第5話 錆びついた少年
「はぁ…疲れた」
バスを降りると、思わず声に出してしまった。
時刻はもう夕方だ。空は赤く染まり始め、生暖かい風が肌を撫でる。白鳥モーターの営業時間を終え、そこから締めの作業までを教わって、日が暮れる前には帰路に着いていた。
(変な店。ていうか変な人達だったなぁ…)
バイト初日にしては中々に濃厚な体験だった。気怠げな店長に、金属バットを振り回す不良少女、それに加えて勝手に客のギアを改造する従業員というバラエティに富んだ面子だ。
(でも、時給1260円……辞める理由はない)
空也はアパートの階段を昇り、玄関の扉を開ける。
「ただいま」と廊下に告げると。
「おかえり」
と母・諸星香澄の声が返ってくる。
香澄は、一児の母とは思えぬ若々しく整った容姿をしていた。二十代の頃はモデルをやっていた彼女の、細身の手折れそうな体にはその面影がある。
「母さん。今日も夜勤でしょ。ご飯作るよ」
「…ありがと」
空也は荷物を置いた足で、キッチンに向かう。冷蔵庫にある簡単な食材を使って料理を作る。ご飯は冷凍してあったのをレンジで解凍する。
「バイトの面接、どうだった?」
「受かったよ。さっそく働いてきた」
「へえ。工事の現場クビになったって聞いた時はビックリしたけど。よかったわね」
テーブルに料理を出す。空也にとっては夕飯だが、母にしてみれば起きたばかりの食事だ。味付けは薄くしている。
「テレビつけるよ」
空也はリモコンのボタンを押してテレビをつける。番組にはこだわらない。二人暮らしの静かな食卓に、テレビの音は賑やかし以上の意味を持たないからだ。
「バイト先、どう?」
「店長もいい人だし。なんか、面白い店だよ」
「続けられそう?」
「うん」
他愛もない会話をこなしながら、シンプルな野菜炒めを口に運ぶ。
空也の若い舌には物足りない味付けだが、腹が膨れればそれでいい。
「1300円だっけ、時給」
「え、ああ。ううん。1260円。ギアの操縦よりずいぶん下がるけど」
「それでも、高校生にしては、高いわよね」
「個人経営だし。ギア専門店だから、ジュニアでの経験あるのはやっぱ強いよ」
「そう…」
香澄は物憂げに目を細める。
「なら、ファイトギアをやらせてたのは、無駄じゃなかったわね」
「……」
無駄じゃなかった―――。
そんな母の物言いを聞いて、胸の奥がチクリと痛んだ気がした。だがそれを指摘するようなことはしない。
ただ頷くだけでその場を流す。
『契約解除されたパイロット。彼には養わなければならない家族がいた』
ふと、テレビの音に意識が向く。スポーツ系の報道番組の一枠で、かつてファイトギアの特集がやっていた。成績を残せなかったファイトギアのパイロットが、企業からの契約を打ち切られるまでのドキュメンタリーだそうだ。
「番組変える?」
「いい。余計惨めになるでしょ」
香澄は苛立った声で答え、空也は背中でテレビを聞く。
(親父、今なにしてんのかな)
「馬鹿ね」
「…!」
吐き捨てるように、母は呟く。
「家族がいるのに、夢を追って、振り回して、挙げ句の果てに逃げるんだから」
「……」
「空也は、ああならないでね」
「……」
「才能もないのに、夢を追うなんて、馬鹿のすることよ」
「うん。わかってるよ。母さん」
彼は張り付いた笑みを浮かべる。
「もう、ファイトギアには興味ないよ」
乾いた声で言うと―――、
香澄は、「なら…よかった」と安心したように頬を緩ませた。
「ごちそうさま」
箸を置く。空になった皿をシンクまで持っていく。皿を洗っているうちに、「じゃあ行ってくるね」と香澄は仕事へ出て行った。
「……」
洗い物が終わると、テレビを消す。静寂に取り残される。
空也は自室に入る。ベッドと勉強机と教材しかない殺風景な部屋だった。
部屋の中、机に向かうと、教材を開いて勉強を始める。
昼はバイトで、夜は勉強。進学の費用を貯めたのに、受験に受からないなんてオチは笑えない。空いた時間は出来る限り学力向上に当てている。学校の通信教材も並行して進める。
(ファイトギア、か)
中学時代まで熱中していたそれは過去のもの。
必死に体幹を鍛えたのも、夜遅くまで対戦相手の記録を漁ったのも、仲間と機体を造り上げ、それに乗り込み戦ったことも―――、もう既に、風化しつつある思い出話に過ぎない。だが、それも無駄にはなっていない。
こうして努力との向き合い方を学んだし…。なにより。
(1260円…か)
今日の面接で、白鳥モーターに即決で採用されたのも、ジュニア時代の経験が評価されてのことだろう。空也がギア設計未経験の高校生なら、あの店で働くことも出来なかったはずだ。
おかげで家計を支えられる。とすれば―――、
(神奈川県の最低賃金が1000円だとして、あの店の時給は1260円。つまり俺のこれまでには260円の値段がついたことになる)
夢の轍は、一時間260円。
安いのだろうか。それとも貰いすぎなのだろうか。そもそも値段がついたことに、喜ぶべきか。
(受験は、負けられないよなぁ)
空也は気を引き締めて、シャーペンを走らせた。
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