⑭愛日
病院特有の不思議な匂いがするなか、白い廊下を進んでいく。土曜日の午後、面会客がちらほらいる病棟の、ひとつの病室の前にたどり着いた。
深く呼吸をしてから、真っ白なドアをノックする。
「はい、どうぞ」
中から彼の声がした。私はゆっくりドアを引き、病室内を覗く。外の光が差し込む白い病室は一人部屋で、六畳くらいの広さにベッドと椅子とサイドテーブルだけがあった。彼はベッドの上で本を読んでいたようだった。本を持つその腕に巻かれた包帯が痛々しい。日光で薄茶色に透けている彼の頭は、包帯こそ巻かれていないものの、線路に打ち付けられたのだと考えるとぞっとする。
「ほら、座りなよ」
ベッドの横の椅子を指して、彼は言った。病室にある彼の姿がどうしても弱々しく見えてドアのそばから動けなくなっていた私は、なんとか自分を奮い立たせて椅子まで歩いた。
「もう参っちゃうよ、こんなになるなんてね」
かすり傷でもできたかのような話しぶりだ。彼は気丈に振舞っているように見えた。
「手首は捻挫しちゃってさ、こんな包帯なんて大げさだよね。骨折でもないのに。頭を打ったから念のため一週間くらい入院なんだよ。コーヒーも満足に飲めなくてさ」
私はなんと返したらいいのかわからず、適当な相槌しかできない。彼に会えると楽しみにしていた気持ちはとうに消え失せていた。今は、彼を失うかもしれなかったことへの恐怖だけだ。そんな私をよそに、彼はよく喋った。検査のことや午前中の見舞い客のことを話した。しかし、私の怯え切った心はここではない別のところにあった。
五分ほど会話をしたころで、突如彼はうずくまって頭を押さえだした。苦悶の表情を浮かべ、言葉も絶え絶えだ。
「あ、いててて……うぅ………だい、じょうぶだから。すぐ、なおる」
私の頭には、 “死” という言葉が真っ先に浮かんだ。身体の底から、恐ろしさがぐっと立ち現われる。心臓が締め付けられるように苦しい。どうしよう、彼が死んでしまう。直感的にそう思っても、全身は金縛りにあったように固まって動かない。それなのに、彼はうわごとのように私の名前を呼ぶ。
「さ、とう………ごめ、ん……さと……」
そうして私の方へと彼の手が伸ばされた。痛みを代弁するかのように彼の腕には筋が浮き出ている。私は半泣きになりながら彼の手を握りしめ、思わず立ち上がってベッドの上の彼の肩を抱いた。驚いたのか、彼のこわばっている肩は一瞬ぴくりと反応する。それから徐々に落ち着いて、私に身体を委ねるように体重がかけられた。浅く小さかった呼吸はだんだんと深くてゆっくりになっていく。
「ご、めん……もう治った、から」
私の身体から彼は離れていった。彼の顔は、痛みに歪んでいたが相変わらず整っていて、そんな彼も愛おしい気がした。未だ彼の手は私の手をぎゅっと固く握っている。それがずっと前からの当然であるかのように、指と指はきつく絡め合っている。
「あのさ……しばらく、こうしててもいい?」
上目遣いで問われた。私は無言で頷いた。音のない病室には、ただ互いの指から伝わる鼓動だけがある。
何分間こうしていたのだろうか、だんだんと日は落ちてきて部屋全体が薄暗くなってくる。西日の逆光で目を細めると、そんな私を見て彼は嬉しそうに微笑んだ。逆光のなかで暗く影になっている彼の笑顔は、どこか寂しかった。
私はいたたまれなくなり、カーテンを閉めるという口実で窓辺へ向かう。彼と結ばれていた手を離すと、自分の一部を喪失したように虚しさが残った。カーテンで西日が遮られると部屋は真っ暗になる。その闇が私の行き場のない寂しさを増幅させる。この世に自分だけが置いて行かれたかのような孤独感に襲われる。カーテンの端をきつく握って感情を抑えようとするが、押し寄せる波のような不安は私を簡単にさらっていく。怖い。寂しい。何かに縋りたい。そんな衝動に耐えかねていると、背後から彼の声がした。
「たまにね、こうやって頭が痛くなるんだよね。頭を打ったせいだと思う」
振り返りってベッドの上を見ると、彼は静かに泣いていた。目が暗さに慣れてくると、彼の様子はだんだんと明らかになる。大きな瞳からは大粒の涙が溢れ、下まつげに溜まった涙はドアの小窓から漏れる光を受けてきらきらと輝いていた。私は彼に釘付けになった。
「頭が痛くなると、記憶があやふやになる。そのときに俺は毎回、この前のことを後悔してた」
私は、はっとした。さっき私の名前を呼んだことと関わりがあるのかもしれない、と気付いたからだ。
「この前って……」
「そう、夏に会ったとき。雨が降って入ったカフェでのこと。あのとき俺はどうすれば良かったのか、ずっと考えてた」
彼の目からは、はらはらと涙が零れ続けている。
「ごめん、あのときの俺は臆病だった。佐藤くんの思いを見て見ぬふりして、自分を守ってた。幻滅されたり、嫌われたりするのが怖かったから。でも、それよりも、佐藤くんと離れることがもっと怖かった。俺は佐藤くんと一緒にいたいし、佐藤くんのために生きたい」
暗い病室に彼の声だけが響く。
「俺、佐藤くんが好きだよ。特別だ、誰よりも」
その真っ直ぐな言葉を聞いた瞬間、私は全身が震えた。体温は急上昇して、特に耳と目頭は熱くなった。
「あの、それは――」
僅かに残っていた理性で真意を問おうとした私を、彼は遮った。
「俺の優しさでも、同情でもないよ。断じてない」
頭がくらくらする。一言でも声を発したら涙腺が決壊してしまいそうだ。
「別に、恋愛って名前がつくような関係じゃなくてもいい。ただ、俺と一緒に生きてほしい。同じ時間を共有してほしい。コーヒーを飲んでるときみたいに」
夢みたいだ。こんなことを生涯のうちに誰かに言われるとは。気がつくと、私もぼろぼろと涙を流していた。彼が好きだ。言葉で表しきれないくらいに、愛おしい。
私は震える指で彼の肩に触れた。私が一歩近づくと彼はベッドから立ち上がり、包帯の巻かれた腕であっという間に私の身体を包み込んだ。深い闇のなか、私たちはずっと抱きしめ合っていた。互いの肩を涙で濡らしながら。
暦の上で冬になってからしばらくすると、だんだんと寒さも増してきた。もう少し厚着でも良かったと後悔しつつ、羽織っている薄手のコートのボタンを留める。
「あ、俺はこのあとユミちゃんと待ち合わせしてるけど、佐藤はサークル?」
古川は相変わらず彼女と円満らしく、今日も授業後にデートするらしい。いつにも増して奇抜な服装をしていたし、授業中でもずっと浮かれた様子だった。
「うん、今日はサークル」
「そっか、じゃあな」
そう言って古川とは別れて、隣の棟にあるいつもの空き教室へ向かう。階段を昇り、目的地が近づくと、周囲に芳しい香りが漂いだす。日はすっかり短くなり、東向きの廊下から見える景色はもう夜の姿をしている。そんな廊下に並ぶこの教室は、他のどの教室よりも温かくて幸せな空気が流れているのだ。
ドアを開けると、彼がいた。
「授業お疲れ様、ちょうどコーヒーができたよ」
机にはふたつの紙コップ。深い茶色の、強い引力を持った液体が入っている。表面からは湯気が立っており、ゆらゆらと私の心が惹きつけられる。
「ほら早く、冷めちゃうよ」
はっとして顔を上げる。綺麗な顔立ちに優しい笑顔。温かそうな深緑色のニットを着ているせいか、なんだか大人っぽくみえる。親切で、格好が良くて、誰からも好かれる彼。それでも今の彼は、私だけのものだ。
荷物を置き、彼の向かいの椅子に座る。彼に差し出された紙コップを受け取ると、じんわりと指に温かさが伝わってきた。
「今日はブレンドにしてみたんだけど、どうかな?」
小さく首をかしげる彼に見つめられながら、コーヒーを飲む。苦みと甘みが、口と鼻にふわりと広がる。苦みはすんなり和らいでいき、後には香ばしい風味が残る。
「うん、美味しいです」
それを聞いた彼は嬉しそうに目を輝かせた。そして私に続いてコーヒーを一口飲んでから、恍惚の表情を浮かべる。今回のブレンドは、どうやら彼のお気に入りになったようだ。嬉しそうにまた次の一口を飲んでいる。そんな彼を見ているだけで、この上なく満たされた気持ちになる。こんな瞬間が一生続けばいいのに。
「ねぇ先輩、これからも一緒にコーヒー飲みましょうね」
私のこぼした言葉に、彼は目をぱちくりさせた。それから少し照れたようにはにかんでみせた。
「そうだね、ずっとこうやってコーヒーが飲みたい」
見つめ合っていた私たちは急に気恥ずかしくなり、それを誤魔化すように、ふたりでまたコーヒーを一口飲んだ。
あなたとコーヒーを 川上 踏 @fumi_fumare
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