瓜生田のもとに戻ると、ちょうど葛飾が教室から出て来たところだった。案の定、葛飾は手帳とスマホのカメラを手に、現場の捜査をしていたところだったようだ。
「お忙しいのにお時間頂いてすみません葛飾先輩」
「いえいえ。その節はどうも瓜生田さん。何か御用ですか?」
「私じゃなくてムジツさんからお願いがありまして」
「牟児津さんから?」
牟児津は、瓜生田がそのまま情報提供のお願いをしてくれるものだと思っていたので、いきなり自分に話を振られて肝を冷やした。しかし、元はと言えば牟児津の思いつきによることなのだから、牟児津の口から依頼するのが当然の筋である。瓜生田は何も言わなかったが、表情だけで牟児津にそう語っていた。牟児津は覚悟を決めて、葛飾に頭を下げた。
「いやあの〜、今朝の事件なんだけどさ、私たちも自分で犯人見つけるために色々調べてみようと思ってね」
「そうなんですか?牟児津さんはいちおう参考人ですし、あんまり不審なことしないでおいた方がいいと思いますけど」
「めちゃくちゃ疑われてるんだからもうこうするしかないじゃん!ってことだから、色々調べてくれてるそれ、後で私たちにも教えて!」
「え、ええ……いや、捜査情報をお話しするのはちょっと……」
「あと時園さんとか足立さんとかに聞き込みもして!私じゃ話もまともにできないから!」
「いやだからそういうのは……」
「ね?ね?お願い!マジで一生のお願い!」
「やっ、ちょっと!こ、こまります〜!」
葛飾がはっきりとは断らないのを良いことに、牟児津はねちっこく葛飾に頼み込む。絡みつくようなその要求に、葛飾はきっぱり断ることもできず承諾することもできずに逡巡する。その様子を見て、牟児津だけでは葛飾の協力を得られないと見た瓜生田が、ささやかに力添えすることにした。そっと葛飾の耳に口を近付ける。
「協力していただけたら、塩瀬庵のどら焼き、奢ってあげますよ。ムジツさんが」
「ど、どら焼き!?」
その囁きに、葛飾は大きく反応した。実は葛飾は今日一日、ずっとそのどら焼きのことを考えていた。普段なら地方の老舗菓子店の銘菓や都心のデパ地下の高級和菓子など、物理的にも経済的にも高校生には手が出せないような商品が紹介される中で、今日に限っては奇跡的なほど身近で、かつ値段も手頃な商品の紹介だった。しかも都合のいいことに、塩瀬庵なら下校途中に立ち寄れる。
「よおく捏ねたしっとりつぶあんが〜……ほかほか香ばしいふわっふわ生地にはさまれて〜……食べれば口いっぱいに広がるお上品な甘み〜……」
追い討ちとばかりに瓜生田が耳元で囁く。葛飾の心は揺れた。葛飾の今月の小遣いでは買い食いができる余裕はない。瓜生田の提案は千載一遇のチャンスをものにする、まさに甘い囁きだった。美味しいどら焼きへの誘惑と風紀委員としての使命感。天秤にかけるまでもない。葛飾が選ぶ方は決まっていた。
「わっ……かり、ました……!どら焼き食べたいです……!」
「うそ!?やったー!ありがとう!でもどら焼きって何の話?」
「はいはい、ありがとうございまーす。それじゃあ教室で調べられることは葛飾先輩にお任せしますね」
勝手に牟児津の名前を使って契約に成功した瓜生田は、余計なことを話される前に2人を引き剥がした。ともかく、これで教室の捜査に費やすはずだった時間で他の場所を調べられる。真犯人の特定に向け、第一歩を踏み出した。
「あっ、で、でも、人には言わないでくださいね!川路先輩にバレたら怒られますから!」
「分かってるよ。私もあの人に怒られるの二度とゴメンだわ」
近付くだけで気が重くなる教室から離れる大義名分を得た牟児津だが、葛飾の忠告で一気に浮ついた心を落ち着かせた。川路にはバレないようにすると固く誓い、瓜生田とともにさっさと教室を離れた。ぐずぐずしていると今にも教室から時園たちが飛び出してきて、昼休みの続きをさせられそうな気がしてならなかった。
教室から離れた牟児津だったが、次にどうするべきかのビジョンは相変わらずない。葛飾に協力を仰ぐように提案したのは瓜生田だったし、それ以降の行動を考えているのも瓜生田だ。もはや惨めさも情けなさも恥ずかしげもなく、牟児津は瓜生田に堂々と指示を仰ぐ。
「で、うりゅ!次はどうしよっか!」
「そうだね。じゃあ……新聞部に行ってみようか」
「なんで新聞部?」
「あれ。ムジツさん知らないの?今朝の事件のこと、新聞部が号外配ってるよ」
「マジで!?」
「マジで」
そう言って、瓜生田はカバンから折り畳んだ紙を取り出し、牟児津の前で広げて見せた。そこには『2年Dクラス黒板アート消失事件!!』というセンセーショナルな見出しとともに、牟児津の写真が載っていた。重要参考人として風紀委員に連れて行かれたはずが、紙面では既に容疑者として掲載されている。牟児津が知らない間に、この事件は学園中で周知の事実になっているらしい。
「早く言ってよそれ!っていうかなにもらってんのそんなもん!もらうなし!」
「いやあ、ムジツさんが載ってたからつい。でも号外が刷られてるってことは、新聞部が事件について取材したってことだよね。たぶん川路先輩より優しく教えてくれるよ」
「ううん……それはそうかも。よし、じゃあ新聞部行こう。あとついでに文句も言ってやる!」
「お〜、昔のお笑い芸人みたい」
紙一枚でたちまち鼻息が荒くなった牟児津が、己の名誉回復のため新聞部の部室に向けて歩き出した。瓜生田はからからと笑いながらその後を追う。ころころ表情が変わる牟児津は、隣で見ていて実に面白い。今日は特に色々な表情が目まぐるしく変わっていくので、瓜生田にとっては家で過ごすよりよっぽど有意義で愉快な時間だった。
私立伊之泉杜学園では、生徒は人数さえ揃えば活動内容を問わず自由に部活動を立ち上げることができる。そのため多種多様な部が活動しており、文化系の部活動の部室はほとんどが高等部第4棟──通称、部室棟と呼ばれる建物に集約されていた。新聞部もその部室棟に部室を構えている。放課後は部活動が活発になる時間帯だが、新聞部の部室の前は閑散としていた。
磨り硝子が嵌め込まれた木製の扉は日に焼けて、部の長い歴史を感じさせる。実際には過去に部長を務めた生徒が趣味で付け替えたもので、新聞部の歴史はそれほど長くない。しかしその扉が見る者に与える印象と廊下まで漏れ出すインクと古新聞の臭いで、そこだけ時間の流れから切り取られたかのような異空間然とした雰囲気を醸し出していた。扉横の壁に掛けられた、毛筆で“新聞部”と書かれた掛札も、その雰囲気作りに一役買っている。
「どうしたのムジツさん」
牟児津は、その扉に張りつく自分の影と睨み合っていた。厳密には背後に立つ瓜生田の影であり、牟児津の影はその中に完全に取り込まれてしまっていた。
「なんか、いざ部室まで来たら緊張してきた……。こっちの方あんまり来たことないし」
「私が代わりにノックしようか?」
「い、いや!ここは私がやる!」
文句を言ってやると啖呵を切った手前、この期に及んで瓜生田にバトンタッチするのはいくらなんでも情けなさ過ぎる。ただノックするだけのことを躊躇している時点で、その程度の意地では挽回できないほど情けないのだが、瓜生田は敢えて触れずに暖かく見守る。深呼吸して息を整え、意を決して牟児津は軽く握った拳を振り上げた。
「あでえっ」
その拳より先に、牟児津の鼻頭が扉に触れた。扉が開いたのだ。反射的に間抜けな声が出た。後ろによろめいた牟児津は、つんと痛む鼻を押さえて、開いた扉に目を向けた。
開いた扉から現れたのは、墨色の長い髪を伸ばした女生徒だった。アイロンをかけたようにぴっちりとセンターで分けた髪が、広い額の両側をなぞっている。力強い大きな目と腕を捲ったワイシャツ姿からは、活発で爽やかそうな印象を受ける。扉の前に人がいるなど微塵も考えない勢いで部室から出て来たかと思うと、牟児津の顔を見て少しだけ眉を吊り上げた。
「おっとすまない。ぶつかったかな?」
「い、いえ。いや、はい。でも大丈夫です。えっと、ここって新聞部ですよね?」
「そうだよ。うちになにか用?あいにく、いま人が出払ってるところなんだ」
「あ〜、そうなんですね。じゃあ……どうしよっかな……」
「ちょっとお話を伺いたくて来ました。お邪魔してもよろしいでしょうか」
文字通り出鼻を挫かれた牟児津は、今日のところは勘弁してもらおうと帰る雰囲気を出そうとした。すかさず瓜生田がフォローに回り、話が終わるのを避ける。女生徒は考えるような顔をしながらも、まあいいだろうという心の声が聞こえるような表情で頷いてから、2人を部室に招き入れた。
「散らかっていてすまないが、適当な席に座ってくれ。落ちている新聞は気にしないでくれて構わない。どうせボツ記事だ」
部屋に入ると、廊下まで漏れていたインクと古新聞の臭いがいっそう強くなった。カビっぽい臭いまで混じっている。部室の中央には学習机を2列ずつ突き合わせて作った島がいくつか並び、それらを天井まで届く本棚が取り囲んでいる。床は束ねた古新聞やルーズリーフ等が崩れて足の踏み場もなく、人がようやく通れる分だけ踏みしめられて獣道が出来ている。
2人は適当な椅子を見繕い、ボツの新聞をどかして場所を席を確保した。2人を迎え入れたセンター分けの女生徒は、扉から入って正面奥の部長席に腰掛けた。牟児津の背筋が少し伸びる。
「改めて、私が部長の寺屋成だ。よろしく」
「部長さんでしたか。わざわざお時間頂きましてありがとうございます」
「ありがとうございます」
こういうときに先に発言するのは、より礼節を弁えている瓜生田の方だった。牟児津は大抵、瓜生田の言ったことを復唱するか同じように頭を下げるかだ。続けて瓜生田が自己紹介を返す。
「私は1年生の瓜生田です。で、こちらが2年生の牟児津さん」
「瓜生田さんだね。牟児津さんのことは知っているよ。ちょうど今、うちの部員は君に関する号外を配りに出てるところだ」
「ああ。そうだったんですか。私も頂きました。よく撮れてますよね、このムジツさん」
「やかましいわっ!」
先ほど見せた号外を瓜生田がもう一度広げて見せる。教室から風紀委員に連れて行かれるときの写真が、紙面いっぱいに引き延ばされて掲載されている。緊張で引き攣った牟児津の顔が、冷や汗まで分かるほど鮮明に記録されていた。牟児津は瓜生田が見せたそれを引ったくり、丸めてポケットに突っ込んだ。もう見たくもない。
「その号外のことでお話があったんです!こんなの配るなんて、私聞いてませんけど!」
「情報は鮮度が命だ。うちは事後報告、事後確認、事後承諾をモットーにやってるんでね」
「モラルとかねーのかあんたら!」
「間違っていたら謝ればいい。社会に出たらそれでは済まないけれど、学生の今はそういう無茶ができる身分だ。そうだろう?学園という社会の縮図の中でも、好き放題やるとどんなことが起こるか身を以て知ることができる。問題ありなら今後は控える。問題ないなら今後も続ける。うちの部員はみんなそうやって、ジャーナリストとして成長していくというわけだ。素晴らしいと思うだろう?」
「おお、すごい。どう考えても詭弁なのに、こんなに堂々とされているとなんだか理に適ってるような気がしてきますね」
「当然。これもジャーナリズム精神の実践的学習の一環なんだからね」
「物は言いようですね。さすが言葉を扱う部の部長をされているだけあります」
「ありがとう!君は物分かりがいい子だね!」
「無理問答でもしてんのか?」
意気投合しているのやら皮肉とペテンの応酬をしているのやら、牟児津には2人の会話が成立しているのかすら分からなかった。いずれにせよ責任者である部長がこの調子では、号外を回収させるのは不可能そうだ。そもそも既に学園中に配られているだろうからそんな要求は現実的ではない。部室に入る前から薄々勘付いてはいたことだが、牟児津はようやく当初の予定の1つを諦めることにした。
こうなると、もう1つの予定こそはきっちり完遂しなければならない。牟児津は一旦会話を仕切り直すため、少々おおげさな咳払いをした。
「実はですね。この号外に載ってる事件について、私たちも調査してるんです」
「へえ。牟児津さんは重要参考人だろう?調査というのは、何を知ろうとしているのかな?」
「この事件の真犯人です」
瓜生田に向けられていた寺屋成の目が、牟児津の方を見た。腰を浮かせて姿勢を直し、体を瓜生田から牟児津に向ける。どうやら興味を持たせることはできたらしい。
「真犯人……つまり君は犯人ではないということか?」
「もちろん。私は無実です」
「それをどう証明する?」
「真犯人を見つけて捕まえてくれば、私が犯人じゃないって証明になりますよね」
「ふふふ。確かにそうだね。真犯人に心当たりはあるのかな?」
「いいえ、ありません」
「じゃあ真犯人に繋がる手掛かりや情報は?」
「それもないです」
「なにもないね」
「なにもないんです」
いつの間にか寺屋成の質問に従う会話になっていることに、牟児津は気付いていなかった。しかしいくら寺屋成が質問したところで、牟児津から引き出せる情報は何一つ無い。お互いにとって思惑が外れた、全く意義のない会話だった。それでも、牟児津が会話の勢いに乗って本来の目的である要求を伝えるのには役立っていた。
「だから、今朝の事件について、新聞部で知ってることを全部教えてください」
「ほう。そう来たか」
交渉も駆け引きもない愚直な要求だった。今の牟児津には相手に交渉を持ちかけられるだけの取引材料が一切ない。おまけに目の前の相手は口が達者そうな上級生だ。あれこれ考えるのは牟児津の不得手とするところでもある。故にこれは敢えてのど真ん中直球勝負ではなく、為す術なしのやけくそ直線豪速球だった。
そんな球を受けても寺屋成は眉一つ動かさない。牟児津が事件について何一つ知らないことは、今の会話で分かった。その上で、ここまでストレートな要求をされるのは少々意外だったが、それならそれでまだ得られるものはある。
「お願いします!ほら、うりゅも」
「お願いします」
寺屋成は、少し悩むふりなどして牟児津を焦らす。今の牟児津から引き出せるものは無いが、いずれ得られるものはある。それを得るためには、こちらが相手の要求を飲むハードルは高く、相手がこちらの要求を飲むハードルは低くしておく必要がある。その思惑通りかは定かでないが、牟児津と瓜生田は揃って頭を下げた。
理想は、牟児津が半ば諦めかけたタイミングで承諾することだ。牟児津の中で互いのハードルの不均衡が最大になったとき、寺屋成は最小のコストで最大の利益を得ることができる。機を見計らって、寺屋成は口を開いた。
「そこまで頼まれては、断るのは非情というものだ。分かったよ」
「教えてくれるんですか!?」
「まあ、どのみち明日の学園新聞に載せるつもりだからね。事件について教えることは吝かではないよ」
「あざーーーっす!」
「ありがとうございます」
喜びの昂ぶりで感謝の言葉が雑になる牟児津の後に、瓜生田が極めて落ち着いた謝辞を述べた。無事に交渉成立といった雰囲気だが、寺屋成にとってはここからが本番だ。
「ただし、こちらもひとつ頼みを聞いてもらおう」
「そりゃもう!ビラ配りでも仕分け作業でもなんでもしますよ部長!」
「それは結構。労働力なら間に合ってる」
「じゃあなんですか?」
「特ダネだよ」
「はい?」
ゴマを擂る牟児津の手が止まる。代わりに、頭の上にはクエスチョンマークがしめじのように生えた。
「我々新聞部にとって、情報とは武器であり、糧であり、通貨のようなものだ。持っている情報を安易に外部に漏らすのは、玄関前に“ご自由にお取りください”と書き添えて財布を置いておくようなものだ。分かるかい?提供するのと同じかそれ以上の情報を、こちらも要求するということだよ」
要するに、情報の対価は情報だということだ。当然と言えば当然だが、今の牟児津たちにとってはそれでは困る。提供できるだけの情報があるなら、こんな芸のない頼み方などせず、駆け引きのひとつでも試みただろう。それがないから、バカ正直に頭を下げるしかなかったのだ。
「でも寺屋成先輩。私たち、新聞部が欲しがるような情報なんて持ってないですよ」
「ふふふ。そうだろう、今はね。だが心配いらない。私が欲しいのは、君たちがまだ持っていない情報なのだから」
「……???意味分んないんですけど……???」
「つまりだね」
背もたれに体を預けていた寺屋成が、その身を起こして机に肘をついた。ガラス玉のような瞳で見つめられると、牟児津は体の奥まで見透かされるような緊張感に襲われた。そして寺屋成は、期待に満ちた声で言う。
「君たちが真犯人を見つけるまでの過程を新聞部が取材させてもらう!もちろん取材した内容は学園新聞に掲載するよ!新聞部の独占連載記事だ!」
大仰な身振り手振りとともに寺屋成は条件を提示した。それは、牟児津にとって思ってもみなかった条件だった。
「しゅ、しゅざい……ですか……?」
「そっかあ。確かにそれは、私たちがまだ持ってない情報ですね」
「黒板アート消失事件だけでもなかなかにセンセーショナルだが、その容疑者と目されている生徒が真犯人追及のために動き出す!これはいいぞ!実に興味をそそられる!」
「い、いやその……取材って言われても私なに話したらいいか分かんないですし……」
「別に気の利いたトークなど期待していない。単に君たちが事件解決に奮闘する姿を、写真と文字で伝えさせてくれればいい。面白味が必要なら私たちがどうとでもしてあげよう」
自分のような平凡かつ無個性な生徒を取材したところで、何が面白くなるのだろう、と牟児津は訝しむ。この事件における立ち位置は特殊かも知れないが、事件解決に乗り出したのはあくまで思いつきで、風紀委員より先に犯人にたどり着ける保証などない。その懸念は、瓜生田も同じのようだった。
「取材は構いませんが、私たちより風紀委員会が先に犯人を見つけちゃうかも知れないですよ。縦しんば私たちの方が先に見つけられるとしても、どれくらいかかるか分かりませんし」
「全てノープロブレムだ。なぜなら、私は君たちが真犯人にたどり着くと確信しているからね」
「それはまたなんで」
「私の勘はよく当たるんだ」
そう言い切る視線は、一切ぶれていない。寺屋成はなぜか、根拠に乏しく理屈も危ういことほど自信満々に言う。そして、それだけで相手を黙らせてしまうほどの熱量がある。そのエネルギーを真正面から浴びた牟児津と瓜生田は、もはや承諾することしかできなかった。
「よし、では交渉成立だ。お互いの利益のため、共に邁進していこうじゃないか」
陰惨な部室の雰囲気にまるで似つかわしくない爽やかな笑顔で、寺屋成は右手を差し出した。反射的に牟児津も右手を出し、固い握手を交わした。
寺屋成は大きく頷いたあと、机の引き出しから分厚いファイルを取り出した。『学園内取材録』と題されたそれは、どうやら新聞部がこれまでに行った取材を時期ごとにまとめたものらしい。目にも止まらぬ速さでページをめくる手が、ある箇所で止まる。
「これだな」
寺屋成は無数の書類を束ねるファイルのリングを外し、綴じられていたA4紙を牟児津に差し出した。それは、まさに牟児津たちが求めていた、事件に関する詳細な情報がまとめられたメモ書きだった。
──取材録 記入者:益子 実耶──
・事件概要
高等部2年Dクラスで事件発生。黒板アートが何者かに消される。発見者は同クラス生徒の時園葵。学生生活委員。毎朝1番に登校している。
黒板アートについて。高等部見学日に向けて準備。クラスの美術部(足立)が提案。クラス内有志が一週間かけて教室後ろの黒板に制作。バラのイラストの予定だった。
・発見者(時園葵)インタビュー
───黒板が消えているのを発見してどう感じました?
時園:驚きました。昨日下校するときには絶対にあったのに、朝になったら消えてて、わけが分かりませんでした。
───犯人らしき人物を見たらしいですね?
時園:今朝教室に入る前に、廊下の向こう側に走って行く人影を見ました。きっと、犯人だと思います。
───なぜそう思いましたか?
時園:教室のドアが開いていたので、誰かが教室から出て行ったんだと思いました。中には誰もいなかったのにカーテンが閉まってましたし、床がチョークの粉まみれでした。絶対に誰かがいたんだと思って、怖かったです。
───犯人の特徴は?
時園:角を曲がるぎりぎりだったので顔も学年も分かりませんでした。でも髪が赤っぽくて、結んでいたと思います。
───犯人に言いたいことは?
時園:なぜこんなひどいことをしたのか、きちんと説明してください。こそこそ隠れて逃げるなんて卑怯です!正々堂々、ちゃんと出て来て謝ってください!
了
・風紀委員(川路委員長)のコメント
高等部見学日は毎年、中等部・高等部双方にとって多くを学ぶことができる日だ。その日を直前に控えたタイミングでこのような事態が起きたのは、風紀委員としても深刻に受け止めている。準備してきた生徒の心中は察するに余りある。犯人確保及び真相究明に向けて全力を挙げていく所存だ。
・その他特記事項
事件が起きた2年Dクラスには、前述の目撃証言に合致する生徒が在籍している。今後、風紀委員が個別に話を聞く予定。
「どうかな」
どうかと聞かれれば、十分過ぎるほどの情報だと牟児津は感じた。事件の内容については、生徒指導室で川路が語っていたものとほとんど同じのようだ。ここにはそれに加えて、時園へのインタビューや事件発覚当時の状況まで事細かに書いてある。いま葛飾がクラスで調べていることと重なる部分はあるかも知れないが、先に知ることができたのはありがたい。
「これ、写しを頂いてもいいですか?」
「いいよ。もう号外に載せているとはいえ、いちおう取扱注意で頼むよ」
先に読み終わった瓜生田がテキパキと寺屋成に話を付ける。ようやく牟児津と瓜生田は真相究明のスタートラインに立ったわけだが、2人は事件解決に大きく近付けたような気がしていた。
「部長、ありがとうございます。なんか本当に真犯人が見つけられそうな気がしてきました」
「それはよかった。私としても君たちには是非そうしてほしいと思っているよ」
「今日この後も調べものするつもりなんですけど、部長が密着されるんですか?」
「いや、私は部室の留守番を頼まれているから、密着はまた明日から人を付けよう。今日の調査結果は、明日の朝にでも報告に来てくれ」
「情報は鮮度が命だったんじゃないですか?」
「育てている間は気にしなくていいことだ。それじゃあ、よろしく頼むよ」
爽やかな笑顔と徹底した詭弁で、寺屋成は2人を送り出した。廊下に出ると、この部室を訪れたときに感じていた紙とインクの臭いはもはやなく、すっきりとした外界の空気だけを2人は感じていた。どうやらしばらく中にいたせいで、鼻があの臭いに慣れてしまったらしい。鼻先にこびり付いた臭いを吹き飛ばすように、牟児津は大袈裟に深呼吸した。
「くっせえわ」
「臭いが髪に浸みちゃうね」
部室から十分に離れたのを見計らって、牟児津と瓜生田はそう言って笑いあった。
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