深夜の戯れを噛み砕く

野村ロマネス子

深夜のお戯れ

 ピィンポォーーーン。


 その音をベッドの上で聞いた時、私たちはちょうどクライマックスだった。

 互いの汗が肌の隙間を埋めるように張り付き、吐息と吐息が入り混じって、どちらの声ともわからないものが部屋を満たしていた。私の右脚と左脚の間には彼の腰が位置し、まぁ、いわゆるそういう運動を繰り返していたちょうどそんなタイミングでインターフォンが鳴り響いた。

 それはまさに鳴り響くという表現にふさわしい鳴り方で、あとあと考えてもどうやったらあんな音色を奏でられるものかと不思議に思うくらいだ。

 音に反応して彼の動きが戸惑い気味になる。そりゃそうだろう。時間は深夜。終電も無くなって久しい。

 瞬きひとつ分ほど動きを緩めた彼が律動を再開して、何度目かのインターフォンが響く中で、コトは終焉を迎えた。


 荒い息を吐いたあと、手を伸ばしてサイドボードの眼鏡を取りながら立ち上がる。私はベッドに身体を投げ出したまま後ろ姿を眺めて、あの小さな尻がさっきまで私の上で健気に動いていたのかと思う。

「あー……ですよね」

 インターフォンのモニターを覗き込んで漏らした声。それで何が起きてるか全て悟る。

「彼女さんですかね」

「みたいですね」

 こんなド深夜の他人の部屋のインターフォンなんて、それなりの関係じゃないと鳴らさない。ド深夜にインターフォン鳴らして「来ちゃった!」みたいなのは漫画の中の人がやる事で、でも今回のこれだって充分ドラマの中の人がやる事ですよねと、無駄にフル回転して現実逃避する私に、彼こと塩野さんが振り返って困ったように笑ってみせた。いや、笑ってる場合だったか。




 ———ヤバいな、これ。


 マスクの下から無精髭の生えた口元が現れたのを目にして、咄嗟にそう思ってしまった。何がヤバいかって、これ、慣れてるヤツですよ。

 同じオフィスビルの他のフロアにお勤めで、素敵な銀縁眼鏡くんが居るなぁと思っていたのは、えぇ、事実です。偶にエレベーターでご一緒した際にも「今日はラッキーデー!」とか心躍らせてたのも、認めましょう。

 それが、沿線火災で電車止まっちゃった残業帰りに駅前で「えー!」って申しちゃった声を聞きとがめられて、心底楽しそうに肩を揺らしながら「お疲れ様です、同じビルですよね」とか言われちゃうなんて、どんな夢ですかって話ですよ。

 銀縁眼鏡と長めの前髪、温和で柔らかな微笑みで「待ちぼうけも何ですし、ご飯行きません?」なんて含羞むものだから、うっかり誘いに乗ってしまった。ヤバい。ヤバいな。小動物だと思ってたら、どうやら牙があるみたいです、この人。


「何にします? ここ、わりと何でも美味しいんで」

 今はまた口元はマスクに隠れたものの、コップから水を飲む流れで一度見てしまったらもう、そうとしか見えなくなった。小動物らしからぬ剣呑な笑み。そこから一生懸命に目を逸らしてメニューを眺めるふりをする。何その余裕の表情。

 メニューの内容なんて頭の中を駄々滑りして全く入ってこない。肉料理のページを捲り、魚料理のページを眺めるふりをする。

「魚も美味しいですよ、カルパッチョとか。あ、生魚いけます?」

「あ、大好きです」

「それじゃ本日のカルパッチョと、大葉とチーズの春巻きと」

 オーダーを決めていく彼の声に、自動人形みたいに規則正しく頷きながら頭の中では「ヤバいよコレはヤバいから」と繰り返す私は、もう既に彼の銀縁眼鏡から放たれる美しくも恐ろしい蜘蛛の糸でぐるぐる巻きになっていたのだ。


 そうして料理が運ばれ始めてから二時間後。酔った。えぇ、とても。ちょっと珍しいくらいに。近年稀に見る酔っ払いだ。

「大丈夫ですか?」

「うーん」

「電車、動いたみたいですけど」

「うーん」

「ひとりで帰れます?」

「うーん」

「僕ん家、来ます?」

「うーん……ん?」

 耳が違和感を覚えて顔をあげると、さっきまで旺盛な食欲を披露していたその顔がすぐそこにある。旺盛な食欲を満たした後は旺盛な他の欲も満たそうと言うのかこの男は。

 そこからの思考が「いいじゃないか受けて立とうじゃないか」に流れるあたり、正直もうあの時点で取り返しがつかない所まで来てた。

 それから彼の居住するマンションの一室でお互いのアレやコレやを引き剥がして対戦に挑むまではテンポ良く、かつ、歯切れ良く行われて、場面は先ほどのド深夜に辿り着く。




 ガチャっと音がしてその方向を見れば冷蔵庫を覗き込む背中が見えた。

「なんか飲みます?」

 いや、余裕か。

「あ、ミネラルウォータ的なものがあれば」

「コントレックスならあるけど」

「いただきます」

 艶のあるピンク色のキャップを捻ってボトルに口を付けながら、横目でサッと冷蔵庫の中を確認する。瓶入り飲料とゼリー飲料、一目でわかる殺風景。女の影と言えそうな物はない。と言うことは、先ほどの彼女はここにお住まいという訳ではない。

 鳴りを潜めたインターフォンのモニタをチラと見やる。続いて塩野さんに目をやれば、何でかこんなド深夜にゼリー飲料をチャージしている。なぜ、今。

 呆けて眺めていると塩野さんがこちらを振り返る。鈍く光る銀縁眼鏡のレンズ越しに、あの剣呑で獰猛な視線がこちらを探るように動く。


 ———コツ。


 何かがどこかで鳴った。

 冷たいミネラルウォーターが喉を滑り落ちる音が聞こえそうな沈黙。ゼリー飲料を咥えたままの塩野さんも、まるで草原で耳をそば立てる小動物のような趣きで動きを止める。


 ———コツン。コロコロ。


 二人同時にリビングの掃き出し窓を凝視する。小石を、投げていらっしゃる。

 どちらからともなく息を潜める。


「これ、大きい石にならないといいですね」

「さすがにナイですよ、そこまでは」


 飽きたら帰りますからと付け足す言い方から、これが初犯ではないのだと確信する。これはきっと彼らのイベントなのだろう。ならほど、落ち着き払った態度にも合点がいく。

 彼女さんも難儀なものだ。草食男子かと思えば完全になんちゃってで、ワンナイトラブを嗜む癖があるらしい男。おまけにこれはきっと反省してないぞと、空になったゼリー飲料の容器をゴミ箱にシュートする無邪気な横顔から情報を得る。

 窓の外、ベランダを見上げる位置にいる彼女さんは空が白む頃には帰路に着くらしい。そして私はこの男とこれ以上どうこうなるつもりもない。今後オフィスビルで顔を合わせても、会釈以上の何かがあるとも思えない。

 であるならば。

 ミネラルウォーターのボトルにキャップをする。キュ、と力を込めてきっぱり締めて、テーブルに置く。空いた手をするすると伸ばし、眼鏡に触れる。ひんやりした感触。それをそっと掴んで外す。

「提案なんですが」

「……はい?」

「良ければ、もう一回戦致しません?」

 薄らと無精髭を生やした男が面白そうに破顔するのを目の当たりにして、やっぱり良い顔だなと反芻するけれど、これはきっとこの距離だからこそ良いのであって。

 これ以上変な気を起こさない内にと、さっそく再びのキスへと急ぐのだった。

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