人参 食
男は悩まされていた。
路地の中、帰宅している途中に雨に振られたのである。
ただでさえ人通りの少ない路地なのに、さらに、日が沈んだあとの雨の中を人が通ることなんて、いま男が手に持っている充電切れのスマホの電源がつくくらいありえないことであった。
そう、男は雨に降られただけでなく連絡手段さえも失ってしまっていたのである。
男が家につくまではではあと15分以上もかかる。男は、近道をしようと思い路地を通った数分前の自分を恨んでいた。元の道を戻って大通りに出ようとすれば男だけでなく抱えている大事な書類の入ったカバンさえも濡れてしまうことは明白で、その場から動けずにいた。
幸いにも路地の中の’’CLOSED’’と書かれた古びた看板がかかっている店の屋根の下で一時的に雨を凌ぐことができていた。だが、一時的なことには代わりはない。それこそ、この店から人が出てきたらなんとも言えない雰囲気になるであろう。
雨が強くなっている中で男はあることに気づいてしまった。持ってるカバンが湿っていることに。男は急いでカバンを開け外側は湿っていた部分が中まで広がっている様子はない事を確認すると安堵の息を漏らした。男が書類を一番内側に移動させているとカバンの中に折りたたみ傘が入っていることに気づいた。
そう、男は傘を持っていたのである。
折りたたみ傘とはいえど、いま男が持っている書類を濡らさずに持ち帰ることは簡単だろう。男は、晴れ渡る気持ちで顔を上げた。しかし視線の端に先程まではなかった違和感があることに気がついた。
そこには、男よりも背の小さい綺麗な長髪の女がいた。
なお、女は人ではない何かであった。
男は、考える前に言葉を発していた。
「あ、こんばんは」
女は驚いた表情をして男に返した。
「えっ、あ、こんばんは」
ここで女が驚いているのは男に話しかけられたからというわけではない。そもそもの話、男に姿が見られているわけがないと思いこんでいたからである。そのため女は男のことを’’仲間’’だと認識してしまった。
同じタイミング、男はまさか、返事が帰ってくるとも思ってなかった。しかし自分から話しかけておいて挨拶だけで終わらせるのはきっと男のなにかに反したのだろう。
「...やっと降ってきましたね」
男はそう言ってから考えた。これだとまるで雨が降るのを待っていたみたいになってしまう。少なくともここで雨宿りをしてる人が使う言葉ではないだろう、と。しかし、その男の考えに反して女の顔色は明るくなり、意気揚々と話し始めた。
「そうなんですよ、いつかいつかと思っていたんですがやっと降りましたね。」
男はとっくに自分が傘を持っていたことなんて忘れていた。
女のその嬉しそうな姿に一目惚れしてしまっていたのである。しかし、ここで特別な感情を抱いたのは男だけではなかった。女も自分と同じ種族(勘違い)である男に一目惚れしていたのである。
そう男も女も単純だったのである。
男はそのまま質問を続けた。
「この辺には何か用があったんですか」
男からしたら勇気のいる質問だった。だが返ってきたのは思ってもいなかった答えだった。
「…人を待っているんです」
少し照れくさそうに答える姿はまるで恋人を待っているようだった。
「恋人…ですか、」
恋人、ということを言い出して少し戸惑った。ほんとに聞いていい事なのか少し迷ってしまったのだ。しかし、男の考えに反し案外軽い答えが返ってきた。
「いえ、ここにたまたま来る人を待っているんです。」
男は混乱した。つまりこの女は雨に打たれてどうしようもないからたまたま来た人に助けてもらおうとしているのだろうか。すごい大胆な行動をするものだと関心までしてしまっていた。
この時、男は自分が傘を持っていたことを思い出した。だが同時にその傘が元カノから借りたままのピンクのド派手なフラミンゴの傘だということを思い出した。
男の脳内に天秤が現れた。
片方は傘を使って女と路地から出ること
もう片方はこの傘を見なかったことにすること。
男は迷わず後者を選んだ。それほどこのフラミンゴを恥ずかしいと感じていた。以前は使えていたフラミンゴの傘もこの男のプライドに邪魔されて、もう活躍することはないだろう。振り出しに戻った男は、とりあえず自分がこの場にいる理由を作り出した。
「奇遇ですね、僕も人を待っているんです。」
これが女の誤解を招いた。
この言葉が女にとって自分と男が同族だという意識を高めたのである。
互いが互いに勘違いをして特別な感情を抱いてしまっているこの状況で単純なふたりは全て自分のいいように解釈していたのである。この2人からしたらどんどん増していく雨などもう目に入らず、どうすれば横にいる相手と距離を縮められるかということの方が重要だった。
人と、人ではない何か
何故ここまで会話が成立してしまっているのか第三者から見たら不思議でしょうがないであろう。だが単純、いや、素直な2人は自分の気持ちにさえも嘘が付けないのであった。
それから少しの沈黙が過ぎ、男はとうとう勇気を出し連絡先を聞くことにした。だが、思い出して欲しい。男のスマホは既に電源が切れている。男は聞き出す寸前にその事を思い出した。それに人ではない女はきっとスマホなんてものを持ってすらいないだろう。もし、ここで男が連絡先を聞いていたら、全ての真実が明らかになってしまっていたかもしれない。
そこからまた、しばらく男と女は思考を巡らせて考えていた。ここで1つの話題を先に見つけた女は口を開いた。
「あの、好きな人の種類ってどういったものですかね…」
ここで言う好きな人の種類というのは恋愛に置いてのタイプとは異なる。きっと、襲うとしたらどんな人がいいかという問いだろう。
だが人である男はそんなことを考えるはずもない。普通に恋愛においての自分のタイプを答えてしまったのである。
「えっと、僕より背が低くて、長髪の女性…ですかね」
男は女をチラチラと横目で見ながら先程の女のように少し照れくさそうに答えた。
おわかりだと思うが、ここでもすれ違いが発生している。女はまさか自分のことを言われているなんて微塵も思っていない。むしろ感心していた。背が低いというのは襲う際に体格差で襲いやすいから、長髪は逃げられそうになった時に髪を引っ張って捕まえられるから、女は男の言葉をそう解釈し
「とても素敵ですね。」
と返した。
いや、どこを探したら大雨が降り、日が沈んだあとの路地でこんな話をしている人を見つけることが出来るんだ。だがしかし、女からすればこれば普通だった。そして男もこれが普通だと思って会話してしまっている。
そんな2人の幸せな時間の中、男はこれまた忘れていたことを思い出した。先程プライドに負けて使用される機会を失ったフラミンゴの折り畳み傘を元カノが取りに来る予定だったのだ。何時か分からない今、のんびりできる時間なんてないことは明白だった。
そこから男は考えて考えて、仕方なくフラミンゴの傘を使って家に帰ることに決めた。傘がないと、家に帰れないのは当たり前だが、誰が喜んで使ったばっかの傘を持って帰るのだろうか。そんなことを男は気にせず女に声をかけた。
「すみません、僕、別の場所に行かないといけなくて…」
この場合、普通は別の用事があると言うのが正しいのだろうが今、ここで女といる以外に大切な用事などないと男は考えていた。
女は少し悲しそうな顔をしながら静かに頷いた。
その顔を見て男はある提案をした。
「あの、明日もここにいますか…」
普通に考えているわけがないであろう。なぜこんな質問をしたか男でさえもわかっていない。だがしかし、予想外の答えが返ってきた。
「はい、明日もずっとその先もここにいます」
男は自分のことをそこまで思ってくれているのだと喜びに満ち溢れていた。だが実際は違う。女は外に行きたくても行けない。つまり地縛霊のような存在なのである。
男は嬉しそうにカバンからフラミンゴの傘を取り出すとそれを開いた。
「それじゃあ先に失礼します。」
「はい、お気をつけて」
幸せそうな男女のやり取りだがここでもう一度確かめておこう。これは人と人では無いもののやり取りである。
男は何歩か歩き出すと女の方を振り返り
「いい人、現れるといいですね」
とだけ残して帰って行った。
人間である男が人間でない女の幸せを願ったのである。
いや、男からしたら女のことは自分と同じ人間だと思っているため、きっと女が濡れずにすむことを願っているだけなのである。
きっと元カノと会う約束さえなければ男はこのフラミンゴの中で2人仲良く帰る予定だったのだろう。
しかし、明日も会う約束を取り付けた男は意気揚々と家に向かうのであった。
帰った後に男は気づいた。この雨の中折り畳み傘だけを取りに元カノは本当に来るのだろうか。女と取り付けた約束は朝なのか、昼なのか、はたまた夜なのか、
無計画だった男は自分が夢を見ていた気分に陥った。それでも明日の朝一番、きっと昨日の路地に向かうのだろう。
明日も路地では不思議な男女が出会う。
湖と路地裏 創作集団「Literature」 @Literature_R4
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