6.

 春も中頃、遅咲きの桜が風に舞って目の前で吹雪いた。花の美しさなど気にも留めずに生きてきた日々。それもまた見て見ぬまま通り過ぎるはずだった。だがその時ばかりは立ち止まった。人の性格はそうそう変わるものではない。現に俺は今でも俺だし、これからも俺だ。ずっと桜吹雪を見ていたのも俺だ。つまり何が言いたいかというと良くも悪くも人間は気まぐれだ。そして気まぐれが見せた景色はなぜだかどうして忘れることが出来なかった。桜に見惚れて大事な用事を思い出すのに時間がかかった。情けない話だ。俺は停めていた自転車のスタンドを上げ直すと病院に向かってスピードを上げた。

 知り合ったのは学生の時だ。俺にはもったいないくらいいい子だった。惚れていた。たださっきも言ったように人の性格とはそうそう変わらず、俺は自分の想いを伝えるなんてことが出来ずにいた。ただ一緒の空間に居れるだけでよかった。はっきり言って俺がいちばん嫌いな人間に俺自身がなっていた。はっきりしない半端者。俺はそんな半端者でいることを許せず、ささやかな幸せか己のプライドかで揺れていた。

「だったら本当に付き合っちゃいますか?」

 そうそう、そうやってはっきりするのがイチバァアアアアアアアア!? 耳を疑った。彼女は言った。全部気づいてたと。死んじまおうと思った。恥辱。一生の恥辱。今すぐ腹を切ろうとした。ビンタされた。笑ってビンタされた。笑いながらアホかと言われた。笑顔でよろしくお願いしますと一礼された。


 ガールフレンド、そういうものは初めてだった。何をどうすればいいか何もわからなかった。だから嫌な思いもさせたろう。なのに文句ひとつ言わなかった。世の中がうまく行きすぎてる、そう思った。出来すぎた幸せというのはかえって恐怖とさえ感じられた。壊れてほしくない、そう思えば思うほど俺は臆病になった。逃げようとした。俺が俺でなくなる、そんな気がした。

「何やってんだ俺は」

 携帯電話には何度も着信があった。彼女からだ。その時俺は山の中にバイクを停めて佇んでいた。

「どこじゃここ」

 熊でも出そうな雰囲気だった。出るなら出ろ。ぶっ飛ばしてやる。風が頬を撫でていった。猛スピードでスポーツカーが突っ込んできて目の前で停車した。

「なんじゃこりゃあ!!」

「クマでーす」

「熊田!? なんしとんじゃワリャア!」

「熊田くんは悪くない!」

「ゆゆゆ由麻!?」

「あなたはホントにアホです!」

「ちチガ違うんだ!」

「何が違うんですか! いつまで逃げてるんですか!」

「逃げて……なんか」

「逃げてます!」

「俺は 俺が半端者の所為で由麻を不幸にしたくない」

「アホ!」

「……そうだな」

「ウジウジすんな! 一人で全部勝手に決めるな! 私は不幸なんて思ったことないです! バイク禁止です! もう黙ってどっか行っちゃわないで」


 

 病院の廊下を走ったせいで怒られた。速歩きで病室に向かった。桜なんか見てたせいだ。人の性格はそうそう変わらない。間が悪いというかなんというか。ただそんな自分も許せるようになった。

「由麻! ごめん遅くなった!」

「やっときたよ〜 パパ遅かったね〜」

 小さかった。自然と目元が潤んだ。

「髪の毛」

「え?」

「花びらついてる」

「決めてって言われてた名前。生まれてからになったけど……決めてきた」

「ありえないよ ほんとアホだよね〜 でも信じてた」


 あの日立ち止まったことには何か意味があったのだろうか。優柔不断な俺だ。それでもなぜかこの子の名前はあの瞬間すぐ決まったのだ。遅咲きの八重桜にちなんだ名。万が一この子を脅かす輩が現れようもんなら──熊田からメール?


「コロス」

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