⑬一途
酸素を求めて、ぜえぜえと肩で息をする。首筋に汗が流れて気持ちが悪い。照りつける日差しも鬱陶しい。タクシーでも拾えばよかった。大学を飛び出した私には、ただ走ることしかできなかった。走りながら、彼を諦めたこと、両親が死んだときのこと、最後に交わした彼との会話のことなど、色々と考えた。でも結局、彼が生きてさえいれば、そしてそれをこの目で確認できればその他のことはどうでもよかった。
平日午前の病院周辺はどこかまったりとしている。そんな風景とは不釣り合いな私は、きょろきょろと病院エントランスの表示を見回しながら今野を探す。
「佐藤、こっち」
遠くの待合スペースから控え目な声で呼ばれる。その男は酷く疲れた表情をしていて、未成年のはずなのに実際の年齢より老けて見えた。すぐに駆け寄って話をしたい気持ちを抑え、病院内を静かに早歩きする。私を見つけた今野はやっと気を抜くことができたのか、くたびれたようにその場のソファに腰を下ろした。
「黒川は検査中。意識は戻ったけど、今日面会するのは厳しそうだな」
「そうですか」
意識が戻ったと聞き、私もやっと少し落ち着いた。脚にどっと疲労を感じ、今野の隣に座る。重力が何倍にもなったかのように、身体がビニールレザーの張られたソファに沈んでいく。自然と息が漏れた。それにつられて今野もため息をつき、ゆっくりと伸びをした。
「ああ、もう昼時か」
午前の診察の時間帯は終わり、職員や外来患者は病院の外へとぞろぞろ出ていく。
「俺たちも昼飯でも食べに行くか」
「そうですね」
どうせ今日は彼に会えないのだから、病院にいても仕方ない。それならば昼食ついでに、今野から色々と話を聞きたかった。きっと今野だって病院という空間から出たかったのだろう。こんなにも気が滅入る場所は今の私たちにとって他にはない。
私たちはエントランスを出てすぐの、真っ先に視界に入ったファミレスを選んだ。運よく並ばずに席に案内され、悩むことなく適当にランチメニューを注文した。互いに疲れているとわかっていたので、私たちは気を遣って話を振ることもしなかった。少しの世間話もせずに、ただちびちびと水を飲み、料理が提供されてからもほとんど無言を貫いた。ファミレスの明るくて楽しげな雰囲気とは明らかに対照的だ。それでも、疲弊した私たちに気まずさはなく、むしろそんな状態が気楽ですらあった。
今野が先に食事を終えると、やっと気まずそうに話を切り出した。
「今日は、ごめんな。急に電話して悪かったよ。結局面会もできないし」
元々低かった声が、さらに低くて重苦しく感じる。事故に居合わせたのだから、精神的なダメージが大きのだろう。弱った今野は、特別親しいわけでもない私でさえ、見ていて辛いものがあった。私はなるべく重い空気をつくらないよう、深くは気にしていないようなそぶりをした。ランチについてきたドレッシングがほとんどかかっていない無味のセットサラダを食べる手を止めて、軽い口調を心がけて返答した。
「大丈夫です。事故って聞いて驚きましたよ。でも、そこまでの大事にならなくてよかったです。命に別状はなかったんですよね」
少しの沈黙のあと、今野は小さな声で私に同意した。それから、弁明するように事の一部始終を説明しはじめた。
「黒川が人を助けようとしたっていうのは話しただろ。朝のラッシュで混んでたホームから人が落ちたんだよ。黒川にはホームの端でよろけた姿が見えてたっぽくてさ、駆け寄って腕を引っ張ってた。でも黒川も支えきれなくて、一緒によろけて落ちていった。俺はそれを少し遠くから見てた。急に黒川が走っていったから何かと思ってさ。悲鳴と一緒にドサッって音がした」
息をごくりと呑んだ。寒くもないのに身体が震える。静かだが、重いものを吐き出すような語り口は私の心をざわつかせる。
「幸い、電車が来るまでには時間があったから黒川は轢かれなかった。でも、頭を打ったみたいでしばらくはちっとも動かなかった。駅員とか救急車を呼んでるうちに喋れるようにはなったけど、呂律はおかしかったよ。ホームの上から話しかけても会話にならなくて……ただ、佐藤のことを呼んでたんだよ。多分、謝ってた。うわごとみたいに、その場にいないはずのお前に話しかけてた」
「そんな……」
そんな状況で私の名前が出てくることに嬉しさが全くないわけではないが、それ以上になぜ私なのか、そしてなぜ謝罪していたのかということへの戸惑いの方が圧倒的だった。私の戸惑いを察したのか、今野はやれやれといった様子で付け足した。
「なんで黒川があんな様子だったのか、なんて俺は知らないからな。別に、詮索するつもりもない。ただ、わだかまりがあるなら早めに解消しておけよ」
言い終えると、怠そうに卓上の水をグラスに注いで一気に飲み干した。それから私に向かって、早く食えよ、急げば午後の授業間に合うかもしれないだろ、とせかした。
残りのサラダを黙々と食べる。頭の中は決別したはずの彼のことでいっぱいだ。少し苦みのあるレタスの葉を咀嚼しながら、彼のことを考えた。それは私に彼への未練の多さを自覚させ、決別なんてできやしなかったのだと突き付けた。口の中の苦さの原因が何なのかがわからなくなっても、サラダを咀嚼してなんとか皿を空にした。もうその頃には、彼が私に興味がなかろうが、同情で親しくしていようが、そんなのは瑣末なことであった。
食事を終えてファミレスを出ると、その場で今野とは別れた。彼のことばかり考えている私は授業に出る気にもならず、かといって見舞いに行くこともできない。結局、私は午後の授業をサボって帰宅することにした。こんなに不真面目な行動はこれまで滅多にしてこなかった。これも彼と出会ったことでの変化だろうか。今の私は、周りの大人からの評価や後先の損得などは考えずに、彼を中心に生きている。きっと全てが彼と出会ったせいなのだ。
ファミレスから地下鉄の駅までをだらだらと歩く。昼下がりで歩行者はほとんどないのに、大通りは車が絶えない。長い信号待ちでスマートフォンの通知を確認する。古川からは沢山のメッセージが来ていた。電車の遅延にあいながらもなんとか教室に到着したのに、教室にいるはずの私が見当たらないのだから誰だって不審がってメッセージも送るだろう。適当に体調不良とでも言って、謝っておいた。すぐに古川からは、お大事に、と返信が来た。しかしそれと同時に、もうひとり、私にメッセージを送ってきた。
画面には『黒川廉』の文字。視界に彼の名が入っただけで、私の心はぐちゃぐちゃに乱れていった。私の全てがその三文字に釘付けになる。どうしてメッセージが来たのか。内容はどんなものだろうか。彼の身体は大丈夫なのだろうか。彼は今、どんなことを考えているのだろうか。一瞬にして脳が回転する。体温がぐっと上がる。まさに興奮状態だ。
異常なほどに震える指で確認してみると、メッセージが一件。
『病院に来てくれてたと今野から聞きました。ごめんね。ありがとう。おれは大丈夫です』
彼がこの文章を考えて打ち込んだと想像するだけで、私はこの上なく嬉しかった。信号はとっくに青に変わり、再び赤になっている。でも私にはそんなことどうでも良い。スマートフォンをぎゅっと包み込むようにして握りしめ、至上の幸福を噛み締めてから、一文字ずつ真剣に入力して返信をした。
『明日、お見舞いに行っても良いですか?』
送信ボタンを押した瞬間、私は気がおかしくなるくらいの緊張と高揚のなかにあった。青になった信号機の下で震えながらにやにやと画面をみる私は通報されても良いレベルで気持ちが悪かっただろう。後ろから信号を渡ろうとしていたサラリーマンに舌打ちをされ、ふと我に返って信号を渡った。渡り切ったあとで、彼から返信があった。
『いいよ』
いざ会うことになると尋常ではないほどの不安に襲われる。心配事は考えるだけ尽きない。しかし今はそれを無視して、ただ昂る心に身を委ねたかった。明日が楽しみで仕方がないのだ。
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