第7話 悩みがあるからこそ行動力が増す
翌朝。
窓から入る日差しに晒されると共にベッドの上でハルは目を覚ました。
記憶喪失から二度目の目覚めとなるが、一度目とは違い、今回はとても気分がいいものだった。
白く清潔で整えられたシーツや掛け布団はサラサラ、フワフワでとても寝心地が良く、いつまでも夢から目覚めたくないという衝動を引き起こさせる。
「っ……んっ……」
悪魔的な衝動をなんとか打ち破り、大きくあくびをしながら体を起こす。
「はぁ~~。久しぶりに気持ちよく眠れた気がするなぁ~」
部屋の中にはベッドと、家具が少し置いてあるだけで、不要なものは一切ない。
だからと言って殺風景という訳ではなく、花瓶に一輪の花が添えてあったり、木目調の壁が味を出していたりと、
ベッドから立ち上がり、朝日が差し込む小窓へと足を運ぶ。
外の様子を伺うと、向かい屋根の隙間から太陽が顔を出しており、小窓から見える通りには数人の人通りがある。
窓を開けると、風の冷たさと早朝の独特の匂いが鼻の奥をツンと突く。同時に、心地よい風が体を包み、気持ちの良い目覚ましとなった。
「起きたか。ぐっすりと眠れたか」
「おはよう。おかげさまで。ベッドもフカフカで気持ちのいいものだったから疲れもすっかりとれたよ」
部屋から出るとリビングがあり、木の小皿を手に持ったリリーが彼の目覚めを出迎えてくれた。
「丁度、朝食を作り終えたところだ。今から盛り付けを行う。その間に洗面所で顔を洗ってくるといい」
早速洗面所へ向かい、桶に入った水で顔に冷水を浴びせる。
眠気覚ましに浴びる冷水はとても気持ちがよく、靄のかかった頭の中をスッキリさせてくれる。
脇に置かれた布で顔を拭うと、壁に掛けられた鏡に視線を向ける。
「あっ……」
鏡を見て漏れた一声。
「これが……僕の顔……」
鏡越しに自分の顔を触る。
記憶をなくしてから初めて触る自分の顔。
イケメンとも言い難い普通の顔立ちに、少しだけがっかりする。
記憶を探すことばかりに気を取られ、自分の顔のことを気にしたことがなかった。
自分の顔なのに、まるで他人の顔を見ているような不思議な感覚。記憶を失うということは、自分の顔すら忘れてしまうことなのだと悟った。
「僕を生んでくれた親はどんな人だったんだろう……」
ふとそんなことを口にする。
親だけではない、兄弟や親友、恋人、記憶と共に失ってしまった大切な人たち。
どれだけの人が自分の周りにいたのだろう。どれだけの人が、彼のことを心配しているのだろう。
今も心配して涙を流しているかもしれない大切な人たちのことを考えると、彼の心は鎖で締め付けられるように苦しくなった。
リビングに戻ると、すでに料理が並べられていた。
テーブルの中心にはバケットが置かれており、主食であろうきつね色のコッペパンが入っている。
そのバケットを挟み込むように、木皿に乗せられたスクランブルエッグがそれぞれの席に配膳されている。さらにスクランブルエッグには薄く切って焼いたベーコンと緑の野菜が添えられており、彩が良く食欲をそそる。
「どうした? 何か悩み事か?」
ハルの表情が少し暗いことを見抜いたリリーは気にかけるように問いかける。
「え、あー、うん。ちょっとね……」
「言え。貴様と師弟関係を結んだのからには、悩みぐらいは聞いてやる」
半ば脅迫とも言えるような口調だが、その言葉にはどこか優しさがあるように感じさせる。
ハルは瞳を伏せ少し悩んだ後、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕には親や友達、恋人……は、いるか分かんないけど、少なからず大切な人がいたと思う。けど、記憶を失って大切な人の顔も名前も思い出せなくなった。きっと、今頃、僕のことを探して、心配しているかもしれない。そう考えると、胸が苦しくて、辛いんだ」
会って間もない相手にどうしてこんな気持ちを打ち明けているのか分からない。しかし、心の中は誰かに聞いてもらいたいと欲求しており、それに従うように言葉にして吐き出す。
そんな彼の言葉を聞いた彼女は、ぶっきらぼうな表情のまま、そっと口を開く。
「確かに、昨日まで普通に暮らしていた者が突如いなくなれば、誰もが心配するだろうな」
リリーは、テーブルを囲っている椅子に腰かけると、パンを手に取り一口サイズにちぎり口にする。
口にした一切れのパンを飲み込むと再び言葉を紡ぐ。
「だがな、解決策はひとつしかない。記憶を探すことだ。悩んでいても物事は前に進まない」
少し冷酷な気もするが彼女の言う通りだ。悩んだところで何も解決しない。解決したければ行動を起こす他ないのだ。
「そうだね。僕も記憶を探すことが一番の解決策だと思う。だけど、この悩みを持ったまま旅に出ても、うまくいかない気がするんだ」
「悩みを持ったまま旅をしてもいいではないか」
「どうして?」
「悩みは行動を起こす原動力だ。その悩みが大きいほど、優秀な原動力になる。人生で悩みというのはつきものだ。貴様は記憶を失っているからこそ抱えてしまう悩みだろうが、それが原動力になるのだと考えたら少しは気も楽になるのではないか」
勇気づけるような優しくも的確なアドバイスに、ハルの表情は分かりやすく明るくなる。
人生に悩みはつきもの。悩みというの嫌悪されがちだが、だからこそ人は解決しようと行動を起こせる。
記憶を失って初めて抱えた悩みに、解決の糸口が見えた気がした彼の表情は、晴れやかだった。
「ありがとうリリー。なんだか晴れやかな気持ちになったよ」
「そうか。ならいい」
靄のかかった気持ちが晴れたハルは、目の前の朝食に舌鼓を打った。
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