イヴの愛し子

葛猫サユ

第1話



     ◆



「ねぇアダ、知ってる?」


 その言葉から始まるのが、イヴの癖だった。

 イヴはそう言って、

 何故この世界が生まれたのか。

 何故人間というものが生まれたのか。

 何故人間というものが滅んだのか。

 何故アダたちのようなゴーレムたちが生まれたのか。

 まるで自身が見知ったように、滔々と語り聞かせてくれる。アダはその言葉がとても心地よくて、意味は正直わかっていなくとも、目を閉じて脳内で反芻するのが密かな楽しみだった。

 アダは隣に立つイヴの右手に目を向ける。言葉の海に漂おうとするアダの意識は、その先にあるものに阻まれていた。

 その白く細い指には、採血に用いるための小さな刃のついた細長い柄のメスが摘ままれている。握るまでもなく、鋭利な切っ先が、イヴのもう一つの指であるように振る舞っているそれが、同じくイヴの指によって弄ばれているのを、アダはじっと見つめていた。


「イヴたちはさ、気の遠くなるような遙か昔に、人間たちに作られたゴーレムだっていうのは、前に話したよね」

「うん、聞いた。人間たちが、子供を作れなくなったんだって」


 メスを目で追いながら、アダは小さく頷く。その答えに安堵したように薄く微笑むと、イヴは空いた左手でアダの肩をそっと撫でるように置いた。


「そう。子孫を残せなくなった人間たちは、人類の代替として地球環境を改造して、土から有機生命体を生み出せるようにした。そして『あーく』に人間たちの遺伝子情報を混ぜ込んで、イヴたちゴーレムの先祖は生まれた」


 肩に点る仄かな熱を感じながら、いつものようにイヴの話が耳朶を打つ。その間にも存在感を放つ銀色の煌めきに、どこか毛羽立つ心持ちを誤魔化そうと、アダはすぐ隣に置かれた巨大な装置に目を向けた。

 ぱっと見それは、巨大なフラスコのオブジェに地中に埋もれたケーブルがいくつも繋がっている光景だった。村の中央に位置するこの物体は、少なくともアダが生まれるずっと前からそこにあったらしい。というよりも、この装置が村の……この地球という世界全体のコミュニティの中心となっているというのが、正しいのかもしれない。これもイヴの受け売りではあるが。

 あーく。という、名前らしい。アダにはその由来も、真偽もわからないが、イヴが言うことなら間違いはない。

 ゴーレムというのは、アダたちの種族を分類する名前だ。イヴが言うように、生殖能力を失った人間たちが、改良した土壌に遺伝子情報を組み込み、人間たちとほぼ同じ機能を持ちながら外部に生殖を委託した存在。

 アダたちは、人類が遺し、進化した子孫なんだって。と、イヴはいつも言っていた。


「昔は……人間たちがまだ子供を産めた頃はね、人間には男と女の二種類に分けられて、それが互いに上手く掛け合わされないと子供ができなかったんだよね」

「『おとこ』と『おとこ』じゃ、子供はできないってこと?」

「うん、そういうこと」

「変なの」


 イヴに向き直ったアダが茶化すように言うと、「ね、不便だったと思う」と目の前のゴーレムは頬を持ち上げる。


「上手く男女同士が掛け合ってもね、子供を作るまでにはいかないときもあるんだって」

「どうして?」アダが首を傾げると、向かい合わせのイヴも同じ方向に首を倒した。

「わかんない」

「なにそれ」

「ピンと来ないんだよね。肌の色とか、瞳の色とか、顔の形、体の形……声の出し方とか、そういうのも合わせないといけないんだって」


 イヴたちと違って。

 そう言って、イヴはアダがそうしているように、眉を顰めて怪訝そうにする。

 適度に丸みを帯びた輪郭と、浅黒の肌。

 大きな瞳と、それを彩る黄色がかった虹彩。

 村の掟に従い、切りそろえられた暗い毛髪。

 額に浮かぶオーグメントタグだけが、この村での数少ない個性を主張する。

 アダは、アダ。目の前にいるのは、イヴ。

 まるで鏡を見ているのではと錯覚するほどの瓜二つの表情に、何故か息が詰まった。


「『好き』って言うんだって」

「何が?」

「男女同士が、上手く掛け合わせようとする……うーんと、生殖機能の助長のために発生する行動原理のことを、そう言うんだって」

「行動、原理……」

「アダは?」

「え?」

「アダはイヴのこと、好き?」


 好き。人間が、男女同士と掛け合わさる……生殖機能の助長のために発生する、行動原理。

 アダからイヴへ、そんな感情が果たしてあるのだろうか。

 アダとイヴは、同じ誕生周期で生まれたゴーレムだ。ゴーレムは誕生周期とナンバリングを、あーくのクラウドネットワークに登録することで初めて個性を獲得する。それまでは、そしてそれ以外の全てにおいて、アダとイヴに違いはない。生まれた日付と、名前だけが違う二人が、古代の人間たちが言う『好き』という行動原理に収まってくれるのだろうか。

 いや、そもそも『好き』とはなんだろう? アダの心が、どうなれば『好き』なのだろう? その感情は、メスを持つイヴに対してささくれたような感覚を抱く今のアダと、何か関係があるのだろうか。

 そんな疑問に達したとき、アダはイヴに向かって答えを出した。


「わからないよ。でも、これは間違ってる気がするんだ」

「これって?」

「アダとイヴで、あーくを起動させようとするのがだよ。村の掟じゃアダもイヴも、あと三年間整地作業を行って成人にならないと、あーくを使ってゴーレムを生み出しちゃいけないんでしょ?」

「どうして?」

「どうしてって……アダたちの体は、地球の一資源だからだって、教えてくれたのはイヴじゃないか」


 ゴーレムの体は、改造された地球の沃土から生み出される。つまりこの地球は昔の人間が話したとおり真の意味で母なる大地であり、ゴーレムは地球の一部なの。ならばゴーレムは地球の営みの中で、そのサイクルを崩さぬように生きていくことこそ、ゴーレムという種族に最適な秩序である。

 ……っていうのが資源的思想。リソーシングソサエティ。アダもイヴも、土から生まれる時も、土に還るべき時もあらかじめ決まっている……らしい。それを個人の意思で改変することは許されない。それが村の掟であり、世界的な共通認識……なんだって。

 アダはイヴに教わったこれらを脳裏に浮かべて、イヴを問いかけた。


「ゴーレムを作り出すのに最適な組み合わせは、あーくが決めてくれる。少なくとも、アダたちが勝手に決めていいことじゃないよね?」

「あーくじゃないよ。それを決めてるのは、あくまで村の大人たち」


 薄い儚げな唇から細く小さな溜息が漏らすと、イヴはあーくに向き直してフラスコの大きなお腹を凝視し始める。すると今まで沈黙を始めていたあーくは、音のない呼びかけに応えるように、イヴの周りにインターフェースを起動させた。


「あーくはただゴーレムを生み出す機械で、イヴたちみたいな意思なんてないよ」


 それは初耳だった。ユミルの話だと、あーくは村の存続に必要な労働力とゴーレムを生み出すリソースを計算して、プラスマイナスゼロになるように子供を産んでいると言っていたのに。


「土地とイヴたちのバランスを保つのは、確かに大人たちの会合で決めていることだけど……あーくに対する見解は、ザウロを含めた指導者たちがそう解釈してるだけだよ」

「解釈?」聞き慣れない言葉に思わず眉が寄るも、なんとか噛み砕いて尋ねる「……大人たちは、嘘を吐いてるってこと?」

「嘘……とはちょっと違うかな。わかんないんだよ、大人たちも。イヴたちが生まれたこの機械が、どうしてイヴたちを生んでくれるのか」


 イヴが端末の文字を一通り追い回すと、フラスコを下部に空いた隙間から分厚いプレートが滑らかに飛び出してきた。中央には丸くくり抜かれた窪みが二つあり、採血した二人の血液を遺伝子情報を読み取ることでゴーレムが生み出されるらしい。アダもここまでしっかりと見るのは初めてだった。


「昔はね……男と女がいて、体の違いを褒め合ったり、貶しめ合ったりし、触れ合ったり、舐め合ったりすることが『好き』だって、言ったり言わなかったりするんだって」


 いつもの調子で知識を披露しながら、イヴは指で摘まんだメスを手首にあてがう。


「何それ。結局どっちなの?」

「さぁ?」


 惚けたようにイヴは笑い、メスを引く。

 離れた刃先の後を追いかけるように赤黒い線が続くと、それらはプレートの窪みの片方に滴り落ちた。

 アダの鼓動が一段跳ねたのを感じた。

 何故かは、わからない。


「これの面白いところはね、体を触れ合うことが『好き』だっていう生き物がいることと、そうじゃない生き物がいて……それがどちらも、生物学的には同じものだっていうことなんだよ。

 だって、生殖は生物の宿命のはずで、生きている……生存本能がある以上は避けて通れない問題なのに、それを疑問視することに、なんの躊躇いもない。人間っていう生き物は、自分たちを生かすこの体のことを何も信じられてなかったんだよ」


 おかしいよね。

 切りつけた傷を押さえながら、イヴは呟いた。何がおかしいのか、アダには到底理解できなかった。

 イヴは何でも知ってる。この世界の成り立ちも、どのようにしてゴーレムたちが生まれたのかも。それならば、イヴはアダもザウロたちも知らないであろうあーくの意図を知り得ているのだろうか。いや、おそらくは知らない。知っているなら、今目の前にはそれを語って得意げに笑うイヴの顔があるはずだから。

 そんなイヴと、目の前にいるゴーレムが、果たして同じものなのか。もう一度額を注視してオーグメントタグを確認するも、答えは明白だった。


「アダは、どう思う?」

「……何が?」

「人間たちは、どうしてゴーレムを作ったのかな?……うん? うーん、なんて言えばいいのかな……?」


 アダに尋ねたイヴは、しかし直後に左の手首を押さえたまま口元に運び、考えるような仕草をする。自分がどう質問すれば良いのか、イヴ自身もわかりかねているようだった。聡明なイヴが言葉を伝えることに困難している様は、覚えている限りでは見たことがない。しかしその間にも指の隙間から暗い赤色が流れている様は、いっそう不安をかき立てられるアダがいる。

 ゴーレムの構造は、人間と酷似している。その影響で傷はすぐ治るから、失血による身体への障害はないと聞かされているのに胸中がざわめくのを抑えられなかった。

 何故だろう。今のイヴを見ているのはあまり気分が良くない。

 どこか様子がおかしいのは、見ていればなんとなくわかる。いつものイヴはもっと快活で、知識もひけらかすことにも積極的だったし、何より教え上手だった。文字が読めないアダに代わってデータベースにある情報を読み聞かせるイヴは、人間の時代にあったらしい『先生』を思わせる振る舞いだった。しかし、今のイヴは不親切だ。言葉は要領を得ないし、イヴ自身も答えがわかっていないような質問ばかりする。それに村のしきたりを無視してまで、ゴーレムを作ろうとする態度も理解できない。

 でも、アダにはこの違和感を形容する言葉が見つからない。

 この感情はなんなのだろう。この感情の不可解さは、アダを構成するなんなのだろう。

 ただわかっているのは、そんなおかしいイヴのことを、アダは黙って見過ごすことはできないということだけだ。

 それが何故かは、わからないけれども。


「イヴ。何かあった? 今日のイヴは……どこか、変だよ」


 自分の持てる精一杯の語彙を使って、アダはイヴに訊いてみる。


「変? バイタルは全然問題ないよ。……ああ、腕のことなら心配しないで。すぐ治るから」

「そういうことじゃなくて……。ああ、もう……」


 はぐらかすような口調に苛立ちを覚えながらも、アダは考え直す。

 アダはイヴに様々な知識を教えて貰ったし、知恵や物の考え方にも感化されている。そんなイヴが『わからない』と言ったものや、間違いだと気付かないものを、果たしてアダは悟らせることができるのだろうか。

 イヴの心根を理解していないアダが、今のイヴに何を言えるのだろう。


「そんなことより、ほら……手を出して。アダの血も必要なんだから」


 手首から流れる血が止まるのを確認すると、イヴはメスの刃先をシャツの裾で拭き取ってこちらに手を差し伸べてくる。ゴーレムを作るためには、二体のことなる遺伝子……というより、個別情報を認証させる必要があるのがあーくの機能だ。そうすることで、二つの遺伝子をコード化し、再配置された遺伝情報が次のゴーレムへと引き継がれる。

 イヴが言うには、あーくにはこれから生まれてくるゴーレムを選定する機能はない。あくまで村の大人たちの都合が優先される。もし仮に、その基準に理由がないんだとしたら、今ここでゴーレムを作り出すことになんの問題があるんだろう。問題があるとするなら、この世界を取り巻く資源的思想に反していることなのだろう。それはつまり、イヴかザウロやユミルのような大人たち、アダはどちらを信じるか、という話になる。

 イヴの言うことは間違っているのだろうか。わからない。なら大人たちが間違っているのだろうか。それもまたわからない。

 何もわからないアダに、いったい何を決める権利があるのだろう。

 そんな逡巡しているアダの姿に、イヴは何を思ったのか急にアダの手を掴み自身へと引き寄せる。変に思い悩んでいたアダは、迫ってくるイヴの表情を知ることは出来なかった。

 だから、この後のイヴの行動に何の意味があったかもやはり理解できなかった。

 気付けば視界の半分以上が、鏡合わせの顔に支配されていた。音もなく、静かな瞬間だった。感じるのは引かれた右手と体温と血の濡れた感触。それと重なった唇から漏れ出す吐息のくすぐったい心地。

 それを感じると、アダの思考が再び真っ白になった。イヴは自分に何をしたのか、まるで見当がつかなかった。ただ触れ合う唇が、熱同士を奪い合うように思えるその感覚が、あまりにも未知で、困惑が頭を支配した。

 それからしばらく長い時間が経つと、イヴは顔を話してアダを見つめる。いつもの表情だった。さっきの不可思議な行動が、まるで別人の仕業であったかのような普遍さだった。


「……今の、何?」


 混乱する脳内でそれだけ問うと、イヴは何も言わずに、プレートのもう片方メスを投げ入れた。刃先に付着していた血がスイッチになったように、ここで初めてアダの指先に痛みが走った。それを気にしている間に、二つの遺伝情報を認識したあーくはプレートをフラスコの中へとしまい込んだ。

 その様を、イヴはただ見つめていた。

 それが、アダが最後に見た、イヴの姿だった。


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