⑪白驟雨
濡れた前髪の間から、明らかに不機嫌な瞳が覗く。俺の向かいに座る後輩、佐藤は恨めしそうな表情でこちらをちらりと見ている。その表情の原因が俺にあることはわかっている。
急な雨によって濡れ鼠になった俺たちは、すぐ近くにあったチェーン店のカフェに入った。いや、入ったというよりも俺が連れ込んだと言った方が正確だろう。少し強引に腕を引いて、嫌そうな顔をしている佐藤をカフェのソファに座らせた。雨が酷いから雨宿りをしようと誘ったが、本当の目的はカフェという逃げられない空間で佐藤とじっくり話をするためだ。
適当に頼んだ二杯のホットコーヒーがテーブルに運ばれる。客がほとんどいないせいか、注文してすぐに提供された。薄めのコーヒーは特別美味しいわけではないが、雨で冷えた体に染み渡る。佐藤はコーヒーカップに口をつけるどころか、視界に入れようともしない。ただ、窓の外の灰色の街を眺めている。
「コーヒー飲まない? 奢るよ」
「いや、俺は良いんで。先輩飲んでください」
佐藤はそっけなく答える。俺を慕ってくれる可愛い後輩ではあるが、他人には結構ドライなところがある。今の俺への態度はきっと他人に向けたそれなのだ。
俺が悪いのはわかっている。あまりにも自分勝手だった。急いでいる佐藤を引き留めてカフェに連行したのだから。でも、佐藤は傘を持っていなかった。それに、カフェに行こうと言ったときには表情こそ暗かったが、気の抜けた返事とともに大人しく連行されていた。カフェに入ったことは、佐藤にとっても決して悪いことだけではないはずだった。
「雨、明日の朝まで降るらしいよ。もう少し弱まったら帰ろう。傘なら一緒に入ればいいし」
無言の状態に耐えられずに話しかけてみる。窓の外を見ていた顔がこちらに向いた。驚くほど無表情で、元々クールな顔が怖いくらいに冷たかった。いつも自分に向けられている控え目な笑顔とは、似ても似つかない。
「いや、傘はいいです。コンビニで買うので」
自分の提案がばさりと切り捨てられたような感覚。言い終わると、佐藤はまた窓の外を見ていた。
「無理矢理に誘っちゃってごめんね。でも、かなり雨降ってたからさ……その、時間は大丈夫?」
「大丈夫です」
「そう? ならよかった。もう少し小雨になるといいんだけど――」
話しかけている相手は明らかに自分を避けている。佐藤の機嫌を取りたいなんて思ってはいない。でも、佐藤と距離がある今の状態をそのままにしてはおきたくはない。今日は一日中避けられていた。佐藤からは話しかけてこなかったし、俺が話しかけたときはつれないそぶりだった。そんな他人みたいな状態がずっと続くのは嫌だ。
「あのさ、ごめんね。無理に連れてきて。ここにもだし、今日のイベントにも。乗り気じゃなかったみたいだし」
ゆっくり伝える。暗くて冷たい横顔はマネキンのように動かない。まるで俺の声が聞こえていないかのようだ。寒くて薄暗いカフェのなか、自分以外の時間が止まっているように錯覚する。俺はコーヒーを見つめ、独り言のつもりで続ける。
「本当にごめん。でも、その……嫌なことがあったら教えてほしいし、避けないでほしい」
「避けないでって、それは――」
これまで固く結ばれていた佐藤の口から言葉が発せられた。驚いて視線を上げると、そこには歪んだ佐藤の顔があった。怒っているような、悲しんでいるような、苦しんでいるような顔だ。睨むような目は、俺の目と合うとあからさまに逸らされた。
佐藤はテーブルの上に置かれた手を固いこぶしにして、絞り出すように低い声を発する。
「避けたのは、先輩じゃないですか」
「え?」
「わかってます。俺がおかしいんです。先輩に馴れ馴れしくして、甘えて、勝手に期待して失望して。でも先輩は俺にすごく優しくするし、かと思えば距離を取るし。俺が嫌ならもう優しくしないでくださいよ」
「そんなこと……ないよ」
返事をためらったのは、心当たりがないわけではないからだ。
「先輩、教えてくださいよ。俺のことをどう思ってるんですか」
佐藤はいつの間にか俺を責め立てるような口調になっていた。自分よりも身体が大きくて考えの読めない男に尋問され、不思議と恐怖が大きくなっていく。これまでは可愛い後輩だったじゃないか。ブラックコーヒーが飲めなくて、教室で寝たらなかなか起きなくて、お礼に夕飯を誘ってくれて。それに、会えたことを喜んだり、緊張しながらどこかに出掛けようと誘ってくれたり―――
そうだ、俺は確かに佐藤を避けたことがあった。佐藤から向けられた感情がただの後輩や友人とは異なるものであり、それに違和感があったから。でも佐藤に限らず人とは距離をとることが自分のなかで習慣になっていたし、佐藤はただの後輩だと信じていた。
「俺は、佐藤くんのこと、良い後輩だと思っているよ。もちろん嫌なんかじゃない。先輩として佐藤くんと仲良くしたいよ」
向かいに座る男を刺激しないように笑顔を意識しながら、率直な気持ちを告げる。嘘も偽りもない、はず。それなのに、胸がざわつく。佐藤はため息をついて俯くと、テーブルに肘をついて頭を抱えた。
「でも、俺はそうじゃない」
呟きながら、顔を上げて俺をじっとりと睨んでくる。
「そうじゃないんです。気付いてるんじゃないですか? それで俺を避けてる」
「気付いてるって?」
僅かに震える声で尋ねてから、急に嫌な予感がした。いけない流れだ。今のは完全に悪手だった。返答が怖い。言わないで。心のなかで佐藤に、そして神に祈った。しかし神などいなかった。いるのは目の前の恐ろしい男だけ。キッと冷たい目で射抜かれる。
「俺が先輩に、その……普通とは違う感情を持っていることをですよ」
そう言った佐藤はくたびれたように長くゆっくり息を吐くと、こんなこと言うつもりじゃなかったんですけどね、と呆れたように付け足した。俺は頭が真っ白になる。一番言われたくないことを言わせてしまった。もう全てが終わりの、ゲームオーバーの気分だ。
佐藤は純粋な気持ちで俺を慕っていたのではない。薄々感じていたけど無視をしていた事実に、愕然とする。じゃあ俺への言葉は全て下心だったのか。コーヒーが好きになりたいと言ったのも、本心ではなかったのか。これは自意識過剰の自惚れである。それでも俺は何も信じられないし、裏切られた気分だった。
思えばいつもそうだった。他の人より優しいから、顔がかっこいいから、そんな理由で好かれてきた。でも、親切なんて当然のことをしているだけだったし、顔なんて生まれつきだ。浮ついた気持ちで下心をちらつかせて、自分の理想を俺に求めてくる人々は奇妙で滑稽だった。執拗に迫られて恐怖すら感じた。表面ばかりで、誰も俺の中身を、本質を好いているわけではなかった。そこから、自分のなかで一定のボーダーラインを決めて、それ以上に他人から好かれないように調整してきた。誰も本当の意味で好いてくれないのなら、せめて愚かな恋の真似事からは逃れたかったから。
それでも佐藤には、一目見たときから凡庸な人々とは違う何かを感じた。クールな出で立ちであまり人に興味はなさそう。なのに話しかけるとちゃんと答えてくれるし、意外と素直で可愛いところもある。それに、佐藤にはいつも泣きそうなくらいの切なさがあった。その切なさはきっと俺に、俺だけに向けられていて、佐藤から俺へと発せられたシグナルをどうしても無視できなかった。恋情と名付けるにはあまりに短絡的であろうその切なさは、今もひしひしと伝わってくる。佐藤は怒られたときの小さな子供のように、反抗的だが恐れと絶望をはらんだ目をしていた。
佐藤からこれ以上好かれたくはない。恋愛なんてくだらない物差しで俺を評価してほしくはないから。でも放ってもおけない。そんな顔をしないでほしい。俺まで苦しくなる。佐藤のために何かしてやりたい。俺は理性と感情でがんじがらめだ。
「ごめんなさい、困ってますよね。俺は、別に付き合いたいとか、そういうのじゃないので。でも先輩はそんな後輩は嫌ですよね。だからもう俺のことは構わないでくださいよ」
嫌じゃない。佐藤が嫌で避けていたんじゃない。テーブルの向かいの佐藤に縋った。俺は必死だった。
「違う。違うんだよ。俺がいけないんだ。俺が……」
佐藤は、みっともなく縋る俺にぎょっとした。自分でもこんなに必死になっていることに驚いた。
「ちょっと、大丈夫ですか? 落ち着いてくださいよ」
「……あ、あぁ、うん。ごめん」
座り直して、もう冷めたコーヒーを口にする。自分でもこんなに取り乱すとは思わなかった。もうひとりの自分が暴走している気分だ。
「ごめん。その、まずは佐藤くんが嫌いで避けてたわけじゃないって言いたかった。あとは、えっと……俺のこと、恋愛的な意味で好きなの?」
佐藤は決まりが悪そうな様子でうーんと唸った。それから困ったように言った。
「あの、実はそれがわからなくて。もちろん先輩のことは好きです。でも恋愛と言っていいのかわからなくて。特別だし、一緒にいたいし、もっと親しくなりたいですよ。こんなこと、初めてです。でも、そうですね、小さい子供が親に向ける感情に近いのかもしれません。懐かしくて、落ち着くんです」
予想外の返答に驚く。親と子供。じゃあ恋愛ではないのか。でも特別ではあるそうだ。それって恋愛とは違うのか。赤の他人か浅い付き合いの友人かの二択しか知らない俺には、さっぱり理解できない感情だ。
でも佐藤は、わからないと言いながらもしっかりと答えていた。きっとじっくり考えて自分の中で一つの仮説を見出したからなのだろう。
「そうだったんだね」
既にオーバーヒートした脳を動かして一言返すと、佐藤の顔は安堵から僅かに緩んだ。
「だから、付き合いたいとかそういうのではないんです。今は先輩にもう少しだけ近づきたいだけなんです。気持ち悪いですよね。だからきっぱり身を引こうと思って――」
「嫌じゃない。俺は、佐藤くんを嫌いにはなれないんだよ」
「それって、同情ですか?」
「そうじゃないよ。絶対に」
否定はしたが、痛いところを突かれた心地だ。同情ではないのは確か。可哀想だからという理由で佐藤と関わってなどいない。でも、そうじゃないなら何と言うのだろう。言葉が見当たらない。
「きっと、先輩は優しいから俺を無視できないだけですよ」
それは今日一番の優しい口調だったが、思い切り突き放された気がした。佐藤は窓の外を見てから、鞄を持って立ち上がった。
「雨、止んでますよ。朝まで降る予報なのにラッキーでしたね。俺、傘がないので止んでるうちに帰ります」
そう言って佐藤はあっという間にいなくなった。佐藤が座っていたはずの向かいのソファ。残ったふたつのコーヒーカップ。筒状の伝票立てからは会計の伝票がなくなっている。視界に入るすべてが寂しい。こんなに孤独を感じたのは初めてだった。
呆然と窓の外が暗くなっていくのを眺めた。いつの間にか、雨が再び降りだした。
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