⑫決別
最悪。最悪だ。カバンを放り投げてベッドに倒れ込む。脳裏に焼き付いた会話が嫌でも再生される。あんなこと言わなければよかった。もとをただせば今日出掛けなければ、誘わなければよかったのに。
逃げるようにカフェから出た私は、結局再び雨に降られながら帰ってきた。あまりの混乱から帰宅途中の記憶はない。服はずっと湿っていて、体温がどんどん奪われていく。勝手に全身がガタガタと震える。自分の身体ではないみたいだ。
彼に自分の思いを打ち明けてしまった。その事実だけが私に迫りくる。私が彼を特別視していると告げたとき、彼は驚くでもなく不快がるでもなく、ただ静かに絶望していた。最後には、逃れられぬ定めを受け止めて諦念の心境に達していたようだった。
「いっそ先輩からきっぱり拒んでくれれば……」
中途半端に優しくされた。気持ち悪くはないと、嫌いにはなれないと言われた。でも、絶対に私を意図して避けていたはずだ。私が思いを伝えたときだって、私を直接に否定はしなかったが受け入れもしなかった。こんな男に迫られて当然の反応かもしれない。それでも、いつもの温厚な彼とは違った、怯えて取り乱した姿は、私への無言の拒否反応に見えた。だから、こちらから彼を突き放して帰ってきた。
正直、恋愛とかそんなことはどうでもいい。ただもう少しそばにいたいだけだった。だって彼は私にとっての特別だから。私が彼に求めていることは恋人でも、兄でも、先輩でも、友人でもない。母と彼を重ねて親のように見ているときもあった。しかしどんなときでも、彼だから、彼として、私と一緒にいてほしいのだ。こんな不可解な感情をぶつけたことが急に申し訳なく思えてくる。恋愛感情なのかと尋ねた彼は、きっと私を理解できなかったのだろう。
私たちは、もう以前のように関わることはできない。少なくとも私はそのつもりだ。約半年の短い間だったが、彼と知り合ったことで私は変わった。コーヒーを、そして彼を通じてやっと両親を知ろうとしている。自分の感情がこんなにも色々な様相を呈することも初めて知った。だからきっと無駄ではなかった。自分に暗示をかけるようにして、彼への思いを断ち切る。
目頭がじんわり熱くなってくる。泣いてはいけない。自分から彼に告白して、自分から離れたのだから。布団の上に小さくうずくまってなんとかこらえた。
しばらくすると、リビングから祖母が私を呼ぶ声が聞こえてくる。
「いつの間に帰ってたの? 夕飯は食べるの?」
帰ってから部屋に直行したので祖母とは顔を合わせていなかった。涙で声が震えていることを悟られないように、自棄になって声を張り上げた。
「いらない」
声を出すと、こらえられなくなってついに涙が溢れてきた。震える身体でひとりさめざめと泣いた。たまらなく虚しくて寂しかった。
新学期、十月の空は澄んでいて高い。気温も下がり、急な秋らしさを感じた。
昨日泣いたせいで目の奥が痛む。でもそんなことはお構いなしに、授業は始まる。友人の古川と一緒に前期から受講していた科目だが、古川の姿が教室にはない。また遅刻か。見た目に反して真面目なくせに、朝の弱い古川は度々寝坊して授業に遅れてきていた。普段ならノートを貸すのが面倒なので遅刻されるのが嫌であるが、今日は助かった。昨日の傷が癒えていない状態で、彼女と順風満帆な古川と顔を合わせたくはなかった。
教授は新学期初回の授業から張り切っているのか、熱心に今期の授業計画について語る。テストに直接かかわる内容ではないと生徒たちは判断し、私語をしたりスマートフォンをいじったりしだした。私もご多分に漏れず完全に気を抜き、スマートフォンを見る。
新着メッセージが一件。古川からだ。
『電車が人身事故おこしたっぽい! 授業遅れるわ!』
なんだ、人身事故か。勝手に寝坊しているとばかり思っていたので、古川に申し訳なさを感じつつ、古川の到着を遅らせた人身事故に少しだけ感謝した。
『授業は急いで参加するような内容じゃなさそう』
こう返信してから机に突っ伏した。教授の語りと学生の私語で教室内はガヤガヤとしている。自分だけがこんなにも静かで、孤独だ。うつつに別れを告げるかのように窓の外の青空を一瞥してから、うすら寒い教室でうたた寝を始める。
私の安眠は、一本の電話によって妨害されるまでの約五分という実に短い時間であった。まだ教授は中間試験について語っているし、周囲の学生も楽しそうに談笑している。一瞬の夢をみたような気がするが、もう記憶には残っていない。そんな不確かな夢よりも、着信を知らせるバイブレーションの不快さに私の意識は割かれた。くぐもった低い音は振動を伴って私を不安にさせる。こんな授業中に、誰からだろうか。
ちらりと画面をみると、そこには今野の名前が表示されている。私の連絡先をサークルのグループチャットから入手したとしても、今野から電話が来るような心当たりは全くない。なんだろう。不思議でたまらないが、何の目的かもわからない電話に出るのは気が引ける。電話は一度鳴り止んでからも、すぐにまた着信を告げる。三回目の電話でようやくその用事がただならぬものだと感じ、応答した。
「はい。何か御用でしょうか?」
荷物を教室にそのまま残し、スマートフォンだけを持って教室の外に出た。電話の先は何やら騒がしく、うまく声が聞き取れない。
「あの佐藤ですけど、何ですか?」
『……ろ……わが………こで……に………ばれたんだ』
今野の声は焦っているのか早口で、部分的にしか聞こえてこない。
「え? 聞こえないですよ。あの――」
『黒川が……人身事故で、病院に運ばれた。多分死んでないけど意識はほぼなかった』
急に耳に飛び込んだ情報はあまりにもショッキングで、言葉が出てこない。自分とは関係のない、フィクションかニュースのなかの出来事のようだ。
「は……? え?」
電話の向こうと教室の騒音が耳元で混ざり合い、不協和音を奏でる。まっすぐ立っていられない。壁にもたれかかって、身体を支える。
『急に電話してごめんな。運ばれるときに、黒川が佐藤のこと呼んでた気がして……』
平静さを失う私に対して、今野はやっと冷静になったように話を続ける。
『ホームに落ちたときに頭を打ったみたいだった。轢かれてはないから大丈夫。落ちそうになってる人の腕を掴んだら一緒に落ちたらしい。その人は意識もあって大丈夫そうだったけど――』
情報が脳を一気に駆け巡る。彼への思いを断ったことも忘れて、必死になって今野に事情を確認した。搬送先の病院も聴き出した。教室に戻って荷物をまとめると、なりふり構わず病院まで走った。己の全てを恥じ、ただ神に彼の無事だけを祈った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます