第56話 接吻・接吻・接吻……

 渓谷の隙間から朝日が昇るのが見え、暗かった空も徐々に青く染まり始めてくる。


 きれいな無数の星も太陽が昇ると同時に姿を消し、きれいな青空へと変貌していった。


 太陽が顔を出してから数分後、渓谷の隙間にも強烈な光が差し込む。その光は、彼らが野宿するくぼみにも光を注ぎ3人を照らす。


「ハッ! 朝か……」


 太陽の光に当てられたことで朝になったことを知るハル。


 リリーと見張り番を交代してから今に至るまで、呆けた顔でボーっとしていた。


「リリー……」


 ふと、彼女の名を口にする。


 青髪の傭兵は、渓谷にできたくぼみの奥で横になって寝ており、すぅーすぅーと寝息を立てている。その寝顔はとても美しく、誰もが見惚れるだろう。


 そして昨晩の出来事を思い出した瞬間、ハルの顔は赤くなり熱くなるのが分かった。


 昨晩、夜中に目を覚ましたハルは不思議と疲れが取れていたことから、自分よりも疲れが溜まっているであろうリリーに気を使い見張り番の交代を申し出た。見張り番は慣れているからと最初は交代を渋っていた彼女もハルの気迫で、半ば強引に交代を承諾させた。


 そして交代する前に彼女は自身の過去の話をした。

 

 過去の話を聞いたハルは思わず感傷に浸ってしまうほど、つらい過去だったことを知った。何も知らなかった師匠のことを知れて嬉しいと思う気持ちもあった。

 

 そこまでは良かった。


 そして話が終わり見張り番の交代をしようとしたとき、彼女は唐突にハルに顔を近づけそして……。


 接吻した。


 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃がハルの体中を巡った。


 リリーからの一方的な接吻だった。不意に起きた出来事に理解できなかったハルだったが、状況を理解したとき彼はより混乱した。


 別に濃厚な接吻だったわけでもない。唇と唇が軽く触れ合う程度のもの。言い換えればぶつかったと言ってもいいだろう。もしかしたら彼女が立ち上がる際にバランスを崩し、たまたま唇と唇がぶつかっただけかもしれないとも思った。


 しかし、彼女の接吻はとても優しいもので相手を不快にさせないものだった。不意にぶつかった人間が意識的に優しく接吻することなどない。事故などではなく完全に自身の意思でハルの唇を奪ったのだ。


 ハルは自分の唇に人差し指の腹を押し当てる。


「もっと柔らかかった……」


 無意識にそんな言葉出る。


 ほんの数秒の間、唇を合わせただけとはいえ彼女の柔らかさを実感するのには十分すぎるほどの時間だった。そして衝撃的だった。


 自分の指の腹よりも柔らかい女性の唇。初めての経験にしては刺激的過ぎた。


 なぜあんなことをしたのか一晩中ボーっとしながらも考え込んでいた。クエストのことなど頭から抜け落ち、接吻の理由を考えることだけが彼の頭のなかを支配していた。


「んっ……、ハル……?」


 不意に自分を呼ぶ声にハッと我に返るハル。


 ボーっとしていた自分の頬を叩き正気を取り戻すと、声の聞こえた方へと視線を向ける。


「おはよう、マリー。眠れた?」


「ふぁー。おはようござます。ええよく眠れました」


 朝日の光に当てられ目を覚ましたマリーはあくびを噛み殺し第一声を返す。そして脳を覚醒させるかのように大きく息を吸い吐く。


 早朝特有の冷たくも気持ちの良い空気が鼻の奥をツンとつき、そして体中を駆け巡る。


 日頃から訓練しているのか、完全に目を覚ますまでの時間が早い。きっと我が主を守るため、素早く目覚めるための日頃からルーティンとして日常に組み込んでいるのだろう。


「リリーが当番をしていたのでは?」


 リリーの姿がなく、変わりにハルが焚火の前に座っていることに疑問を覚えたマリーは質問をする。


「僕が代わってあげたんだ。夜中に目が覚めてちゃって。2日間も連続で見張り番をしてもらうのは悪いから、交代したんだよ」


「そうでしたか。記憶をなくてから初めての冒険だというのに、根性がありますね。冒険初心者は夜中に目を覚まして朝までおきているのはとても辛いことですよ」


「根性ぐらいしか取り柄がないからね。マリーは横になって眠らなくてよかったの? いくら眠れるとはいえ座りながら眠るなんて辛いんじゃない?」


「日ごろの訓練で横にならず眠る技術を身に着けていますから。慣れれば座ったまま眠っても深く眠りにつき、緊急時には素早く目を覚ますことができるのですよ。これを習得するのに時間を要しましたけどね」


 ハルは焚火で沸かして置いた小型ポットの取っ手を掴む。マリーが持ってきたコップをもう片方の手で取り、ポットの中に入った茶を注いでマリーに渡す。


「ありがとうございます」


 受け取ったマリーは茶を口にする。独特の甘い香りと若干のほろ苦さがより一層、脳を覚醒させる。


 朝の一杯にちょうどいい飲み物だった。


「ハル、マリー、おはよう」


「おはようございます。リリー・ハロウィン」


 マリーとハルが茶を飲んでいると、リリーが目を覚ました。


 彼女は目覚めてすすぐに立ち上がり、眠気など全く見せない表情で焚火の前に腰を下ろした。きっと短い時間で深く眠り、浅い眠りのときに目を覚ますという技術を身に着けているのだろう。ある意味、職業病とも言える。


 そんな彼女にマリーと同様、ハルはコップに茶を注ぎ手渡す。しかし、手渡す彼の手は少し緊張しているように見えた。


「お、おはよう、リリー。よく眠れた?」


「おかげさまでな。ひとつ貸しができたな」


「か、貸しって程のことじゃないよ。気にしないで」


 昨晩のことが頭をよぎり緊張してうまく言葉を返せない。


 接吻なんて軽い感覚でするようなものではない。好きな相手にしかしない行為だ。それも『LIKE』ではなく『LOVE』のほうで。


 親密な相手としかしない行為を彼女はやった。


 少なくともハルの中で接吻は親密な相手としかしない行為だと認知している。記憶がなくとも本能で分かるのだ。


 接吻をされた本人はリリーに視線を向ける。


 昨晩のことを気にかけている様子はない。


 もしかすると、彼女の中で接吻は友達感覚で行う眠りのあいさつ的なものと認知しているのではないかと彼は考える。


 なにか特別な感情を持って接吻したのではなければ、特に気にすることもないのかもしれない。


 そう考えれば辻褄が合うし、どことなく安心できる。緊張する必要もない。と、思っていた。


「そうだ、ハル。昨晩のことだが……」


「さ、昨晩のこ、こと? なんのことかなぁー」


 唐突にリリーから昨晩のことを聞かれる。


 どちらのことか。過去の話を聞いたことか、接吻の方か。


 前者のことだったらとてもありがたい。


「覚えてないのか? 私ら、せっp……」


「覚えてる! 覚えているから! その、あれだよね、事故だよね!」


 マリーを目の前にして接吻しただなんて言えない。


 気恥ずかしくて思わずリリーの言葉を遮るハル。


 接吻したことをマリーに知られたら、なんだか面倒なことになりそうな予感がして、必死に隠し通そうとする。


「事故? なんのことです?」


 状況を理解できないマリーはふたりに問いかける。


「いや、昨晩だな、眠る前に私からせっぷn——」


「あれは事故でしょ! ねっ! 眠る前の挨拶をしようとしたらちょっと事故っちゃったみたい感じでしょ!?」


「いやあれは、好きでしたことだが」


「……!?」 


 好きでした? 『LIKE』? 『LOVE』? どっちなのか。


「強引だったかもしれんが、ハルの気持ちというか感想というか聞きたくてな」


「一体何の話をしてるんです? 昨晩何かあったんですか?」


「い、いや何もない! 何もないわけじゃないけど大きな問題じゃないから! リ、リリーもこの話はあとでしよう! ねっ!」


 何とかこの場乗り越えなくてはならない。マリーに知られれば、絶対面倒なことなりそうな予感がしてならないからだ。


「むぅ……。それもそうだな。今は先を急ぐとしよう」


「それがいい! ささっ! 身支度を整えて先を急ごう!」


「今日のハル、妙に元気ですね。不思議なこともあるものです」


 なんとか接吻の事実をマリーに隠し通したハルは安堵のため息を付いた。


 しかしまだ安心できない。いつリリーが接吻をした事実を誰かに話すか分からないからだ。


 そんな不安を抱きつつ、ハル一行はハルゴ村に向かって歩を進めるのであった。

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