DNA

 「お父さん、本当にムカつくけど、普段はお外で働いてお金稼いできてくれるから。」

 床に散らばった白菜や冷凍みかんを拾い集めながら、母さんは言った。母さんの左耳の下からは、血が滴り流れていた。

 15歳の僕は、父さんを責められるほど身体が大きくなく、母さんを慰められる気の利いたことも言えず、ただ普段から荒れている部屋がさらに荒れている状況に、生身で晒されていた。


 母さんと父さんの喧嘩はたぶん普通ではない。父さんは、いつも母さんが父さんの理不尽に文句を言ったときにキレる。酷いときは、要求をする時点ですでにキレている。母さんも人間だから、父さんの無茶な物言いには反論する。そうすると大体手が付けられなくなり、口論で勝てない父さんは物を投げつける。


 「あさりのパック破けんくてよかった~。」

 本日の火種、あさりの砂抜きの要不要。母さんは、運よくソファに着地した海水入りのあさりパックを拾い上げた。その姿は、くろぶち模様のウサギを抱っこしているように見えた。

 昔夫婦仲がそれほど悪くなかったときに行ったふれあい動物園楽しかったな、なんて過去の幸せな気持ちを浮かべて心を落ち着かせた。


 父さんは大抵キレると食材をなげつける。危害を与えるつもりはない。ただある程度の威嚇をしたいだけなのだ。自分が身体的に強いということを母さんに示し、思い通りに動かないことを叱責することで、優位に立ちたいだけだ。


 「あんたは優しい子だから、絶対お父さんみたいにならんでや。」


 正直わからない。学校で喧嘩をするたびに、誰かを殴りたい衝動に駆られるときがある。口下手な僕は、同級生の友達と喧嘩しても口では負けてしまう。だからどうしても悔しい時は、物理攻撃を仕掛けたくなる。後ろからキックして、頭をボコボコにしてどっちが強いのかを示してやりたくなる。


 僕はずっと自分が父さんみたいになるのではないかという恐怖に苛まれてきた。急に背が伸びてきて、声が低くなって身体もごつくなってきた。膝のお皿の下がときどき痛む。自分で自分の成長についていけていないし、力や衝動を抑える方法は、学校でも家でも教えてくれない。おまけに家では感情に任せたハリケーンの渦に巻き込まれて、心はズタズタだ。


 あさり事件の1週間後、恐れていたことが起こった。クラブで些細な口論から発展して、僕はチームメイトの前岡の顔めがけてバスケットボールを投げつけてしまった。事態を見ていた先生は、僕を叱りつけた後、前岡に目立った怪我はなかったので喧嘩両成敗とした。

 母への説明では、僕の姿は新しい顔を投げているようだったと、茶化しながら事情を伝えた。先生の前では明るく振舞う母だが、その顔はみるみるうちに青ざめていくのが見えた。


「あんた、自分が暴力的なんは、お父さんのせいやと思てるんやろ?」

 学校からの帰り道でそう聞かれた。僕はナップザックのストラップを両手で握りしめながら、そうは思ってへん、と言った。


 僕も答えづらい質問を母さんに投げた。

「お母さんは、なんでお父さんと離婚せーへんの。」

「そりゃお金のためやろ。この歳で雇ってくれるところなんて全然あらへんのやから。あんたもいるし。」

 いつでも離婚できるならしていると、母は付け加えた。


 母と父は見合い結婚だ。別に互いが好きだから一緒にいるのではない。母の時代結婚をしていない女性への風当たりは強かったし、母はそもそも普通のレールに乗ることに抵抗があったわけでなかった。

 普通のレールの上で母は父と出会い、そして僕が生まれた。

 もしそのとき当時の普通がなければ、きっと僕は生まれていない。


 今は母のときの時代と違って、恋愛や結婚をするのは個人の自由で強制されるものではないという価値観が当たり前になっている。

 「生存戦略」が母の時代と今では違う。

 僕は戦略的に誰とも番わない人生を選択するのではないかと思うことがある。

 誰かと付き合いたいという気持ちや、愛おしいという気持ちになったことがないし、誰かに近づけば、傷つけてしまうのではないか。恐怖が僕が誰かと親密になることを拒む。

 特に自分より身体の小さい、女子や子どもに近づくことはこの上なく怖い。


 蛙の子は蛙なのだろうか。きっとそうではない。遺伝と環境の影響は相互に作用し合っていることくらい、僕でもわかる。

 でも、一抹の不安はずっと頭から消えない。

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