ルピナスの花
増田朋美
ルピナスの花
その日は、雨が降って、気圧が低くなったから、頭痛が多い人には、過ごしにくい気候だと思われた。その日も、蘭の妻アリスは、妊婦さんから相談があるといって、家を出てしまったので、蘭は家の中で一人だった。下絵を書き終わる仕事をし終えて、ちょっとコンビニでも行くか、と、蘭が自宅を出たところ。
杉ちゃんが膝の上にフェレットを一匹のせて、自宅に入ろうとしているのが見えた。
「どうしたの、杉ちゃん。なにかあったのか?」
と、蘭は杉ちゃんにきくと、
「はい、輝彦が癲癇を起こしたので、見てもらってきた。エラさんのところで。」
と、杉ちゃんは言った。
「はあ?フェレットが癲癇を持つなんてあるんだろうか?」
と、蘭は驚いていうと、
「あるんだよ。実際に癲癇を起こすことだってあるんだから。それで、薬もらって、水に混ぜて上げればいいんだけど、食欲だけはちゃんとあり、大食漢なのは変わらないね。ま、そういうことだ。」
と、杉ちゃんは言った。
「そうなのか。フェレットが癲癇を持つねえ。なんだか、人間並みになってきたなあ。」
蘭は、嫌な顔をして、杉ちゃんにいった。
「まあ、人間並みだろうがなんだろうが、ただ、大食いで、癲癇を持ってるフェレット、というだけだよ。それだけのことだ。じゃあ、二匹にご飯を食べさせないといけないので、またね。」
杉ちゃんという人は、ほんとうに単純だ。なんでそういうふうに何でも受け入れることが、できるんだろう?蘭はそれが不思議で仕方なかった。
「でも、これがペットでなくて、人間だったら、大変なことになるだろうな。」
蘭は思わずつぶやいた。それと同時に自分のスマートフォンがなっているのに気がつく。
「はい、もしもし。」
初めて見た、電話番号だった。
「あのう、刺青師の彫たつ先生の携帯電話番号で間違いありませんか?」
相手は若い女性であった。
「はい、そうですが、どちら様ですか?」
と、蘭がいうと、
「私、町田と申します。名前は町田直江。」
なんだか名字を2つくっつけたような名前だった。
「町田直江さんですね。どんなご用件でしょうか?」
「ええ。先生に背中を預けて、花の絵を入れてもらいたいんです。あたしが、一番好きな花はルピナスです。だから、それを入れていただきたい野pですが。」
久しぶりに花の絵を依頼されて、蘭はちょっと面食らってしまった。
「あたし、子供の頃、クーニーのルピナスさんという本を読んだんですけど、それが感動して、いつも頭に残っているんです。その象徴でもあるルピナスを、いつも体に身に着けて要られたら、こんなに感動的なことはありません。だからぜひ、先生に彫っていただきたいの。お願いできませんか。」
「はいわかりました。では、どこに入れたいのか、しっかり考えてきてください。刺青は、一生残りますから、中途半端な気持ちで彫ってはいけませせん。刺青師は、それだけ責任重大ですからね。お客さんの話をしっかり聞いて、お客さんに満足できる花を彫らなくちゃ。そういうわけですから、何回もお客さんと打ち合わせして、入念に下絵を書かなければなりません。」
蘭が刺青師としてそう言うと、
「わかりました。今日、今から先生のお宅へ伺ってもいいですか?先生のお宅は、富士市でしたよね。幸い私の家は、富士駅から近いので、最寄りのバス停を教えて下さい。」
と、町田直江さんは、そういうのだった。
「ああ、わかりました。じゃあ、富士駅から、田子の浦コミュニティバス潮風に乗車していただきまして、入道樋門公園というバス停で降りていただけますか?そして、バス停から、横断歩道を渡り、中の浦橋というのがあるんですが、そこを渡ってすぐの家が僕の家です。」
そう言われて蘭はとりあえずそう答えたのであるが、
「わかりました。じゃあ、すぐ駅へ向かいます。本当にありがとうございます。先生。よろしくおねがいします。」
と言って、町田直江さんと名乗った女性は、電話を切った。
それから、40分くらいたって、蘭の家のインターホンが鳴った。蘭がはいどうぞというと、
「はじめまして。私、町田直江です。」
と、先程の女性の声がした。
「随分速いお着きでしたね。」
蘭がそういいながら、玄関のドアを開けると、一人の女性が立っていた。垢抜けしていない女性だけど、真面目そうだった。蘭のもとには一見すると不良っぽい女性とか、人生に絶望しきった女性などもやってくるが、共通して言えることは、皆他人には言えない悩みを持っていることだ。彫るときは、それを隠しておくことができず、ほとんど全員が口にしてしまう。その時、聞き流してしまわないで、ちゃんと刺青と言う形で答えてやることが、蘭は大事だと言うことを知っていた。でも、いま来た彼女は、なんだか重大な事情を持っているようには見えない女性なのだった。それがちょっと蘭は意外だった。
「どうぞ。」
と、蘭は、彼女を自分の仕事場へ案内した。そして、彼女を、とりあえず椅子に座らせた。
「えーと、ルピナスを入れたいとおっしゃっていましたね。なんでも、ルピナスさんの本を読んで感動されたとか。」
蘭が電話で言われたことを話すと、
「そうなんです。本なんて大嫌いだったのですが、それを読むことができて嬉しいと思ったほど感動したんです。世の中を美しくするために、素敵なことを思いつく、ルピナスさんは、すごいと思いました。 だから私も、それを見習って、世の中を美しくするために、なにかしたいんです。でも、何をするかどうしても見つからなくて。それで、子供の頃に誓った夢を忘れそうで。それでは行けないから、先生に、彫っていただきたくて。」
そういう彼女は、本人からしてみると普通に話しているかもしれないが、なにか障害でもあるのだろうか、一気にまくし立てるような口調で、蘭が相槌を入れる間がないほど、早口だった。
「わかりました。入れる部位は、背中で大丈夫ですか?ワンポイントで彫りますか?それとも、一面に大きくルピナスの花を入れることも可能ですが?」
と、蘭が聞くと、
「はい。一面に入れてほしいです。私は絶対に半端彫りっていうんですか?それはしませんから。だって、私の一生のパートナーみたいなものですもの。それなら絶対取得するまで私、諦めませんよ。だから、よろしくおねがいします。」
と、彼女は早口で答えた。
「ああ、ああ。わかりました。じゃあ、そうしましょう。ルピナスの花は何色を希望されますか?」
蘭が聞くと、
「ピンクがいいです。私の好きな色は、ピンクです。それでね先生。」
いきなり彼女は、蘭の顔を見て、急に真面目な顔をしてそういい始めた。
「はい。何でしょう?」
蘭が彼女に聞くと、彼女はまた早口に言った。
「先生、こんなことを話してしまうと、私先生に嫌われてしまうと思うんですけど。以前、お尋ねした彫り師の先生には、どこか他所へ行ってくれと言われました。でも私、薬もちゃんと飲みますし、飲み忘れないように、記録だって付けてあるんです。だから、よほどのことが無い限り、発作を起こすことはないってお医者さんにも保証されてます。」
「発作とはなんですか?心臓でもお悪いとか、そういうことでしょうか?」
蘭は、彼女がそう話すのを急いで止めて、そうきくと、
「はい。心臓ではありません。そういう病気じゃないです。確かに発作と言うとそういうことを連想されるのかな。でも私は違います。心臓の発作はなかなか止められないけど、私は、薬を飲んでいれば大丈夫です。」
と、直江さんは答えた。
「それでは、なんの病気なんでしょう?」
と蘭が聞くと、
「私、癲癇なんです。他の彫り師の先生にはそれを言うと完全に断られてしまうんですけど。でも、私は、薬さえ飲んでいれば、普通に暮らせます。」
と、彼女は答えた。
「ああそうですか。薬を飲んでいれば、普通の人と同じ様に仕事もできて、なにかに打ち込めるわけですね。」
蘭がそう言うと、
「いえ、現在私は仕事はしていません。癲癇を持っているということで、就職できなかったんです。ですが、世の中に対して恨みを持っているとか、そういうことは全くありません。仕事していないと頭がおかしくなって、世の中に変な感情を抱くと言われたこともありましたが、私は、そういう気持ちになったことは一度もありません。」
と、彼女はそういうのだった。その顔は真剣そのもので、蘭は彼女の気持ちにウソはないと思った。こういう女性だからこそ、刺青師という人を味方にしてもらいたいと、蘭は思っていたから、特に癲癇があると言って、偏見も持たなかった。
「わかりました。僕は偏見はありませんから、薬を飲んで、発作を起こさないようにしてくだされば、彫りますよ。そういう人こそ、強い味方というか、そういう存在が必要であるということは僕も知っていますから。逆を言えば拒絶しちゃだめだってことも知ってます。」
蘭は、できるだけ深刻にならないように、できるだけ明るい口調でそう言うと、
「ありがとうございます。先生。やっぱり先生のところに電話して良かった。それなら私、癲癇を持っているけど、ルピナスさんになれるわけですね。先生、本当に嬉しいです。よろしくおねがいします。」
と、彼女は、蘭に深々と頭を下げるのだった。
「ええ、わかりました。とりあえず下絵を描きますから、まずルピナスの図案を一緒に考えましょう。そこからですね。」
蘭が優しくそう言うと、
「ありがとうございます!よろしくおねがいします!ルピナスの花は、絶対ピンクがいいです。そして、ルピナスとすぐに分かるように彫っていただければと思います。」
と、彼女は言った。まあ確かに、刺青をしたいが、彫るイメージがなかなか決まらない客もいるが、彼女はもう彫りたい画像が予め決まっているようで、こうしたいああしたいと次々に希望を言った。蘭はそれをメモに取りながら、彼女の身の上話を聞いていた。確かに彼女は癲癇というか、なにか精神疾患があるようで、嬉しい感情を自分でコントロールするのが難しいようなのだ。刺青のイメージの話を止まることなく喋り続けた。
「わかりました。それでは、下絵をいくつか描いておきますから、来週の今日、同じ時間にこちらへいらしてください。そのときに下絵をお見せして、実際に彫るのをどの画像にするか決めましょう。」
蘭がそう言うと、彼女は、
「よろしくおねがいします!」
と丁寧に座礼した。蘭は、
「わかりました。」
と言って、とりあえずその日は彼女に帰ってもらうことにした。彼女は、にこやかに笑って、ありがとうございましたと言って、蘭の家を出ていった。
町田直江を送り出して、数分後。ピンポーンとインターフォンが音を立ててなった。誰だと思ったら杉ちゃんだった。
「おーい蘭、買い物行こうぜ。今日は大売り出しだから、大量に買っていこうかな。」
そういう杉ちゃんに、蘭は、
「フェレットくんたちはどうしたの?」
と聞いた。
「ああ、今頃ソファーの上で寝てるよ。薬がちゃんと効いてるし、それさえやってれば、発作を起こす心配はないって言うから、あんまり気にしてないよ。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「そうかあ。なんだか、人間より、フェレットのほうが、手厚く看病されているね。」
蘭は先程の彼女の話を思い出しながら言った。
「手厚くっていうか、ただ事実だからね。それは、仕方ないだろ。飼い主が責任持って飼育しなきゃ、ペットは飼えないよな。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうか、なんだか皮肉だね。フェレットのほうが、人間よりしっかり看病してもらって、薬を飲ませてもらって、発作を起こさないようにしているんだから。なんか、さっき来たお客さんが可哀想だと思ったよ。」
蘭は思わず、彼女の話を思い出してそう言ってしまったのであるが、
「まあ、それはあんまり思わないほうがいいと思うな。エラさんは、癲癇はかなり普通の病気だと言ってたぞ。だから社会的に不利になるとか、そういうことは思わないほうがいいと思う。もし、輝彦がまた痙攣したら、僕は、動画にしてアップしようかなと思っているんだけどね。」
と、杉ちゃんが真面目な顔をして言うので、蘭は、
「それって、フェレットだから許されるのかもしれないが、人間でしたら人権侵害だと思うぞ。」
と言った。
「何を言ってるの。他にフェレットの癲癇で悩んでいる飼い主が参考にするかもしれないだろ。だから、いいと思うんだ。誰でも障害は不便だと言うが、それは、人によりけりじゃないの?」
杉ちゃんは明るい顔して言うのだった。本当に杉ちゃんって変わってるなと、蘭は思うのだが、それ以上話は聞かないことにして、買い物に行くことにした。蘭が手配したタクシーで、ショッピングモールに向かったのであるが、なんだか道路がものすごい渋滞で、いつまで立っても車が動かない。一体なんだろうねと運転手も首を捻っている。これでは歩いたほうが速いのではないかと思われるほど車は渋滞していた。杉ちゃんたちがしかたなく、車が動くのを待っていると、警察官が走ってきたので、杉ちゃんは思わず、
「おい、何があったんだよ。交通事故か?」
と聞いてしまった。
「ええ、そうです。なんでも、車がいきなり暴走して、あちらの電信柱と衝突したようなんです。」
警察官は早口に言って立ち去った。
「はあ。アクセルとブレーキを踏み間違えたのかな?」
と、杉ちゃんが言うと、そこへ担架を持った警察官二人が、杉ちゃんたちの近くを通った。まだ息があるのか不詳だが、担架に乗っているのは若い男で、とても、アクセルとブレーキを踏み間違えるような年齢ではなかった。
「一体どうしたんだろうね。なにか持病でもあったんだろうか?」
蘭がそう言うと、前方から、警察官たちが無線で連絡を取り合っているのが聞こえてきた。耳ざとい蘭には、こう聞こえた。
「はい、彼の母親の話によりますと、彼は癲癇の持病があったみたいですね、、、ええ、、、わかりました。それでは、運転免許をなぜ取得できたかなど、聞き込みをする、、、。」
「確かに、癲癇の人が運転免許をとるのは、特別な許可が無いとできないよな?」
と、杉ちゃんが言った。
「ほら、何年か前に、クレーンだかなんだかが暴走して、小学生が何人かなくなった事故もあったよな。それを考えると、癲癇を持った人が車に乗れないってのもわかる気がする。」
「あの事故は、本人が癲癇を持っていることへの劣等感で起きたと聞いているけどね。」
杉ちゃんの話に蘭もそう付け加えた。
「劣等感ねえ。そんなに車を運転することはかっこいいことかな。まあ確かに、車があればらくして目的地に行けるけどさ。でも、車がなくても生活することはできるじゃないかよ。電車とかバスとか、そういうもので、なんとかしようとは思わないのかな。目的地につければそれで満足だ。それでいいじゃないか。」
杉ちゃんはそう言うが、蘭はそれができる人間は非常に少ないのではないかと思った。どんな障害者でも能天気でハッピーに生きているというのは稀で、誰々より自分は障害の程度が軽いからまだマシだとか、そういうふうに他人と比べている人のほうが圧倒的に多い。今回の事故を起こした癲癇を持っている人も、多分そういう気持ちがあったのではないか。そうでなければ、車を運転したりはしないはずだから。誰かと比べて、誰々よりマシだと思ってしまうことでしか、心の安定が保てないで、無理して他人と同じことをしようとして、更に悪化させてしまうケースのほうが多いのだ。障害を受け入れるとか、それをうまく使うとか、あるいは自分の一部として放置してしまうような、そういう事ができる人は、よほど生活環境が恵まれているとか、誰かつよい味方を持っているとか、そういう人でないとできない。そこを蘭は、刺青師としてよく知っている。
「まあねえ。当たり前のことができなくなると、人間はどうしても不安定になるじゃないか。それを止めてくれる強い味方がいるとか、そういう人は、ほんの一握りで、他の人と比べてどうのっていう人間ばっかだよ。」
蘭は、杉ちゃんに言った。
「杉ちゃんみたいに、何でも笑って、事実はただあるだけとか、そういう事言える人は、少ないよ。」
「そうかな?だってそう受け止めなきゃ生活できないじゃないか。それ以外に何ができるというのさ。少なくとも、人間にできるのはそれだけだぜ。」
「本当に杉ちゃんって人は、明るいね。」
蘭はため息を着いた。それと同時にやっと渋滞が解消されてくれたようで、車は少しづつ動き始めてくれた。多分事故車の処理が完了したのだろう。
なんだか、癲癇を持った人が、陥りやすい悲劇を見たようで、蘭はとてもつらかった。
それから一週間後。町田直江さんが、蘭の元を訪れた。
「今日は、バスでいらしたんですか?」
と蘭が聞くと、
「いえ、バスは、丁度いい時間がなかったので、タクシーできました。」
と彼女は答える。タクシーが、もう少し気軽な乗り物になってくれたらと蘭は思った。バスはとても運賃が安いのだが、決まったところしか通らないし、こういう田舎町では一時間に一本しか走っていないことが多いので、ちょっと悲しくなってしまう。
「じゃあ、とりあえず、下絵を三枚描きましたから、彫りたい図柄を選んでください。」
蘭はそう言って、下絵を描いた画用紙を三枚渡した。彼女は真剣にそれを眺めて、
「これがいいわ。」
と一番派手なルピナスの絵を指した。
「これで、世の中を美しくするためになにかするってことを忘れずにいたい。」
そういう彼女に、蘭は、刺青師として責任は重大だと思った。彼女が、癲癇であることは、誰にも変えられ無いのだし、彼女が、これからも、それを背負って生きていくためには、それが必要不可欠なのだ。そういうものの象徴として、刺青というものが役に立つときがある。蘭は、それをすごいことだと思っていた。
ルピナスの花 増田朋美 @masubuchi4996
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