⑧煩悶

 歓迎会から一週間、今日まで私はずっと頭を悩ませていた。悩みの種はもちろん彼のことである。あの日、店先で解散した後、私は今野と同じ方面に住んでいたため一緒の電車で帰った。帰宅ラッシュも過ぎた時間帯のガラガラになった車内で、寡黙そうな今野でも新入りの私には気を遣ったのか、色々と話題を探して話しかけた。

「あー、どうしてうちのサークルに入ったの? 新歓とかで大々的な宣伝はしてないのに、よく見つけたよな」

「偶然だったんです。ふらっと入った教室に黒川先輩がいて……おふたりは高校でも同級生だったんですよね」

「ああ、高校からの知り合いなんだ。ふたりとも陸上部だったんだよ。文理が違ったからクラスは違ったけどな。まさか大学もサークルも同じになるとは思わなかったよ。本当に偶然でさ」

 今野は小さく笑った。彼と今野は私の知らない時間を共有している。なぜか悔しい気持ちになった。

「元々コーヒー好きだったのか?」

「いや、その……むしろ苦手で。でも、先輩のおかげでコーヒーを好きになりたいと思えたのでサークルに入ったんです」

「それは凄いな。黒川とはもう結構仲いいんだよな」

「そうですね、少し前には買い物にも付き合っていただいたんです」

 今野は驚いたように、マジか、と呟いた。そして僅かに口角を上げて、へぇ、と頷きながら何か考えているそぶりを見せた。

「あのさ、これからも黒川とは親しくしてやってよ」

 黒縁の奥の瞳に真っ直ぐ見つめられる。彼よりも鋭い、真剣で切実な眼差しだった。

「あ、はい。そうですね、もちろんです」

 私に何かを求めるような視線に射抜かれて緊張しながらも、返答した。

「黒川はさ、優しいだろ。それで高校でもモテてたんだ。でも……いや、だからかな、あいつはさ、あんまり人との距離を縮めようとはしないんだ」

 今野は車窓からの街並みをぼんやりと眺めた。私を見つめた真摯な眼差しとは違って、過去を想うような遠い目だった。小さく息をついてから今野は続けた。

「でもな、佐藤のことは気に入ってるみたいでさ、慕ってくれる後輩ができた、って佐藤のことを話すときはすごく楽しそうなんだよ」

 落ち着いた口調のなかでも、低いはずの今野の声は興奮で僅かに上ずっていた。

「だから、こんなことを本人でもない俺が言うのは変だけど、黒川をよろしくな」

 私がそれに返答するより先に電車は停車駅に到着し、そこで今野は降りていった。ひとり車内に残された私は、先ほどの今野との会話を反芻した。彼が人と距離をとるようになった経緯は気になるが、それ以上に彼が私を気に入っていることへの喜びが大きかった。心臓の拍動はテンポを上げ、顔がカッと熱くなった。どうしようもなく胸が苦しい。でもその苦しさは不快ではない。もどかしくて、歯がゆくて、愛おしい。どんな形でもいいから彼と一緒にいたい。繋がっていたい。

 この昂りをどこにぶつけていいかわからない。こんな気持ちは初めてだった。それから一週間、私はずっとその感情を胸に燻らせていた。ときには私を興奮させ、また、ときには苦しませもした。靄のかかった気持ちを晴らすために、彼にメッセージを送信することも検討した。しかし、落ち着いて文面を考えられるほどの精神的な余裕が私にはなかったし、そもそもたいした用件もなく連絡することは憚られた。彼のSNSのアイコンを眺めるだけ。それでなんとか気を紛らわせた。



「それって、恋愛って意味の好きじゃね?」

 古川はラーメンを食べる手を止めて、そう言った。食堂の醤油ラーメンは安いのに量があるので、常に金欠の私たち御用達だ。

「え……マジ?」

 私は驚くそぶりをしたが、自分でも薄々気付いていた。一週間彼のことで悩み、愛おしさに苦しんでいるのだから。それに、ついに耐えかねて古川に相談してしまうくらいには重症なのだ。私は彼に夢中だった。

「だってずっとその人のことを考えちゃうんだろ? その人が佐藤のことを気に入ってるって知って嬉しかったんだろ? それはもう告るしかないな」

「こくっ……いや、そういうのは、まだいいかな」

「だって好きなら付き合いたいだろ。友達のままじゃ生殺しじゃん。彼女になればもっと近づけるぜ?」

 そう言って古川は大きな口でチャーシューを頬張る。咀嚼に合わせてピアスがゆらゆらと揺れている。

「彼女ねぇ……」

 古川には気になっている人が男だとは言っていない。ただその人には色々と優しくしてもらい、それで私はだんだんと惹かれ、今ではその人物が私の脳内を占拠しているほどだ、と伝えた。彼と付き合いたくないと言えば嘘になる。しかし、私は恋愛には疎くて人とそういった関係になったことがないし、そもそも彼が男の私と付き合うわけがないのだから、告白なんてできやしない。

「別に、今の関係を保てればいいかな。もし可能であればもう少しだけ親しくはなりたいけど」

「その人とはどれくらい仲良いの? ふたりで遊んだりは?」

「一回だけ買い物に付き合ってもらった。その後うちで夕飯を食べたけど……」

「え、それは普通に脈アリじゃね?」

「うーん、でも可愛い後輩としか思われてないから」

「あー、先輩なのか。それはハードル高そうだな」

 苦い顔で古川は水を飲んだ。そして再度、先輩かー、と繰り返した。

「可愛い後輩以上になれるといいな。応援してる」

「ああ。まあ、頑張るわ」

 正直、頑張れる気がしなかった。彼は顔良し性格良しのモテる人物であり、同性だ。付き合うなんて非現実的な幻想を抱かずに、現状維持でいいのだ。

「今度またふたりで出掛けてさ、脈があるか探ってみれば――っておい、佐藤、麺伸びてるぞ」

「あ……」

 醤油ラーメンは元の量の倍くらいに増えていた。伸びきった麺をすする。しょっぱくて、水をがぶがぶ飲みながら食べきった。

「この間、考え事をしていたらラーメンが伸びちゃって、凄くしょっぱかったんですよ」

 そんなくだらない話をしても、きっと彼は優しく笑い、私の心配をするだろう。胸の底がきゅううっと痛む。彼に会いたい。彼に期待してはいけないと、わかっていても近づきたい。またふたりで出掛けたい。次のサークル活動で彼に会ったら、ふたりで出掛ける約束をしよう。可愛い後輩以上の存在になるために。そう心に決めた。

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