第10話 思い出の宿屋

 ハルが街を訪れる数年前。


【スラム街】

 ファルンにある地区の中でも、最も治安の悪い地区。


 貧困者たちで溢れ、暴力沙汰は日常茶飯事。街の治安を守るべき衛兵も、面倒ごとを避けるためこの地区には近づかない。

 

 スラム街に入ったら最後、この地区を縄張りとしている悪徳冒険者たちに目を付けられ、金品を奪われ半殺しにされるからだ。


 ボデュ・エアリスという男も世間と同様、スラム街は近づくべき場所ではないと認知していた。


 しかしあるとき、今まで生業としてきた宿屋事業が何者かの策略によって、乗っ取られ経営者としての座を追われてしまった。


 誰になぜ乗っ取られたのか全く見当がつかなかった。


 若いころに妻と立ち上げた宿屋事業は、妻亡き後も娘の『アリア・エアリス』と共に人々へと癒しを与える場として街に貢献していくはずだった。

 

 思い出の詰まった場所。


 脳裏をよぎるのは、妻の笑顔、娘の笑い声、そして家族と共に育ってきた宿屋。思い出すことを拒めば拒むほど、思い出があふれ出てしまう。

 

 それがすべて奪われ、彼は生きる価値をなくしてしまった。


 涙も枯れ、生きる気力を失い一文無しになったボデュは戸惑う娘を連れて、死人のように街中をさまよい続けた。

 

 そしてたどり着いたのが【スラム街】だった。


 街の中で最も治安の悪い地区。


 普段なら決して近づかないであろう彼だが、今はどうでもよかった。


 まだ小さな娘と共に妻の元へと旅立てればとまで思っていた。

  

「死ぬなら、誰にも迷惑をかけずに死のう。スラム街で死体が上がろうとも誰も気にしない」


「お父さん……ここ怖いよ……」


「大丈夫だよアリア。怖くないよ」


 安心させようと幼きアリアを慰めたつもりだった。しかし、娘の表情は曇るばかり。勘が鋭いのか娘は嘘をついていることを見抜いているようだ。


 それでもアリアはわがままを言わず、父の手を握り付いていく。

 

 スラム街を歩けば、新参者を睨みつける視線が四方八方から突き刺さる。


 きっと、金品を求めて盗賊に襲われ、命を奪われるのだろうと覚悟していた。


「そこの者……待たれよ」


 数分歩いたところで突如、後方から声が̪して呼び止められる。


 ああ、ついに妻の元へと行けるのだなという気持ちが不安よりも先に感情へと現れた。

 もう生きなくてもいい。娘とこのまま殺されてしまおう。


 ボデュは無防備のまま振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。


 腰が曲がっており、白髪で顔も染みだらけ。とても殺しにかかってくるような人物には見えない。


「ついてきなされ、若い人」


 手招きをされ、付いてくるよう言われる。


 もうどうでもいい状態だった彼は、この先に罠が待ち構えていようとどうでもよかった。


 ボデュは娘の手を引き案内されるままついていく。


 たどり着いたのは、スラム街の一角だった。


 コンクリートに囲われた小さな広場ような場所にはたくさんの老人がおり、中心にある焚火に薪をくべて雑談をしている。


 日当たりが悪いせいか、この一角だけは少し寒く、焚火があるとちょうどいい温度になる。


 きっとホームレスだろう。しかし、ホームレスたちは最底辺の生活をしているにも関わらず、今のボデュよりも幸せそうだ。

 

「若い人、そこでちょっと待っておれ」


 老人はそういうと、焚火近くにあった魚の刺さった木の枝を二人に手渡した。


 魚の大きさは小さく、到底お腹が膨れるものではないが、しばらくまともな食べ物を口にしていない二人にとっては贅沢なごちそうだった。

 

「どうして私にこんな施しを」


「若い人、お主はなぜこのスラム街へとやってきた。そのような装飾の施された身なりをしていては、殺されてしまうぞ」


「そのつもりで、このスラム街へと足を運んだのです。私はすべてを失った。もう生きる意味を見いだせない」


 ボデュは涙を流し気持ちを告白する。老人は、話を聞き頷くと言葉を紡ぐ。


「聞け若い人。人生はやり直せる。お主はまだ若い。ワシらのような老いぼれジジイになっては遅いかもしれんが、お主はまだまだ動ける。なに、小さな穴に堕ちただけじゃ。誰かが手を貸せば簡単に這い上がれるかもしれんぞ」


「でも私には何も残っていない。もう生きるのには疲れた」


「何も残っていない? なら、失うものは何もない。失うものがなくなった者は、守るべきものがあるもの以上に活力にあふれるものじゃ。それにお主には娘がおるじゃろう。大切な宝ではないのか?」


 老人の言葉にボデュの気持ちはふわっと軽くなったように感じる。なにか重い鎖が外れたような感じだ。


「大切な……妻との宝物です」


「そうじゃろうて。この広場に居るジジイたちはいろいろな人生経験を積んできておる。お主が心を開いて話せば、何か生きる解決策を見いだしてくれるじゃろうよ」


 不思議とボデュの気持ちは生きる気力が湧き始めていた。広場に居る老人と話をしてアドバイスを貰うたびに、心の中の靄は晴れていく。


 すべてを失っているのに気分がよかった。


「ねぇねぇ、おじさん見て!」


「おおー、お嬢ちゃん。あやとり上手だねぇ。どれおじさんがもっとおもしろいあやとりを教えてやろう」


 いつの間にかアリアも気兼ねなく老人たちに交じって遊んでいた。

 

「自分には娘がいる。妻との大事な思い出だ。娘がいる限り、なんだってやって見せる。たかが事業が乗っ取られたぐらいでなんだ!」

  

 失うものがない、今は娘のために、助けてくれたこの広場の人たちのために何かをやろう。そうボデュは誓った。


 

 そして1年後……。


 スラム街に、一軒の宿屋が建った。


 もともとスラム街には多くの空き物件があり、中にはとても大きな物件もあった。


 どの物件も整備がされておらず、ボロボロ。自由に使っていい状態だった。


 そこで、ボデュは宿屋事業を行っていたときの築き上げた人脈を生かして、宿屋をオープンした。

 

 フカフカのベッドに、きれいなお風呂、おいしい食事が出せるほど大きな建物で、スラム街にあるとは思えない出来栄えだった。


 もちろん、オープン記念として最初のお客として読んだのは、広場に居た老人たち。長年、ゆっくりと寝られず満足に体も洗えていない状態。不健康極まりない状況だった。


 そんな老人たちに元気をもらったお返しとして、呼んだのだ。


「若いの、こんなにも豪勢な食事に、ゆったりとできる風呂、寝心地のいいベッド。お主には感謝しきれんほどの施しを受けたのぉ」


「いいえ、感謝しているのは私の方です。あなた方が声をかけてくれなければ、きっと今頃のたれ死んでいた。生きる希望を与えてくれたご老人に感謝です」


「なら思う存分、楽しませてもらうかのう。ほれ皆の者、今日は宴じゃ! わしらスラム街で生きる者のために宿屋を開いてくれた若いの『ボデュ』に乾杯!」


 老人の声に合わせて、広場の仲間たちは声を上げ盛り上がりを見せた。


(スラム街で生きる人たちが笑顔で生きられるようにするのが私の夢。きっと亡き妻も一緒に喜んでくれる)


 老人たちの笑顔を見て、ボデュの口角も自然と上がった。


「若いのの娘もきちんと手伝ってえらいのぉ。将来は良いお嫁さんになるじゃろうて」


「ありがとう、おじさん。将来はきれいなお姉さんになってこのスラム街を、世界一の有名な街にしてあげる!」


「そうかそうか。ならワシが生きているうちに夢を叶えらえることを祈っておるよ」


 その日の宿屋は、大いに盛り上がり最高の出来事となった。

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