少女と虎
三丈 夕六
第1話
深夜のシフトは楽だと思っていたが、それは間違いだった。コンビニバイトというものは、安い給料に反してとにかくやることが多い。それにプラスして深夜は面倒な客がやってくる。
深夜シフトを始めてから気付いた。普通の客というのは日が上っている時に活動する。会社員、学生、そういった人種だ。しかし、夜に活動する人間というのはそういったものとは無関係の輩が多い。まともな奴は長距離トラックの運転手くらいのものだろう。
「斉藤。俺ウォークイン入ってるからしばらくレジよろしく」
同じシフトに入っている中田さんが言った。
この人いつもこうなんだよな……。
ウォークイン。ペットボトル飲料が保管されている冷蔵庫。その中から飲料棚へ商品を補充する。本来であれば三十分もあれば終わる作業だが、この人が入ると一時間は戻って来ないだろうな。
時間は深夜二時を回ったところか。ちょうど厄介な客が増える頃合いだ。きっと相手にしたくないが為にウォークインへ篭るつもりなんだろう。
文句の一つも言いたいが、彼に逆らうと酷い目に会うのでやめておこう。本日の接客のことを思うとため息が出た。
◇ ◇ ◇
癖のある常連達の対応を終え、雑誌コーナーの整理をする。マナーが悪い客が多いので、すぐ雑誌棚がぐちゃぐちゃにされてしまう。店長が出社する前に直しておかないとまた嫌味を言われてしまうなぁ。
時計を見ると深夜三時を過ぎた頃。店内からは再び人気が無くなっていた。
品出しも終わりが見えてきて少し楽になったかと思ったが、今度はパーカーを着た客が入ってきた。フードを被り、マスクをした男性だ。顔も見えない。なんだか不気味だ。
……なんだよ。これが終われば少し休憩できると思ったのに。
中田さんはまだ出てこない。いつも長いが今日は一段と酷いな。
男性がレジの前に立つ。手はポケットに入れたままで商品を持っていない。タバコを買いに来た客だろうか? その割には店内を見回っていたような……。
小走りでレジに向かおうとすると急に扉が開き、目の前に人影が現れた。
「あぶねぇな」
ぶっきらぼうに言ったその人物は金髪にスカジャンを着た女の子だった。年齢は十代後半のように見える。華奢な体つきにスカジャン。女の子のファッションは良く知らないけど、なんだか不釣り合いな感じがした。
少女は雑誌コーナーへ行くと、週刊誌を手に取る。なんとなく手元の表紙へと目が向かう。表紙には派手な文字で「消えた犯人」という見出しが書かれていた。少し前に起きた殺人事件だ。確か家族の父親が殺された事件だったよな。事件が発覚した時は色々なメディアが繰り返し報道していたな。犯人の名前はなんだったかな。
しまった。いつの間にか物思いに耽っていたみたいだ。視線に気付いた彼女がこちらを睨んできたので目を逸らしてレジへと向かう。下手に絡まれた厄介だ。客も待たせたままだ。
「お待たせしてすみません。タバコですか?」
声をかけながらレジ後ろのタバコ棚へと体を向ける。しかし、いつまで待ってもタバコの名前が発せられない。
「お客さん?」
振り返ると目の前に何かが突き出された。蛍光灯に照らされギラリと光る鋭利な物体。それがナイフだと気付くには数秒の時間が必要だった。
唾を飲み込む。"強盗"という単語がぐるぐる回る。頭は完全にフリーズしていた。目の前の凶器と自分を隔てるものはレジのカウンターしかない。それも、男が身を乗り出せば簡単に届いてしまう頼りない障壁だった。
助けを求めて店内を見渡す。あの少女はいつの間にか姿を消していた。窓の外も、夜の暗闇が広がっており誰も歩いてはいない。
後はウォークインに入っている中田さんがこちらに気付いてくれるのを祈るしかない。
自分に残されたのは絶望感だけだった。
「金」
男はそれだけ言うとナイフでレジを開くよう促してきた。しかし、そうしたいと思っても、声も出せず、指一本動かせない。
「金。お兄さん。わかる?」
男がゆっくりと言う。その声から苛立ちを募らせているのが分かる。早く動かないと。しかし、焦るほどに金縛りのような症状は強くなっていった。
男の苛立ちが限界を迎えようとした次の瞬間。
鈍い音と共に男が目の前から消えた。
何が起こったのか全く頭が着いていかなかった。ただ、金髪とスカジャンだけが脳裏に焼き付いた。
男の代わりに、目の前に立っていたのはあの少女だった。その手にひしゃげたパイプイスを持って。
答えを求めるように奥に目を向ける。店の裏へと続く扉が開いており、中田さんが恐怖に引き攣った顔でこちらを見つめていた。
どうやらパイプイスは中田さんから奪いとったらしい……ということだけは理解できた。
男は呻き声を上げながら床に倒れている。彼女は男の手元に落ちたナイフを蹴り飛ばし、次に男のスニーカーの靴紐を結んで繋ぎ合わせた。そして、入り口近くの梱包資材コーナーまで行くと、置いてあった布テープを手に戻ってきた。
男が立ち上がろうとしたが、靴紐が結ばれていたせいで足がもつれ、再び地面に倒れ込む。男は動揺した様子で足元に顔を向けた。
その瞬間、今度は彼女が男の側頭部を蹴り上げた。まさに全力、といった勢いだった。そこに人を傷付けることへの躊躇いなど微塵も感じられなかった。
この一撃で男は完全に動かなくなった。
彼女は仕上げとばかりに男の腕と脚をガムテープで拘束した。流れるような動き。襲撃から拘束までのあまりのスマートさに美しさすら感じた。
「し、死んだんですか?」
やっとのことで絞り出した言葉は少女への問いかけだった。とにかく状況を整理したい。自分の脳がそれを求めていた。
「この程度じゃ死なないよ。このガタイの男は。それに、死んでるなら必要無いだろ? こんなもん」
少女は残った布テープをヒラヒラ動かしながら言う。それは、男が死んだかもしれないという不安を掻き消すような、確信に満ちた言葉だった。
確かに、殺したのなら拘束する必要なんてない。そんなことも分からなくなるほど、判断力が低下していたらしい。
それにしても、命の危機を感じていた自分が、その危機を与えた張本人を心配しているなんて。今の状況に不可思議さを感じた。
「お会計。お願い」
いつの間に持ってきたのか、彼女は栄養ドリンクをレジに置いていた。それと、先程使った布テープも。
「助けたんだからこれはちょっと勘弁してくんない?」
彼女がひしゃげたパイプイスを指差す。上手く答えることができず「大丈夫です」とだけ答えた。
「それと」
彼女がこちらを睨む。その眼光の鋭さにじっとりと汗が滲む。
瞳の奥に潜む凄まじい怒り。衝動。暴力。
動物的本能が彼女を拒絶する。
脳から今すぐ逃げ出せと信号が送られる。しかし、それと同時に、ずっとこの瞳を見ていたいという欲求に駆られた。
怖くて仕方がないのに。彼女に抱いてしまうこの感情はなんなのだろう?
「警察呼ぶだろ? あそこのおっさんに"イスは女に提供した"って言わせといて。ホントのこと言われると面倒だから。あそこ、ちょうど死角だし」
少女がアゴで刺した先には防犯カメラがあった。あそことは扉の奥のことだろう。確かにあの扉に入ってしまえば防犯カメラに映らない。中田さんはそれを利用してよくサボっているから。
「おっさんも」
そう言って少女が振り向くと中田さんは無言で数回頷いた。先程まで感じていた彼への恐れは、この少女と出会ってしまったことで微塵も感じなくなっていた。
少女は小銭を置くと栄養ドリンクをスカジャンのポケットに突っ込み、ドアの方へと歩いていく。
「あ、あの」
彼女に何かを伝えなければ。伝えなければいけない言葉があるはずだ。そんな使命感が湧き出たが、それを上手く言葉にすることができなかった。
彼女は一瞬だけこちらを横目で見たが、なにも言わず出ていった。
自動扉越しに彼女の背中が目に入る。
スカジャンの背中には、こちらを睨みつけるように一匹の虎が刺繍されていた。
少女が闇の中へと消えていく。
彼女はどこへ帰っていくのだろう。
少なくとも、自分の生きている世界の中で、彼女のような人間と出会ったことは無かった。
脳裏に焼きついた光景を思い出す。
少女と虎。
一見チグハグな組み合わせだと感じるそれも、彼女そのものだと思った。
少女と虎 三丈 夕六 @YUMITAKE
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