世代差
「女の生き方が増えたのって、逆に困るんじゃないかと思うのよ。」
声の主は4人席に一人で座る、私のお母さんくらいの歳の女性。
独り言にしては、なかなかの声量で、私はカウンターテーブルを拭く手を止めて、辺りを見回した。
お店―居酒屋『でんでんむし』に他のお客さんはいないし、フロアにいるのも私だけ。
料理担当の副店長は奥の厨房、店長は他所の客入りを偵察に行っている。
…ということは私に話かけたのだろう。
私はそう推察し、ワンテンポ遅れて返事をした。
「あ、すみません…。えと、そうですね。」
たぶんこの人は、お店の常連さんだ。
いつも店長と楽しそうに話をしていた気がする。
「ごめんなさい、今のは独り言よ。」
そう言って、申し訳なさそうな表情で、その常連さんは微笑んだ。そして、グラスに残ったビールを飲み干して「同じものを」と言った。
ごそごそと、慣れない手つきでビールを注ごうとする私を見て、もう少しグラスを右に、と色々教えてくれた。
「あなたは学生さん?」
私が、「はい、大学生です」と答えると、「何かジュースでも飲む?」と聞かれたので、お言葉に甘えることにした。
他にお客さんがいないときは、こういうことも多い。
地元の居酒屋さんらしいやり取り、私はいいなと思う。
乾杯、という定番の掛け声とともに、カチンという音が店内に響いた。
「先ほどの、女の生き方って…?」
「ああ、働きながら子育てとか、大学に行くとか。結婚するかしないか選べる空気になったわよね、っていう話よ。」
私は、ああ、と聞き分けのいいふりをして、これは質問をいくつか振って、話を聞くことに徹した方がよさそうだと思った。
「お客様は、ご結婚はされているんですか?」
お客さんは、両方の眉をぐっとあげて、ええ、と答えた。
乾杯から数ターンで、突っ込んだ質問をされたことが意外だ、という風に見えた。
「私のことは、ナカハラでいいわよ。
私の時代は、女子は短大か高卒で地元で働いて、遅くとも30までに結婚することがさも当然のようだったけど、あなたたちは違うのよね。」
私も母さんからよく聞かされる話だ。
上京して大学に進学するとき、快諾してくれたことをよく覚えている。
「あんたと私の時代は違うんだから、あんたの好きにすればいい。」
母の放任的な愛にすごく助けられた。
「ねえ、あなたは、選択肢が多いと迷わない?
私は、決まりきった生活の方が悩むことが減って、楽だと思うのよ。」
ナカハラさんは、ガラスを扱うように、慎重そうに尋ねた。
「そうですね、今は高校のときと比べたら、服とか、授業とか、選ぶものが多すぎて困ることはありますね。ですけど―」
何事も、特に将来は、選択肢が多い方がいいと思う。
自分のあり方が、既にに決められることを、私は許容できない。
もしそうなら、生き続けることを降りる。
「―進路が昔よりも多いことは気づかなかったです。迷う人がいるのも理解できますね。」
とりあえず、その場を荒立たせないように、自分の意見を隅に追いやった。
「あと、ハマノでいいです」と付け加えて、私はマンゴージュースを含んだ。
色々話を聞くと、ナカハラさんは、昔は良かった、という価値観らしい。
「最近は、何かといったらセクハラ・モラハラ・パワハラ、私たちのときは当たり前にそういうの受けていたし、そんなこと気にもとめていなかったわ。
はっきり言って、『生きづらい』人に配慮することで、私まで生きづらくなったのように思うわ。」
そういう人がいるから、私は生きづらいんだよ…。
氷を多めに入れたグラスを両手で持って、己の噴火を鎮めた。
でもね、とナカハラさんは続ける。
「ハマノちゃん、私が間違ってたら『間違ってる』って言ってくれていいのよ?」
私は両方の眉を上げた。
「不快な思いにさせっちゃったときは、謝らないといけないでしょ?私はどんな人でも、一緒に歩み寄っていきたいだけなの。
私の価値観は昭和だから、よく会社の若い子に古い古いって言われるのよね~。」
心の奥を見透かされたように感じて、どう振る舞っていいのかわからなくなった。
私が持つ言葉にできない、違和感。
慣習的に決まっている何か―役割、キャラ…、全てが私の動きを縛り付けて制限する。
私も誰かを縛り付けることがあるのかもしれない。
場が盛り上がってきて、ナカハラさんは私にお酒を勧めたけれど、まだ20歳になっていないと知ると「私、あなたのこと高齢出産でないと産めないわ!!」と目をまん丸にして言った。
クセ強すぎですよと、私は腹を抱えて笑った。
「ナカハラさんは、結婚をすることが決まっている時代じゃなかったらどうしますか?」
「そうね、結婚しなかったんじゃないかしら。一人でのびのびと暮らしていたかもしれないわね。でも、結婚して子どもにも恵まれて、楽しかった。しかも今はこんな風に自由にやってるし。結構幸せよ。」
シフトの時間が終わったのと同時に店長が帰ってきて、ナカハラさんの相手をバトンタッチすることになった。
「ハマノちゃん、自分なりの幸せをつかんでね。」
退勤時にナカハラさんにそう言われたとき、店長はなんだか満足そうな顔をしていた。
もしかすると、店長は日ごろの私を観察して、ナカハラさんと話をするよう仕向けたのかもしれない。
カランコロン、と扉の開閉を知らせる音が妙に優しかった。
寝静まった街、自転車を飛ばして家を目指す。
風とともに心の尖ったところが飛ばされるような心地がした。
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