月の下の自由

和泉茉樹

月の下の自由

      ◆


 我らが国を統べる宗主様。

 我らを導き、万民に幸福を約束する宗主様。

 我らの罪を暴き、我らに贖罪の機会をお与えになる宗主様。

 愛というものを知らしめる、宗主様。


      ◆


 僕が彼女のことを知ったのは、都市を走る電車の中だった。

 同盟国から買い付けたというその車両は旧型で、ひどく揺れた。乗客は椅子から溢れ、立って乗るものでぎゅう詰めだった。

 彼女は僕のすぐそばにいて、二人が視線を交わすことになったのは、物理的に距離が近かったことと、二人がほとんど向かい合うように立っていたせいだろう。間に数人の男性が立っていたけれど、不思議と僕と彼女はお互いを見ていた。

 車内に短いアナウンスがある。駅が近い。

 激しく軋みながら車両がぐっとかしぐ。脱線しそうな気がしてひやりとする。製造したメーカーが積載重量に遊びをもたせていることを願った。

 駅に着き、乗客が入れ替わる。僕は降りたが、彼女は降りなかった

 視線だけがしばらく二人をつなぎ、自然と途切れ、僕はホームから駅舎へ向かう人の群れに混ざった。

 駅を出ると宗主様の顔が印刷された大きな幕がそこかしこに見えた。

 生誕六十年を祝う大会の宣伝だった。宣伝などしなくてもこの都市にいるものは中央広場に集まるだろうし、各地方でもそれぞれに集会が開かれているのを無視する国民はいない。

 数人の男女が、一番大きなポスターの前に膝をつき、首を垂れていた。

 僕はそれを横目に通りへ出て職場へ向かう。

 仕事は宗主様が与えてくれた、つまらない事務仕事だった。

 この国では誰もが宗主様がお与え下さった仕事に従事する。職種を選ぶ権利はない。

 昼間まで働き、食堂へ向かう。いつもの約束の場所に、女性が一人立っている。やや目尻がつり上がった特徴的な顔。笑顔が浮かぶが、あまり笑っているようには見えず、むしろ責めているように見える。

 この女性が僕の婚約者だった。

 婚約者も宗主様がくださる。僕と女性は宗主様のご意思の元、いずれは結婚し、子を作り、この国に貢献する。

 宗主様の国に。

 二人で食事をするが心躍る話題などない。食堂にはフロアに十ほどのテーブルがあったが、そこにいるものはみな、どこか活気がなかった。力ない笑いと、弱々しい声。

 僕の頭の中には、バスの中にいた彼女の顔がちらついていた。

「あなた、何を考えているの?」

 声に僕は気を取り直して目の前の女性を見た。

「ごめん、ぼうっとしていた」

「あまり不満そうな顔はしないで」

 低い、鋭い声に僕は無意識に片手で自分の頬を撫でていた。

「そんな顔、していたかな」

「していたわ。「縁」は見逃さない。破滅するつもり?」

 僕は女性の言葉こそが破滅を導く気がしたので、答えなかった。ただ笑って見せただけだ。

 縁と呼ばれる装置は、この国の各家庭や商店、街頭に設置されている装置で、いわば目であり、耳だった。

 ここから吸い上げられる莫大な情報を「倫」と呼ばれる装置がリアルタイムで解析する。

 そうして宗主様やこの国に疑念を持つもの、反感を持つもの、革命主義者、無政府主義者、その他の不穏分子を見つけ出すのだ。

 民衆は常に監視され、常にその監視の目を意識している。

 もちろん、こそこそするような真似はしない。それこそが疑われる。

 民衆の取るべき態度は、私には怪しいところはありません、と振舞うことなのだ。

 心の中はどうであれ、宗主様万歳、と表現するしかない。

 女性は自分の過ちに気付いたのか、小さく舌打ちをして食事を再開する。

 僕は電車の中の女性のことを思った。

 彼女はきっと、舌打ちはしないだろう。

 彼女とどうすれば会えるのかを僕は少し考え、それが無理だという分かりきった結論に落ち着いた。

 この国に自由はない。


     ◆


 ある雨の日、電車は普段以上に混み合っていたけれど、僕は彼女を見つけた。

 彼女も僕を見つけ、二人の間で時が止まった気がした。

 僕は思い切って、普段は降りる駅を乗り過ごした。彼女も降りない。

 しばらく電車は走り、いくつかの駅を通り過ぎたが、彼女は動かなかった。やがて乗客は減っていく。二人の間を遮るものは無くなっていった。

 ある駅で彼女が視線をふとそらしたのが、合図だった。

 なんでもない駅で二人で降りた。他に降りた客に混ざり、ホームを進む。彼女が先を行くので、僕は黙ってついていった。

 駅舎は小さいが、やはり宗主様のボスターが貼られている。しかしさすがに額づいている人はいなかった。

 彼女が優雅と言ってもいい歩調で進み、一軒の喫茶店に入った。僕もそれに続く。

 店内は賑やかだった。客の数は少ないが、店内放送の音量がいやに大きい。これでは客は会話に困るだろう。

 僕の背後でドアが閉まり、彼女がカウンターにいるところへ歩み寄り、それでも一つ、席を空けて隣に座った。

「ご注文は」

 店主らしい禿頭の男性が近づいてくる。低い声は店内放送の中でもはっきり聞こえた。

「コーヒー」

 僕の言葉に店主は特に確認もせず、離れていき、カウンターの向こうで作業を始める。

「怖いもの知らずね」

 不意に声をかけてきたのは、彼女だった。彼女の方から声をかけてこなければ、僕はきっとコーヒーを飲んで遅刻して職場へ向かっただけになっただろう。

 この一瞬に、全てが動き出したのだ。

 正確に言えば、今までは小さな歯車が回っていたのが、この時、大きな歯車が一つ、動いたということ。

「ここはどういう店ですか」

 僕が訊ねると、彼女は口元を手で隠しながら「普通の店よ」と言った。

「普通、というのは?」

「ここには縁が置かれていない、ということ」

 そういう店がこの国のそこここにあるのは知っていた。実際に入ったわけではなく、メディアでそういう非合法な店の摘発が放送されるからだ。

 自分がそんなメディアの中にしかない場所に実際にいるとは思えなかった。

 実際、本来的な「普通の店」にしか見えないのだ。

「あなた、恋人はいるの?」

 彼女がそう声を向けてくる。

「ええ、います」

「国が決めた相手でしょう?」

「そうなりますね」

「愛している?」

 難しい問いかけだった。あの女性に対して自分の中にある感情が愛なのかは、判然としない。あの女性を愛するようにと、僕は宗主様から求められている。僕自身の意思など関係なく、愛さないといけないのだ。

 しかし愛とは強制できるものだろうか。

「あなたと私の間にあるものを、考えておいて」

 彼女の前にコーヒーカップがやってくる。しかし彼女はそれに手をつけなかった。

 会計をして彼女は店を出て行く。僕の前にもコーヒーカップがやってくる。コーヒーは濃くて、今までに飲んだコーヒーとは別物だった。これを美味いというのだろうか。僕は美味いという感情さえも、これまで宗主様に与えられてきたようなものだ。

 彼女がコーヒーを飲まないのは、何故か。

 こんなに美味しいのに、何故だろう。

 僕はしばらくそこに落ち着き、午後から仕事に向かった。上司は宗主様の名前を出して僕を叱り、僕は頭を下げた。同僚は冷ややかな目で僕を見た。その眼差しは、罰するような色を帯びていた。

 それも、自ら罰するのではない。

 天が罰するのを期待する目だ。

 倫がお前を罰するぞ、と言いたげな目。


      ◆


 僕は彼女と何度か会った。

 この国の国民には、小さなタグが埋め込まれている。これはそのタグの現在地を常に国家が把握するためにある。一部の犯罪者がこれを抉り出したりするようだが、タグは脈拍や体温を検知しているため容易には誤魔化せない。

 僕と彼女が会うことを、おそらく倫は知っているだろう。

 しかしこの国でも友人と会う程度の余地はあるはずだった。何もかもが支配された国ではあるが、支配が及ばない領域もある。人間の性能を維持するための、いわばガス抜きの場だった。

 それでも倫は全てを把握する。ガス抜きも、行き過ぎれば罰が下される。

 僕と彼女の間にある感情を、僕はある時から「恋」だと感じ始めた。

 愛おしさは、あの婚約者の女性にも持っていたが、それとはまるで違ったものだった。

 友人に過ぎない彼女に対して感じる愛情は、もっと切実で、強迫的だった。何もかもを知りたい、支配したい、独占欲に似たものが僕の中に生じていた。

 僕に婚約者がいるように、彼女にも婚約者がいるという話を聞いた。その婚約者を彼女は「何も考えない人」と表現していた。

 これだけが彼女が何らかの不穏分子であることを示しているわけでもない。

 彼女が信奉しているのは、「自由」、これだけだった。

 そのために縁の監視の届かない場所をいくつか知っており、僕と会っているのだ。

 僕は彼女に会うまで、自由というものはこの国にはないと思っていた。

 しかし、あるのだ。

 自由はそこここに、隠れながら、ちゃんと存在する。

 その日も僕は彼女と会い、小さな酒場で密造酒を飲んでいた。密造酒は市販されている酒の瓶に詰め替えられており、飲むときはジュースなどで割るために元の色は隠されて、どこにでもあるカクテルのような見た目で提供される。

 それは突然だった。

 建物の明かりがふっつりと消える。

 客は十人ほどいたが、短い悲鳴が交錯した。

 彼女の反応は早かった。座ったままでいた僕の手を薄暗がりの中で掴むと、床に引きずり倒した。

 いきなり酒場のドアが吹き飛び、大勢が乱入してきた。

「警察だ! 床に伏せろ! 動くな! 伏せていろ!」

 怒号の中で彼女はそろそろと僕を引っ張っていく。ライトが酒場の中を照らす。彼女は器用にそれを避けた。まるで魔法のようだ。

 そのまま彼女は店の窓際へ行くと、大胆にもそれを開いた。夜風が吹き込み、カーテンが膨らむ。

 警官の持つライトがそこを照らし、続いたのは一つらなりの銃声だった。

 ライトはただのライトではなく、短機関銃に取り付けられていたのだ。

 窓が砕け散り、カーテンがズタズタになる。

 銃声が静まり、警官たちが元の通り、他の客を検め始める。

 この時、窓際で伏せていた彼女が跳ね上がり、窓の向こうに飛び出した。

 僕も考えている暇はなかった。後に続く。警官の怒号と銃声、背後で何もかもが砕け散る音がする。

 走った。これまでに走ったことがないほどの距離を走った。

 彼女は僕の少し先を走る。

 どうしてか追いつける気がしなかった。

 僕と彼女は、近い場所に立っているはずなのに、どうしてか、あまりにも遠い。

 決して縮まらない間隙が、二人の間にはあった。

 この夜、僕たちは同じ立場の逃亡者になった。

 僕は二人の隔たりを意識しないようにした。

 僕はきっと、一人になりたくなかったのだろう。

 本当の意味の一人に。


      ◆


 都市を抜け出すのに、彼女の友人を頼った。

 この国は小さな島国で、逃げ出すにはどうしても海を渡らないといけない。しかし航空機で亡命などありえなかった。

 国外に脱出するものを支援する漁師のような人々がいて、彼らは夜に船を出し、様々な方法で逃亡者を他国の領海に放り出すのだ。

 他国の領海なら、宗主だろうと倫だろうと、手は出せない。

 僕と彼女は一ヶ月ほどをかけて、海岸にたどり着いた。

 僕も彼女も都市生活者の服装ではなく、地方の農村に住む、貧しい若者のような姿になっていた。

「この国には自由がない」

 海に日が沈んでいくのを、僕と彼女は砂浜に座り込んで眺めていた。

 予定では日が暮れると同時に船がやってくるはずだ。すぐそばに桟橋があり、そこへ小舟が来たら、その小舟で沖に停泊している漁船に乗り込む。あとは他国の領海ギリギリでまた小舟に乗り換え、その小舟で僕と彼女は亡命できる。

 彼女はもう一度、「自由がないのよ」と繰り返した。

「私とあなたの間にあるものも、否定される。否定して良いはずがない。私はそう思っている」

 僕はここまでの命がけの逃亡を少し思い出した。

 この国の様々な人を見た。諦めきって無気力に生きるものもいれば、体制に反発して意気軒昂なものもいる。皮肉ばかり言うものもいれば、無言で行動するものもいる。

 僕は彼らの仲間なのか、それともどこにも属さない半端者なのか、わからないでいた。

 ただ彼女といたい。彼女のそばにいたい。それだけだった。

 ついに太陽が水平線に沈む。空だけがかすかに闇ではない色、濃紺、藍色としてそこにあるが、その抵抗もほどなく終わり、漆黒がやってくるだろう。

 遠くで何か、駆動音がする。

「来た」

 彼女がすっくと立ち上がる。僕も彼女も、この一ヶ月でだいぶ痩せた。

「私たちは自由になれる」

 沖から小舟が近づいてくる。小さなエンジンを積んでいるようだ。見る見る大きくなる。

「あなたも自由よ」

「あまり実感がないな」

 僕がそう答えると、彼女が笑ったのが薄闇の中でもよく見えた。

「もう何を言ってもいいのよ。何をしてもいい。誰もそれを咎めない」

 そうか、と答えた僕は、彼女に対して、重大なことを言っていないと気付いた。

 僕は彼女に自分の感情、この想いを伝えていない。

 それはこの国では、宗主に、縁と繋がる倫に、奪われていた行為だった。

 また同時に、あの女性、目のつり上がった女性を裏切る言葉でもあった。

 自由になると彼女は言う。

 しかし自由は、どうしてだろう、恐ろしい。

 自由になるということは、僕は支配を免れるが、誰かを裏切ることなのだ。

 裏切りではない、と彼女は言うかもしれない。

 でも僕は、僕が生きてきた国を、社会を、人々を、裏切っている。

 僕が過ごしたこれまでの時間を、否定している。

 彼女が僕から離れていく。桟橋へ向かっているだけなのに、まるで僕から離れていくようだった。

 言わなければ。

 未来を招き入れる言葉を。

 過去を拒絶する言葉を。

 本当の想いを。

 唐突だった。

 周囲がライトで照らされる。僕は反射的にそちらを見た。

 黒い戦闘服を着た男たち。武装警察だ。

 早く! と叫んだのは誰だ?

 僕は桟橋へ彼女を追って駆け出した。小舟は桟橋から少し離れたところで停止した。僕と彼女をおいて沖へ戻ろうとしているのだ。

 必死だった。

 全てが失われる瀬戸際。

 彼女が疾走する。桟橋から宙に飛び、小舟を激しく揺らして転がり込む。

 僕も桟橋を走った。小舟は向きを変えつつある。

 彼女が何かを叫ぶ。

 聞こえないのは、無数の銃声のせいか。

 僕は桟橋の終点を蹴りつけ、宙を舞った。

 彼女の笑顔。

 自由。

 光の中で何かが弾ける。

 ああ、僕は生きている。

 不意にそう思った。


     ◆


 漁船の甲板で、僕は月を見上げていた。

 彼女はもういない。

 小舟が桟橋を離れる前に、一発の銃弾が彼女の胸を撃ち抜いていた。

 漁船にたどり着くまでは息があったが、すぐにそれは絶えた。

 逃し屋の男は彼女の死体を海へ捨てると決めた。僕はそれに抵抗しなかった。

 髪の毛をひとふさ、切り取った。

 それで彼女は、海に消えた。

 僕は月を見上げたまま、細く息を吐いた。

 僕はあの国で、本当の気持ちを口にできなかった。

 最後の場面に至っても。

 僕は自由の国に行ったとして、本当に自由になれるだろうか。

 例えば、「あなたのことが好きだ」と、それだけのことでも言えるようになるだろうか。

 全てを支配された国に侵されきった、この僕は。

 船は進む。

 月はいつまでも頭上にあった。



(了)

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月の下の自由 和泉茉樹 @idumimaki

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