寺井 嗤斗

 静かな夜だった。満天の星空、とでも言いたいところが、残念なことに空には星一つも浮かんでいない。小さくため息をついて大きな湖の中心を見た。今宵は満月、爛々とした月光が、水面を揺らぎ、泳いでいる。時折水面で波紋が広がるが、それの正体はこちらから見ることは叶わなかった。同様に、時折ぽくりと浮かぶあぶくは、この湖に住む生物のものだろう。だが、私も、この周辺に長く住む老婆でさえ、その姿を目にしたことは無いらしい。月光は辺り一面を照らしているはずなのに、何故か深淵と化している水面を覗き込んでみるが、水面には私の顔が影を落としているように周りよりさらに深い闇を生み出しているだけだった。

沢山の木々が、深い緑の葉を揺らし、その場に音を生み出していた。耳心地の良い音色は、冷たい秋風に吹かれて時折一際大きな音を立てる。それがいやに不気味で、背筋を凍らせるのだ。そんなことを思いながら、湖沿いに建てられた小さな小屋から、木製のボートを引っ張り出した。運がいいことに残されていたこのボートは、どうやら長い間主がいなかったらしく、埃を被ってはいたが、何故か虫には食われておらず、穴どころか傷すらも見当たらない。まるで新品だ。そのボートをずりずりと地を滑らせ、水面におろすとぼちゃんという音がして大きな波紋を作った。じっと中を見てみるが、浸水している様子はない。大丈夫そうだ。なれない手つきで、オールを漕いで湖の中心に向かった。じゃぽん、じゃぽんと重い音を立てながら質素な船は確かに進んで行った。

 そうして、だいたい中心に着いた時、異様な程に空が眩しいので上を見上げると真上に満月が光り輝いていたのだ。自らの力で光っています、と胸を張っているが、それは所詮虎の威を借る狐。虚言でしかないことを私は知っている。闇のような水面、時折浮かぶあぶく、光をおとす満月。ここでようやく私は合点がいき、一人虚空にため息を吐いた。

「宝石ってのはこれのことか」

 あの大きな湖の水面には、時折光り輝く宝石が浮かんでくるらしい。古くからの酒場の仲間の間では有名なおとぎ話だった。今回、私がこんなに辺鄙なところに来たのもそれが理由で、何とかして金が必要な私にふざけて話題にあげたおとぎ話だが、私は藁にも縋るような思いで酒場も寝静まった夜に水辺にいる訳だ。おとぎ話の正体は月光に照らされていたあぶく、ってとこだろう。夢のねぇ話だ、と思いながら岸に向かってオールを向ける。そこで、違和感に気づく。水面を漕いでいるはずだったのに、ぬぷりと粘着質な液体が、オールにまとわりついた。

「は?」

間抜けな声が、喉奥から絞り出すように出た。ひくりと吊り上がる口角。真夜中の水辺では怪奇現象に襲われるなんて、昔から有名な話だ。それを失念するとは。背筋に冷たい汗が一筋流れていく。ぬぷり、ぬちゃりと何度オールを漕いでも粘着質な黒水は前に進ませてはくれない。一か八かで飛び込むか?いやそれは。だがしかし。頭の中で無意味な問答を必死に岸へ向かいながら繰り返す。早く早くと焦る度にオールを握る拳にじわりと汗が滲んだ。そしてボートが一度、さぷんと揺れた。

「うゎ、あ!」

驚愕の声をあげた拍子に手に持っていた操縦機を落としてしまった。暗闇の中にどぷんと鈍い音を立てて水面にオールが落ちる。その刹那、黒い大きな何かが、それを、握りつぶした。喉奥から絞り出された息は、声に似つかない高い音を森に小さく響かせた。

「なんだよ、なんなんだよ!」

誰から帰ってくる訳でも無い言葉を、がむしゃらに虚空に投げる。恐怖を紛らわすためだけの言葉は、静かな深い緑に飲み込まれそうで、次第に声は枯れるほどに大きくなった。操縦機がない今、ここには岸に向かうための手段はない。唯一の方法と言えば、確実に何かがいる底の見えない湖に飛び込むこと。無茶な話だと思いながらも水面に手を伸ばそうと身を水面に寄せると、湖の中から目玉が覗いた。異様な程に輝かしい黄金色の瞳と、目があった。声にならない悲鳴を上げ勢いよく体を起こす。心臓が早鐘を打っている。額を冷たい汗が流れていく。あの中に手を伸ばす?冗談じゃない。それならば朝までこの上で過ごす方がマシだ。そう思いながら岸の方を見ると、知らぬ間に岸はここから飛べばギリギリ届くか届かないかのところまで近づいていた。落ちれば奈落、届くかの保証はない。それでも、今は希望に縋るしかない。意を決して立ち上がると、ぐらりとボートが揺れる。ここは水面上、不安定なせいで上手く踏ん張ることも出来ない。それで本当に届くのか?…と、考えている場合ではないことに気づいた。遠い水面で、泡が弾けたのが見えたからだ。アレは確実にあの目玉の生物のものだと今ならわかる。徐々に弾けるあぶくはこちらに近づいているのがわかった。選択肢は残されてなどいなかったのだ。不安定な木のボート、少しでも揺れの少ない所に足をつけて、ボートの縁ギリギリに足を掛けて、深呼吸をした。こうしている間にも、あぶくは近づいている。3、2、1で縁を蹴った。

 次に足が着いたのは、水面だった。だが掌は確実に、砂を掴んでいる。手に力は残っている。登れる、大丈夫だ、いける、と確信を得た瞬間。泡の弾ける音が、真下からぱちんと聞こえた。息の詰まる感覚、鼓動が異常な程に早い。これは膝下を濡らす水の冷たさだけのせいではない。額を流れる冷たい汗、肺を潰すような威圧と黄金色の視線を感じた。逃げるように水を蹴るが、肌にまとわりつく重く粘着質な暗黒は、音や打撃を飲み込んだ。蹴る度に失われていく体力、ガチガチと音を鳴らす口内。後ろを振り返ってはいけないと生存本能が警笛を鳴らした。腕に力を込めて、這うように地に登ろうとするがいくら力を込めようと、鉛のように体が重く持ちあがらない。額を流れていた汗が首筋に伝う。後ろを見てはいけないのだ。力の入っていた腕が、徐々に力を無くす。いくら足掻こうと、湖は私を離してはくれなかった。黄金色の視線が背に刺さる。短い息が勝手に口から漏れだした。

「__…__…」

唸るような重低音が背後からした。振り返っては行けないのだ、そこには、もう確実にいるのだから。

「おとうさん」

目の前から、幼い子供の声がした。勢いよく顔をあげれば、そこにいたのは顔を両手で覆い下を向いている少女だった。

「おとうさん」

幼い少女のようになにかは呟いた。直後、空を切るような悲鳴のような声と地をえぐるような低い声が交互に何かを叫び合う。聞き取れないそれらは確実に私と同様の言語を使っていた。無数の言葉が飛び交う。一人の少女の口から叫び続けられる雑言は、ひとつの音となって私に語り掛けた。

「おとうさん、おかえりなさい」

頭上が突如闇に飲まれた。上を向けば、そこにあるのは大きな掌。黄金色の瞳は、その中央で爛々とこちらを見ている。

 気づけば私は水にいた。先程まで私を照らしていた月光は、揺らぎ、あんなにも遠くにあった。すごく息苦しい。でもそれが、心地よくもある。眠るように瞳を閉じる寸前、ぼやけた視界の中央に笑うように歪んだ黄金色の瞳が見えた。

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