玉響

1 閃光

 夏と言えばの蝉の声や、容赦なく焼くような熱をぶつけてくる太陽にはうんざりする。

 だがそれも、背の高い樹が数えきれないほど茂る森の中では、いくらかマシになっていた。

「流石に真夏はちょっとキツイな」

 高校生になって二回目の夏休み。千石景せんごくけいは宿題のために、家から一番近い山に来ていた。

「虫も多いし最悪。なんだってこんな場所選んだんだか」

 持参した画材を鞄の中でカチャカチャいわせながら、景は汗を拭いて歩き続ける。

「うーわ刺されたよ。もおー!」

 蚊に血を吸われて一部が腫れた腕は、じわじわと痒みを主張してくる。やめてほしい。


 蚊に刺されてから更に十分ほど歩いた先に、景は目的の景色を見つけた。

「お、ここめっちゃ良さげじゃん。これなら誰も文句言わねえだろ」

 手頃な切り株に腰をおろした景は、画材を手にさらさらと描き始めた。

 立派な樹木が悠然と立ち並ぶその中央に、美しく水面みなもを揺らす湖が鎮座している。

 七月の下旬、夏真っ盛りのこの時期でも涼しささえ感じられるその湖は、ひっそりと、しかし堂々と、陽光を反射してキラキラと輝いていた。

「ったく、美術部の課題とかめんどくさすぎ。こんな課題あるって知ってたら美術部入んなかったのになぁ」

 文句を言いながらも、順調に描き進めていく。

 景は高校入学後の部活動紹介で、美術部に入ることを決めた。理由は、楽そうだから。当時は、ただ絵を描いていれば良いだけ、と思っていたそうだが、いざ入ってみると文化祭だのコンクールだの色々と忙しい。

 何度か退部も考えたが、それは両親が許さなかった。


 それからしばらく、景は独り言も言わず静かに絵を描いていた。

「よし、こんなもんだろ」

 まだ下書きの状態だが、景の画用紙には美しい風景画が描かれていた。

「っあー、日も暮れてきたし、そろそろ帰るかな」

 景は画材一式を片付けて、今まで描いていた風景に背を向けた。

「色塗りは明日でいっか」

 来た道を戻って山を下っていく。汗をかいた体にTシャツがくっついて気持ち悪いが、それも家に帰ってシャワーを浴びればおさらばだ。

「あー疲れた」

 景が山を下り終えた頃、不意に背後で閃光が走った。

「ん? 今何か......」

 状況を理解するより数秒早く、体が動いていた。

 画材が入っている鞄をその場に残し、景はたった今下りてきた道を引き返してダッシュで先ほどの湖の所へ戻ってきた。

「何だ......さっきの......何にもねーじゃん......あっ」

 まさに息も絶え絶えな状態で湖を見回す。

 パッと見さっきと何も変わらないが、緩やかに揺らめいていた水面みなもが、今は荒く揺れている。

 何かが落ちた直後の様な、ユラユラというより、グラグラというような揺れ方だった。

「なんか、めっちゃ揺れてね?」

 息を整えた景は湖を覗き込む。

 荒く揺れる水面みなものせいで上手く判別できないが、何か白い物体が沈んでいるのが見えた。

「なんだあれ......え、マジで何。うわあ!」

 目を凝らしながらズイッと顔を近づけた景は、頭から湖に落ちてしまった。

 ガボッと息を吐いてゆっくり眼を開けると、柔らかな陽光と心地よい冷たさが身を包んだ。

 あまりの心地よさにまぶたが閉じかけたが、息苦しさに駆られて景は顔を水面みなもの上に出した。

「あっぶね! あのまま死ぬとこだった」

 充分に息を吸って肺を満たしたところで、景はもう一度湖の中に潜った。

(さっき見たやつが幻覚じゃなければ、この湖の中にあるはず......)

 湖自体はさほど深くないが、高身長の景が立って顔を出すのがやっとだったので、溺れる者も少なからずいるだろう。

(確かに何か白いものが......あった)

 景はその「白いもの」に向かって泳いでいく。夏とはいえ、冷たい水に長時間沈んでいるのは厳しい。

(は? え、人?)

 驚きのあまり、景の口から大きな泡が飛び出した。その泡は自由を噛み締めるように、ふわふわと浮上していった。

 景は一度心を落ち着かせ、湖の底で淡い光を放っているそれに近づいていった。

(うわ、マジで人じゃん)

 仰向けになって沈んでいるモノは、どこか儚さを感じる雰囲気を纏っており、細い手足や白い肌には生気が感じられなかった。景より三、四歳年下の少年のように見えるが、どこか人間っぽさが無い。

 取り敢えず、と思いながら景は少年の頼りない腕を自分の肩にまわし、湖からあがっていった。


2 アンヘル

 バシャッと音を立てながら顔を出した景は、隣の少年を気遣いながら陸にあがった。

「だいぶ長い時間水ん中いたけど、大丈夫か? これで死んでたら流石に俺も罪悪感が......」

 眉尻を下げ、心配そうな表情で少年を見つめる。

 見れば見るほど、綺麗で可愛らしい。肩ぐらいまで伸びた白い髪は、濡れて顔に張り付いている。

 景は落ち着かない様子で終始少年の肩を揺すったり、顔の水を拭き取ったりしていた。

「ヤバい、何か、なんだろ......欲しいかも」

 景が小声で呟いた直後、眼前の美しい少年のまぶたが少し動いた。

「? ここ、どこ......」

 少年が目を覚ました。

「起きた! 良かった」

 髪と同じくらい白く、長い睫毛まつげが動き、少年の美しい金色の瞳が光を浴びた。

「ねえ君、体は大丈夫? さっき俺がそこの湖から引き上げたんだけど」

 景が湖を指差しながら言う。

「えっと、貴方は......?」

 白いまぶたをパチパチさせて、少年は可愛らしい声で訊いた。

「ああ、ごめんね。俺は景。千石景」

「ケイさん、ですね。ボクは、アンヘルといいます」

「アンヘルか。外国の子? 年はいくつ?」

 一気に二つ質問した景は、アンヘルを困らせてしまった。

「えっと、何から答えれば......」

「ああ、ごめんね。じゃあえっと、出身地はどこ?」

「あ、えと、その......」

 何故か口ごもるアンヘル。

「あれ、答えられない感じ? まあいいや。じゃあ次ね。君は何歳かな?」

 アンヘルがなるべく答えやすくなるように、景は小さな子供に話すように訊いた。

「じゅ、十三歳です」

「十三歳のアンヘル君ね。オーケー」

 と不意にアンヘルがくしゃみをして、景はやっと自分達がずぶ濡れだということに気がついた。

「あー流石にこのままじゃ風邪引きそうだな。取り敢えず俺ん家行って、風呂に入ろう」

 景はアンヘルの手を引きながら、もう一度山を下っていった。

 途中、アンヘルが尖った草で足を怪我したので、景は彼を背負って山を下った。


「大丈夫ですか? その、ごめんなさい」

 山を下り終えた景がアンヘルを降ろすと、彼は申し訳なさそうに謝った。

「いや、大丈夫だよ。それより、その傷は平気? 応急措置ぐらいはできるけど」

「大丈夫です! ケイさんが背負ってくれたので」

「そ。じゃあ、まずは俺ん家に行こう。もうすぐだけど、自分で歩けそう?」

 コクンと頷いたアンヘルは、景のあとに続いて千石家へと向かった。


3 人還湖

「ただいまー」

 アンヘルを連れて、景は家の中へと入っていった。

「お帰り、景。その子は?」

 母親が出迎える。

「さっき会った。山奥の湖で......」

「あなたもその子もびしょ濡れじゃない! 取り敢えず、お風呂入って温まりなさい」

 景の言葉を遮り、母親は急いで風呂を沸かし始めた。

 十五分ほど経った頃、風呂が沸いたことを知らせる軽快な音楽が流れた。

 景とアンヘルは時短のため、ほぼ初対面なのに一緒に入ることにした。


「お、温まってきた?」

 風呂を出ると 、母親が夕食を作って待っていた。

「あれ、もう夕飯の時間?」

 髪を拭きながら、景はアンヘルと一緒にリビングに出てきた。

「いつもよりちょっと早いけどね。ほら、お友だちもいることだし」

「と、友達!?」

 アンヘルが目を見開いて大きな声を出した。

「あら、違ったの? 景、まさか虐めてるんじゃないでしょうね」

 母親の顔が一瞬にして鬼の形相になった。

「んなわけねーだろ」

 母親の怖い顔に動じず、取り敢えず座れ、と景は母親とアンヘルに合図した。


「あのな......俺とこいつはさっき......山の奥にある湖で......」

「景! 食べるなら食べる、喋るなら喋るでハッキリしなさい」

 母親が作った夕食を美味しそうにかきこんで、全てを飲み込んだところで、景はもう一度話し始めた。

「あのな、俺とこいつはさっき山の奥にある湖で会ったんだよ」

「湖? あの山にそんなとこあったかしら」

「まあ良いから聞いてくれよ。んで、俺達は湖で会ったんだけど、最初、アンヘルが湖に沈んでたのな。それを俺が助けて、あまりにもびしょ濡れだから取り敢えず俺ん家行って風呂入ろーぜってなったわけ」

 景がここまでの出来事を説明している間、アンヘルはどこか居心地が悪そうにしていた。

 夕食にはほとんど手をつけず、話すタイミングを伺っているようにも見える。

「うーん、山の奥の湖ねぇ」

「あ、あの!」

 母親が湖について考え始めると、アンヘルが口を開いた。

「どうした、アンヘル」

「えと、ケイさんがボクを引き上げてくれたあの湖、『人還湖ひとがえりのみずうみ』だと思うんです......」

 自信がなくなっていったのか、徐々に声が小さくなっていく。

「その湖は、人以外の生き物が落ちると、人間になってしまうって言われているんです。だから、えっと、その......」

「湖に入ると人間になる? じゃあお前問題ねーんじゃねーの」

「あ、それは、その......」

 あー、うー、と繰り返すアンヘルを前に、母親が優しく口を開いた。

「何か理由があるの? 嫌じゃなければ、話してほしいな」

 アンヘルは一度キュッと下唇を噛み、小さな声で話し始めた。

「えっと、ボクはその......人じゃなくて......て、天使なんです!」

 景と母親は互いに目を見合わせ、少し姿勢を正した。

「ボク、この前神様の大切な壺を割ってしまって、それで、人間界に堕とされてしまったんです」

「その堕ちた先ってのが、『人還湖ひとがえりのみずうみ』って訳か」

 景はアンヘルの言葉を引き継いだ。

「でも、それって何か困るのか?」

「ちょっと景、言い方ってものがあるでしょう」

「だってさ、元々天使だったアンヘルが人になりました。そして、それを俺が拾いました。二人は俺の家に帰りました。これの何が問題? アンヘルだって、壺割ったくらいでキレる神様のとこになんて帰りたくねーだろ。な?」

「それは......」

「俺達の家にずっといれば良いじゃん。別に良いだろ、母さん」

「え? あ、まあ、そんなに困らないとは思うけど。アンヘル君良い子そうだし」

「じゃあ決まりだな。これからアンヘルは千石家の人間だ」

 アンヘルの理解が追い付かないまま、どんどん話が進み、決まっていく。

 終始おろおろしているアンヘルは、いつのまにか景からの問いかけ全てに了解していた。


「よっしゃ。これで俺のアンヘルだな」

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