⑨不透明

「いやぁ、今日は暑いね」

 彼は沢山の荷物を抱えて教室に入ってきた。中身は全てコーヒーの器具だ。涼しげな白いシャツは窓からの風を受けてはたはたと揺れている。

「そうですね、本当にアイスコーヒー日和です」

 六月終盤、朝は寒いくらいの曇天だったのに昼からは太陽が顔を出し、四限後の今の時間帯ではカッと照り付けていた。私は頼まれて買ってきていたコンビニの氷を袋から取り出した。

「氷は500gで良かったですか?」

「うん、大丈夫。ごめんね買い忘れたからって急に頼んじゃって」

 領収書を受け取ると彼は財布から小銭を出した。

「いいですよ、このくらい。俺払いますから」

「いや、サークルの経費だからいいの。貰ってよ」

 そんな百円程度なら良いのに、とだらしない私は思ってしまうが、断り切れず受け取ることにした。

 彼は結構、几帳面だ。コーヒーが重さや温度に細かいのと同じくらい。それでいて彼はおおらかだ。コーヒーを片手にのんびりとする昼下がりのように。彼はコーヒーの器具をテーブルに並べてから、慎重に豆の重さを測った。それから手挽きのミルに豆を移し替えると、楽しそうにガリガリとその豆を挽いていく。

「たまには手で挽くのもいいね。いつもは電動だけど、ネット見てたら欲しくなってこのミル買っちゃったんだ」

「電動と手動って味に違いはあるんですか?」

「うーん、正直味の大きな違いはわからないんだけど、電動の方が均一に挽けるんだよ。だから雑味が少なくなるかな」

 そんなに変わらないとは思うけどね、と彼は付け加えた。ゴリゴリと低い音のなかで、ふわりとコーヒーの香りが早くも漂う。彼のあまり筋肉質ではない腕が、くるくるとミルのハンドルを回している。薬指の付け根に小さなほくろがあるんだな、そんなことを考えながら彼の手を眺める。

 今日はただ彼とコーヒーを飲むためだけの日ではない。彼とふたりで出掛けるために誘う、それが私に課せられたミッションだ。いつ話そうか、どう切り出そうか、と迷う落ち着かない気持ちを手懐けるため、深く呼吸をしてなるべく平常心を保つ。何か手を動かしていないと緊張に飲み込まれそうで、今日は私がコーヒーを淹れたいと申し出た。

 未だコーヒーを淹れる手の動きはぎこちなく、お湯を注ぎすぎることもある。しかし以前に比べると随分慣れてきた方だ。ここ最近は自宅でコーヒーを淹れる練習をしている。祖母には淹れたコーヒーを飲んでもらい、感想を聞いているのだ。かつて私の母がそうしたように。

 粉がお湯を含むとコーヒーは膨らみ、しばらくするとサーバーにこげ茶のしずくが落ちてくる。サーバーに入っている氷が徐々に融かされ、崩れて、ガチャリと音を立てる。

「あ、そうだ」

 彼はカバンからプラスチックのピッチャーを取り出した。透明なボトルのなかには麦茶のような伽羅色の液体が入っている。

「それ、何ですか?」

「水出しコーヒーだよ。昨日作ったから持ってきた。これも飲もうか」

 机には、私が淹れたアイスコーヒー、彼の水出しコーヒー、そして私の祖母が作ったクッキーのみっつが並んだ。

「うわー、美味しそう……佐藤くんのおばあさまは本当にすごいなぁ」

 決して見栄えがいいわけではない茶一色の、典型的なホームメイドのクッキーを前に、彼は目を輝かせている。

「祖母が沢山作って、私と祖母だけでは消費しきれなかったので。お口にあうといいんですけど」

「じゃあ、さっそくいただいちゃうね」

 ひとくち食べると、彼は幸せそうに頷きながらもうひとくちを頬張り、そしてアイスコーヒーを飲んだ。

「うん、最高。クッキーもだし、佐藤くんの淹れたコーヒーも」

「ほ、本当ですか」

「前はケトルを持ってタイマーを見ながらあわあわしてたのに、今はちゃんとレシピ通りにできてるじゃない」

「そうですね、先輩の指導のおかげです」

「そんなことないよ、佐藤くんの頑張りだよ」

 優しい声だ。大きな目を細めて笑う彼に、心がキュッと苦しくなった。

「あ、はやく飲まないと氷が融けて薄くなっちゃうよ」

 そう言われて水出しのコーヒーを口に含む。癖がなくてすっきりとした味わいだ。喉の渇きを癒すようにごくごく飲む。

「これ、すごく飲みやすいですね」

「そうだね、水で抽出するとコーヒーの油分が出にくいからだよ。古い豆は油分が酸化して、おいしくなくなっちゃうから水出しにしたんだ」

「そうなんですね、これならいくらでも飲めそうです」

「きび砂糖を入れても美味しいよ。簡単だから今度作ってみて」

 コーヒーとクッキーと彼。この上なく穏やかで幸せな空間だ。もちろん彼との会話にまったく緊張しないわけではない。でも、その緊張さえも心地よく、気分は高揚する。履修している授業のはなし、友人のはなし、そんなくだらないことを、コーヒーを飲みながら話す。こんな日が毎日続けばいいのに。

「先輩、今度またどこかに出掛けませんか?」

 思い切って尋ねる。さっきまでふたりの笑い声が満ちていた小さな教室に、私の真剣な声が響く。彼と一緒にいたい。その真摯な気持ちから、思いのほか言い方が重くなってしまった。

「あ……うん。そうだね」

 一瞬の沈黙の後、彼は僅かによそよそしさのある返事をした。彼の眼は遠くを見つめるように、そっぽを向いている。この感じ、サークルの歓迎会の前に話した時と同じだ。たまに彼は人を突き放すように冷淡になる。決して感じが悪いとか、意地悪さがあるとか、そういったことはない。しかし、彼の温厚さはなりをひそめて、一定以上彼に近づけないように拒まれている感覚になるのだ。

「あの――」

「夏にある、コーヒーのイベントに行こうか。佐伯とか今野たちも誘って」

 私の言葉をさらりと遮った彼は、相変わらず整っていて柔和な顔立ちをしている。しかしいつもの笑顔とは異なり、こわばっているようにも見えた。彼は明らかに意図して私と距離を取ろうとした。どうしてだろう。気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。そんなに私と出掛けたくないのだろうか。あんなに私に良くしてくれるのに、私のことは嫌いなのだろうか。私には彼の気持ちがわからない。

 自分の心からサーっと熱が引いていくのがわかった。ああ、自分は彼に拒まれたのだ。さりげなくふたりで出掛けることを避けられた。たかがその程度のことかもしれないが、人を誘うことも、そしてそれを断られることも、今まで経験してこなかった内向的な私にとっては、世界が崩壊するレベルの絶望だ。結局、彼も両親のように私のもとからいなくなる。嫌だ。コーヒーになんて興味を持つんじゃなかった。

 その後、彼と別れるまでどんなことを話したかは覚えていない。いつもなら一言一句違わず覚えているのに。

 それからはサークル活動には参加せず、ぼんやりと退屈な日々を送った。気がつけば春学期の授業は終わっていたし、期末の試験も乗り切っていた。多少の喜怒哀楽が立ち現れることはあっても、彼と過ごした数ヵ月ほど心が揺れ動くことはなかった。いつの間にか、夏が来ていた。

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